4、初日
「おはようございます」
「ああ。早いな」
次の日。グロリアは朝からソムヌスの魔法書専門店に来ていた。本を読みふけっていたソムヌスが、グロリアの挨拶で顔をあげる。
「ソムヌス様だって早いじゃないですか」
「俺はまだ仕事をするためにここにいるわけじゃない。ただ、本が読みたかっただけだ」
グロリアは、ソムヌスの読んでいる本の表紙に視線を向けた。
「『魔法の適性とは何か』ですか?」
「ああ。自分の魔法の適性以外の魔法を使えるかの検証が書かれている」
グロリアが本のタイトルを読み上げると、ソムヌスは頷く。本を読むときにだけ着けていたのであろう眼鏡を外し、机に置いた。
「面白かったのですか?」
「……どうしてそう思う?」
「少し笑みを浮かべていらっしゃったので」
その本を読むソムヌスは、楽しげに見えた。それを指摘すると、ソムヌスはグロリアから目を逸らした。もしかしたら、照れているのかもしれない。
「面白い、というよりは常人には真似できなさそうだった」
「え?」
「それなのに、それを当たり前のように書いているのが面白い。作者がこれくらいできるだろう、と言っているようで」
楽しそうなソムヌスをみていると、その本に興味がわいてくる。
「誰の本ですか?」
「……アエラス・クレアティオの本だ」
少しの沈黙の後に答えたソムヌスが口にした名に、グロリアは目を見開く。救国者、アエラス・クレアティオ公爵。魔法から距離を取った彼はまだ魔法に関する本を書いていたというのか。
「あの御方は、まだ魔法に関する本を執筆なさっているんですね」
「数は少ない。趣味の範囲で時間があるときには書いているらしい。この本も、世間には出回っていない」
ソムヌスの説明に違和感を覚える。グロリアは少し考え込んでから、口を開いた。
「えっと……。ソムヌス様」
「様なんて、仰々しい呼び方じゃなくて構わない」
「あ、はい。ソムヌスさん。アエラス・クレアティオ公爵とお知り合いですか?」
アエラスの名を口にするときにソムヌスが躊躇したのが気になっていたが。それに加えて世には出回っていない本をソムヌスが持っているというのだ。特別な伝手があるか、もしくは本人からもらったかだろう。ソムヌスの反応からグロリアは後者だと思った。
「知り合い、というか。まあ、面識はあるな」
「もしかしてソムヌスさんは、アエラス・クレアティオ公爵と同学年だったのですか?」
グロリアはソムヌスについて何も知らないが。自分より年上ということは分かる。アエラスの年齢は有名で、30歳だ。それくらいかと思って尋ねたが、ソムヌスは首を振った。
「俺は28だ。同学年ではない」
「それでは、どこで……。もしかして、ソムヌスさんは貴族の後継者候補でしたか?」
後継者候補だった人間なら、面識があっても納得がいく。
この国、スペス国では血筋よりも実力が重視される。後継者に据える人間は長男とは限らない。優秀であれば女性後継者となることもある。次男がなることもある。さらには自分の子どもを後継者にしない場合すらある。優秀な子どもを見つけるためにはどうするか。学校で優秀な生徒に声をかけるという方法がとられている。
グロリアはソムヌスも後継者の候補であったのではないか、と考えたのだ。それに対し、ソムヌスは曖昧な表情を浮かべた。
「そうなる可能性もあった。でも、俺は嫌だった」
「……断ったんですね」
「そうだ」
ソムヌスの表情は、苦しそうでありながらも悔やんでいるようにも見えて。グロリアはそれ以上、尋ねるのをやめた。
「私は今日、何をしたらいいですか?」
「そのへんにある本の確認と、本棚へ入れる作業だ」
「分かりました」
箱に入っている本を取り出し、題名と著者を確認する。中を流し読みをして、魔法の何に関する本かを記録する。分野ごとに本をかためてあるため、近い分野の場所に本を置く。
それを繰り返していると、気がつけば昼になっていた。
「もうそこまで終わったのか?」
本の様子を見にきたソムヌスに声をかけられ、グロリアは手元の本が大分減っていることに気がついた。
「はい」
「休憩は適当にとってくれ」
「わかりました」
昼休憩をして、作業に戻ろうとしたグロリアは、ふと気になったことを尋ねる。
「ソムヌスさん」
「なんだ?」
「今日はご予約のお客様はいらっしゃるんですか?」
「今日はいないはずだ。元から本の整理の日にしようと思っていた」
「そうなんですね」
午後の時間も穏やかなものだった。ソムヌスは口数の少ない男であったから、静かな空気に満ちていた。
全てを忘れたいと願ったグロリアにとって、この空間は気持ちを落ち着かせてくれた。傷を癒やしてくれた。
勇気を出して、ここで働かせてほしいと頼んで良かった。家にいたらトニトルスのことを思い出す瞬間が多かっただろうから。また彼の名を思い出して、顔が引きつりそうになる。世の中の人々は、失恋や破局後にどうやって相手を忘れるのだろう。存在が当たり前になればなるほど、自分の思考に侵食している。
時間が忘れさせてくれる、と友人の中にはそう言ってグロリアを慰めてくれる人もいた。本当に? グロリアには分からない。こうやって彼の名を思い出し、苦い気持ちになるたび、やっぱり記憶消し屋に頼むので間違いないんじゃないか、という気持ちになるが。
こん、という音と共に近くの机にカップが置かれた。その音でぐるぐると渦巻いていたグロリアの思考が止まる。少し上を見上げると、ソムヌスがこちらを見つめていた。
「そんなに根を詰めてやる必要はない。元々1人でやろうとしていたことだから、一緒にやってもらえて助かっている。予定より早いくらいだ」
グロリアはソムヌスが置いてくれたカップを手に取った。
「あったかい……」
カップも、この場所も、この人も温かい。本当に。慣れたら抜け出せなくなりそうだ。
「ありがとうございます。ソムヌスさん」
グロリアが笑みを浮かべながらそう告げると、ソムヌスは数秒間制止した。どうしたのだろう。グロリアが首を傾げるが、ソムヌスは首を振った。
「……不躾に見つめて悪い」
「いえ、それは構いませんが……」
どうしたのだろう。グロリアが不思議に思っているが、再びソムヌスは首を振る。
「無理のない範囲でやってくれ」
「ありがとうございます」
グロリアからの礼に対し、ソムヌスは頷いて先ほどまで自分がいた場所へと戻っていった。グロリアはカップに口をつける。上品な紅茶の匂いが広がり、気持ちを穏やかにしてくれた。
カップが空になってから、グロリアは再び目の前の作業に取りかかった。