37、待ち伏せ
花畑に行ってから数日後。記憶を消す必要はなくなったと言い出せないグロリアは、ソムヌスの店に来続けていた。
「それではソムヌスさん、また明日」
「ああ。気をつけて」
ソムヌスの店を出たグロリアは店より少し離れたところに迎えに来ているノーティカ家の馬車の方へと向かおうとするが、店を出て少し離れたところに人がいることに気がついた。
ソムヌスに用事がある人かもしれないし、たまたまそこにいるだけの人かもしれない。記憶消し屋へ用事がある人なら声をかけない方がいいだろうし、別の用事だとしても同様だ。グロリアは気にせず通り過ぎることにした。
しかし人の前を横切るのは、少し気まずさを感じる。早歩きで通り過ぎようとしたら、急に右手首を掴まれた。
「グロリア」
「え……? トニトルス?」
なぜこの男がここにいるのか。焦げ茶色の髪。青緑色の瞳の男がグロリアの手を掴んでいた。すぐに気がつかなかったということは、グロリアの中でちゃんと過去のものになってきているのだろう。
グロリアの手を掴んだまま、トニトルスが気まずそうに口を開いた。
「グロリア、その……」
「手を放してくれない?」
何かを言いかけたトニトルスに、グロリアはできるだけ冷たく言い放った。しかし、トニトルスには聞こえていないのか、無視しているのか。全く放す気配はない。
「今、店で働いているんだろう?」
「なんであなたが知っているの?」
グロリアがここに来ていることを知っている人はほとんどいない。知っている人、といっても家族は言わないだろう。アエラスやフラマから情報が漏れるとは考えにくい。
「それは調べたら分かるさ」
グロリアはため息をつきたくなった。
トニトルスはグロリアの家を知っている。だから、グロリアが家から出てくるところ、向かう方を見れば調べるのは簡単だろう。
しかし、それをして何になるのか。グロリアのことを身勝手にも捨てたというのに、今更何がしたいのか。そんな調査能力も時間も別のことで使えと切実に思う。
「あなたには関係ないでしょう?」
「グロリア」
名を呼ばれ、トニトルスの青緑色の瞳を見る。その目はゾクリとするくらい濁った色をしていた。
「この前の男は誰だ?」
「え?」
「町中で、男といただろう?」
おそらくソムヌスといた時のことだ。トニトルスがその時のことを聞きたいということは分かる。しかし、なんでこの男に教えないといけないのだろう。
ふつふつと怒りがわき上がり、グロリアはトニトルスを睨みつけた。
「なんでそんなことを言わないといけないの? あなたには関係ないでしょう?」
「お前の男か?」
「あなたには関係ないわ」
トニトルスは、こんなに話をきかない人だっただろうか。グロリアは、自分の声が届いている気がしない。
「お前は、本当に俺のことが好きだったのか?」
「……何を言っているの?」
グロリアは記憶を消さないと忘れられないと考えるほど、トニトルスを好きだったというのに。
「あなたが私を捨てたんでしょう? 今更なに?」
グロリアがトニトルスを睨むと彼と目があう。トニトルスがゆっくり口を開いた。
「俺がお前を捨てた、か」
その声色に恐怖を覚えて、グロリアは思わず後退る。しかし、後ろにあるのは壁だ。
目の前の男が怖い。昔とは違う。一体何が彼を変えたというのか。
「何が言いたいの?」
「お前は俺に惨めな思いをさせたじゃないか」
「何の話?」
いい加減掴まれている手が痛い。力が入っていることに気がついているのだろうか。トニトルスが一歩近づく。グロリアの後ろには壁があるから、それ以上は距離を取れない。
「なあ、グロリア。お前は優秀だったよな」
「え?」
「俺より高得点のことも多かったじゃないか」
そうだっただろうか。グロリアは考えるが、あまり思い出せない。正直に、全体順位には興味があったが、誰か特定の相手と比べて上下を考えることはあまりしなかった。
「そんなことを言ったって、あなたは行政科よね? 優秀だから入れたんでしょう?」
学生時代の成績なんて、卒業してからは意味がない。今は行政科に入ることができているというのに。何がそんなに不満なのか。
トニトルスはグロリアから視線を外して、ふっと笑った。その笑みはどこか苦しそうだ。
なぜ、そんな顔を。グロリアが考えているうちに、トニトルスの表情から笑みは消えていた。
「それで結局、あの男は誰なんだ?」
「……誰でもいいでしょう?」
結局その話へと戻るのか。グロリアは少しうんざりしながら冷たく言い放つが、トニトルスは諦めようとしない。
「言えないような相手なのか?」
「……」
何でこんなに食い下がってくるのだろう。グロリアが黙っていると、トニトルスがグロリアを掴む手にギリギリと力が入ってくる。
「……っ。手を放して」
本当に何がしたいのか。グロリアは目の前のトニトルスを見る。彼の目に、グロリアは映っているのだろうか。そもそも、映っていたことはあるのか。
グロリアが必死に逃げ方を考えているとき。
「おい。何をしている?」
聞き慣れた声がして、グロリアは息を吐いた。
トニトルスの腕を掴んだソムヌスの顔に表情はなかった。金の瞳に燃え上がるような色が見える。
ソムヌスがトニトルスの手を掴んだおかげでグロリアの手は解放される。グロリアはトニトルスから距離をとった。
「お前は、この前の……」
トニトルスが呆然とソムヌスを見上げる。その表情から、何を考えているのか読み取ることはできない。




