13#よくある遺跡
十分に顔が冷えたところで、私は水から自分の身体を引き上げた。その時になって、やっと自分が服を着たままだと気がつく。水を吸って重くなり、張り付く服をひとつひとつ外す。素肌に空気が触れる度、私は小さく身を震わせた。脱いだ服をひとつひとつ絞って、伸ばし、畳む。
それから、私は初めて部屋をぐるりと見渡した。四方を石に囲まれた部屋は灯とりだけとは思えないほど大きく開かれた窓がある。その向こうは青々とした緑の蔦を這わせた私の目線より少し高いぐらい、恐らく二メートルぐらいの石塀で囲われているから、完全に外まで出られるわけではないようだ。上から差し込む白い光は昼のように明るい。だが、少しの違和感に私は首を傾げる。
どこにでもあるはずの風力の魔石が、私の視界の中でどこにも見当たらない。あれがないと服を乾かすのは少し難しくなる。
「…… 風……ファラ?」
普段なら呼びつければすぐに出てくるはずの妖精も出てこない。そういえば、さきほどオーサーを送ったばかりだから、疲れて眠っているのだろうと思い返す。それに、私自身も魔法を使ったばかりだから、今は爪先ほどの光一つ灯せない状態だ。
室内を見渡し、何か代わりに着られそうなものを探す私は、部屋の隅の石の台のようなものに目を向けた。それは人一人が余裕で横になれる程度の大きさで、高さは私の膝程度。台の上には柔らかそうなクッションと、それを覆う白いシーツが乗せられている。私が手にするとおろしたてのパリっとした感触が指先に伝わってきたが、私は躊躇せずに両手で端をもって、ばさりと広げた。ふわりと辺りに香るのは何かの甘やかな花の匂いで、妙な違和感に私はまた眉を顰める。違和感の正体はまだ思い当たらない。
濡れた下着はつけたままだから気持ちも悪いが、とりあえずシーツをぐるぐると体に巻きつけたら風よけぐらいにはなった。それから絞った服を手にして、ディが出て行った方向へと足を向ける。
扉の前で立ち止まった私は、そこまで来てから、初めてそれに気がついた。
「凄……っ」
その木の扉には何の宝石も使われていなくて、ただ不可思議な文様が彫り込まれている。中心には一枚布を纏う豊満な身体の女性が二人描かれていて、扉の中心で互いの手を併せている。他にも両扉それぞれに二人ずつが描かれ、左下には木陰で休んでいる女性がいて、左上では同じ木の上で鳥と遊んでいる女性がいる。右下では水辺で遊んでいる女性がいて、右上には七つの光の輪を投げて回す女性がいる。彼女たちは有名な創世の女神たちだ。
無意識に扉に手を当てた私は、思わず自分の後ろを顧みる。そこにあるはずのない影がある気がして、でも部屋の中には自分の他に気配もない。それなのに。
「なに、これ……っ」
私の意志とは関係なく、目から大粒の涙が溢れて止まらない。ぬぐってもぬぐっても、どうしてというほど溢れてくる。
「なんで、今更……っ」
その意味がなんなのかわかっているだけに、私はなおも必死で止めようとした。でも、止められなくて。
「アディ、まだか?」
扉の向こうで私を促すディの声を聞いて、必死で目元を拭う。
「も、もうちょっとっ」
私は先程自分が浸かっていた泉のような場所まで走って引き返し、ばしゃばしゃと顔に水をかけて、涙を洗い流した。十数回でようやく流れるのをやめた涙を水面を鏡にして確認し、私はまた扉まで引き返す。一度指先で軽く触れ、先程のように自分が泣き出さないのを確認してから、私はゆっくりと扉を引いた。
軋んだ古い木の音の軋みを立てて、扉が開く。この部屋よりも少し暗いと想像したのは、私はその向こうに通路があるだけだと思ったからだ。だけど、私の予想に反して、扉の向こうは部屋の中と同じ程度に明るい。その理由は通路は通路でも向こう側に壁がないせいだ。膝丈程度の生垣には、紅躑躅や白い鈴蘭、黄色い水仙などといった花が咲き乱れていて、その場所にも日光ではないが温かな光が降り注いでいる。部屋の中から行ける小さな箱庭と同じだ。
私が通路に一歩を踏み出すと、壁際で寄りかかっていたらしいディは少し驚いた顔をしている。
「お待たせ……って、何?」
私が首を小さく傾けると、ディは少し顔を逸らして、首を振った。
「俺のマントは」
「あ、これ」
