14、ただの記憶消し屋
ソムヌスと一緒に昼食を食べた翌日。帰り道から少しだけ気まずさがある。グロリアはソムヌスから逃げるように作業に没頭していた。
グロリアが記憶消し屋として利用している側の外をほうきで掃除していると、人の気配がした。下を向いていたグロリアが顔を上げると、無表情の女性が立っていた。
「ここは記憶消し屋であってる?」
「……ええ」
今日、記憶消し屋に依頼のお願いはなかったはずだが。急なお客さんだろうか。
しかし、記憶を消しにきたようには見えない。彼女の表情を覆うのは、禍々しさすら感じさせる憎悪。
いや、表情で判断するのは良くないだろう。グロリアは笑みを浮かべた。
「ご依頼ですか?」
「ふふふ……。こんなところに依頼なんてすると思う?」
地を這うような低い声。グロリアの中で警鐘が鳴る。
「記憶消し屋のせいで。私の愛する人は、私のことを忘れたわ」
「どういうことでしょう」
目の前の女性が撒き散らす悪意に怯みながらもグロリアは返事をする。ソムヌスを呼んできた方がいいか迷うが、とりあえず話をきいてみることにしたグロリアは、彼女の話を促した。
「心当たりはないっていうの?」
「えっと……」
「私の恋人が、私のことを急に忘れたのよ! 理由を調査したら、ここで記憶を消したそうじゃない!」
外にも関わらず、女性は躊躇いなく怒鳴る。 その剣幕に、グロリアは一歩後ろに下がった。
この人の話は本当だろうか。しかし、ソムヌスは相手の話を聞き、判断しているようだ。しかし、それはあくまで一方の事情だろう。その「正しさ」は判断しているのか。グロリアの知るところではない。
一歩下がったことで、とん、と何かにあたった。はっとしてそちらを見る。
「……ソムヌスさん」
「俺が代わる」
「お願いします」
ソムヌスが来たことで、グロリアはそっと息を吐いた。思っていた以上に自分は緊張していたらしい。
ソムヌスはグロリアを隠すように前に立った。
「俺がここの店主だが、なんのようだ?」
「……っ。苦情を言いに来たのよ!」
ソムヌスに気圧されたように息を呑んだ女性であったが、すぐに先程から自分の主張していることを続ける。
「私の恋人は、ここで記憶を消したのよ! そのせいであの人は私を忘れて!」
グロリアからみえるのは、ソムヌスの背中と、その奥に少しだけみえる女性だ。ソムヌスがどんな顔をしているのかは分からない。
「お前はの恋人の名は?」
「ティグリスよ」
「……ああ。なるほどな」
少し黙ったソムヌスだったが、すぐに納得したような返事をする。ゆっくりと一歩、ソムヌスが女性の方へ足を踏み出した。怯む女性に、彼は口を開く。
「本当に心当たりがないのか?」
「何を言って……」
ソムヌスの表情はグロリアから見えない。しかし、その声には感情がこもっていなかった。
「お前の記憶は消していないはずなのに」
「……何を、言って」
女性の表情は蒼白だ。震えるその人から、ソムヌスは視線を外さない。
「恋人から金を騙し取り、さらにはそれを別の男へと貢いだ」
ソムヌスの口調は、責めるようなものではない。ただ、淡々と事実を口にしただけにみえる。その恋人への裏切りともいえる内容にグロリアは顔が引きつるのを感じた。
「それは本当に恋人だったと言えるのか?」
「それは……」
その女性は口ごもる。先程までの剣幕がどこかへいったようだ。
ふっとソムヌスが笑う。張り詰めていた空気が一気に緩む。女性が止めていた呼吸をする余裕ができたように、息を吐いた。
「俺にはそれが事実でも、事実でなくても構わない。大切なのは、記憶を消したいほどの思いを持っているかどうかだ。俺は正義の番人でも、秩序の守り人でもない。ただの記憶消し屋だ」
彼にとって、重要なのは真実ではなく、目の前に来た客なのだろう。正義や秩序はどうでもいい、とまでは言えないだろうが、あまり重要ではない。目の前のこの人は、傷ついた心を大事にしたいのだから。自分の力を本気で必要としてくれる人と丁寧に接したいのだろう。
