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我孫子を過ぎ、小金宿に昼八つ半頃に到着した一行は、ここの蕎麦屋で腹を満たすと休みを取る事にした。
一行は朝から歩いてすでに三刻以上、途中途中で細かい休みはとってはいるが、掛馬四郎には大丈夫でも宗衛門にはきついものがあったのだ。その証拠に蕎麦を二枚平らげ、蕎麦湯をゆっくりとすする宗衛門の脚は、中々動こうとはしない。
四半時ほどそうした気だるい休みをとっていると、宗衛門が思い出したように言うのである。
「掛馬様、いっそこの先、松戸の河岸から船に乗ってみませんか」
「船だと? 急ぎの旅では無かったのか?」
いぶかしむ四郎に宗衛門はしてやったりといった顔で微笑むと、語り始める。
「この先、松戸の河岸は別名を生街道と呼ばれておりまして――」
生街道。銚子から鮮魚を運ぶ為の街道として発展してきた道である。
銚子から船で利根川を溯り、木下、布施といった陸路を松戸まで進み、そこで船に積み替えられると水路を江戸、日本橋まで運ばれるのである。
積み荷が鮮魚であるため忙しい街道として知られており、水運にしては珍しく、輸送に遅くとも三日という刻限が定められている。
通常、夕刻に銚子を出立した荷は、夜通し陸路を走り、昼には松戸に到着。積み替えられ、水路を通り、夕刻には日本橋に到着したという。
掛馬四郎は宗衛門の話を興味を持って聞くと、疑問を投げかけた。
「銚子というのは、あの利根川河口にあるという町だな? 確か船頭達は土浦から江戸まで半月はかかかると言っていたが、ずいぶんと違うものなのだな」
「利根川は時間が読めませんから。水が浅くても船は進みませんし、酷いときには一月かかる事も。その点、この生街道は途中を陸路で突っ切りますから、ほぼまっすぐに江戸に向かうのです。早いですよ」
「魚は腐らないのか?」
「血抜きして、笹の葉で挟んであるから大丈夫ですよ。特に今の季節ならなんの問題もありません」
掛馬四郎に今度は自分が教えてやったと、宗衛門の顔は少し得意げだ。
「ふむ、面白そうだの。間に合うのなら、儂は別にかまわんが」
「ただ、少しばかり金がかかるのが欠点です」
「いかほどか?」
「松戸からですと、どれほどでしょうか…。柳橋から山谷掘まで三十町、百四十八文ですから一里ならおそらく二百文、三里以上はあるでしょうからおそらく掛馬様がお好きな鰻が三、四杯も食える程かと」
得意げな宗衛門であったが、それでも心の隅に引っかかる銭の懸念を口に出したのは、やはり商人としてのものだろう。経費といった概念が心に強く結びついており、銭の算段がまず頭に浮かんだのだ。
「む、ちと高いようだが。もっともお主の銭、問題も無いか」
「あ、あたしが全額払うのですか」
「もちろん! 歩きたくないのは、そちの方であろう。某はほれ、この丈夫な足でまだまだ歩けるでな。それにお主は言ったではないか、金回りのことは手前に任せよと」
松戸の宿に八つ半に到着。
宿場の通りを途中で折れると、やがて港の臭いが濃くなってゆく。
「魚の臭いだのぅ」
四郎が少し顔を顰めて笑った。
「ええ、魚を積んだ荷車が年中通う道ですから、臭いが染み付いているのです。ほら、見えてきましたよ」
宗衛門が指し示す先には大きな笊を抱え持つ男の姿が見える。
水に浮かぶ船には笊が並べられ、その数は百では効かぬだろう。
霞ヶ浦、利根川を行き交う高瀬舟程には巨大ではないが、その分速く進んでくれる事だろう。
「あたしはちょいと、知り合いの舟問屋に話をつけてきますので、掛馬様はこのへんで待っていて貰えますか」