まだ濡れたままのディの白いマントを差し出すと、受け取ったディは少し困惑した表情のあとで、それをばさりと広げた。私の前を白い布が覆い、ディの姿が見えなくなる。
「湿ってるけど、我慢しろよ」
問い返す間もなく、私はまたディの白いマントにぐるりと包まれていた。まだかなり濡れたままの白マントはずっしりと重い。
「なんで」
「いーから、つけてろ」
有無を言わせないディの迫力に押され、私は反射的に頷いていた。それから、ディについていった私は、すぐに廊下の門からひらりと風に舞う青いマントを見つける。たぶん賢者だろうと近づいていくと、辿り着く前に思ったとおりの人物が私たちの前に現れた。
「おかえりなさい、お嬢さん」
賢者の変な挨拶に対して、私は眉をひそめて返す。ここで「おかえり」というのはとても妙な言い方だ。
「それでは、イフ……オーブドゥ卿と合流しましょうか」
近づいた私に自然と差し出される賢者の右手を無視して、私は素通りする。それを賢者はくすりと笑って、私の隣に並んで歩き出した。ディは私たちのちょうど後ろにいるようだが、いつもよりも離れている。
「アデュラリア嬢はここがどこだと思いますか?」
「神殿でしょ」
ここまでに見てきた壁や床、屋根の素材や造り、それから建物全体の独特の清浄で厳かな空気から推測して、私がこともなげに答えると、賢者は人を小馬鹿にしたように手を叩いて賞賛する。
「よくできました。ここはおそらく現存する最古の神殿です」
世界に残された遺跡のほとんどはその原型を留めていない。それは刻龍によって、あるいは悪神に仕える者によってとも、あるいは両方とも言われているが、有名なのはディルファウスト王の乱心と言われている出来事だ。若くして女神の眷属と出会い、手に入れた王は女神の眷属を失った時にたった一人で刻龍を壊滅まで追い込み、その過程で神殿がいくつも破壊されたという。だから、このようにまったくの原型を留めているものなど存在しないと言われていたのだと、賢者は私に語る。正直、私にはどうでもいい話だ。
「地下にあったから、というだけでは説明がつきません。おそらくはここには女神の力がもっとも色濃く働いているのでしょう」
見てくださいと賢者が示す先にあるのは、春の木に咲く薄紅の花や初夏の凛とした菖蒲の紫の花、夏の太陽を模した向日葵や秋の風に揺れる秋桜といったように、季節を無視して色鮮やかに様々な花が咲き乱れ、その他の木々も青々と生い茂っている。
「あれらは一年中枯れる事がありません。変わることのない命を与えられるのは女神とその眷属だけなのです」
変わることのないということはないだろうと、私は心中で反論する。いつかは全てが変わり、変わらないものなど世界に何一つ「あってはならない」のだから。
自分の思考の異変に気づかないで、私はちらりと後方を盗み見た。そこにはじっと私を見つめるディの視線があり、いつもの軽い感じは欠片もない。へらへらと笑うこともなく、ただディに見つめられるのは私もすごく居心地が悪い。
「何」
「ん?」
「言いたいことははっきり言ってよ、ディ」
「……あぁ、気にするな」
「気になるに決まってるでしょうがっ」
部屋を出てからずっと、私にはディのその視線がひっかかっていた。何か言いたげな割に、何も言わないし、何も聞かない。問い詰めてくれたならまだどうにかできるのに、私もディもどちらも何も言い出せないままだ。このまま気まずい時間が続くのは私の経験からいって、精神衛生上よくない。
「私も気になっていることがあるんですが」
賢者が立ち止まったのにつられて、私もディも足を止める。
「アデュラリア嬢は何故ディのマントを羽織っているのですか?」
問われた私だって、聞きたい。つけていろといったディが教えてくれないのだから、私にわかるわけがない。
怒りに任せて、私はディのマントを外し、ディに投げつけた。
「知らないわよっ」
翻るマントは過たずにディの胸にぶつかり、その向こうでディが悲しそうな顔をする。そんな顔をされても、私だって困るのに。
あの部屋を出てからのディはずっと同じ顔で、困った視線で私を見つめ続けてて。それを見ていると私はきゅぅと胸が苦しくて仕方がなくなる。どうしたらいいのかわからなくなるのだ。
だから、私はディから賢者へと視線を移した。同時に私の視界が深い藍色で覆われ、ふわりと賢者の着けているマントでくるまれたことを知る。
