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8.祈りの終わり

 

 瘴気(しょうき)が濃く、霧が這うこの階層での探索は、常に命を削る行為だった。空気そのものが毒に近く、人間達が長くいれば喉を焼かれ、皮膚すらただれる。

 だからこそ、この階層の探索は、基本的にレーヴェンシュタイン__彼一人で行われていた。


 だがその日、例外が現れた。


「私も……行きます」


 静かに、けれど決して譲らぬ声で告げたのは聖女リフィアだった。小柄な身体に元は純白だったのだろう泥まみれの衣。その顔は瘴気の中にもかかわらず決然としていた。


「……無理だ。ここは、俺一人で十分だ」


 レーヴェは冷淡に言い放つが、リフィアの足は止まらない。


「私には、祈るしかできません。でも……その祈りで救える魂があるのなら、共に行かせてください」


 一瞬、レーヴェの赤い瞳が揺れた。


 __『聖女』

 欲に塗れた人間の中でも最も信じることができない存在。


 かつて、最高神として在った頃の彼が見てきた“聖女”たちは、口を開けば神託(しんたく)を騙り、民を(あざむ)き、己の欲望に忠実。神を騙る最も忌むべき偽善者(ぎぜんしゃ)だった。


 ……だが、このリフィアは──


 そう考えるたび、彼の中で冷たい壁のような感情が立ち上がる。


「好きにしろ」


 そう吐き捨てて、レーヴェは(きびす)を返した。

 その背に、リフィアは静かに続いた。


 ✻✻✻


 (むくろ)の山。

 この階層に“生”は、なかった。


 倒れた者たちの魂は、黒く(よど)み、瘴気(しょうき)に取り込まれつつある。

 レーヴェはその一つ一つを眺め、剣で(けが)れを断ち、灰へと還す。だが__


「……どうしても、泣いているように見えるんです」


 祈りの声が、耳に届いた。

 振り返ると、リフィアが瓦礫(がれき)の下に横たわる(むくろ)の前で、手を組み、祈っていた。


「あなたの痛みが消えますように。天の光が導きますように」


 透明な声が、瘴気(しょうき)すら洗い流すかのように響いていた。


 レーヴェはただ見ていた。

 この声に偽りがあるとは思えなかった。だが__それが嘘である可能性も、捨てきれなかった。


(……どうしても、信じ切れない)


