5.深淵の囁き、影の目覚め
薄暗い岩壁に囲まれた小さな空洞に、ぱちぱちと焚き火の音が響いていた。
レーヴェの左右にはそれぞれガルドとミリナ。そして聖女リフィア、妖精族の少女、そして傷ついた魔族の男と片翼のもげた堕天使。
新たな拠点に身を寄せる彼らの表情には、わずかながらも希望の色が差していた。
「……次は、情報が欲しいな」
レーヴェが独りごちるように言う。
「この地下に、どれだけの者が落とされているのか。どんな構造なのか。何が危険で、何が使えるのか。そういうのを全部」
「……情報なら、あたしが知ってるわよ」
ひときわ低く、鋭い声が闇の奥から響いた。
瞬間、リフィアが皆の安全を祈るように手を構え、魔族の男は壁際に手を伸ばし、妖精の少女はきゅっと身を固くする。そして堕天使が片翼をばさ、と震わせて奥を睨んだ。
だがレーヴェは動じなかった。
むしろ、わざと気づかないふりをしていたような余裕すら見せながら、そちらに視線を向けた。
「なんだ、やっぱり聞いてたんだ」
「焚き火の匂いに引き寄せられただけよ。まさか、まだ何か行動を起こせるような奴らが生きてるなんて思ってなかったけど」
現れたのは、鋭い眼光をもつ年老いた魔女だった。肩までの濃い紫色の髪が汚れているにもかかわらず、彼女の立ち姿には威圧感があった。
「ここに来るまでに、三つの集落を見た。どれも壊滅しかけてたけど、少数の生き残りはいた。あたしのようにね」
「なるほど。じゃあ、君が知っていることを、すべて教えてくれるかな」
「タダで?」
「君をこのまま一人にするのも、悪くないと思っていたんだけど、どうしようか?」
「……くふっ。脅しか、面白い」
彼女は挑戦的な笑みを浮かべたが、やがて肩をすくめて腰を下ろした。
「いいわ。情報を共有しても損はない。ここじゃ仲間が多いほうが生き延びられるもの」
レーヴェは彼女から詳しい話を聞き出した。
地下層は一つの広大な“世界”だ。
上層から中層、下層に分かれ、それぞれに捨てられた者たちが身を寄せあって暮らしている。
だが秩序は存在せず、強い者が弱い者を喰らう、まさに地獄のような場所だった。
「ここよりさらに下に、絶望の深淵みたいな区域がある。もう、声も届かないような闇。……私は行ってないけど、そこに落とされた奴らはまず戻ってこない」
「それ、気になるな」
「行くつもり?」
「いずれはね。恐らく最下層には三大天が脅威を感じるまでの何かを封じているだろうから、今動かせばきっと気付かれる。まずは、上に行ける道を探すよ」
レーヴェンシュタインは立ち上がると、壁際に立てかけていた金属片を手に取った。
それは、地下で拾ったどこかの武器の残骸だ。
だが彼の手にかかれば、その程度の鉄くずでも十分だった。鉄くずはレーヴェが指で軽く叩けば一瞬で剣へと姿を変えてみせた。
「これから、仲間を増やす。ここを希望の砦にする。協力してくれるか?」
魔女はしばらく彼を見つめたあと、わずかに口元を緩めた。
「あたしはヴァネッサ。──名前は?」
「レーヴェンシュタイン」
「レーヴェンシュタイン?……獅子の宝石、ってとこかしら。ずいぶん神聖な名前じゃない」
そう言って、彼女は薄く笑った。
そのやり取りを聖女リフィアは静かに見ていた。
彼女の視線はレーヴェンシュタインの背中に向けられている。
祈りの言葉を交わさずとも、彼女にはわかっていた。
──この男は、神だった。
けれど今は、神ではなく。それでも人であって人ではない。
彼の存在そのものが、奇跡であり、世界の歪みであり、何よりも“正義”に近い何かだった。
そして彼女は、信じると決めた。
「レーヴェンシュタイン様」
その名をそっと呟き、彼女は再び手を組む。
