エンディング
日向の匂いとよく干された羊毛布団の香りがした。
そして背中には、陽の当たる場所全面を占領するかの如く、ふさふさの金色の毛並みの猫が横たわっている。
どうやら自分はうつぶせの状態でベッドに眠らされているのだと、アンリは気付いた。
「ゾティ……、退いてもらいたいんだけど」
自分で思っていたより、すっかり擦れた声が出た。口の中がカラカラだ。だが、それを合図にしたかのように巨大猫は、アンリの背中から飛び退いた。
背骨がねじり曲がりそうなほど痛い──と思いながら、アンリが寝返りを打とうとしたら、
「まだダメよ。うつぶせになっていて」
そう強制するクリスティーネの声が聞こえてきた。そしてほとんど同時に麦藁のストローを突き立てたコップが差し出されてくる。
「蜂蜜入りの香草茶よ。冷えているから、この方が飲みやすいと思うのだけれど」
うなづく間ももらえず、口の中に麦藁の端を押し込まれる。
くやしいが、蜂蜜入りの冷香草茶は喉をじんわりとひやしてくれて、おいしかった。
「まだ仰向けになってはいけないわ。あなた、海に落ちた時、なにかで後頭部を強打して五針も縫ったんだから。傷口がふさがるまで五日間程度は、できるだけうつ伏せになっていて」
それでこの体勢になっていろということか──アンリは状況を納得した。そういえば頭を包帯らしい布でぐるぐる巻きにされている感じがする。
「はい、これ。あなたが水兵姿になってここを出てゆく時に、わたしに預けた懐中時計。ここのベッド脇の机に置いておきますからね」
「あ、ありがとう。預かっていてくれて……」
ふかふかの枕に顔を埋めながら、なんとかアンリは返事をかえした。
「ねぇ、クリスティーネ。王位戴冠式用玉座はどうなったの?」
「提督たちが地下水路から旧市街へ運び込んで、今はこの館の隠し部屋にあるわ。『五人の魔女』のおばあちゃんたちが張り切って、隠し部屋への通路を毎日変えているから、わたしも正確にはどこに置いてあるのかは知らないの」
「そう……」
それでもなんとかクリスティーネの手元に玉座が戻ったのだ。これは喜んでいいんだろうと、アンリはまた目を閉じる。
「傷が痛むの? 鎮痛剤ならあるわよ、魔女のおばあちゃんたちの特製のが」
「そうじゃなくて、なんだかすごく安心したから……。ゾティ抜きでもう一度寝たい気分なんだ」
そのリクエストに応え、クリスティーネが十キロ以上もの重さがある『聖クラースのお守り猫』を抱き上げる。
「それにしてもあなたが一角獣から与えられたライフル銃、すごいわね。ダマスカス鋼なんて、わたし、初めて見たわ」
顔面が枕に埋もれてこの姿勢では見えないが、一角獣の『青』からもらったライフル銃は、アンリのベッド脇に立てかけられているらしい。
「これ、海水に浸かったんでしょう? 手入れしなくていいの?」
「したいけど、動くなっていわれてちゃ、無理っ!」
もごもごと枕に埋まってアンリが抗議する。
「ならば。わたしが手入れしておいてあげるわ」
「そ、そんな……。お姫さまに銃なんか扱わせるわけにいかないだろうっ?」
「大丈夫よ。四週間のレジスタンスの実地訓練で、ライフル銃の分解掃除や手入れの仕方も習ったから」
得意げに言いながらクリスティーネが、アンリが寝ているベッドの横に部屋が汚れないよう布を広げる。しばらく金属の触れ合う音が続き──その間にどうしてだろう、アンリはまた眠りの谷底へ落ちて行ってしまう。
小一時間掛けて、アンリのライフル銃が手入れされ、組み立てなおされる。
そしてアンリの眼が閉じているのをよく確認すると、クリスティーネがダマスカス鋼の虹色に輝く銃身にくちづけした。
まるで昔のおとぎ話の騎士の剣に、姫君が祝福のまじないを与えるように──。
