位高き者、務め多し
『思い起こすのは、
あの日に帰れるだろうかとの望み。
あまりに儚いけれど、
今、なにもかも無くした私の魂は、
降り止まぬ雨に凍えているよ──』
下の隠し部屋からだろうか……。かすかに漏れ聞こえてくる歌声が、アンリの浅い眠りを妨げた。
寝ぼけ眼で見上げた天窓から差し込む光が、随分と明るい。慌てて眼鏡を掛け、サイドテーブルに置いておいた懐中時計で時刻を確かめると、針はもう、いつもの起床時間をとうに過ぎた午前九時半あたりを指している。
きっと昨夜の騒ぎで疲労困憊したアンリを起こすのを、日曜日ということもあって、ガルド・ルルゥがためらったのだろう。実際、まだ泥のような疲労感が、アンリの身体の中には重く沈殿している。
だがしかし、日当たりのよい南側の窓際で、四肢を折りくつろぐように陽の光りを浴びている青毛の一角獣の、きらきらしい姿を目にしてしまうと、再びベッドへと潜り込むような真似はできなかった。
しかも、わざとその存在を無視し、朝の挨拶をしないままアンリが着替えはじめたら、『どうやら我が相方殿は、ご主君より朝が遅いとみえる』とまで、皮肉を言われる始末だ。
腹立たしかったが、背後の一角獣のことはとにかく無視を決め込み、取り出した携帯用の陽光灯を片手に握る。まだ朝の洗顔もしていないが、例の隠し階段へと続く、本棚の引き戸に手を掛けた。
やはり歌声は階段の下、隠し部屋から響いてきている。
(それだけじゃないな……)
誰か、声を押し殺して泣いている──通常、人間には聞こえない犬笛の音まで聞こえてしまうほど感度の良いアンリの耳には、女の子がすすり泣く声が聴こえていた。
(……まさか、クリスティーネが?)
陽光灯で足元を照らし慎重に階段を下ってゆく途中、そんな考えが浮かぶ。今度は足を滑らすことなく無事到着した隠し部屋の扉を少しずつ開きながら、中の様子をうかがう。
弱々しい天井の灯りが、隠し部屋の内部を照らしている。
とすれば、やはり誰か居るに違いない。だが、背の高い本棚が迷路の壁のように部屋を仕切っているので、扉から見える範囲内に人影はない。アンリの目の前には、部屋の向かい側の壁に飾られた、アジール・ダブリエの肖像画が見えるばかりだ。
『今夜はどうやって、
眠ればいいのかな、
話しを聞いてくれる人が欲しい。
この胸の傷はふさがるのだろうか
誰かに答えを教えて欲しい──』
初めて聞く曲なのに、とても親しみを感じる俗謡──あいにくと「歌謡曲」という洒落た流行語をアンリは知らなかった。歌詞はとても哀切に満ちたものだが、メロディは、悲しみに傷ついた者たちの心を癒すがごとく、甘くやさしく、魂を包み込んでくれるふうにゆったりと流れている。
(これまで聞いたことのある唄い方とは随分違うけど、これ『歌姫ルシア』の声だ……)
昨日まで、この部屋に隠遁していたライヒャルトの定位置、安楽椅子の背後にまで来た時だった。
「──だ、誰っ?」
ガタリと音を立て、椅子かなにかが動いたのと同時に、誰何する声か響く。
「あ、あの……。ごめんね、驚かす気はなかったんだけど……」
歌声が聞こえたから、誰か居るのかと思って降りてきた──と、アンリは、姿を見せようとしないクリスティーネに告げる。
「嫌だわ、有声機の再生音が大きすぎたのね」
声を頼りに相手の居所を捜してみると、まるで隠れんぼの鬼役の目を避けるように、クリスティーネは、テーブルの下に身を縮ませ、隠れていた。曲を聞きつけてここまで来たのかと問いに対し、アンリは安楽椅子の横に立って答える。
「それもあったけれど。泣いているの、聞こえたから……」
「まさか。あの屋根裏部屋から聞こえるわけ、ないでしょう?」
そんな大声を上げてなんかいないと、テーブルの下で膝を抱えてうずくまる少女が反論する。
「あ、あのね。僕の耳って、少し特殊らしいんだ。犬笛の音が聞き取れるくらいだから」
そう、アンリは自己申告した。