四郎が頷くと、宗衛門は脚を早めて河岸近くの屋敷に入っていった。
『交渉に某は不都合らしい』
掛馬四郎は先の渡しの一件を思い出し、ここは宗衛門に任せることにした。
それよりも、今は河岸に繋がれた様々な船に興味が移ったという事もあった。
河岸には中小型の高瀬舟の他にも連絡につかうのであろう小型の船が其処かしこに浮かび、繋ぎとめられている。七八人は乗れそうなものから、三四人乗りの小型のものまで、おそらく水上交通の要として急ぐ荷や人を運んでいるのだろう。
他にも微妙に船体の形が異なる、波に乗ったときの事を考えたのだろう、浅く、弓なりに反った形の船などもあり、興味は尽きなかったのだ。
「掛馬様~」
見れば宗衛門が先で手を振っている。傍に船頭らしき男の姿があることから、上手く船を手配できたのだろう。
船頭が居るという事は掛馬四郎が船を操らなくてもよいといことであり、四郎にとっては不満な事では有るが、まさか船を買い取るわけにもいかない以上は仕方の無い事でもある。
四郎は途中で漕ぎ手を代わる事もできるかとあきらめると、手を振る宗衛門の元へ駆け出したのである。
用意された船は小型の伝馬船、四人乗りの小型船であり先の絞られた形状は波を切って進むのに都合の良いもの。
船は川の流れも相まって、いや、この日に限っては更なる快速をもって水上を進んだのである。
「いやぁ、おら、こんなに船に長けたお侍さんは初めてだよ」
船の中央やや後ろに腰をかけ、キセルを吹かした船頭がそう言った。
そう、今船を操るのは掛馬四郎であり、伝間船は先を行く船を追い越し追い越し江戸川を下っているのである。
櫂を操る四郎の姿はもろ肌脱ぎ、脇に刺した刀も脇差だけを残して船の床に置きっぱなしである。
しかしその櫂を漕ぐ四郎の顔にはなんともいえない笑顔が浮かんでいる。
船を操るのが楽しくてたまらないと言った表情だ。
その四郎に船頭が言う。
「ほれ、あそこに見えてきた水路、あれが新川。今でけぇ船が先に居っけど、あそこに入ったらオラと代わんべ」
船頭があごで指し示す先には新川に入ろうと中型の高瀬舟が進んでゆく。それを見て四郎が船頭に訊ねた。
「おやじ、あの船の前に出るぞ。いいな?」
それに船頭も笑って頷くと、四郎の操る伝馬船はいっそう船足を速める。
見る見るうちに近付く先を行く高瀬舟。その脇を抜き去り際に相手の船に手を振る船頭の顔は、えも言われぬ表情だ。
そのまま後ろ向きにしばし相手を見送るものの、ポンッとキセルの火を水面に叩き落すと船頭が言う。
「そろそろオラと代わんべ。狭い川をこんなに早く進まれちゃぁ、前の船に乗り上げちまぁ」
船は中川に入ると小名木川には入らず、その脇、細い水路へと入っていく。
そして程なく、
「さあ、着きましたよ。ここが“はたや”の江戸店です」
舳先近くに座っていた宗衛門はそう言うと、船頭が船を舫うのも待たずにぴょんと桟橋に飛び移った。
「ここが? ここも江戸なのか?」
「も、もちろんです。切り絵図には時折端折られますが、江戸の中には間違いありません」
「若旦那、江戸の外れでねぇのか」
船頭が笑ってそう言った。
桟橋に上がった四郎が見た景色は、想像していた、いや、切り絵図などに描かれている江戸の姿とは大分に異なったもの。其処には土浦の西の外れにある“はたや”と大差ない景色が広がっていた。
人が肩の触れ合う程に溢れる大通りや漆喰の塗られた閑静な武家屋敷の塀など何処にも見えず、田と水路の中に、ポツンとはたやの店と屋敷周りの蔵などが建っているに過ぎなかったのだ。
