「歌姫ルシア」もしくは銀翼の魔女
数日前に見た地獄のごとき光景の中、この魔女を天使と見間違えた記憶が、アンリの脳裏にありありと甦る。
「違うわ、それは歌姫ルシアよ。『雪原に咲く青い薔薇』とも呼ばれた、この国の人間なら知らぬ者はない、有名な女性歌手だわ」
クリスティーネがそっけなく言い捨てる。けれどアンリは引かない、逆に食ってかかった。
「そんなはずないよ! だって僕、見たもの。飛行船の墜落現場で!」
言うなり、アンリははじめから、嵐のロディヴェラ平原で起こった事件を、熱病にでも浮かされているような熱心さで語りだした。
ひとしきり話し終えて、はっと気がつく──飛行船の墜落に関して、軍部に尋問され、丸一日抑留されていたことを。
「……あ、どうしよう。これ、しゃべっちゃいけないんだった。『この件については、決して口外いたしません』って誓約書に、署名させられたんだ」
夢中になってしゃべっておきながら、そのことを今更思い出す。見る見る間にアンリの表情は、後悔の念で暗く染まった。
「あなた、馬鹿?」
おもいきり冷え切った、侮蔑の眼差しでクリスティーネに睨みつけられ、アンリは身を縮めた。
「軍の機密情報を垂れ流して、もしも監視役の使い魔でも憑けられていたらどうするつもり? あなただけじゃなく、この場に居るわたしたちまで全員、牢獄行きになってしまうじゃない!」
声を荒げると、クリスティーネは上着の内ポケットから、仮面舞踏会で使用するような、宝石や色ガラスなどや彫金細工でゴテゴテと飾り立てた眼鏡を取り出した。
「な、なにそれ?」
「探魔鏡。潜んでいる魔物を探し出すための、特殊な眼鏡よ」
手短に言うとクリスティーネは、その飾り眼鏡を自分の両眼に当てると、顔をしかめた。
「──そんなに心配することはなかったみたい。今現在の時点で、あなたの影の中にはなにも潜んではいないわ。なにか小さなモノが憑いていたらしい、痕跡のようなものは認められるけれど。きっと、養殖モノの最下級の使い魔だったのね」
その発言に、ぞっと、アンリの全身の毛が逆立った。
「……もしかして、クリスティーネって魔女なの?」
思わず後ずさりしながら、アンリは訊いた。
理学魔法全盛のこの時代。魔法は数式に置き換えられ、古臭い時代遅れの「魔法使い・マグス」ではなく、資格を持った「魔術師・ウィザードリー」たちが活躍し、新しい魔法は便利な機械や薬品の形になって社会の発展をもたらしてくれる。
ところが、昔ながらの魔法使いや魔女は逆に人々の前から姿を消し、想像力の中でますます怪しい者へと姿を変えるばかりだ。アンリにとっても、「魔女」とは墓場から掘り出してきた死体を大釜で煮込んで毒薬を作っているような、おどろおどろした姿で連想される忌むべき者である。
「あら。わたしが『そうだ(ヤー)』と答えたら、どうするの? 魔女裁判にでも訴える?」
飾り眼鏡を外したクリスティーネは、意地悪そうな笑いを青灰色の瞳に浮かべる。
時計の秒針が一周するほどの間、アンリは口篭った。
「……そんなこと、しないよ。それに魔女ってこういう時、正体をバラしたら蛙にしちゃうとか、口が曲がってなにも話せなくなるとか、そういう呪いを掛けるでしょう?」
僕、蛙にされるのは嫌だもん──と、アンリが唇を尖らせ、いじける。なにしろここは、過去に五人の魔女がいた館なのだ。今現在、六人目が居たって不思議じゃない。
「ところで、その……。僕に憑けられていたっていう使い魔は、どこ行っちゃったの?」
「さぁ、この迷路のような街のどこかで迷っているんじゃないの? それとももう、食べられてしまったかしら?」
「食べる? 魔物を? 誰が、どうやって?」
アンリの質問に、クリスティーネを含め、この街の事情を良く知る三人の視線が、ベッドの上で、手足を舐めなめくつろいでいる猫に注がれる。
それが答えだった。
「ええっ! この『聖クラースのお守り猫』っていのは、使い魔まで食べちゃうのっ?」
「そうよ。しかもゾティはこの旧市街地最強と言われている猫なんだから」
誇らしげにクリスティーネは言って、いつの間にか妖魔退治をしていたであろう金色の大きな猫を、褒めるように撫でてやるのだった。




