第三章 隠し部屋の住人 その前に血まみれの魔獣使い
3 隠し部屋の住人
真夜中を告げる霧笛が、どこか物悲しく港に響き渡る。
「霧が出なくて助かった。逃亡者にとって、真夜中の霧ほど、隠れ蓑にあつらえるに相応しい天候はないからな」
ディディエは、今宵組まねばならなくなったパートナーの、人形師が造り上げたような美貌を横目で眺めながら、独り言にしてはやけにはっきりとした口調でつぶやいた。
ディディエ・ブルトゥイユは、ルブランス共和国に属する支配下民を監視する、保安部の一員である。それも革命政府に抵抗する反乱分子を、令状無しで拘束し逮捕できる、特別機動班の班長だ。
一方の長い銀髪を夜風になびかせる美貌の男は、軍司令部直属の特務機関に所属する「正真正銘の魔法使い」だ。今回は命令で、否応が無しにディディエのパートナーとしてあてがわれた。
フェルディナンド・ハーフナーと名乗った魔獣の育成と調教を得意とする魔法使いは、同じ男でありながら、みとれるほどの美形だった。なのだが、拷問にも暗殺にも、人を闇から闇へと葬り去る行為に幾度となく手を染めてきたおのれが、心底恐ろしいと感じる気配を持つ相手でもあった。
この男の周りにはそういう血生臭い風が吹いている。
アウステンダムの東港──堅牢な赤レンガ造りの倉庫が建ち並ぶ一角は、今夜、秘密警察と軍部の特務機関の者たちが、幾重にも監視の網を張り巡らせていた。
「先週、旅券偽造の罪で捕らえた印刷業者が、大規模な密航計画を自白した。反政府主義者どもが、身分証明書や出国許可書の偽造を大量に依頼していたそうだ」
アウステンダム東港は、万国の商船に対し開かれた国際貿易港である。そして、ルブランス軍によって占領されたローランドから亡命を図ろうとする者にとっては、新天地への扉ともなる港でもあった。
「押収した中に、以前、王立歌劇団に所属していた歌い手や演奏家どもの偽造旅券が、五十冊もあった。今夜その連中が、この区画で偽造旅券を受け取る手はずになっているらしい」
「王立歌劇団のメンバーは、全員、筋金入りの親国王派ばかりだというからな」
小さくうなずきながら黒衣の魔法使いが応じて、ディディエの独り言が、ようやく会話として成立した。
「その中に、『性別・女性。年齢・二十三歳。髪の色・白銀、瞳の色・氷青色』と書かれた出国許可証はあったのか?」
今度は逆に、フェルディナンドのほうから問いかけてくる。
銀色の髪に、氷青色の瞳──いったいどういう謎掛けなのだろうか。その身体的特徴は、奇しくもこの魔法使いのそれと同じ組み合わせである。
フェルディナンドは、昔話に出てくる魔法使いと比べると、格段に現代的な感性の持ち主のようだ。全身黒尽くめではあるが、つば広の帽子や裾の長い東洋風の外套など、上流階級の若者に流行中の服装で身を固め、占領軍司令部が発した「異装禁止令」に抵触する長髪を、優雅に夜風になぶらせている。
もっともこの男の場合、禁止令に関しては特例扱いになるはずだ。それほどルブランス軍の内部では、「正真正銘の魔法使い(マグス・ジェニュイン)」の地位は高い。機械仕掛けの理学魔法全盛のこの時代──いまや、おのれの血統と才能だけで古の魔法を操れる者は数少なく、貴重な人材として重用されている。
いや、それだけではなく。この銀髪の青年は、終身総統ゴドフロアが三十年間寵愛している魔女の、直接の弟子に当たるのだ。
「……いや、押収された中にはそういった記載のものはなかったが」
「それは残念」
と、黒衣の魔法使いは器用に肩をすくませる。
「どうしてそんな事を尋ねる?」
「そう書かれていたら、それは『歌姫ルシア』のための偽造書類に間違いないだろうからさ」
途端に、ディディエの脳裏に一度は捕らえた美女の姿が浮かんだ。
護送途中に、国王派レジスタンスの強襲により歌姫ルシアが奪還された事件は、秘密警察にとって最大の汚点であり、屈辱であった。
この三年間、歌姫ルシアに関しては特別班が結成され、血眼になってその行方を捜索しているのだが、相手は地に潜ったか空を飛んでいるのか、ようとして消息が知れない。
「あの女が出てくるなら、今回の仕事は、少し遣り方を変更せねばならなかったのだが……。ぜひとも生かしたまま、捕らえたい相手でね」
低くつぶやいたフェルディナンドの唇が、横たわった三日月の形を作る。
あまりに凄みのある笑顔に、この男の正体は、実は魔法仕掛けの機械人形ではないかとの疑いをディディエは抱いてしまう。その外套で隠した胴体に、ねじ巻きやゼンマイが仕込まれているのではなかろうか、との。
「今夜の仕事は、どうせ調教途中の獣どもの実地訓練だ。せいぜい、楽しませてもらうさ」
フェルディナンドは言うと、外套の裾をはためかせ、左手を、小鳥でも招くかのごとく中空に留まらせた。その指先に、赤黒まだら模様の大きな蜘蛛がとまっている。
「さぁ、獲物をからめとれ」
