第1章第11節
崩れかけた石垣の上で小さく炎がちらついた。それを見ている人間がいたならば、死体の腹から出火したと表現したただろう。
小さな火は広がり、死体の身体前面に走る大きな傷口全体を覆った。
しばらくして死体が身動きを始める。松館だった。
本来地球で魔法は使えない。しかし、彼は法則の外側にいる人間なのでこの世界の常識では死亡とされる状態からの復活にも問題はなかった。
「あー、どうなッたんだ。なんで生きてるんだ?」
松館は瀕死に陥るまでの経緯を振り返る。途中までは優勢だった。
少年が少女を庇いに駆け寄ったのには驚いたし、あらゆる探知魔術が通じない煙幕を張られた時は面倒だと思ったが、特に焦りはなかった。どうせ時間の問題だと分かっていた。
突如としてすべてがひっくり返った。煙幕を切り裂く虹の斬撃を認識した時には手遅れになっていた。回避は間に合わず、無敵であったはずの鎧は貫かれた。
何故負けた? 少女に奥の手が残されていたのか? いや、それならばもっと早い段階で使っているべきだ。ならば、やはり。
「あの少年か?」
ますます重要度が跳ね上がる。あの少年の身柄をあらゆる世界が欲しがることだろう。
しかし、今少年の力に気づいているのは僕だけだ。優勢なのは我ら〈無限帝国〉だ。今日は絶対に無理だが、本国に応援を要請してでも確実に確保しなくてはならない。
確保できなければ。くそっ。わが祖国は間違いなくこの僕を殺すだろう。
しかし、何故僕は生きている? あの少女、確実にとどめを刺しに来るタイプに見えたが。何が起きた?
松館は上体を起こして石垣の上から公園を視界に入れ、思わず声を漏らした。
「あ」
彼が確保すべき少年が闇の刃に切り裂かれていた。血が舞った。少年は倒れた。
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唖然としている松館のもとに、光る王冠がひとつ近づいてくる。
公園の中心の方にも、同じ王冠がもうひとつ浮かんでいた。こいつと僕の会話が終わるまで、少女と少年の動きを警戒するためだろう。
このタイミングで現れたということは。
「酷くやられたものですね。〈瞬燃〉ともあろう方が」
松館の直ぐ側まで来た〈無限帝国〉の世界転移能力者--浮かぶ光冠の高さからして男のようだ。幾つもの黒刃を周囲に浮かべている--は言った。
「ぼく以外にも来てたのか」
動揺を悟られないよう、冷静な声を心がけながら松館は返事をする。
「少し前に、この世界への介入方針が修正されまして」
「聞いてないぞ」
「我らが機関のいつものやり口ということです」
「もっと早く助けてくれても良かったんじゃないか」
「本来は接触禁止ですから。連絡が来たのはついさっきです」
松館は鼻を鳴らす。情報統制が重要となる組織全般に言えることだが、一構成員毎にアクセス可能な情報は大きく異る。僕はこいつらのことを知らず、こいつらは僕のことを知っている。それだけのことだ。
よくあることだが、だからと言って不快な気持ちにならないわけでもない。
「一応聞くけど、君らの任務ッて何?」
「今のことろは、あなたの救出と異世界勢力の排除、ということになりますかね。本来の任務はお伝えできません」
この淡々とした言い方。松館は確信する。どうやら少年の力には気がついていないらしい。そうでなければこうまで落ち着いてはいられまい。
少数での行動が許されるレベルの世界転移能力者なのだから、こいつの覚醒値はそこそこ高い筈だが。何故気づかない?ああ、僕が暴れたせいか。この公園の世界歪曲度はかなり高くなってしまっている。
そうかそうか。
ならば好都合。揉み消すしかない。
よろよろと立ち上がりながら松館は心中で呟いた。
それしかない。少年はあのケガだ。どうせ死ぬ。誰にもばれないさ。いや、少女が捕まれば不味いかもしれないが--なに、証拠はない。言い逃れの余地はある。
よし、ここはこいつらに任せて帰宅だ。こんな大事件が起こしてしまった--市中の警戒装置もすべて僕が麻痺させてしまったし--のだから、非番も全員駆り出されるに決まっている。ああ、携帯電話の電源を入れるのが怖いな。ともかくシャワーと着替えだ。
僕にはやるべきことがある。こんな呑気な世界で躓いている場合ではない。
「後は任せる。ああ、あの少女はかなり強い。殺すつもりでやれよ」
松館はそう言うと、消耗した身体を引きずりながら闇夜に消えていった。
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双畑は痛みに呻き転げ回っている。大きな裂け目が出来た腹を押さえて出血を止めようとしている。その努力は実を結んでおらず、手の隙間からとめどなく血が流れていく。
少女は刀を構えたまま動かない。本心では双畑に駆け寄りたかった。しかし敵が目の前にいたのではそれもままならない。歯は強く食いしばられていて、唇の端から血が流れた。双畑が苦しむ姿を目の端だけで捉え、目の前に浮かぶ新たな敵を警戒し続けている。
少女に相対する敵、光冠を浮かべた新手二人組--少女が転生体と呼び、彼ら自身は異世界転移能力者と自称する存在--の片割れは、じっとして動かない。
もうひとりの敵、双畑と少女に黒刃で襲いかかった方は、公園の隅の方に歩いて行ったきりしばらく戻ってこない。
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ふと、少女に相対する敵が一歩後退した。少女が反応を見せないでいると、もう一歩後ずさる。
「どういうつもり?」
