12#よくいる賢者
風の音がなくなり、穏やかな空気とそれを破る騒がしさに惹かれ、私はゆっくりと目を覚ました。まるで、村にいるときと同じ錯覚に陥って、でもそれが偽りだとわかったのは部屋の中の匂いが違ったからだ。埃っぽい中に、鼻の通りをよくする薄荷の香りが混じっている。
一度目を閉じてから、もう一度開き直し、私は騒々しさの一角に顔を向ける。私に半分だけ背を向けているディとオーサーが見えて、その向こうにももう二人、テーブルについているようだ。奥の暗がりにももう一人いる気がする。
私の視線には先にディが気がつき、次いで気付いたオーサーが席を立ち、私のそばに駆け寄ってくる。
「大丈夫、アディ?」
「だいじょーぶなことあるわけないでしょ」
酷い目にあった、と零す私の言葉をクスクスと誰かが笑う。
「それだけ話せるなら良いでしょう。お嬢さん、シュスの葉の茶はいかがですか? 目が覚めますよ」
「僕がとってくるよ」
オーサーがお茶を持ってくるまでに私が身を起こすと、肩から空色と海色でわけのわからない妙な模様をデザインされたビーチタオルのような布が落ちた。まだ頭の中はぼんやりと霞がかっていて、私は寝ぼけている状態だ。米神を軽く叩いて、私は自分の中の霞を振り払う。
「アディ」
「ん」
私はオーサーから湯気の立つカップを両手で受け取り、冷ますために小さく息を吹きかけようとして咳き込む。
「落ち着いて、アディ」
背中を優しく撫でてくれるオーサーに感謝しながら、私はもう一度と息を吹きかける。ふぅふぅと三度湯気を吹き飛ばしてから、そっと口に付けた。それは思っていたよりも丁度よい温度で、私は火傷することもなく、一度瞬きしてから飲み干す。
「蜜入りなんて初めて飲んだわ。流石、貴族はやることが違うわね」
部屋に香っている薄荷の香りの原因がシュスの葉の茶だということは、普段から飲んでいるから知っていたが、普通は混ぜモノをいれたりはしない。しかも甘味料は高価だから、嗜好品に使うなんてなかなかないのだ。褒めているのか貶しているのかわからない感想を述べる私をオーサーはたしなめたが、見ていた他の三人はそれぞれに笑い出した。
「な、俺の言ったとおりだろ?」
「そうだな。なかなか見所のあるお嬢さんだ」
「これじゃ賭けになりませんね」
ディたちがテーブルの上でカードのようなものを混ぜ合わせている様子と台詞に、私は更に眉を顰めた。
「……賭け事?」
私の呟きに、あからさまにオーサーの動きが止まる。その様子を意に介さず、私はがりがりと後頭部をかく。オーサーが何故固まったかは、私には簡単に予想がついた。
「負けてないでしょうね、オーサー」
明らかに引きつるオーサーに、私は深く息を吐き出す。
「何賭けたの」
「えーっと……」
「まだ賭けるものは残ってる?」
「ご、ごめんっ」
仕方ないなぁと、私は青のビーチタオルを肩に引っ掛けたまま、オーサーの座っていた席につく。
「お、やるか?」
嬉々とした様子のディだが、テーブル上のそれぞれの手元の赤い印のついた棒を見る限り、その手元はあまり勝っているようには見えない。強いのはさっきは見えなかった貴族ともうひとり。機嫌の悪い様子を演じながら、私は心で笑う。賭け事は一応マリ母さんに禁じられてはいるが、私はオーサーより強い。そして、場にいる者には悪いが、時の運なら私の味方に付ける自信がある。
「ユスティティア様の名の下、正当な勝負と行きましょう。オジサンたち?」
私が口にしたのは正義と公正の女神の名前であり、これの元にイカサマやなんかを絶対にしてはいけないというのは暗黙の了解がある。そして、それは真剣勝負の合図だ。
「大丈夫か、アディ」
「ディは人のことより自分の心配したら?」
「ここで賭けているのは、情報、だぜ? あんた、この賢者サマから何を聞き出すつもりだ?」
それは意外な言葉で、私はディがさした人物を凝視する。貴族で、賢者で、といえば世界広しと言えど、今のところ一人しかいない。