「着替えを用意しておくべきでしたね」
さっきまでのディのマントに比べれば湿ってもいないし、素材だってすごく軽い。それに、暖かいはずだ。それなのに、私の心はあまり暖まってはくれない。
「何、これ」
「その格好では寒いですよ。それに」
唐突に顔を近づけてきた賢者に、私は少しだけ身を引く。その私に賢者は両眉を下げて、困った顔で囁く。
「濡れたままのシーツでは、透けてしまいますから」
驚いて目を見開いた私は、自分でマントの中に視線を落とす。賢者のマントが濃い藍色のせいか、確かにシーツで作った簡単な服では体の線が明らかで、いくら私が幼児体型とはいっても女である事には変りなくて。
やっとディの真意に気づいた私は、ディを顧みて、何かを言おうと口を開いた。だけど、ディはわかっていて、何も言わないでいたわけで。賢者がいることも何も言わないで、私を自分のマントで隠してくれたわけで。
でも、ディに自分の幼児体型を見られたことは、私には十分恥ずかしい事態なわけで。
「賢者って、」
結局何も言わずに、私は歩き出し、話題を変えることにした。
「魔法使いなんでしょ? 魔法使いでも着替えは出せないんだね」
「私の持ち物に女性用の服はありませんからねぇ」
貴女には大きすぎるでしょうといわれ、私は確かにそうだと頷く。だが、そこでハタと気付いた。
「あれ、彼女とか奥さんとかいないの?」
歩きながら、私が賢者を見上げると、彼はなんだか楽しそうだ。視界の端に映るディは、変わらず一定の距離を保って、先程とは別の哀しげな顔をしている。
「いたとすれば、屋敷に閉じこもってばかりもいられないでしょうね」
「そうかなぁ。でも、それじゃ後継者問題とかどうするの」
確か、イネスの為政者はこの賢者が就任する前までは世襲制で、代替わりの度に血生臭いニュースが横行していたはずだ。だからこそ、女神の眷属を欲しがる貴族が後を絶たなかったのだから、私が間違えているはずはない。
「そんな面倒に関わるぐらいなら、妻など娶らずに養子を取ればいいのです。その方が好きな女性と心置きなく過ごせますからね」
そういえば、少し前に村に届いていたイネスのゴシップ誌には、賢者の恋人についての噂が書かれていたような気がする。確か、毎月だか毎年だかといった具合に、頻繁に違う相手の噂があるとかを読んで、マリ母さんや村長に言われたことがある。
こういう不誠実な相手より、断然オーサーがいいとかなんとか。弟にしか思えないから私は笑って交わしていたんだけど、目の前の賢者は出会った処から女性の影が見えないから、つい噂を忘れていた。
「うわサイテー」
私は、自然と肩に回されていた賢者の腕を引き剥がす。賢者は別にそれを気にするでもなく、私と話を続ける。
「あの部屋にはシーツの他に、何も着るものはありませんでしたか?」
「うん、別になかった。て、入ったことがあるんじゃないの?」
私が目が覚めた時に一番近くにいたのはディだが、賢者がいると言うことは案内をしたのは賢者だろう。つまり、ここは賢者が知っている場所で、おろしたてのシーツは賢者が用意していたものではないかと私には推測できる。
だが、賢者は心外だと肩を軽く竦めた。
「私が無断で女性の部屋に入るように見えますか?」
そんなことを問われてもイネスの為政者のゴシップだけならそうだと言えるし、自分の目で見ているだけの賢者と言う人物はまだよくわからないことが多い。そうでなくても、今の私はひどく疲れていて、どうにもこの賢者の相手をするのは疲れるし、ディのこともあるから深く考える気も起きない。
私は努めて、話題転換を試みることにする。
「ねえ、魔法でこうぱーっと大神官呼ぶとか、大神殿に行くとか出来ないの?」
これには賢者から私に、呆れたようなため息と嘲笑が帰ってきた。
「アデュラリア嬢はお分かりかと思ってましたよ。
魔法の原則は学んでおられないのですか」
「学んでるわけないでしょ。魔法できるのなんて、偏屈で卑屈で暗いオジサンばっかりだし」
「ではどこで学ばれたのですか?」
「それは――」
すんなりと答えそうになった私は口をつぐみ、自分よりも背の高い賢者を下から睨みつける。危うく誘導尋問にかかるところだった。
「いつ、誰に、私が魔法を使えると聞いたの?」
