第1章第12節
頬に陽光がもたらす暖かさを感じて、双畑の意識はゆっくりと浮上した。
朝、冷え込む時期の習慣のままに布団を跳ね上げようとした彼の足は空を切った。
双畑は訝しんだ。おかしいな。布団がないのに寒くない。何時に寝たんだっけ。今日は卒業式で、校長のスピーチ、退屈だった。
いや待て、おれに何が起きた。
身体が重かった。五感のすべてが麻痺したようだった。麻酔の効果が残っているとこんな感じになるんだよな。双畑は思った。こんな感覚は人生で2回目だ。1回目はなんだったか。そう、3年前のあの事件の時--
双畑は急速に記憶を取り戻す。
おれは死んだのじゃなかったか。少女を助けようとして。あの痛み、出血。
同時に辺りが騒がしいことに気が付き、その意識は内から外に向かった。周囲の状況を把握すべく、彼はもったりと上体を起こした。
双畑の目の前数メートル先に、ぼんやりとした人影が大小ふたつ佇んでいた。今初めて眼の持つ機能を使ったかのように、輪郭をうまく掴むことができなかった。
「流石わたしです!!」
背の低い方の人影が叫ぶ。幼さを感じさせる女の高い声だった。
「まさか成功なさるとは、姫殿下」
背の高い方の人影が応じる。低くしわがれた男の声だった。
「不遜ですよコルガー!その態度を改めなさい!!だいたいあなたはいつもそうしてわたしを馬鹿にし」
「早速目覚めたようですが」
男は興奮する女の話を遮った。
「なっ!」
女は一瞬絶句し、双畑を無視して男の方を向き朗々と不満をぶちまける。
あなたの今の立場はわたしの引き立てがあったればこそであるにもかかわらず、主君に不敬な態度を取るなど、ありえませんありえませんこの恩知らず、云々。
女の声を聞いているうちに双畑の感覚がはっきりして来る。
あたりは薄暗かった。淀んだ空気特有のぬめりが彼の肌を撫ぜている。湿った匂いが鼻につく。
徐々に明瞭になってきた彼の目が周囲の光景を捉える。彼が意識を失った城跡とはまったく異なっていた。
神殿。双畑の脳裏に最初に浮かんだ言葉だった。彼が倒れ込んでいる石畳と、威圧するように聳え立つ太い石柱がそれを連想させた。
遠くが暗いため広さは分からなかったが、見た限りでは彼の高校の体育館より大きいようだった。
広い空間の随所に設置された鏡が陽光を反射することで照らす設計らしい。埃や塵で光の道が浮かび上がっていた。しかし、この場所に人の手が入らなくなって久しいようで、苔らしきものが石材の隙間にはびこっている。柱や壁に埋め込まれている鏡のほとんどが欠けていた。
双畑を中心として描かれた魔法陣--勿論、アニメや漫画でたまに見かけるそれに似て見えるという理解に過ぎない--の染料だけが真新しく思えた。
ずらりと並んだ石柱の手前には、甲冑を着込んだ騎士が等間隔で十数人並んで立っていた。興奮した表情でがやがやと隣り合わせた者と語り合っている。
騎士たちの顔立ちは彫りが深い。そして、地球ではおよそありえない彩りの髪を頭の上に乗せている。
目の前の光景を受け止められず、口を半開きにしながら周囲を眺めた後、双畑は視線を目の前のふたりに戻した。
現代日本人としては違和感のある風体が飛び込んできた。
小柄な方の人影は、深緑色の重そうなドレスを着込み、踵まで伸びる新緑色の長い髪をした女だった。年の頃は双畑より若干上に見えるが、どうにも雰囲気が幼い。
気品を感じさせる顔立ちと天真爛漫な表情がひどく不釣り合いだった。いつの間にか話すのは止めていて、じっと双畑の顔を見つめている
大柄な方の人影は、傷だらけの全身鎧を着込んでいた。日本人男性として平均的な身長の双畑より頭一つ分大きい。バケツを逆さにしたような兜を被っっていて顔はわからない。その視線は双畑ではなく、円柱の向こうの暗がりに向けられている。
