07 I オーソクレース
イリアは『スアン』の屋上のソファで、景と冷たいあれを食べていた。
さほど高さのない建物だが、真っ暗な山林と街明りの両方を眺望できる。
暑くも涼しくもない無個性な夜だ。互いに、帰らない、あるいは帰りたくない理由を口にすることはなかった。
店の名前は『Stay Up All Night』の頭文字を並べたもので、飲食物とコミックを楽しみながら朝まで過ごせる。先客の騒がしい女性たちが退出し、屋上が貸切状態になった。恋が発展しそうな環境に心がときめく。
「わたしのソフトクリームを、少しのあいだ持っていてくれませんか?」
いいよ、と景が微笑む。やさしげで美しい面差し。
彼の意思で、白のガーゼから5XLサイズの絆創膏に変更したようだが、役目を終えて剥がれ落ちる寸前だ。許可を取って首の肌と離別させ、清潔なハンカチで化学火傷の痕を庇った。
回収した絆創膏に、血と琥珀色の液が染みている。胸の高鳴りを抑え、携帯していたチケットホルダーに挟んだ。バッグの中で丸まってしまうと悲しい。これを自室の冷蔵庫で大切に保管する。もうすでに宝物だ。抱き締めて眠りたいけれど、儚く失われてしまわないように、愛護の精神で守り続ける。
返却されたソフトクリームを受け取り、速やかに完食した。
「景くんは休んでいてください。ドラッグストアで新しい絆創膏を買ってきます」
「危ないからここにいて」と強く引き留められて嬉しかったが、平気だと言い切って『スアン』を出た。そろそろ行かなければ別の誰かが犠牲になる。
歩道の犯罪以上に警戒すべきなのは、街に潜む狂人の、誹謗中傷に飢えた指と唇だということは学んでいるつもりだ。
店で流れていた懐かしい音楽に記憶を刺激され、道すがら日茉との遣り取りを回想している。自分たちが中等部の頃、大学に通う彼女の姉がボーイズグループ『repas』に傾倒してしまい、あまりの心酔に家族が困り果てていたらしい。
崩壊の発端は、人気メンバーE様が主催したパーティ。その内部が現場写真とともに報じられ、女性から絶大な拒否反応を示されていたことを憶えている。
日茉は駅へ続く階段の端に座り込んだ。特別な事情がない限り、制服が汚れるような振る舞いをしてはいけないと指導されていたけれど、まったく気にしていない様子だった。
『人って、札束に変身させる家畜と信頼関係育んだりしないでしょ? 私の姉、偶像たちのこと簡単に崇拝しすぎ。イリアもそう思わない?』
反射的に頷いたが、写真の中のE様が自嘲めいた表情をしていて、ファンを踏み躙りながら異性との交流を楽しんでいるようには感じられなかった。
応援する方にも、歓声に包まれる側にも、いろいろな想いがあるのだろう。
人間はたぶん、傷ついたことや辛かったことを、詳密には言語化できない。けれど心事の複雑さを解きほぐしてゼロにすると、後には透明な塵しか残らない気がした。
サブウェーの駅から距離があるせいか、街灯の間隔が遠く、歩行者も少ない。
不穏な夜風の下、バッグから護身用の折り畳み傘を取り出した。先端が厳しく尖っていて、キャップを外せば錐状の武器として使える。
幼少期に『殺されない倶楽部』で習った傘術が心強い。
ドラッグストアへ向かっている途中、歩道に寄せて車が停まり、怪しげな男が降りてきた。付近には閉店したレストランしかない。明らかに不自然だ。
傘のキャップを外す。輪郭の曖昧さはあるものの、予知夢の通りに進行している。
攻撃用の古びた麻袋は見当たらないが、あれは人攫いだ。敗北して変な牢屋に転送されるわけにはいかない。この街で景をひとりにしたくなかった。
フードを目深に被った男が肉迫してくる。道を訊くふりをするつもりなのか、傷んで破れかけた紙の地図を持っていた。
「わたしにご用でしょうか」
恐怖や怯えを削ぎ落とし、凛とした顔で対峙しなさいと教わっている。
こちらの物言いと視線で察したらしく、男は芝居を挟まずに地図を投げ捨て、手首を掴もうとしてきた。残念だが力では敵わない。反撃の判断は早い方がいい。
折り畳み傘の尖りを、人攫いの両腕の付け根に叩き込む。殺す必要はない。犯行を阻止したいだけだ。
男は苦悶の声を上げて歩道に転がっている。小指の長さくらいは刺さったようだ。
「改心すると約束してくれるのでしたら忘れます。わたしは10分後に戻ってくるので、それまでに努力して立ち去ってください。ごきげんよう」
血がついた傘にキャップをしてからドラッグストアのゴミ箱に遺棄した。また別の不審者に遭遇しないとも限らないので、防犯グッズの棚にあった類似品をカゴに入れる。
それより、景の絆創膏と消毒液だ。彼を助けなければ。まだ馴染めていないシティ・ノヴァの夜の中で、残り火のような心細さに戸惑っているかもしれない。
購入品を抱え、同じ道を通って『スアン』に帰ったが、男の姿は消えていた。
「景くん。すみません。いつもわたしがお待たせしていますね……」
彼はハンカチを首に載せたまま、屋上のソファで眠っていた。不安の粒を過剰服用したとしか思えない寝顔だ。よく迷子の夢を見る子どもだったのだろうか。
自分が同行を求めたせいで、精神的に疲弊してしまったとしたら申し訳ない。
下の階の受付でブランケットを借り、死に届きそうな美しい肢体を覆った。他の6台のソファはすべて空いているが、ここで景を見守りたい。
封筒を開けるのは、彼が目覚めてからだ。日茉の諷刺画には怖ろしい何かが描かれているだろう。予感はきっと当たる。
景の頬に触れ、空想上の涙の跡を指でなぞった。
もっと寄り添いたいのに、彼の暗室を知らなすぎる。
今はまだ支えきれるかわからなくて、出番を待つ硝子の添え木みたいだ。
07 Iria end.




