過飽
数学担当の神坂サクラ。
白衣のポケットに両手を突っ込み、どこか怠惰で、ミステリアスな雰囲気を漂わせている。
その眼力と派手な容姿も相まって、かなり近寄りがたい人物だった。
しかも、長身のうえに十センチもあるヒールを履いている。間近に立たれると、否応なく圧倒される。
そのため、生徒たちの間では、陰で『六尺様』などと呼ばれていた。
甲斐浩臣が、神坂の足元を見ながら口を開いた。
「6尺って、約181.8センチですよね」
「そうだな」
「先生、そこまでありませんよね」
神坂は眼鏡の位置を直した。
「ハイヒールを履いた状態で約175センチだ。つまり、約5尺7寸7分。おおむね6尺に近い。
民間伝承における呼称としては、許容範囲だろう」
「許容範囲って、何の法律に基づいてるんですか」
「法律の話をするなら、まず計量法を確認してから発言しろ。
尺貫法の単位は、現在の取引や証明において使用できる場面が制限されている。
だが、伝承上の呼称まで一律に禁止されるわけではない」
「なるほど。では、先生の身長を国際単位系で表すと、0.175キロメートルですね」
「0.175キロメートルでは、私は175メートルになるぞ」
「あ、間違えました。0.00175キロメートルです」
「単位換算で桁を間違えかけたな? 甲斐。お前、わざとやっているだろう」
「いえ。読者に緊張感を与えるための演出です」
「身長をキロメートルで表記して、どうやって緊張感を生み出すんだ」
「違和感です。人間は、日常的な尺度から外れた数値を提示されると、認知的な負荷を感じます。
そこに物語上の緊張感が生まれるわけです」
「ほう。では、その演出意図を情報理論におけるエントロピーの観点から説明してもらおうか」
「……情報量は、事象の起こりにくさに応じて増加します。
先生が僕の単純なミスを見逃す確率は極めて低い。したがって、僕の発言には高い情報量が――」
「苦しいな。情報量と面白さは同義ではない」
「先生こそ、身長の話から情報理論に脱線しています!」
「脱線ではない。知識の連鎖だ」
「連鎖というより、知識の玉突き事故です!」
神坂は、満足げに笑った。
「いい表現だ。では、玉突き事故における運動量保存則について説明してみろ」
「どうしてそうなるんですか!」
「物理現象だろう?」
「身長の話をしてください!」
「お前が始めた話だ」
「先生が広げたんでしょう!」
「学問とは、そうして広がっていくものだ」
「その学問、今すぐ畳んでください!」
神坂は、再び白衣のポケットに両手を突っ込むと、悠然と立ち上がり、チュッパチャップスを咥えた。
「では、甲斐。次の課題だ。
私の身長を正確に測定し、尺貫法、メートル法、ヤード・ポンド法の三種類で表記せよ。なお、測定誤差の評価には標準偏差を用い、測定者の視差による系統誤差も補正すること」
「……先生」
「なんだ?」
「僕、数学専攻なんですけど」
「知っている」
「物理学、計量学、統計学まで必要になってるんですが」
「学問に垣根はない」
「先生のせいで、身長測定が学際的研究になってるんですよ!」
「素晴らしい。研究題目は『ハイヒール着用時における教員の身長評価と民間伝承の誤差分析』でどうだ?」
「学会に出す気ですか!?」
「当然だ。査読に耐えうる論文に仕上げろ」
「……六尺様なんて呼ばなければよかった……」
「そうだな。今後は『約五尺七寸七分の神坂先生』と呼ぶがいい」
「細かすぎる!」
「正確性を優先した結果だ」
――僕は悟った。
この人に必要なのは、教育ではない。
知識を無駄遣いすることを禁止する法律だ――と。
◆◆◆
――吉野明日香は、その光景を見逃さなかった。
(放課後は、(私たちの)貴重な時間なのに……)
神坂に連れられた甲斐が、科学準備室へ入っていくのを目撃していた。
吉野はストーカーさながら、常に甲斐をマークし、有事に備えている。
甲斐と神坂の二人が、コソコソと室内へ消えていく姿は、まさに先生と生徒の禁断の――それであった。
(ひろくんを疑ったのは悪かったけど……神坂先生の、ひろくんに対する執着は普通じゃない気がする。
同じ数学を愛する人間として、共鳴しているのだろうか……。
私みたいな凡人には、もう立ち入る隙もないのかもしれない……だけど!)