コスプレ集団のフラッシュモブに巻き込まれたんだ。双畑は自分に言い聞かせる。間違いない。
おれに何の用だ。この衣装、異世界ファンタジー好きなんだろうか。未来に展望を抱けない時代に流行りがちな妄想だ。百年前の大戦期、そして〈超常現象〉で滅茶苦茶になった現代。最近は転生モノが人気で、確かに物語としてはおれも好むところだ。
気晴らしになるのは確かだ。しかし、それだけだ。おれはもっと現実的に生きるのだ。そう、大学で〈超常現象〉を勉強して、世界から悲劇をひとつでも減らせるような仕事に就く。それが俺の人生の使い方なんだ。
コスプレ愛好者たちに関わっている暇はない。荷造りをしないといけないからな。引っ越しは一週間後だ。時間がない。
いやいや、そうじゃない。双畑は横にそれた思考を戻した。
驚きのあまり飛んでしまったが、おれはさっき死んだんじゃなかったのか。あの少女はどうなった。おれに負けず劣らず、今にも死にそうだった。
こいつら、あの王冠の連中の仲間か? いや、髪の色がカラフルすぎるし、敵意のある表情じゃない。しかし、どう見ても日本人でないことだけは確かだ。まさか本当に異世界? 朝からイかれたことばかりが起きているから、万が一ということもある。あの少女は異世界が存在すると言っていた。
困ったことに、どういうわけかさっきの会話は聞き取れてしまった。転生モノの定番だが、言語の壁は謎の力でなんとかなりがちだ。
ええい、考えていても話が進まない。コスプレイヤーなのかどうかはっきりさせようじゃないか。
現実を飲み込めないまま、双畑は思い切って尋ねることにした。
甲冑の大男はデカすぎて少し怖かったので、話を聞いてくれそうな雰囲気を出しているドレスを着た女の子に声をかける。
「せ、説明を……」
姫殿下、そう呼ばれていた緑髪の少女は両腕を腰に当て胸を張った。知能の足りなそうな満面の笑みを湛えて、元気よく答えた。
「勇者よ!魔王を倒してほしいのです!」
世界観と一体化したコスプレイヤーだ。双畑は確信した。
ファンタジー異世界の人間が本当に存在するとしたら、テンプレ中のテンプレ台詞は言う筈がない。もっとリアルな台詞が返ってくるのではないか?
そして、おれの目と耳、鼻と肌が、これがリアルだと強く訴えている。リアルな異世界ファンタジーは結構過酷な世界になりがちだし、過酷な世界で育った人間がここまで脳天気な表情はするまい。そう、コスプレイヤーに違いない。
しかしだとすれば、これはこれでどうすればいいのか分からなくなったな。コスプレイヤーとの会話方法など学校で習わなかった。
双畑は途方に暮れて天を仰いだ。
天井には穴が空いていた。そこから雲一つない青空が見えた。
太陽がはっきりと見えた。さっきまで雪の降りしきる闇夜の中にいた筈なのに、とは思わなかった。
彼は愕然とした。呼吸を忘れている。ありえない景色がはっきり目に映っていたからだった。
空には太陽がふたつ浮かんでいた。当然、彼の故郷ではありえなかった。
あの自殺志願の少女に出会ったのがケチのつき始めだったな。双畑は現実逃避のために一日を振り返ることにした。
久々に未来視が起きた。卒業式が燃え上がって、軽自動車の助手席に座って空を飛んだ。世界が滅ぶと聞かされ、戦いに身を投じ、炎の中を駆け、少女とともに敵を倒し、大怪我を追った。何一つ理解できないままに、日常が崩れ去った。
なるほど。双畑はついに現実を直視することにした。おれはSFか、現代異能力バトルもののラノベに巻き込まれたのだと思っていた。だが、異世界転生ファンタジーだったらしい。あの少女の言っていたことは本当だったらしい。
なるほど、なるほどね。よくわかりました。そして、本日何度目になるかわからない言葉を口にした。
「助けてくれ……」




