隠し部屋での会話
隠し部屋への階段を上る、アンリの足取りは軽やかだった。
検問所前で、あれほど心を悩ませていたのが嘘のようだ。無事にこの「五人の魔女の館」へ帰ってくるなり、アンリはすぐさま秘密の書庫へと向かった。
「ただいま戻りました」
窓のない書庫を、橙色のおぼろな光を放つ陽光灯を頼りに、アンリは、隠者の潜む暖炉前まで進む。いつもの肘掛け椅子の中に身を埋めるようにして、痩せた、白髪の男は腰掛けている。
「ライヒャルトさん?」
返事がなかったのは、ライヒャルトがサイドテーブルの上に有声機を置き、楽曲結晶に刻まれた音楽を再生していたためである。不遇をかこつ音楽家は、小さな響きに全神経を集中させるため目を閉じていた。
「あれっ?」
なにしろ隠し部屋だから、外へは漏れないようひどく弱々しい音量の上、装置の出力も低いので肉声とは程遠い雑音混じりの再生音だったが。飛行船の墜落現場で聴いたあの声に、とてもよく似ている気がする。
「これって、もしかして歌姫ルシアの……?」
アンリの問いに、深い憂いを眼の底にたたえたライヒャルトは「うん」とうなずき、キリキリと歯車が回転する有声機を凝視した。
「ノースデン諸島に伝わる古い民謡だよ。彼女はね、私が直接指導した中でもっとも優秀な生徒だった。そして今では、大切な親友でもある」
唄われているのは、遠く離れて暮らす友人への想いを綴った、素朴な詩だった。グランド・オペラのような重厚な伴奏を伴ったものではなく、ヴァイオリンやピアノの音も一応入っているが、飾り立てたところのない独唱だ。
だからこそ、声そのものの美しさが際立っていた。
美声──そんな、ありきたりの感想だけで片付けてしまうことのできない歌声である。
アンリはふと、「霊声・ミリザム」という魔法用語を思い出す。
「霊声」とは、亡き祖父が話してくれた昔語りの中に出てきた言葉だ。
その「霊声」で歌う者は四大元素、火・水・風・土を自在に操るという「正真正銘の魔法使い」の血を引く者なのだとも聞いた。
祖父のそんな昔話しを信じてしまったくらい、それほどに楽曲結晶に録音されていた声は、シンプルだが力強い。それでいて、聴くものを包み込んでくれるようなふくよかさを感じる。
これほど雑音交じりの再生状態なのに、これほど弱い音量なのに。
楽曲結晶の中に「声」が単純な音波振動として刻まれ、押し込まれても、歌に託された想いは決して弱まらず、消えていない。
「……いい歌、ですね」
気の利いた褒め言葉を咄嗟には思いつかず、アンリはやっとそれだけを口にした。
「僕には信じられないな。こんないい歌を唄う人が、危険思想の持ち主だとレッテルを貼られて、秘密警察に追われてるなんて」
「そうかな……。太古、音楽や詩の才能を持つ者はなぜかしら疎まれた。それこそ、『神』にすらもね」
と、肘掛け椅子の上で足を組み、ライヒャルトは音楽学校の講師だった頃の顔になった。
「一番最初に賛美歌を唄った、光の名を持つ天使しかり。詩の蜜酒を醸した黒小人の兄弟しかり──。それを演奏するならば、水や炎まで踊りだすとの伝説を持つ、悪魔の楽器の伝説もよく耳にする。
いや、そもそも悪魔自身がヴァイオリン弾きだという伝説も多くある。音楽とは聖なるものではなく、元々は邪悪な技術だったのかもしれない」
今日の講義はいつもと違う──そんな印象をアンリは持った。いつになく、ライヒャルトの表情が深刻すぎるのだ。
「なにしろ『まじない』という言葉の語源も、『歌う』というラテン古語から派生したものだ。『歌』には人間の喜怒哀楽の感情を支配してしまう力があるから」
「支配、ですか?」
言いながらアンリは、自分の祖父の葬式を思い出す。田舎楽師が奏でたのは、素朴だが哀切な葬送の曲であったから、列席した者は皆、涙で頬を濡らしたことを。
「それほどまでに音楽には呪力がある。歌うたいの私が言うのだから、間違いない」