――いつか彼は、県内の……いや、国内の数学界を牽引するトップランナーとして返り咲く日が必ず来る。
今は、ただ立ち止まっているだけ。
少し休んで、またきっと蘇ってくれる。
吉野は、そう信じて耐えてきた。
神坂との出会いは、甲斐をさらなる高みへと引き上げてくれる、恩師との運命的な出会いなのだ、と。
――そう、これはほんの序章にすぎない。
吉野明日香は、下半身の疼きに必死で耐え、もじもじしながら、甲斐浩臣がいつの日か必ずや復活する……と、確信していた。
――神坂と甲斐の、変態同士の意味不明な会話も、この先、甲斐が数学者として再び歩き出すための足掛かりになるだろう。
(……多分)
――数学界のトップランナーとして、不死鳥のように蘇ってくれることを!
(……きっと)
だが、甲斐の将来を信じる気持ちと、目の前の二人が気になることは別問題だった。
吉野は準備室のドアに、耳をぴたりとくっつけた。
かすかな声が聞こえてきた。
◆ ◆ ◆
「……甲斐、ちょっと聞いてくれ」
僕は、放課後の理科準備室で、神坂と向かい合っていた。
「……はい」
神坂の、いつになく深刻な表情に、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、神坂が出入り口付近に立っているため、逃げ出すには窓から飛び出すしかない。
完全に退路を絶たれている。
――ハメられたな……。
「……無駄だよ。ここは3階だ」
神坂がニヤリと笑う。
「……っ! (目線でバレたか)……それは、どういう意味ですか」
「お前を、逃がさん……という意味だが」
◇ ◇ ◇
(えっ……甲斐くんを逃がさん? どういうこと)
吉野は扉の向こう側でゴクリと喉を鳴らした。
◇ ◇ ◇
神坂は、僕にぐっと近寄り、胸元のシャツを掴むと、乱暴に引き寄せた。
「せっ、先生……これは!」
――はぁ……はぁ。
息も絶え絶えになる。
胸が苦しくて、心臓の鼓動が速くなっていった――。
◇ ◇ ◇
(ちょっと待って……いったい二人で何をしているの!?)
吉野は痛いくらいに、耳を扉に押し付けた。
――あの声は、甲斐くんのイキ声!?
嘘でしょ……。
まさか神坂先生の色香に喰われたとでも言うの?
私という者がありながら……。
……ううん。
あり得なくはない。
だって甲斐くんは最強のドS!
大人の女性さえも手玉に取れる……。
分かっているの。
でも……そんなのイヤ。
瞳に涙をにじませ、下半身にも甲斐への滾る思いをにじませていた。
◇ ◇ ◇
「ほら、ここ。触ってごらん」
「でも……センセイ!」
「フフ。どうだい……初めてだと緊張するだろう……だが、焦らなくていいよ」
「僕、初めてで……」
「アッ! ……ん。そう、優しく……はあっ!」
「せ、先生っ!」
「……ゆっくり。なぁ。そこは、そんなに、強くしない方がいいんだ」
◇ ◇ ◇
――いや。いやっ!
もう、やめてっ!
甲斐くんは私のものなのに!
アレもアソコも、あんなところも、ぜんぶ!!
「はあっ……はあっ……」
吉野は小刻みに震えながら、下半身へ指先を下ろしていく……。
◇ ◇ ◇
「で……でも。……こんなになって……僕、我慢できません!」
「甲斐っ! ……はぁっ!」
◇ ◇ ◇
――待って待って!
イかないで、ひろくん!
吉野はドアノブに手を掛けた……。
――ダメよ、ダメダメ!!
私以外の人と、エッチなことしないで――!
◇ ◇ ◇
――バァーン!!
準備室のドアが勢いよく開いた。
吉野は、室内を見る。
そして、すべての予想が見事に前提から覆ってしまっていたことを瞬時に悟った。
(えっ!)
——ピシッ。
微かな破裂音とともに、ビーカーの中で無色透明だった液体が一瞬にして白濁し、まるで生き物のように猛烈な勢いで結晶の針を伸ばしていく。
「あっ!」
「んあっ!」
「はあっ!」
――パアッ。
キラ☆
同時に、異様な熱気が理科準備室の空間を包み込んだ。
「……ふぅ。過飽和酢酸ナトリウムの急速自発結晶化は……失敗か。
種結晶や容器への刺激によって核形成が起こってしまったな。……だから『強く触るな』って言ったじゃないか!」
僕は神坂に何も言い返せないでいた。
どうせ何か言ったところで、神坂に言い負かされるだけだ。
吉野は、今までの会話全体が、自らの誤解であったことを知った。
そして、先刻の会話を思い返し、咄嗟に逆算して理解した。
「……つまり。限界まで溶解度を高めた過飽和状態だったから、指先の僅かな圧力振動だけで核形成の閾値を超えたんですね……急激な溶解時に吸収された熱が結晶化によって放出された……」
吉野は赤面していた。
自分が、変態であることを理解せず、事前の会話だけで勝手に邪な誤解をしてしまっていたことを。
だが、優等生のプライドがそれを許さない。
この場をうまく切り抜ける必要があった。
吉野は、まるで最初からすべてを理解していたかのように、流暢に解説を始めた。
「ふむ。なるほど。……では、説明してもらおうか」
神坂が、にやりと笑った。
「えっ?」
「過飽和状態と過冷却状態の違いを、熱力学的な観点から」
「……ええっと」
「核形成に必要な自由エネルギー障壁についても頼む」
「……はい?」
「結晶化速度と温度変化の関係は?」
「……先生、私」
「さっきまで随分と流暢だったじゃないか」
吉野の笑顔が、ぴたりと固まった。
(しまった。知ったかぶりをする相手を間違えた!)