「もちろん、オーサー君ですよ。彼が賭けをした話は聞いているでしょう?」
ああ、あれかと私は足を止め、額を押さえて、怒りを抑える。
「あの馬鹿どこまで話したの、ディ?」
私の問いかけには少しの間をおいて、返事が返ってきた。
「アディがイネスにいたこととか、オーサーの母親に拾われてきたこととか、それから、神官と喧嘩した勢いで出てきたこととかだな。あ、あぁ、妖精の話もしてたぜ」
それはほとんど全部じゃないかと嫌でも気がつき、帰ったら覚えてなさい、と私は追い返したばかりのオーサーに毒づく。
「それで、魔法のことまで話したの」
「ああ」
一見、ディは普通に受け答えているように見えるが、私が近づくと一定の距離を保つように下がる。気を失う前までは嫌というほど構ってきたことを考えると、明らかにディの私に対する様子が違う。その理由はおそらく私が、刻龍のあの男を殺したときに関わるのだろう。
つまり、ディは私が女神の眷属じゃない、もうひとつの可能性に気がつきつつあるのだ。だから、女神の眷属に仕える従者であるディは、今更私と距離をとろうとする。
それは私が一番恐れていた事だと気がつきながら、従者としての勤めを果たそうとしているのだろうか。
もう一歩とディに近寄る私を、賢者は止めない。ディは私の目を真っ直ぐ見て、諦めたように息を吐く。
「おい、賢者。あんたに聞きたいことがある」
私を素通りして賢者に問いかけるのは、私が答えないと、否定するとわかっているからだろうか。
「フィッシャーで結構ですよ。なんですか?」
「あの時の呪文はアンタの自作だろう。何故、女神の眷属、と文句が入っているのにアディはここへ、遺跡へ飛ばなかったんだ?」
私の精神に呼応するように、空気がかすかに揺らいだ気がした。賢者もディもここが地下だと言っていたし、風が吹くはずがないのに。
「さて、何故でしょうね。私もあれを使うのは初めてでして」
はぐらかすような様子だったが、ディはただ静かに待っていた。私は双方を見て、それから賢者を見つめる。そういえば、賢者だって知っていても不思議はない。何しろ、賢者と呼ばれるほどの知恵者のはずだから、女神に関する伝承を知っているのは当然とも言える気がする。
もしも知っているのなら、と私は拳を強く握りこみ、姿勢をわずかに低く構える。暴かれる前に口封じができるなら、私はまだ知られたくないから同じことを繰り返さなければならない。
「ああ、それからあれは自作の魔法などではありませんよ。かつて、天才と呼ばれた一人の魔法使いの作ったものです」
賢者は、フィッシャーは私に片目を閉じて、ゆるく笑んで見せた。それは私を戸惑わせるには十分で、そうして作った時間で賢者は言う。
「その魔法使いの名前はディルファウスト=クラスターといいます。世に知られているように賢王とも呼ばれる思慮深い王でありますが、女神の眷属を唯一迎えた王族であり、そして女神の遺跡の殆どを破壊した王としても知られていますね」
「クラスター王の魔法は高度すぎて、現代では解明できる者がほとんどいません。もちろん、私も高等術式を研究する者ですから、解読に挑んではいますが、いまだ解読できていない部分が多いのですよ。あの術式は解読できたと思ったんですが、まだ解釈に微妙な違いがあるのかもしれませんね」
だから術が失敗したのか、それとも私が女神の眷属であるのはそれ以外の何かであることなど、賢者にもわからないのだと言われ、私は体の力を抜いた。ディも、まだ少し不安そうではあるが硬い空気を和らげる。
「まだ決まりじゃねぇんだな?」
「ええ、まだ、ね」
賢者の言葉に肯き、ディの足が私に向く。その足がゆっくりと近づいてくるのを見つめながら、私もようやく安堵した。
――まだ、決まりじゃない。
それがどうしても今の私にもディにも必要な言葉だった。ここで賢者が決まりだと言ってしまえば、どうしても変化は避けられない。でも、心の準備ができるまで、私は自分の正体をほとんど確信しているとしても、自分で認めたくないし、誰かに決めつけて欲しくもない。
ディも私と同じだったのだろう。すれ違いざまに私の頭に置かれた、ディの大きな手はやけに優しくて。
「すまねぇな、アディ」
戻ろうかというディの背が私を通り過ぎて歩いていくのを見て、私はひどく泣きたい気持ちになった。