ディが賢者と呼んだ人物は、藍を貴重とした絹服をゆったりと着こなし、首にはブルーサファイアのついたチョーカーを付けている。肩にかけられた大きな布は裏地が同じく藍、表はそれよりも少し明るめの蒼だ。顔立ちは芸術家が彫刻にしてもおかしくないほど整っていて、彫りも深い。肌は見た目で二十代後半とわかる程度に年齢の衰えがかすかにあるものの、まだまだエネルギーに満ちあふれているように見える。女性のように細く整えられた眉、色づきの良い唇、高く通った鼻筋に、切れ長の瞳に収まる闇色の瞳。どれをとっても隙のない完璧な美男といえるが、私はこの手のタイプに対して、とても印象が良くない。まして、彼は貴族であるから、嫌悪感も倍増するというものだ。
「……東の賢者……?」
賢者は私に向かって、ゆるりと笑う。作られた笑顔に寒気がして、私は無意識に自分の二の腕をさする。
「初めまして、女神の眷属候補のお嬢さん」
東の賢者で私が知っているのは、彼が異色の天才魔法使いと言われていて、世界随一のイカサマ師とも囁かれているぐらいの賭け事好きだということだ。もちろん、賢者が負けるという話は聞かない。
「オーサー」
「ごめん、アディっ。全部、しゃべっちゃった」
オーサーの言う全部がどこまでかはわからないが、ここは姉として態度で怒りを示しておく必要があるだろう。
「マリ母さんに手紙書くよ」
「それだけはやめてっ」
「そうは、いくかーっ!」
ひとしきりオーサーに説教した後で、私はぐったりと机に突っ伏す。私がオーサーに説教を始めて直ぐに、ディらは食事に行くと場所を移動しているため、部屋の中には私とオーサーの二人きりしかいない。
乾いた喉をお茶で潤し、私は深く深く溜息をつく。
「あーもう、こんなことならオーサーを置いていくんじゃなかったな」
溜息とともに私が吐き出すと、そうだとこちらもぐったりしていたオーサーが跳ね起きる。
「なんで僕を置いていこうとしたのさっ」
オーサーなら言わなくてもわかっていると思っていた私は、口を曲げて渋面する。
「一人にしないって、約束したよ。それなのに、なんで置いていくのさ」
オーサーが口にしたのはまだほんの小さい頃の約束で、ふたりともがとても幼くて。あの頃のオーサーが自分以上に可愛かったことを思い出した私は、即座に首をふった。嫉妬というわけではなく、単にオーサーが可愛すぎるというだけだが、今思い出すことではない。
「あー……だってさ、考えてみたら、オーサーは次期村長じゃん。一人息子連れてったら、村長も困っちゃうって。タダでさえ、村には子供がいないんだから」
「まだグランシアが残ってるよ」
「ばか、まだ生まれたばかりの赤ん坊でしょう。その前に、あんたが継がなきゃ」
私の苦しい言い訳とわかっているが、オーサーは反論できない。そうとわかっていて私は話しているのだ。自分で卑怯だとわかっているが、このままではいけないと決心させたのはメルト=レリックの襲撃のせいだ。あれがなければ、私は大神殿までオーサーと一緒に行く気だった。
だけど、メルト=レリックには度々襲撃され、その上世界最悪の犯罪集団に命を狙われていると聞いておいて、そんな状態でオーサーがとばっちりを食らったりなんてした日には、私は後悔してもしきれない。
「今はディも一緒についてきてくれるし、一人じゃないし、さ」
「でも、アディは、」
何かをいいそうになるオーサーの口に、私は左手を当てて塞ぐ。オーサーにその先を言わせてしまったら、私はきっと決心が鈍ってしまうとわかっているから。
「ここまで付いてきてくれたのに、ごめん。でも、もう決めたの」
最後だからと、私はオーサーに精一杯の笑顔を向ける。
「今までありがとう、オーサー」