それがクリスティーネⅥ・マリエンヌ・ソフィア・ロザムンドが、アンリ・パルデューをおのれの騎士として認めた瞬間だった
エンディング
『拝啓 親愛なるお父さん、お母さん。それに、おばあちゃん。
僕がこのアウステンダムの街に来てから、早くも一か月になろうとしています
その間、一度も近況を報告する手紙を出せなくて、ごめんなさい。それというのもアウステンダムは、僕が想像していた以上にはるかに大きく立派な文化都市で、いろいろと新しい生活に途惑ってばかりだったからです。
新年度から弟子入りする予定になっているヘボン先生は、いま、年度替りの休暇のため長期旅行に出掛けておられます。僕への講義はまだ始まっていません。おかげで僕は毎日自転車で遠出して、この街を散策できるのですが。
下宿先の暮らしにも、ようやく慣れてきました。賄いのおばさんは優しい人だし、料理してくれるものはおいしいです。村に居た頃は、北部の都市はもう、戦争の影響で食料は配給制になっていて、三度の食事も満足に摂れないと聞かされていたけれど、そんなことはありせん。アウステンダムは活気にあふれている良い街です。
やはり僕は三年間、大学進学のためにこの街で学ぶことにしました。そのため、僕の市民登録をこちらに移したいので、急いで僕の出生証明書と住民台帳の写しを送ってください。よろしくお願いします。
また手紙を書きます。お兄ちゃんやお姉ちゃんたちにも、よろしくと伝えてください。
共和国革命暦三十年、花月・フロレリアルの八日、アウステンダムにて。
あなたの息子、アンリ・パルデューより。
追伸 きれいな花が咲く、秋咲きのコスモスの種を同封します。どうか、おじいちゃんのお墓の周りに蒔いてください』
二日がかりで書いた家族への手紙を、いま一度読み返しながら、アンリはこの便箋の上に書き連ねられなかった想いを、奥歯の辺りで噛み潰した。
本当にいろいろあったのだ──故郷を旅立ってからの一ヶ月間には。アンリ・パルデューが、自分の身の上に降りかかった災難と冒険とを紙の上に記そうと思えば、一年分の日記帳がびっしりと文字で埋まってしまうだろう。
(ごめんなさい、お母さん……)
この手紙を読んだら母は、十五歳になったばかりの意気地なしな末っ子が、ひとことも弱音を吐いていない文面を不審に思うかもしれない。
(ここに連ねた言葉のすべてが嘘だと見抜かれてしまったら、どうしよう……)
何度もなんども、内容すべてを暗記してしまうほどに読み返した便箋を、アンリは二つ折りにして封筒に詰め込む。
「重さ三十グラムまでの封書で、普通郵便が六十サンチーム。それに速達料金が掛かるから……」
料金表を確認するふりをして、小さな雑貨店を兼ねた簡易郵便局内に、アンリは不審な者がいないかとすばやく目配せした。
薄汚れた漆喰の壁に、乱雑に日用雑貨が積まれた棚──天井の梁が歪むほどに年代物な雑貨屋は、三百五十年前からこの場所に建っているという。その店内に居るのはアンリと、郵便局長も兼ねる老店主とその飼い猫──「聖クラースのおまもり猫」だけだ。
ここは秘密警察の監視の目が届きにくい旧市街地の城壁内。しかも「聖クラースのおまもり猫」に守護された店だが、用心するに越したことはない。密告屋はどこで目を光らせているか分からないから。
それに、たとえこの場で無事に手紙を投函できても、三十年前の流血革命以後、ルブランス共和国では、郵便物の検閲は日常茶飯事なのである。特に、長距離の速達郵便での検閲は厳しいと、アンリは仲間たちから聞かされた。
だから、本当に伝えたい事はなにひとつ書けなかった。
(だいたい、真実を書いたら家族みんなが卒倒するに違いないよ。勉強以外はなにをやらせてもダメな末っ子が、いきなり反体制側の人間になって、レジスタンス活動に身を投じているなんて……!)