敵は更に一歩下がった。返事のつもりらしい。時間をくれるというジェスチャーだと少女は理解した。
倒れ伏す少年に一歩近づく。やはり敵は動きを見せない。
すぐさま少女は双畑に駆け寄った。
スカートのポケットから小さな筒を取り出し、その中の針を傷口近くに刺す。縫合および意識維持、強心効果を持つナノマシンを注入した。呻き声が小さくなる。痛覚が少し麻痺したのだった。
直ぐにでも病院に運ばなければ助からないことに違いはない。その勢いが若干緩まったように見えるが、相変わらず血は流れ続けている。
少女は、血が自分に掛かるのも気にせずに双畑を抱える。石垣まで彼を運び、優しく石垣にもたれかけさせた。
「何故戦うか、聞きましたね」
少女は、呻き続ける双畑に優しく語りかけた。
「仕事だから仕方がない。今朝までならそう答えたと思います」
双畑の頭を撫でる。
「でも同時に、疑問を抱いてもいました。世界は私に何をしてくれたんだっけ。辛いばかりで喜びはない。何故私が戦わなくちゃいけないの」
目が潤んだ。
「……でも、あなたみたいな人がいることを知りました。私の仕事に、苦しみに、意味はあったと分かりました。実は今日、初めて心から笑ったんですよ。あれが笑うってことだったんですね」
「……ユーモアのセンスを褒められたのは、初めてだ」
双畑は血を口からこぼしながら、小さく言った。涙をこぼす少女の顔を見て、何かを答えるべきだと思ったのだった。笑わせようとしたのかも知れない。
「だから、私は戦います。あなたを救い、世界を救います」
少女は、小さく笑ってからそう言うと立ち上がる。敵に向き直った。
双畑は見ていることしかできない。
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「待ってくれるとは、意外と親切だな」
少女は敵に向かって嫌悪を隠さず言った。
光冠の数はふたつに戻っている。照明に照らされて敵の姿がはっきりと分かった。
「いい劇だったからね」
その片方、ひょっとこのお面を被ったスーツ男が返事をした。黒刃が男の周りをゆっくりと舞っている。馬鹿にするような調子だった。
もう片方、双畑を手当する時間をくれた敵は、安っぽい女給服を来た小柄な女だった。赤鬼のお面を被っている。こちらは何も言わずに佇んでいる。
「ふざけた連中……」
そう言いながら、地面が微かに揺れるのを少女は感じた。
「それに、エキストラを用意してしまったのだ。彼らにも出番は必要だ。そう思わないか?」
ひょっとこが言い終わると同時に、数え切れない量の屍鬼が石垣の上から飛び降りてきた。
「エキストラは所詮エキストラだ」
少女はそう返すと小さく笑った。刀を虹色に輝かせ駆け出す。
少女は充填破力の殆どを使い切っている。朝からずっと続いた戦いのせいで、思うように身体が動かない。しかし、圧倒的不利な状況に追い込まれながらも少女は笑った。
彼女の短い人生は、世界を救うための戦いで染め上げられている。絶体絶命と思ったことは一度や二度ではない。しかし、笑いながら戦いに望んだのはこれが初めてだった。
もちろん、精神は戦いに集中している。彼女からしてみれば、無私としか思えない態度で自分に接してきた少年が瀕死であることを理解している。まず助けられないということも。自分自身も助からないということも。
それでも少女は微笑み、駆けた。
彼女は今日、どんな物事にも、どこかに面白がれる部分があることを知ったのだった。歪んだ価値観と言っていい。全ての絶望が溢れた後に一欠片の希望が残っていたというパンドラの箱に例えてもよかった。
しかし、目覚めた瞬間から襲いかかる「現実」をやり過ごすことに精一杯な、少女のような人間にとっては、すべてに勝る真実に思えることも確かだった。
あらゆる人間にとって、諧謔は救いになるからだった。その救いが、一時の気の迷いに過ぎないとしても。
今朝初めて会った少年に、どんな状況に追い込まれても恍けた態度を取ってみせる少年に、他の世界では悲劇のうちにも入らない悲劇で自意識をこじらせた少年に、彼女は影響を受けたのだった。
少女は戦う。彼女に戦う理由を与えた少年のために、死ぬまで戦い抜くだろう。
跡切れ跡切れになる意識の中、双畑は少女の戦いを眺めている。
石垣に囲われた公園に降り注ぐ水の結晶が、大きさと勢いを増し始めていた。
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双畑が意識を取り戻した時、周囲には死体だけがあった。
双畑と少女は、光る王冠を頭上に浮かべる男を倒した。ギリギリのところで。勝利の余韻を味わおうとしたところで双畑は重症を負った。光冠がふたりに増え、次いで大量の屍鬼が現れた。少女は戦い続けた。屍鬼を全滅させ、然る後に襲いかかってきた光冠とも渡り合った。
そして今、眼前で繰り広げられていた闘争はどこかへ去っている。真っ暗で、真っ白で、静かだった。
「ごめんね」
少女がそう言ったことを双畑は思い出している。腹部の痛みさえ感じられない。
「珍しくやる気を出したかと思ったらこれだ。助けになれると思った。謝るのはおれの方だ。俺は悪くない。世界が悪い。助けられると思った。ごめん。ごめん……ごめん」
双畑は呟いたつもりだった。しかし、声は声になっていなかった。聞き届けるものもいなかった。
大気が抱える微かな熱が、降り積もる雪と反比例するように失われていく。双畑の目に光はない。その脳は音を認識していない。心臓はもう血を流さない。
少年は死んだ。
遠くから爆発音が鳴り響いた。少女はまだ戦っている。戦いの後に死ぬだろう。