それが何を意味するか、すぐに察知したオーサーが私の左手をはずす前に、私はオーサーの鳩尾に右の拳を当てて気絶させる。体術でオーサーは私に敵わないとわかっていて、札を使われたら困るから、気絶させた。卑怯だと自覚はしているけれど、それでもオーサーを連れていくわけにはいかなかったから。
「ファラ」
私の呼び声に応えて、何もない空中に忽然とテーブルの上方に現れた緑の葉がゆらりと揺れながら落ちてくる。
「オーサーを、帰すよ」
テーブルに静かに着地した緑の妖精は私を見上げて、おずおずと尋ねる。
「ホントにそれでいいですか?」
気絶しているオーサーを自分が寝かされていたソファに寝かせ、私はその柔らかな髪を撫でる。薄茶色の向日葵みたいな髪の優しい幼馴染みは、きっと私を怒るだろう。
「巻き込むわけにはいかない、でしょ?」
「でもアディ」
「でもじゃない。あんたがやらなきゃ、このまま私は逃げるわよ」
小さな妖精は深く息を吐くと、小さな声で言葉を連ねた。
「時巡る指針 風力の宿木 緑奥深く眠る空の重臣」
ファラと言葉を重ね、私も両手を組み合わせて祈りを捧げる。
「ホーライ様の力もちて オーソクレーズ=バルベーリーを生地へと戻せ」
時間を司る女神の名前を私が口にすると、私たちを暖かな何かが包み込む。私の視界には、三人を光る雪のようなものが包み込むのが見えていた。それらはふわりふわりとオーサーにとり付き、私が言葉を終えると同時に霧散した。同時に光に包まれていたオーサーの姿も消える。
ファラの姿もなくなっていたのは、おそらく少ない力を使い果たしたせいで眠りに入ったからだろう。ファラはそれほど位の高い妖精ではないし、生まれてから十年も生きていない、幼い妖精だから。
「ごめんね、オーサー、ファラ」
既にいない二人に声をかけ、私はその場に膝を突く。
「一緒になんて連れて行けないよ。だって、私は、」
潤みかけた目をこすり、私は外に目をやる。既に薄紫の闇に包まれた世界の下、家々には明りが灯っている。こんな風に眺める家の灯が、私はオーサーらに出会うまで好きではなかった。自分には決して持てないものだったから。
今ではこの灯のひとつひとつに暖かな家族があるのだと知っている。そして、それを与えてくれたマリ母さんにも、私は感謝しているからこそ、彼らの灯を奪うわけにはいかなかった。
「……ごめんなさい……」
目を閉じて、誰にともなく呟く私の言葉を聴くものはここになく、あふれそうになる涙を堪えて、私は部屋を後にした。
部屋の外にはオーブドゥ卿の執事がいて、私が何も口にしなくてもディらのいる部屋へと案内してくれて。騒がしい室内を前に、私は一度顎を上げ、顔を歪めた。
泣くわけにはいかないし、そんな弱みを見せるつもりは毛頭ない。
私を女神の眷属と疑うディたちに黙って出ていっても、女神の従者であるディはきっと私についてくるだろう。あのオーサーの様子を見ても、何度追い返しても私を追いかけて来るだろう。
だったら、その前にすべての危険を排除しなければ、私は先に進むわけにはいかない。危険を排除するための鍵は、賢者が持っている。
ドアに手を当てて開くと、室内の会話が収まった。
「アディ、ひとりか? オーサーはどうした」
戸口から一番近い位置にいるディのところまで足を運んだ私は、彼の手から濃い赤紫色の液体が半分ほど入ったグラスを奪い、煽る。かすかに喉を焼く熱さを感じても、今の私に芳香まで味わう余裕はない。
「帰した」
ディに答えてから、私はテーブルをぐるりと見まわし、ディの隣に座っていた賢者に目を移す。賢者は私が何を言わんとしているかわかっているような顔で微笑んでいる。
「勝ったら、なんでも教えてくれるのよね?」
射抜く程に真直ぐな私の瞳を、賢者は笑顔で受け流す。
「ええ、私の知っていることであれば、なんでも答えましょう」
私の聞いた噂では、この世のことで賢者が知らないことはないという話だ。だからこそ、賭ける価値がある。私はポケットからコインを一枚取り出し、室内にいた腰の曲がっている老人――おそらく掃除夫へと投げ渡した。賢者のもとで働いているならば、コインを投げる意味ぐらいわかるだろうと見越して。