「それでも……! 記憶を消すだなんて! 人間としてどうなの? あなたに人の心はないの? 倫理観も常識もないわけ!?」
ああ。グロリアは苦い気持ちが広がる。この人は、記憶を消したいと思ったことがない人間だ。記憶消し屋に文句を言いにきたのは、ただの八つ当たりだ。
恐らく自分がしでかしたことを、許してもらえなかった。さらにはその恋人は記憶を消したため、永遠に許されることはなくなった。だって、覚えていない人に許しを乞えるはずもない。
全てを壊した人間が別の人間のせいにするとは。それも、その人を救ったであろう人の。
「記憶を消すなんておかしい? 倫理に反する? 常識に反する?」
グロリアはソムヌスの後ろから、横に並んだ。この人は、傷つけられた側の気持ちを分からない。傷つけた側には、分からない。
「そんなこと、どうだっていいわ。記憶を消したい人間が求めるのはその後に立ち上がって生きる力なんだから」
ああ。これは。傷つけられた人のことを考えている発言ではない。自分の、話だ。八つ当たりをしているのは、自分も同じだ。思っていた以上に昨日のトニトルスの態度を引きずっているらしい。それに気がついても、口から流れ出る言葉が止まることはなかった。
「その恋人にとって、あなたの記憶は邪魔だったのよ。さっさと忘れて、前に進みたかったの」
「忘れて、前に? そんなこと、記憶を消さなくてもできるでしょう?」
グロリアは少し泣きそうになった。無理やり笑みを作る。
「……それができる人間は、ここには来ないのよ」
グロリアの言葉がぽとりと落ち、その場は静寂で包まれた。
女性が帰った後、グロリアはソムヌスに向き直る。彼の顔を見ないようにしながら、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「何に対しての謝罪だ?」
「勝手に、でしゃばって。それに、あれはただの八つ当たりでした」
「……君が何を言っても、俺に制限する権利はないよ」
そういうソムヌスの声が暗い。下げていた頭を上げたグロリアはソムヌスの顔を見る。想像以上に暗い表情をしている彼に息を呑んだ。思わず彼の名を呼んだ。
「ソムヌスさん?」
「……なんで」
「どうしました?」
「なんですぐに俺を呼ばなかった?」
ソムヌスに問われ、グロリアは瞬きをした。
「それは……」
なぜか。それは、ソムヌスが。優しい彼が傷つく可能性があるものから遠ざけたかった。これはグロリアの勝手な考えだ。
「……あなたに、傷ついてほしくなかったから」
グロリアの言葉に、ソムヌスは呆然としていた。不思議に思ったグロリアが、ソムヌスの方を見つめ続けていると、彼が苦しそうに顔を歪める。囁くように言った。
「……俺のために傷つこうとしないでくれ。俺は、それが耐えられない」
なんとなく、それは自分に向けられた言葉じゃないような気がした。ソムヌスは誰を見ているのだろう。彼の縋るような目は、グロリアのためのものではないようだ。
「ソムヌスさん」
彼の暗めの金の瞳がグロリアを見つめる。その深みのある色に意識をとられそうになりながらも、グロリアは口を開く。
「あなたが傷つくことを、悲しむ人もいます。だからどうか。全部自分で引き受けようとしないでください」
「……それは知っている。それでも俺は逃げたから。今できる場所で最善を尽くさないと……」
「ソムヌスさん?」
ソムヌスの表情が、先ほど以上に陰る。彼は何を思っているのだろう。
「グロリアさん」
「はい」
「心配してくれてありがとな」
グロリアは喉が詰まる感覚がした。ソムヌスはグロリアに感謝の言葉を口にした。それでも。彼はきっと、止めない。傷を引き受けるのを止めないのだろう。
それでも、一時的な従業員であるだけのグロリアには、それ以上口を出すことができない。苦い思いを抱えながら、グロリアは頷くことしかできなかった。