子供の手のひらほどもある蜘蛛が尻を持ち上げ、糸を吐き出す。真夏の太陽の下でも、ようやっと人の目に見えるかどうかの極細の糸は、するすると夜風に乗って、赤レンガ造りの倉庫街を漂いだした。
この魔法使いは、おのれの工房で生み出した魔獣に、精緻な「狩り」の訓練を施してから、発注元へ引き渡すので有名だ。それゆえフェルディナンドは、秘密警察や特務機関に所属する者の間では、「魔獣使い」として知る人ぞ知る存在なのである。
(しかし、なにも今夜『実地訓練』を行わなくても……)
おのれが担当する事件に、上層部が口を挟んできた巡り合わせの悪さに、ディディエは不安を隠せなかった。なにしろ、この男が育てる魔獣が狩る獲物は、人間なのだから……。
脇に止められた貨車からは、野獣独特の強烈な糞尿の臭気が漂ってくる。柵の上げられたくぐり戸の向こう側では、闇に潜んでいるモノの眼が金色に輝く。
(万が一、部下たちが手違いで喰い殺されるような事態になった場合、上司にどう弁解、釈明するべきか……)
中間管理職としての苦悩が、ディディエの顔を歪ませる。実際、以前実地訓練に付き合わされた対レジスタンス要員が、調教中の魔獣に襲われ死亡したことがあると、ディディエの耳には届いている。
「──掛かった」
静かに、魔法使いがつぶやいた。
獲物が釣れたのは釣り糸ではなく、蜘蛛の糸だが。指先に這わせた蜘蛛の吐く糸には、逃げ惑う獲物の息遣いが伝えられてくるのだと、フェルディナンドは言う。
「どうせ逃げられはしないのに……」
相手は、使い魔の蜘蛛に糸を付けられたことにすら気がついていないだろう。フェルディナンドの双眸に、残酷な笑みが薄く浮かぶ。
「出て来い、猟犬!」
号令とともに、貨車の中から飛び出して来たのは、魔法使いの工房で生み出された異形の獣だった。
「な、なんだ、これは……!」
初めてフェルディナンドの魔獣を目の当たりしたディディエは、その異様な姿に思わず後ずさった。
猟犬と呼ばれてはいるが、野生のオオカミを三頭まとめたくらいの巨大な体躯である。体型はイノシシに似ているものの、口元は肉食獣の鋭い牙の生えたそれだ。しかも全身を覆う鎧を着せられ、背中に仕込まれた鋼鉄製の針をヤマアラシのごとく逆立てている。
それは「合成獣キメラ」」に鋼鉄の鎧を着せた、異形のケモノだった。
フェルディナンドは、指先に這わせていた蜘蛛を、無造作に猟犬の口の中に放り込んだ。
「獲物の居場所は蜘蛛に聞け。さぁ行け、仕留めてこい!」
逃亡者との間に糸を紡ぐ蜘蛛から情報を得ると、まがまがしい獣は、大型犬ともネコ科の野獣ともつかぬ歩調で、コンクリートで固められた埠頭の冷たい地面を蹴った。
やがて──、一区画向こうから悲鳴が上がる。
駆けつけたそこは一面、血の海だった。銅貨を噛んだ時のものに似た、あの嫌な臭気が鼻につく。
逃亡者と思われる小柄な人物と、囮役として配置した偽造団の下っ端が、仰向けに倒れていた。
が、亡骸はすでに原型を留めていなかった。魔法使いの放った獣は、背中に埋め込まれた無数の針を逆立てながら、「獲物」のはらわたを引きずり出している。
その口元から肉を咀嚼する音が響く。
「なんだ、またあっさりとカタがついたな。これでは実地訓練の意味がないじゃないか。せめて発砲なりとも抵抗してくれれば、こやつも幾分か経験値が積めただろうに」
フェルディナンドの氷青色の瞳は、血溜りの中に転がっていた拳銃に向けられている。拳銃とはいっても、それは、ポケットの中や帽子の裏に隠しておけるほどに小さな、女子供が護身用によく使う種類のものだった。
改めて、ディディエが逃亡者の惨殺死体を確認してみれば。髪を短く切り、男物の服をまとってはいるが、まだ未成年ではないかと思われる若い娘だ。
おそらくこの少女は単なる連絡役だと、秘密警察官としての勘が訴える。
(いや、それよりこの、骨を齧り血を啜る獣を、なぜにすぐ魔法使いは止めようとしないのだ?)
自分自身も幾度となく人を殺めてきたが、それは国家のため良かれと思いやってきたことだ。操る獣に人間を喰い殺させておいて、平然としているこの男の態度が許せない。ディディエの内側から激情がほとばしる。
「殺害許可は下りていないぞ! 今回は、逃亡者組織の全容を解明するため、身柄を確保しろとの命令だったのを、忘れたのか!」
こんなに声を荒げる必要はないと分かっているのに、食って掛かってしまう。怒らなければ、自分の正気が保てないような気がディディエにはした。
「なにぶん、調教途中の獣なものでね。いまいち、力の加減というものが分かっていない。まぁ、よくある過ちだ。こやつも、もう少し大人になれば獲物を殺さずに捕らえることを覚えるだろう」
黒衣の魔法使いは、血の臭いが濃く漂う夜気の中、しらじらしく言い切った。
上層部からの命令には逆らえない。おのれはそういう組織に属しているのだと分かりきってはいるが。
できればこの男とは二度と組みたくない。敵であろうが味方であろうが、人間を人間として見ていないその底知れぬ冷酷非情さに、ディディエは怖気をおぼえた。