だが、あくまで彼を一人の“仲間”として接し続けることを、彼女は選んだ。
なぜなら、神を神として崇めるだけでは、彼の中から感じる孤独は癒せないと知っていたから。
こうして、地下の片隅に小さな組織の灯がともり始めた。
それはやがて、三大天の名をも震わせる“影”のはじまりとなる──。
「レーヴェンシュタイン、君は……本当に、俺たち全員を助けるつもりなのか?」
傷だらけの黒い角を持つ魔族の青年が問いかけた。
重傷の体に包帯を巻きながらも、その声には真剣な色があった。
この地では、希望を口にする者ほど最初に死ぬ。それが常識だった。
「うん、助けるよ」
レーヴェンシュタインは、あまりにも自然にそう答えた。
まるで、朝起きて顔を洗うような、そんな気軽さで。
だが、そこに嘘も迷いもなかった。
「簡単に言うな……。ここは地獄だ。三大天に見放された者の墓場だぞ。自分の命ひとつ守るのだって……」
「無理だと思うか?」
「……ああ、思うね。だが……」
男は一度、拳を握りしめた。
「不思議と、君が言うなら……叶うような気がしてくるんだ。何故だか、な」
その一言に、妖精の少女もこくんと頷く。聖女のリフィアは、ただ静かにレーヴェンシュタインを見つめていた。
黒い角の魔族の青年が続ける。
「俺はアルザーク。君を信じるよ」
✼✼✼
翌日。レーヴェンシュタインは探索に出た。
この階層の地形を把握し、他の生存者の痕跡を探す。まだ出会っていない“捨てられた者たち”──可能性を持つ者たちを拾い上げるために。
薄暗いトンネルを進んでいると、突然、爆音と叫び声が響いた。
「た、助けてぇええええッ!!」
続いて、甲高い悲鳴。
レーヴェが走り出すと、そこには数人の少年少女が、巨大なケルベロスのような魔獣に襲われている場面だった。
「ッ──ガキ共逃げろ!」
誰かが叫ぶ。だが、逃げ場はない。背後は崩れた岩の壁、前は牙をむいた魔獣。
レーヴェは迷わなかった。
金属片から創り出した剣を手にまっすぐに駆け出す。その動きには無駄がなく、研ぎ澄まされていた。
その手が閃いたとき、魔獣の両目が一瞬で潰れた。
「ギャウゥッ!!」
暴れ狂う魔獣の胴に回り込むと、逆手で突き刺し、魔力で魔獣の核を一気に砕いた。
魔獣は断末魔を上げ、地面に沈む。
「三大天に操られしものよ……その魂、せめて次なる世では正しき導きに恵まれんことを」
茫然と見上げる少年少女たちの視線の先には、黒いマントについたフードを被ったままの、ひとりの男が立っていた。
「大丈夫か?」
「な、なに……あんた……」
「俺か? ……さぁね。たまたま通りかかった“影”だよ。けど、君たちには手伝ってもらいたいことがある」
そう言って、彼は手を差し出した。
「君たちを、ここから出す。だがそれには協力が必要だ。一緒に、三大天を討つ為に生き残ってみないか?」
誰もが言葉を失っていたが──ひとりの少年が、おずおずとその手を取った。
「……お、俺は……まだ、死にたくない……!」
「うん、それでいい」
仲間が、またひとり。
この地獄の中で、レーヴェンシュタインは確かに“救い”の火を灯し始めていた。
✼✼✼
拠点へと戻ったレーヴェの後ろには、新たに五人の子どもたちがいた。
「あら、また拾ってきたのね」
ヴァネッサが傷んだ髪をくるくると指に巻き付けて弄りながら皮肉めいた笑みを浮かべる。
「うん。でも、まだ足りない。──三大天を壊すにはもっと仲間が必要なんだ」
彼の言葉に、集まった者たちは静かに頷く。
希望というものは、時に伝染する。
絶望の底であればあるほど、その光は強く輝く。
その夜、彼は焚き火の前で静かに呟いた。
「偽りの神よ。お遊びは、ここまでだ」
その言葉を聞いた者はいなかった。
だが確かに、物語は動き始めていた。