「じゃあ、教えて」
私は、自分がひどく思いつめた顔をしていたのはわかっている。でも、誰にも私の決意を邪魔させない。でなければ、私が辛い気持ちを堪えて、オーサーを遠ざける意味がないからだ。
「刻龍の頭領はどこにいるの」
これには流石にディも賢者もオーブドゥ卿も、眉を顰めた。ここにいる者で、私が刻龍に狙われていることを知らないものは、一人もいない証拠だ。
だが、東の賢者はひとつ頷いた後で、また変わらぬ笑顔を私に向ける。
「では私が勝ったら貴女の旅の本当の目的を話していただきましょうか、アデュラリア=バルベーリ嬢」
賢者は私がバルベーリ家の者でないことを知っているはずで、それは皮肉の混じった呼びかけではあったが、私は欠片も笑わずに睨みつけた。
「公正に行きましょう、ユスティティア様の名の下に」
「ええ、公正の女神の名の下に」
私と賢者、二人の同意を受け、掃除夫はコインを放り投げた。
私が居場所を知ってどうするかとか、そういったことは賢者は何も言わなかった。それさえもすべて見透かされているようで、いい気はしない。
クルクルと中空で回転するコインの軌跡を追いかける私が表か裏かを言う前に、ディが掃除夫と私の間を太い腕で遮った。なんだと私がディに苦情を言う前に賢者が指を鳴らし、同時に聞きなれた札士の宣言がオーブドゥ卿の執事によって、下される。
「縛」
それが掃除夫に向けられたものだと気が付くまでに、私だけが時間がかかった。私が気がついたのはコインが床に落ち、それを見もせずにいる掃除夫が腰を低くし、懐に手を入れているのに気づいてからだ。明らかな戦闘態勢は、私に向けられる殺意で見なくてもわかる。
既に全員が席を立ち、掃除夫と向かい合っている。三人がついていたテーブルがどうなったのか見るほどの余裕はないが、ここは賢者の家だし、魔法で消したとしても不思議はない。
私の前にはディがいて、隣には賢者と執事、私の後方にはオーブドゥ卿の気配がある。
「お嬢さんは強運の持ち主のようですね」
賢者が愉快そうに口にすると、まったくだとディが頷き、同意する。この状況で私を強運と評する意味がわからないのは、私だけのようだ。
「ラリマー、札一枚では不十分ではないかな?」
オーブドゥ卿が言うと、執事がはいと返事をして、さらに懐から札を取り出す。それを穏やかに賢者が制する。
「ここは私の家ですよ。無粋なものは私が取り上げておきましょう」
賢者が言葉の後に魔法的な響きを続け、その両腕を差し上げる。ディに比べれば細い腕だというのは、そのゆったりとした袖でも私にわかった。魔法を使うのに筋力の有無は関係ないが、拳闘士の私としては些かの頼りなさを感じる腕だ。だが、直ぐに私はそれを撤回することになる。
魔法の効果なのだろうが、賢者の動きに合わせて、ふわりと空気が持ち上がった。いや、賢者の周囲から埃を巻き上げて起きた風が掃除夫へと移動し、宙へと様々な武器類を浮かべてゆくといったほうが正しいだろうか。次々と空中に浮かんでゆく暗器の数が、五〇を超えるのを見て、ディが口笛を鳴らす。みたことなあるものもあるが、その暗器のほとんどは私が知らないもので、形から使い方が予想できないものが多い。
「さすがは刻龍、といったところだな」
刻龍、という言葉に反応し、私はディの腕を押しのけて、掃除夫を装っていた者を見た。刻龍から私が連想するのは今のところ一人だけだが、それはどう見てもメルト=レリックとは似ても似つかない初老の男で、なんとなく安堵の息を吐いてしまう私と男の視線が交わる。その視線は品定めのようで、ぞくりとする薄ら寒さすら感じ、大抵のものならば逃げ出してしまうだろう。だが、ここで逃げるようなら、この先私が刻龍と戦い続けることが難しいのも事実で、私は気持ちを抑えて、無理やりに男を睨み返した。男は私を目だけで嘲笑い、苦々し気な視線をディへと向ける。