実際、地元の愛国少年団の中では、アンリは「発育不良」の「眼鏡」で「弱虫」だからと、落ちこぼれの烙印を押されていたくらいだ。
(なのに、僕はいま戦場に居るんだよ)
店内には、百年分くらいの塵は楽に積もっているのだろう。埃っぽい空気が気になって、眼鏡を外すと、アンリはその汚れをハンカチーフで拭う。
牛乳瓶の底のような分厚いレンズ──男子は十八歳になると兵役義務を負う、革命政府支配下のルブランス共和国では、この眼鏡は、アンリにとっていつも劣等感として纏わり着いていた。こんな弱視では兵役検査に合格すらできないと……。
だというのに自分は今、祖国ルブランスの軍事政権と敵対する、レジスタンス組織の一員に名を連ねている。
(その上、ロザムンド亡命王家の守護精霊の一頭、青の一角獣を背負う見習い騎士になってしまったなんて、信じてもらえるわけがない……!)
本当のところアンリ自身、受け止めなければならない運命の波があまりにも大きすぎる。弱音を聞いてくれる家族が近くにいたなら、夏の終わり頃の、まだ緑色が残ったままのはしばみの実そっくりな瞳から流す涙の池で、溺れ死にしてしまいそうな状態なのだけれど。
(でも、同じ王家の一角獣を背負う二人の先輩方が言うには、『この運命に魅入られた者は、そう簡単にくたばらせてもらえない』んだってさ……)
つい漏れたため息で、手にしていた眼鏡がまた曇る。慌ててもう一度、ハンカチーフでレンズを磨いていると、郵便物を扱う窓口から顔を出した店主が言った。
「すまんがね、郵便の受付業務は十五時で締め切りなんだ。手紙を出すなら、急いでおくれ」
気がつけば、店の柱時計の長針はもう数分で午後三時を指すところだ。
「すみません。これ、速達でお願いしたいんですけれど」
変声期はとっくに来たはずなのに、まだアルトの音域にしか下がっていない女の子のような声で、老店主を振り向かせる。アンリは、ひとつだけしかない窓口に封筒と、百サンチーム紙幣を二枚、差し出しながら尋ねた。
「どのくらいで届きますか?」
「うーん……。ルブランス本国のカルティーヌ県ソレイアード村、ね。速達でも、たぶん一週間は掛かると思うよ」
老店主が、封筒に日付スタンプを押すのを確認して、アンリは簡易郵便局を出た。カランコロンと間延びした音で鳴るドアベルを背中で聞きながら、石畳の上に靴底を打ち付ける。
昔は「聖クラースの丘」と呼ばれていたアウステンダム旧市街の路地に、風は西から吹いている。石炭の煤煙と鉄の臭いがする風だ。
坂を下れば地獄門へ、登れば聖クラース教会へと続く道の途中で、アンリは立ち止まり、眼下に広がるアウステンダムの街を眺め渡した。
四年前に亡くなった祖父が、病床で「世界で一番美しい」と懐かしんでいた新市街──幾何学的模様を描く何本もの運河と、新緑の街路樹が彩りを添える放射状道路の網目が作り出す街並みが見える。
同じ大きさの狭い間口の家々が、マッチ箱を並べたように規則正しく並んでいる新市街と、中世の古い城壁に取り囲まれた、漆喰壁の古い家屋がひしめき合うこの旧市街の姿は、あまりにも対照的だ。
ほんの四年前まで、世界中でもっとも裕福な自由都市と称えられた港街であり、そして今は、ルブランス共和国の属領として占領軍支配下にある、アウステンダム。
西の港の、軍需工場と造船所が建ち並ぶ方角から吹いてくる風が、アンリの、麦藁色の髪をなぶる。
(ここが、この街が僕の戦場だ──)




