密出国計画
「はいはいはい、食事の支度ができたわよ。子供はおとなしく下の食堂へ降りてもらえるとありがたいんだけれど」
ガルド・ルルゥが、この部屋に隠れ住む友人のための食事を、トレーに乗せて入ってきた。そういえば、時刻はすでに夕方というよりも夜半である。
「あたしはラーイの食事に付き合うから、悪いけれど、先に二人で食べていて。もうすぐマクシィも帰ってくるだろうし」
そう言いながら、部屋から子供たちを追い出して、ライヒャルトと二人きりになった途端、春の日差しをあびた淡雪のように、ガルド・ルルゥの顔からやさしげな微笑みが消えうせた。
「風車小屋から、旅券が届いたわ。次の週末、決行ですって」
「というと、今度の土曜日か……」
占領軍政府が、国外への逃亡者を監視する目は厳しくなる一方である。中立国を経由する方法を利用しても、ライヒャルトのような指名手配者が、秘密裏に国境を越えるのはしごく困難になっていた。
今度の貨客船での渡航計画は、もしかしたら最後の亡命機会になるかもしれない。だというのにライヒャルトは、その眼にためらいの念を色濃く浮かべ、深くため息をついた。
「ルルゥ……。私は今ほど、天の采配というのを恨むことはないよ。どうして神様はもっと早く、アンリをここへ寄越してくれなかったんだろう」
せめて、あの子が来るのが一年早ければ──と、白髪の隠者は頭を抱え込み、大きくうなだれる。そして悲痛な叫びを吐いた。
「アンリは、いい子だ。性格は素直だし、学ぼうという意欲がある。それになにより、とても純粋な魂の持ち主だ。一年間の猶予があれば、あの子にどれだけ多くの知識を与えることができたか!」
「そうかしら……。純粋な魂は、どんな色にも染まりやすいから、時として厄介なものよ。戦場で銃を構える少年兵や、自爆テロルを起こしたレジスタンスの子供たちだって、純粋だからこそ、おのれの役割を疑うことなく死んでいったのよ」
ガルド・ルルゥは、悲嘆にれる親友の背をさすりながら、慰めにしては少々厳しい言葉を掛ける。
「相変わらず君は、子供たちが居なくなると人が変わるね」
「違うわ、化けの皮が剥がれて本性が表れるだけよ。かつて六十年もの独立戦争を戦い抜いた祖先たちから引き継いだ、この国の女の猛々しい本性がね」
言いながらガルド・ルルゥは、夕食をサイドテーブルの上に用意する。その憂いに満ちた横顔を眺めながら、おのれの定位置である肘掛け椅子に戻った男はつぶやいた。
「ねぇ、ルルゥ。私はこれまでもずっと思っていたんだ、ハドニアへ亡命しなければならないのは、私ではなく、君の方だと」
「そんなことはないわ、ラーイ。陛下の侍医団は、あなたの到着をどれだけ待ち望んでいるか。病魔に冒された陛下を、あなたの歌声が救ってくれると皆が信じているのよ」
ガルド・ルルゥの返答を聞いて、ライヒャルトが大袈裟なため息を漏らす。
「癒しの歌声か……。この隠し部屋に一年半も閉じ込められ、ろくに発声練習もできなかった老いぼれが、いまさらどれだけ唄えるものか。それこそルルゥ、君が──」
「それはできない相談よ、ライヒャルト」
いつものように親しみを込めた愛称ではなく、直に名前を呼ぶと、ガルド・ルルゥは眼差しを伏せる。
「だって、あたしは罪人ですもの。あの方のお傍で歌を唄う資格なんかないわ」
自分が背負う十字架の重さを認めた上で、そう、寂しそうな微笑を親友に向けた。