「既に従者がついているとはな。これでレリックの失敗も理由が付く」
男の視線がディへと反れたが私が見る限り、ディはいつものように笑っているだけだ。目だけはいつも変わらず真剣なままの、不思議な笑い。
「爺さん、アンタ、ただの刻龍ってわけでもなさそうだな」
私は横から誰かに腕を取られ、戸惑う暇もなく、引き寄せられる。視界が藍に染まったことで、私を引き寄せ、隠したのが賢者だとすぐに分かった。抗議の声をあげかける私に、賢者が小さく囁く。
「じっとしていてください」
手を出すなと言われて大人していられるなら、そもそも私は旅になど出ない。だが、相手は刻龍なのだから、出方を見るのも大切だと私は耳を澄ませる。
「今はただの刻龍メンバーの一人に過ぎん。先代には長くお仕えしたが、今の頭領はわしを気にいらんようでな」
「つまり、刻龍の総意でお嬢さんを狙っているわけではないと?」
ディと男の会話に、賢者が口を挟む。少しの間の後で、男が言う。
「若造、おまえは小娘をなんだと思って守るのだ」
問われたのは賢者ではないのか、私を支える賢者の腕にわずかに力が入ったが、答えたのはディだ。
「別にあんたに話すほどのことじゃねぇよ」
それを男は不気味な笑いで受け取る。
「ふふふ、そうかそうか、知らぬか」
ぐん、と空気にかかる圧力が変わったのを、私は感じた。殺気のような圧力で、賢者のマント越しでも私の肌はちりちりと粟立つ。同時に賢者の小さな呟きで、私の足下からゆるやかな風が生まれ、私を包む。
「――この者まことの女神の眷属なれば 在るべき場所へと送り給え――」
賢者が使う力ある言葉の意味を私は察知し、強く唇を噛んだ。違う、と気持ちの悪い魔力風に包まれながら、私は心で叫ぶ。だが、それを嘲笑とともに私と同じく否定したのは、よりにもよって目の前の刻龍を名乗る老人だった。
「ハーッハッハッ! ぬしら、まっこと何も知らぬと見えるっ」
魔力で生まれた風が止んでも、私は変わらずに賢者のまとうマントの中にいた。刻龍の老人が何を言わんとしているか察知した私は、小さな言葉を誰にも聞かれぬように呟きながら、藍色の布から飛び出す。手には銀色に光るものを握って。
「その小娘は、」
私は老人の言葉が始まる前に体当たりしながら、迷わずに男の喉へと鋭く尖ったナイフを突き立てた。すぐに引き抜くと、赤く吹き出す噴水とともに、男の喉から漏れる風がひゅうひゅうと音をたてる。血を浴びるのは初めてではないから混乱はなくて、遠い記憶と思い返しながら私は自分の感情が死んでゆくのを感じていた。
かつての、私と同じ孤児だった友人や仲間が死んでいった時のことが、脳裏をチカチカと過ぎる。
「私は、眷属なんかじゃ、ないんだ」
ディの顔を私は見れなかった。ディや他のものに、自分がどんな目で見られているのかなんて、知らない。でも、この場にオーサーがいないことにだけ、私は安堵していた。
こんな風に血に染まる私をオーサーにだけは知られたくない。私にとってマリ母さんとオーサーと過ごした期間は望んだ平和だったから、平和しか知らないオーサーに私のこんな汚れた私を知らないでいて欲しいから。
「私は……っ」
自分の正体を、私は本当に知らないわけじゃない。知らないフリをしなければ、私は生きられなかった。私はまだ未熟だから、世界が「私」を否定することに耐えられないから。
そして、まだオーサーとマリ母さんの他には、決して真実を知られたくはなかった。せめて、明確に女神の眷属かどうかを宣言されるまでは秘めておいて、その時までに心を決めようと思ってはいた。けれど、今の私にはまだまだ全然時間が足りない。まだ大神殿までの道程は半分も進んでいないのに、こんな場所で明かされても私は覚悟なんて決められない。