 心のどこかで、壁が立ちはだかる。

 けれどその壁は、いつかの神としての痛みそのものだった。


 人間達の欲が作り出した"(けが)れ"が彼から友を奪ったのだから。


 ✻✻✻


 拠点へ帰る直前、事件は起きた。


 ふらり、と。

 リフィアの足取りが急に乱れる。


「……聖女?」


 異変に気づき、レーヴェが声をかける__が、もう遅かった。


 彼女の足がもつれ、崖沿いの岩肌に倒れ込もうとする。

 その頭が、無防備に岩肌へと打ち付けられそうになるその瞬間。


 ガッ。


 間一髪で彼女を抱き止めたのは、レーヴェだった。


「……っ!」


 その身体は熱い。いや、熱すぎた。

 瘴気(しょうき)に当たりすぎたせいか、魔力と神聖力の枯渇(こかつ)による高熱。リフィアはとっくに限界を超えていた。


「なぜ……、なぜここまで無茶をした……!」


 普段は表情を崩さないレーヴェが、歯を噛み締める。


 抱きかかえたその腕に力がこもる。もう少し遅れていれば、彼女の頭は岩で砕かれていたかもしれない。

 それほど、ギリギリだった。


 拠点に戻ったとき、ガルドたちは仰天した。


「うおっ!?お、おい、どうしたんだ!?聖女が……!?」


 ガルドとミリナは顔を見合わせた。

 理由までは分からずとも、二人はレーヴェが聖女を苦手に思っていることに、なんとなく気づいていた。

 そんなレーヴェが聖女を抱き上げているだけでなく、表情に焦りの色を滲ませている__その事実に、驚きを隠せなかった。


 レーヴェの顔は険しいままだった。


 治癒を試みようにも、リフィアはぼろぼろで、魔力も神聖力も使い果たしていた。治癒魔法が逆に命を縮めかねない。


「……これは……、薬草が必要だね。だけど周辺にはもう瘴気(しょうき)が……」


 レーヴェはヴァネッサがそう言いかけた時には既に躊躇(ちゅうちょ)なく瘴気(しょうき)の中へと飛び込んでいた。


「おい!レーヴェンシュタイン様!?瘴気(しょうき)が……!」


 ヴァネッサの制止も聞かず、彼は瘴気(しょうき)の中へ消えていった。


 それから何時間も経って、ようやくレーヴェは戻ってきた。


 戻ってきたレーヴェは、瘴気(しょうき)(すす)けながらも、確かに数種類の薬草を持っていた。

 それを受け取ったヴァネッサは手際よく茶を調合し、眠ったままのリフィアにそっと飲ませる。


 そして、しばらくしてから彼女が静かに目を覚ましたとき__


「……わたし、レーヴェンシュタイン様にご迷惑を……」


 弱々しく呟くリフィアに、ヴァネッサがくすっと笑った。


「迷惑だって、本気で言ってる?そんなふうに思ってたら、あのレーヴェンシュタイン様が、数時間も瘴気の中で薬草なんて探してくるわけないでしょ」


 その声に、リフィアは驚きの瞳を見開く。

 そして__医療用に作られた小屋の隅に座っていた黒衣の青年に気づく。


「……レーヴェン……シュタイン様……」


 彼はそっぽを向いていた。だがその耳が、ほんの少し赤くなっているのに気づき、リフィアは一瞬だけ唇を緩める。


「ありがとう……ございます」


 レーヴェは、静かに彼女を見た。

 そして言った。


「……リフィア、君の祈りは本物だった」


 その瞳はまっすぐで、まるで心の壁が一部溶けたかのように、素直だった。


(レーヴェンシュタイン様が、私の名前を……)


 そのレーヴェンシュタインの言葉にリフィアは、心の内で微かに表情を曇らせる。だが実際にはそれを悟られないよう笑みを浮かべて答えた。


「これからも……共に祈らせてください」


 ✻✻✻


 レーヴェがリフィアのために薬草を探し、足を踏み入れた階層に、生存者の姿は一人として無かった。

 しかし、この地下層全体を見渡せば、未踏(みとう)の領域はまだ数多く残されている。

 それでも、これ以上この場所に留まり、別の階層を探索するのは危険だった。


 探索に向かえるのは基本的にレーヴェ一人。

 彼の力をもってすれば三大天に存在を察知される心配はないものの、今ここにいる仲間たちはすでに満身創痍(まんしんそうい)だった。まだ小さな子供達もいる。

 何よりも、彼らの回復が最優先されるべき状況にある。


 だからこそ、レーヴェは決断した。

 __今のこのメンバーで、一度地上へ戻ることを。


 だがそれ以上に、レーヴェの心にあったのは、もう一つ。


 この地下で出会った彼らは、ただの生き残りではない。共に死線を潜った、共に戦うべき“仲間”だった。


「組織を作ろう」


 その言葉に、皆が目を見張る。


「……これから先、闇を暴けば暴くほど、敵も増える。ならば、名前を持つべきだ。何者かとして、存在するために」


 皆の視線がレーヴェに集まり、希望と緊張が空間を満たしていく。


 __しかし、続いたレーヴェの言葉がそんな雰囲気を一気に冷ます。


「名は……“シャドウ・ジャスティス”」


 __沈黙。


「……だせぇ」とガルド。

「即却下」ヴァネッサまで。


「……なかったことにしよう」


 そう言ってレーヴェがしょんぼりとフードで顔を隠す。


 そのとき、ミリナが一歩、前に出た。


「“オルド・レクイエム”……とか、どうかな?影の中で出会った私たちが、偽りの神さまに、祈りの終わり(レクイエム)を贈るの。きっと、意味があると思う」


「いいわね」

「いいな、それ」

「俺たちにぴったりだ」


 ヴァネッサとガルド、アルザークがそう言って、片翼(かたよく)堕天使(だてんし)と妖精族の少女も頷く。探索中にレーヴェが助け出した五人の子供達もなんだか楽しそうに頷いていた。


 全会一致で名は決まった。


 そしてその瞬間。


 妖精族の少女が小さく頭を垂れた。


「私、ルアナ。もう羽は無いけど、妖精族の名にかけて、レーヴェンシュタイン様に祈りを捧げる“影”になります」


 次に口を開いたのは片翼の堕天使__フェリド・ルーゼンヴィヒ。


「天を失って久しいが……貴方の在り方は、天よりも眩しい。堕ちた俺に仕える理由など一つしかない。──貴方こそが“影”の王にふさわしいからだ。フェリド・ルーゼンヴィヒ、この名にかけて貴方に仕えることを誓う」


 レーヴェは、皆を見渡す。

 その瞳に映るのは、ただの仲間ではなかった。

 運命を共にする者たちだった。


 そして彼は、微かに微笑む。


「__ようこそ。影の名の下に」


 彼らの歩みは、今ここから始まった。

 オルドレクイエムとして__偽りの神に抗う者たちの、最初の伝説が。


 次なる舞台は、地上。

 支配された楽園、偽神が君臨する聖都(セントルシフェリア)


 そこで彼らを待ち受けるのは、崩壊の予兆と、運命を超える邂逅(かいこう)だった__。


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