「昔、おじいちゃんに聞いた説明だと、どうも生まれつき眼が悪い分、その不利を補おうとして、普通の人では聞こえない音量や音域まで聞こえるよう発達しているらしいんだって」
ちょうどその時、楽曲結晶の再生が終わった。弱々しい灯りが点る部屋に、居心地の悪い沈黙が訪れる。
「悪いけれど、こちらを見ないで。今、他人に見せられるような顔じゃないから」
「うん、僕もまだ顔も洗っていないし、寝癖頭に櫛も入れてないから……」
お互い様だね──と言ったアンリの視線が一瞬かすめたクリスティーネの眼は赤く、頬には幾筋もの涙の後があった。
多分それが、次期国王継承権第一位という鎧を脱いだクリスティーネの素顔なのだと、アンリは思う。
安楽椅子を間にして、互いに背中を向けたまま、顔の見えない会話ははじまった。
「今の歌って、『歌姫ルシア』が唄っているんでしょう? 確か、『歌姫ルシア』は好きじゃないって、この前言ってなかった?」
「『歌姫ルシア』の歌唱力の巧みなことは、悔しいけど、わたしも認めるわよ」
やはり嫉妬の片鱗は隠さず、クリスティーネが尖った物言いで応じる。
「私が好きになれないのは、あまりにも出来すぎた、あの女の出世物語の方よ。まるで御伽噺の中の女主人公みたいで、いけすかない」
いや、たぶんその出世物語の影には、下積み時代の血を吐くような厳しい練習があったはずだと、アンリは常識的に考えるが。
それでも、確かに『歌姫ルシア』が美しく微笑している公演用ポスターを目にすると、その並外れた美貌のためか、あの女性は努力とは限りなく無縁の世界の住人に見えてしまう。
「それに、歌が巧すぎるのも嫌い。この歌を聴いていると、自然と涙がこぼれてくるの。只のひとりの女の子なんだから、泣いてもいいんだと──そう、語りかけられているような気がして……」
逆に言えば、それだけ普段のクリスティーネは、強気な面だけを他人に見せ、気丈に振舞っているのだ。それが自分の義務だとでも思い込んでいるかのごとく。
「助けたかったのよ、ライヒャルト先生を。途中まで道案内してくれた、あのスミット夫妻も。みんな、みんな助けたかった……」
それは自分も同じだと言いかけたのを、途中でアンリは口篭る。今は何を言っても、おのれの無力さを味合わされるだけだ。
昨日までこの部屋の安楽椅子に座っていた人が、今日からはもういない。人ひとり居なくなったその喪失感の大きさに、十五歳の少女は打ちのめされている。
それでも、ライヒャルトがこの世を去ったとしても、自分たちはまだ生きている者としての都合で動かなくてはならないのだ。
うつむいたアンリの脳裏に、別れの間際のライヒャルトの、にまりと笑った不敵な顔が浮かんでくる。けれど、悲しい思い出だけに浸ったまま、再び部屋が沈黙に覆われてしまうのが怖くて、アンリは無理やり口を開いた。
「でも、どうしてクリスティーネはこの街に居るの? 僕がルブランス本国で聞いた限り、ローランドの王侯貴族や政府の高官は、ハドニア連合王国に亡命したっていってたけれど」
夕べ、クリスティーネの素性を知ってからずっと不思議に思っていた疑問を、アンリは思い切ってぶつけてみる。
「ええ、確かに三年前、わたしも一度はハドニアに渡ったわ。でも去年、四週間のレジスタンス活動の基礎訓練を受けて、アウステンダムに来たの」
「どうして、そんな危険な真似を……」
その問いになにごとか考えていたのか、数拍の間を置いて、厳かにクリスティーネは言った。
「アンリ。あなた、『ノブレス・オブリージュ』という言葉を、知っている?」
「ええと、『位高き者、務め多し』って意味だよね」
そう答えると、普段のクリスティーネの声とは一オクターブ低い、重苦しい響きを伴って、返事がかえってくる。
「そう、わたしはその『務め』を果たしに来たの──いつの日か王位に着く者として、ルブランス軍に踏みにじられたこの国の現状を、直接その眼で見て、知るために。そして、そのすべてを魂に刻みつけておくために」