言葉に詰まった私は、激情に任せて、走って逃げ出そうとした。その進路を見覚えのある大きな白い布で遮られ、絡めて包み込まれ。この場にそぐわないほどに優しい力で、泣き出したい私の心の抑えきれない気持ちごと抱きとめてくれた。
「わかった」
それは誰の声だったのか。ディの声に似ていたようにも思えるし、そうでない気もする。でも、私の意識は安堵したわけでもないのにふっつりと途切れた。
こういう風に落ちるときの夢はいつも闇の中で、上も下も分からないけれど、確かに私のそばを通り過ぎていく景色がある。誰かが私に逃げてと叫び、誰かが私を抱きしめたまま死ぬ。誰かが私に助けを求め、誰かが私に代わって殺される。
闇はいつか赤く染まり、血溜まりの中で私は立っている。それはただの血溜まりじゃなく、すべて私に関わったせいで殺された者たちの血だ。目に映るすべてが赤くて、目に映るすべてが敵で。
「アディ」
唯一の光が――オーサーが血溜まりの向こうから私を呼んでいるのに、私は一歩も動けない。足に手に絡みついた赤い水が私を絡めて、飲み込んでしまって。身動きが取れない。
「ああぁああああああああぁぁぁああああああ……っ」
差し上げる自分の両手が赤い水に彩られ、自分の心が狂ってゆくのを感じる。だから、私は光に近づけないのだと、感じる。これは誰の血だと、忘れるなと私の中に眠る血が騒ぐ。
赤く、赤く、赤く、染まる世界に、一人立ち尽くす私を後ろから誰かが強く引っ張った。逆らう力もない私を無理やり、赤い闇から引きずり出す。
刹那、今度は世界が色をなくした。
(違う、ここは水の中?)
口から入り込む水が、肺を圧迫して苦しい。本能から私は水をかき、重力とは逆の方向へと体を引き上げる。
「は……っ」
すぐに自ら抜けた私は必死で空気を肺に送り込み、それをしながら目の前で笑う人を見上げた。
歪んでいるが汚れた灰色の甲冑が、鈍く白い光を弾き返している。オーサーよりも大きくて、ヨシュより一回り大きいぐらいの体格で、背中に大剣を背負っているのがわかる。
大きな図体で子供みたいに不安に目を揺らす男――ディを見分けて、私は泣きたくなった。なんでここにいるのかとか、どうして私が水に落とされているのかとか、どうしてそんなに泣きそうなのかとか、聞きたいことは沢山あったけど。
「なにするのよっ! 私を殺す気っ?」
ディは私が叫ぶのを確認してから、くるりと背を向けた。いつもつけているマントはなくて、それはゆらゆらと私と一緒に水の中で揺れている。
「しっかり洗ってから出てこいよ。外で待ってる」
それだけ言い残して、さっさとディが見えなくなるのを見送ってしまった後で、私はもう一度水に完全に沈み、両目を閉じる。赤い夢に入る直前の出来事はすぐに思い出せたし、自分が衝動的に逃げ出そうとしたことも覚えている。夢の中のことも、あの赤い闇の意味も、私にはわかっていた。
マリ母さんに拾われるまで私はただの孤児で、彼女に見出され、初めて家族を与えられた。村では生きるための技も教わり、この歳まで無事に生きてこられた。旅に出るときにはオーサーを与えられ、そして、ディという味方も付いてくれて。中でも、刻龍に狙われながらもここまで私が生きながらえてきたのは、ディの功績が何より大きい。
そのディ本人は「女神の従者」で、私を女神の眷属がどうか見極めるのだと言っていた。女神の従者は女神の眷属に仕える者のはずで、それだけは私もはっきりと知っている。それだけ女神の従者とは有名で、女の子なら一度は憧れる存在で。でも、自分が女神の眷属なのかどうなのかというと、これだけは私にもはっきりといえる。
(眷属のがまだマシだったわよ)
もう一度水面に顔を出した私の頬を熱いものが伝い落ちるのを感じる。
あの時私が殺した刻龍の者の言葉が伝われば、本当の意味で私に時間はなくなる。もう少し、あと少しだけでも「アデュラリア」でいたいのに、ただの人間でいたいのに。
願い叫ぶ言葉は口にせず、私は涙の跡を冷やすために、また深く水に身を沈めた。