他には数件の百姓家らしき簡素な家と、遠く大分に傾いた夕焼け空を背景に、木々の上に屋根を覗かせて寺の大屋根が見えるだけである。
想像以上に木々が多く、人の数よりも狸や川獺、梟の方が多く居そうな土地である。
「お主の店は、大分に辺鄙なところが好きとみえる」
そう唖然とする掛馬四郎に宗衛門は、
「辺鄙なところは地代が安いんです! 締めるところは締める、それがうちの家訓です」
と、誇るがごとくに言うと、
「さあ!」
と掛馬四郎を店へと導いたのである。
一見して土地の土豪の屋敷かと見紛う建物。敷地内には土浦のはたや程には大きく無いものの、それでも味噌醤油を扱うのであろう蔵が立ち並び、本当にこの地で商いをしているのだと教えてくれる。
既に暗くなりつつある時間のせいか、庭には人の姿は見られなかったが、それでも宗衛門が屋敷の中に入ると、“若旦那様”とあちこちから声が掛けられる。
どうやらはたや宗衛門はこの江戸の店でもきちんと大旦那の息子として顔が売れているようだが、それでも奥からその権威が唯一通じぬ相手が顔を見せると静かになったのである。
宗衛門がその人を見て声に出した。
「大旦那さま、宗衛門ただいま到着しました」
丁寧に頭を下げる宗衛門。土間に面した部屋から顔を覗かせた、苦みばしった中年男がそれに応えた。
「宗衛門、一応窺いますが、ここには歩いて来たのでしょうね」
有無を言わさぬ厳しい目をして大旦那と呼ばれる男がそう訊ねた。
これに宗衛門、わずかに身を震わせながらチラと上を見上げつつ、
「火急の用件と窺い」
「馬鹿モン!」
宗衛門の言葉を途中で遮り大旦那が吼えた。それに宗衛門は平謝り。
「申し訳ありません」
と、返す言葉も無く頭を下げ続ける有様である。
その宗衛門の姿をしばらく眺めて大旦那が尋ねた。
「篭か駄賃馬か…、いったいその脚を休める為に幾ら使ったのかね」
「いえ…、そのどちらでも、その」
「はっきりお言い!」
宗衛門は大旦那の一渇にビクリとすると、おそるおそるに見上げて答える。
「その、急ぎでしたので松戸の宿から船を…」
その言葉を聞いた大旦那の手がプルプルと震えた。
宗衛門の顔が、まるで悪さをしでかした子供のように次に投げかけられるであろう言葉に備えると案の定。
「この大馬鹿者が! 船を使ったなどと、いったいお前は何様のおつもりだい? 御大臣様にでもなったつもりですか。松戸から船ということは銭八百文から金一分、それだけの金があれば米一表、古古米にして余分でひとつ四文の納豆を買えば、手代達に食べさせる三度の飯をどれだけまかなえるか…」
雷雨のような大旦那の罵り声が、しばらくの間止むことなく降り注いだのである。
しばらくは止むこともないと感じた掛馬四郎は屋敷の中を眺める事にした。
広くおおきな屋敷、高い天井とその間を縦横に走る松の梁、なかなかに時代を感じさせる建物だが、なぜかどことなく違和感を感じる建物である。
「もし、お武家様…でよろしいのですよね?」
興味を持ってあれこれと見定めていた掛馬四郎に手代が声を掛けた。
その目が四郎の頭に注目しているが、それを見取って四郎がペシリと頭を叩いて言う。
「うむ、江戸にはこのような頭をした侍は珍しいと見えるな」
すると手代は畏まって、
「これは失礼を致しました。手前、手代の仙吉と申します。大旦那様はごらんの通り、後ほど正式に挨拶があろうと思いますので、手前が先に奥にご案内させていただきます」
そのように丁寧に述べると、「さぁ」と、四郎を招く。
宗衛門と大旦那は今だあのまま。四郎は手代に案内されると旅装を解いたのである。