「いえ、もちろん基本的なことは理解しています。ただ、今はその……甲斐くんの数学的才能について考えていたもので」
「数学的才能?」
神坂が眉を上げた。
「はい! 甲斐くんは、将来、県内……いえ、国内の数学界を牽引するトップランナーになる逸材なんです!
ですから、その、先生との出会いが、彼の才能を再び開花させるきっかけになるのではないかと!」
「ほう」
神坂は腕を組んだ。
「つまり、私と甲斐が親密になることは、教育的に有益だと?」
「そ、そういう意味ではありません!」
「では、どういう意味だ?」
「数学的な意味です!」
「数学的な意味で親密になるとは?」
「知識の共有です!」
「知識の共有なら、先ほどからしているが」
「そうです! だから、そういうことです!」
「どういうことだ?」
「私にも分かりません!」
吉野は叫んだ。
「……吉野さん、苦しいよ」
甲斐は、苦虫をかみ潰したような表情で吉野を見た。
「いいえ! ちっとも苦しくなんかないわよ」
「そうなの?」
「そうよ! だって私は、あなたの将来を心配していたのだもの!」
「ありがとう。でも、今は酢酸ナトリウムの結晶化を研究しているところで」
「最初から分かってるわよ!」
「でも、顔が赤い……」
「室温が高いからよ……」
吉野は、目の前のビーカーに手を伸ばした。
「ほら、これだって、結晶化すると熱が出るでしょう? つまり、熱源があるということは、熱力学的に――」
「吉野さん、触らないで!」
僕が叫んだときには、もう遅かった。
「熱っ!」
吉野は手を引っ込め、勢い余って机に肘をぶつけた。
ガタンッ!
ビーカーが揺れた。
液体の表面に、白い結晶が走る。
「あっ」
「待て!」
神坂が手を伸ばしたが、間に合わなかった。
透明だった液体は、瞬く間に白い結晶へと変わっていく。
ビーカーの底から、白い結晶の塊が盛り上がった。
「……ああ」
神坂が、深いため息をついた。
「また失敗か」
「す、すみません!」
「いや。吉野、お前の行動には一つ、興味深い点がある」
「……はい?」
「お前は、熱いと分かっている物体に触れた。しかも、その直前に熱力学について語っていた」
「それは……」
「知識と行動が一致していない。これは認知的不協和と呼ぶべきか、それとも単なる不注意か」
「先生! 今それを分析しないでください!」
「では、レポートにまとめておこう」
「まとめなくていいです!」
神坂は白衣のポケットから、なぜかメモ帳を取り出した。
「題目は『理論知識が危険回避行動に及ぼす影響――理科準備室における一事例』でどうだ?」
「私を研究対象にしないでください!」
「被験者の同意は必要だな」
「だったら、まず聞いてください!」
「では、同意するか?」
「しません!」
「貴重なデータが得られそうだったのに」
「諦めてください!」
僕は、白く固まったビーカーを見下ろした。
結局、実験は失敗。
吉野さんは火傷こそ免れたものの、神坂の研究対象になりかけた。
そして僕は、数学の話をしていたはずなのに、いつの間にか物理学、熱力学、認知心理学、研究倫理まで巻き込まれていた。
……どうして、こうなるんだ。
神坂は、何事もなかったかのように白衣のポケットへ両手を突っ込んだ。
「さて、甲斐。次は統計学だ」
「もう嫌です!」
「実験の失敗には再現性が必要だからな」
「僕を再現する気ですか!?」
「安心しろ。吉野も参加させる」
「安心できる要素が一つもありません!」
吉野は、涙目で叫んだ。
「……私は、ただ甲斐くんの将来を心配していただけなのに!」
「分かっておる」
神坂は、優雅に微笑んだ。
「だからこそ、君にも学んでもらう」
「何をですか!」
「自分の行動に責任を持つということを」
「先生にだけは言われたくありません!」
理科準備室に、吉野の悲鳴が響いた。
こうして僕たちは、酢酸ナトリウムの結晶化実験を失敗した代償として、なぜか学際的研究の共同プロジェクトを立ち上げることになった。
研究代表者、神坂サクラ。
研究協力者、甲斐浩臣。
研究対象、吉野明日香。
……僕たちの青春は、どこへ向かっているのだろう。(大嘘)