無意識のうちに、ライヒャルトの指がピアノの鍵盤を叩く仕種をする。隠し部屋の隠者は「音楽をする哲学者」の顔になっていた。
「歌の美しさとは、言葉に潜む真実をあらわにし、大きなうねりと揺らぎの『言霊』として余韻を味わいつづけることにほかならない」
眼には見えない、そこには無い楽器の鍵盤に指を置き、「詩」に寄り添う「音」を探りながら、ライヒャルトの言葉は進む。
「それはすべて人間の魂に、直接、音楽こそが訴えかけるもの。歌は、そのメロディーによって『揺らぎ』を、リズムによって『波動』を、ハーモニーによって『肉体の拘束からの開放』を実現する」
あまりに熱心なライヒャルトの言葉に、アンリは息を呑み込んだ。
「いいかい、アンリ。神の作りたもうた世界の調和を知るための手掛かりとなる学問が、天文学、幾何学、数論、そして音楽なんだ」
神が創造したこの世界は素晴らしい調和によって成り立っている。その調和の原理は数の関係によって成り立つ──と、ライヒャルトは続けた。
それを探求することで、「調和」の謎が解明でき、神の世界をより詳しく知る手掛かりを得られると……。
「そう。音楽の神髄はハーモニー、ようするに『調和』だ。本来、音楽──ムジカとは調和の根本的原理そのものを指していて、理論的に調和の真理を研究することが『音楽』だった」
それはもう、高度に昇華された魔法音楽を操る者にしか展開できない理論である。アンリは、ライヒャルトの熱を帯びる一方の弁舌にたじろいだ。
「ごめんなさい、ライヒャルトさん。今日のお話しはちょっと難しすぎて、僕にはよく分かりません」
「……そうだね。基礎的な音楽理論すら学んでいない君に理解しろと言っても、これはちょっと無理だったね」
ライヒャルトは大きく落胆し、ほろ苦い微笑を目尻の皺に刻む。アンリにはその姿が、いつもの彼とは違い、とても追い詰められているように見えた。
気まずい沈黙が二人の間に横たわる。それをタイミング良く打ち消してくれるようなノック音が響いて、隠し部屋の扉が開く。
「お花を生けてきたけれど、この部屋に飾ってもいいかしら?」
「ああ、それはうれしいね」
春の女神を思わせる可憐な少女の訪問に、ライヒャルトが顔をほころばせる。と、サイドテーブルに花瓶を置こうとしたクリスティーネが、その台上にある有声機や楽曲結晶に気がついた。
「今ね、ライヒャルトさんに歌姫ルシアの歌を再生してもらっていたんだ。よかったら、クリスティーネも一緒に聞いていかない?」
「いえ、わたしは結構。遠慮しておくわ」
アンリの申し出に、意外なほどクリスティーネの表情が硬く尖る。
「どうして? すごくいい歌だよ?」
「個人的に、『歌姫ルシア』をあまり好きになれないの」
サイドテーブルの上へ、レース編みの花瓶敷きを引きながら少女は答えた。
「確かに、素晴らしい才能を持っている人だとは思うけれど。でも、なんだかこう……。わたしの目から見ていると、うまく作られた出世物語のヒロイン役を割り振られて、それを演じているような感じがいなめないの」
感情を押し殺した仮面のような、冷たい表情の少女が発する微妙なニュアンスが、クリスティーネが「歌姫ルシア」に対して抱いている、鬱屈した感情を表している。
なぜだろうか、それは「嫉妬」に近いものであるような気が、アンリにはする。
(……もしかして、歌姫ルシアの音楽の才能に妬いていているのかな?)
いや、意外や意外、あの「雪原に咲く青い薔薇」と称えられる美貌をねたんでいるのかも──などと、アンリは自分にはうかがい知ることのできない、女心の領域までに考えを巡らせる。
(どこぞかの昔話のお妃様みたいに、クリスティーネが、魔法の鏡に向かって『世界で一番美しいのは誰?』って尋ねていたら、怖いな……)
少なくとも、真夜中にその現場に出くわしたくはない──そう、つい想像をたくましくしてしまう。




