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あたしの体を乗っ取った孝之は信じられない速さで追い上げていった。
自分の体なのに、当の本人であるあたしは馬にでも乗っているような感覚だ。
意志とは関係なく全力疾走する自分の体を、まるで外から傍観するように感じていた。
冷たい風を切りながら、孝之は華麗なランニングフォームを崩す事なく、ぐんぐん速度を上げていく。
あたしは駅伝を見に行かなかった事を今更ながらに後悔した。
草原を駆ける野性動物のような孝之の姿はどんなに美しかっただろう。
その姿は二度と見ることができないのだ。
『すごい! あたし、こんなに速く走ったの初めて!』
興奮して思わず叫んだあたしに、孝之はあたしの口を使って苦笑する。
「走ってるのはお前じゃないだろ。でも、駅伝見に来なくて損したな。この後、死ぬほど苦しいから覚悟しとけよ」
『それってどういう事なの?』
「お前は今までこんな速さで走った事ないだろ?だから自分の限界以上に体力使ってるワケ。今は俺が全神経を乗っ取ってるからお前は何も感じないけど、俺が離れたら酸欠でぶっ倒れるかも」
『えええ!? き、聞いてないよ、そんな事!』
「だから最初に死ぬ覚悟があるかって聞いたじゃん? 今まで走った事ないヤツがいきなり何の苦労もなく速く走れると思ってんのか? この先、一週間は筋肉痛で動けないから覚悟しとけ」
『や、やだあ! 足が太くなっちゃうじゃない!』
「そりゃ、俺好みだ。さて、ウォーミングアップも終わったし、そろそろ本気で走るぞ。一気に追い上げるから見とけよ、恵理っぺ!」
ハハハ・・・と気持ち良さそうに高笑いしながら、孝之はグン!と速度を上げた。
冷たい風が顔を切り裂くように吹き付ける。
周りの景色はどんどん後ろに流されていって、スライドショーみたいだ。
ウォーミングアップって、今までの軽やかな走りはただの準備体操だったってコト!?
どんだけ速いの、この人!?
そして、限界値完全に超えちゃってるあたしの体はどーなっちゃうの!?
でも。
それでもいい。
自分の力じゃ絶対見ることができない光景をあたしは今、見ている。
運動神経、持久力、基礎体力全てが平均値以下だったあたしには絶対不可能だった体験だ。
何より、孝之がすごく楽しんでるのがあたしの体を通して伝わってくる。
二度と自分の体で走る事はできない彼が、心底嬉しそうに風を切って走っていくのがあたしは嬉しかった。
『孝之ってホントに走るの好きだったんだね』
あたしは走ってる彼に頭の中で話掛ける。
今回の憑依は彼の意識の占めるパーセンテージが大きいらしく、あたしの言葉は声にならない。
代わりに、声までを支配している孝之があたしの口を使って返事をする。
「ああ、好きだよ。子供の頃からこれしか取り柄がなかったからな。お前がもう少し運動神経良かったら一緒に走ったのに」
『悪かったわね。あたしは子供の頃から運動できないの!』
知ってたよ、と言って孝之は笑った。
その間にも景色はどんどん流れてゆき、やがて、遥か前方を走る涼子さんの背中が見えてきた。
それに気付いた孝之は更に加速する。
これが本来、運動能力ゼロのあたしの体だなんてすっかり忘れている。
後の事を考えると恐ろしくなったが、もう腹を括るしかない。
「佐々木のヤツ、油断してダラダラ走ってやがる。ラッキーだな。このまま行けば追いつくぞ」
『す、すごいよ、孝之! 本当に勝っちゃったりして!?』
「当ったりめーだ! 俺が後輩に負けるか。それに、まだ消えたくないからな」
思わず出た孝之の本音に、あたしは返答に詰まった。
そうなんだ。
孝之はまだこの世に未練タラタラなんだ。
その理由の大部分を占めてるのがあたしの事なのは、我ながら申し訳ないとは思ってる。
こんな事ならもっといい彼女でいてあげれば良かった。
駅伝見に行ってたら、孝之からプロポーズされて、あたし達のその後の運命も変ってたかもしれない。
『孝之、ゴメンね』
「何が?」
『駅伝で勝ったらプロポーズしてくれる予定だったんでしょ?』
返事の代わりに、孝之はあたしの顔を耳まで紅潮させて俯く。
強情な上、照れ屋の孝之があたしの為に頑張ってくれてたのが目に浮かぶ。
『何で黙ってたのよ? 最初からそういうつもりだって教えてくれてたら、見に行ったかもしれないのに』
「バーカ……んなこと言えねーよ! 負けたらカッコ悪いし、教えたのに見に来てくれなかったらもっとヘコむじゃん?」
『あ、そーか』
孝之もいろんなシミュレーションたてて悩んだりするんだ。
誰が見てもビジュアル的にはレベルの高い孝之が、実は全然自分に自信がなくて臆病な事もあたしは昔から知ってた。
「なあ、恵理?」
その自信なさげな声で、突然、孝之は呟いた。
『何?』
「俺が今プロポーズしたら、どうする?」
あたしの胸がキュン!と締め付けられた。
どーするって、どーしよ!?
しかも、今ですか!?
死後、3年経った今!?
現在の状況って結構ビミョーなんですけど……。
「その、死んでるからイヤなのは分かってる。生きてたらの話だけど……いや、嫌だったらいいんだ。一度は別れてるし、断わられても今更だし、別に俺は気にしないんだけど、もしもの話って事で……」
しどろもどろに弁解がましく話すのが、あたしは可笑しかった。
誰に対して理論武装してるのやら。
勿論、答えは決まってたけど、素直に言うのがなんだか悔しくて、あたしはワザと可愛げのない返事をする。
『そうだね。人生には妥協が大事だって言うし。しょーがないから、今なら孝之となら結婚してもいいよ』
「なんだよ、素直じゃないな。お前ね、35歳にもなってこんないい男に求婚されるなんて有り得ねーんだからな! もっとありがたがれよ」
照れ隠しに言ったあたしも悪いけど、売り言葉に買い言葉で孝之もすぐに反撃してくる。
分かっちゃいるけど、いつものパターンだ。
でも、今日はそれが何だか嬉しかった。
あたし、やっぱり孝之が好きなんだ。
死んでてもいいから、このままずっと一緒にいたいって思うのは反則なんだろうか。
ぼんやりと妄想に浸っていたその時。
「恵理っぺ! 佐々木に追いついたぞ!」
孝之の声にハッと我に返ると、規則的に腕を振って走ってる涼子さんの背中が目前に迫っていた。




