調
江島生島事件の関係者の取り調べは
述べ千五百人に上ったという。
寒風吹きすさぶ二月の朝
奉行所の固い小石の白洲の上に
正座をした二代目市川団十郎が
江島の役者関係者として
取り調べを受けていた。
町奉行の坪内の膝の前には
団十郎の家から家宅捜索で見つかった
近衛の家紋である杏葉牡丹の紋の付いた
高価な紫色の小袖が置かれている。
坪内が座敷の上から団十郎を見下ろし問う。
「団十郎、この小袖は如何なる物か?」
団十郎は美しい両手を白洲につき
坪内を見上げ
怯えながら言葉を振り絞った。
言葉を間違えれば役者生命が終わる。
「それは…江島様から頂いた物にございます」
「何時何処で江島から貰ったのか?
嘘偽りを申せば赦さぬぞ」
町奉行坪内の鋭い目が光り
それを見た団十郎は固唾を呑み答える。
「お調べの通り
昨年秋の芝居見物の後の酒席にて
江島様より
近衛太閤様ゆかりの珍しい物だからと
贈られたのでございます」
「ほう。
大奥御年寄の江島と最後に会ったのは
昨年秋で間違いないか」
「へえ、左様にございます。
私は昨年秋から
山村座の座元と揉めておりますので
筋を通し江島様からのその後のお誘いは
遠慮させて頂きました次第にございます」
坪内には
役者とはいえ真摯に答える団十郎の言葉に
嘘があるとは思えなかった。
調べによると
山村座には江島を始め
月光院の関係者ばかり名を連ねていて
大御台所や他の側室の女中達の影はない。
江島が団十郎に杏葉牡丹の小袖を流したのは
間違いなさそうである。
しかし、この事件が明るみにならなければ
近衛家杏葉牡丹の小袖は
近衛家の姫である大御台所熙子の咎と
誤解され尾鰭がついた噂となって
広まっていただろう。
不義密通を行っていたのは大御台所熙子
あるいは
熙子付き女中達が芝居通いに明け暮れ
不義密通三昧をしたと噂となり
誤解が蔓延り
やがてそれは真実として人々に認知され
熙子や近衛家の運命を絶ったかもしれない。
いや、それが狙いだったのだろう。
邪魔な大御台所熙子を追い落とし
月光院が幕府の実権を握るために。
この小袖は
近衛家の小袖であってはならない。
幕府と朝廷を災禍に巻き込んではならない。
坪内は暫く考えた後
頓智を放った。
「そうか、それではこの杏葉牡丹の紋は?
その方の替紋、
つまり団十郎個人の紋なのであろう?
贔屓客がそちの替紋を入れた着物を作り
そちに贈ったのだな?」
坪内は団十郎も処罰されるには忍びないと
替紋と言い助け船を出した。
江島が罪を問われているあの一月の
山村座の芝居と酒席に団十郎は居なかった。
「さ、左様にございまする。
手前共の替紋にございますれば。
忝うございまする」
厳しい沙汰が下ると身構えていた団十郎は
思いがけない坪内の、この助け船に
感謝しきれず平伏するばかりだった。
もう一つ
坪内は上役から調べよと指示された
ある質問を団十郎に投げかける。
「して団十郎。そちは宮路とも
酒席を共にした事があるのであろう。
宮路の印象は如何であった?」
「宮路様にございますか?
宮路様はそれは目の覚めるような別嬪で
初めてお会いした時は
大層驚いたものでございます。
流石大奥、美女揃いと」
はて?宮路殿は確かに美しいらしいが
格別別嬪とは聞いたことがない
怪訝に思った坪内が
団十郎の会った宮路について更に尋ねる。
「そちの見た宮路の背格好や顔は
どのようであったのか詳しく述べよ」
「宮路様はすらりとした背格好の
目の大きな大層な別嬪さんでございます。
御気性もさっぱりとした方で
何度か御贔屓に与りました」
「なんと…」
宮路は中肉中背で
性格も落ち着いた女と聞いている。
目の大きな美女で
さっぱりした性格とは聞いたことがない。
目の大きなさっぱりとした気性の美女…
思い当たる人物はただ一人。
将軍生母の月光院である。
坪内から嫌な汗が吹き出した。
あってはならない事が起こっていたのだ。
将軍生母月光院と役者の不義密通と
幕臣や商人との収賄
及び、五摂家筆頭の近衛家と
近衛の姫である大御台所熙子を
陥れようとする陰謀。
坪内は月光院の正体を知り背筋が凍った。
この様に空恐ろしい女が将軍生母とは。
こんな浅はかで愚かな女が幕府実権を握れば
身勝手に暴れるのは火を見るより明らか。
幕府は、日の本の国は、混乱するだろう。
五代将軍綱吉と、その生母桂昌院の世の
生類憐れみの令など霞むほどの
酷い世の中になる。
正に青天の霹靂だった。
そして、越前は
青い顔をした月番老中の秋元から
団十郎の会った宮路の容貌や
団十郎が江島から贈られた小袖の件を
報告された。
越前は予想してはいたものの
それ以上の事実を明らかにされて
顔面蒼白となった。
越前は思い出した。
家宣の遺言…
月光院に気をつけよ、確と見張れ、と。
月光院への家宣の懸念が
現実のものとなろうとは…
家宣は生前から
月光院の本性と所業を勘付いていたのだ。
月光院は宮路の振りをして
宮路の部屋から宮路の駕籠に乗り
何度も大奥から抜け出し
芝居見物と役者買いをし
幕臣や水戸藩士と通じ商人を抱き込こみ
ほぼ皇族の近衛家と
近衛の姫である大御台所熙子を陥れ蹴落とし
幕府実権を握ろうとしていた。
月光院の裏切りと陰謀
主君家宣と家継の名誉を地に落とし
両将軍の政を無にする裏切りと
家宣の最愛の妻であり家継嫡母の熙子を陥れ
幕府と朝廷の離反工作という大罪に
越前は青白い怒りの炎に包まれた。
絶対に赦さぬ!
完膚無きまでに叩きのめす!
越前から全てを報告された熙子もまた
怒りに震える。
人払いした大奥の御休息所に
熙子と越前
豊原と秀小路
そして月光院が
重苦しい怒りの空気の中、揃った。
白く美しい顔に
恐ろしいほどの怒りを湛えた熙子は
上段から月光院を見下ろし静かに責める。
「そなた、何という事を…
将軍生母の自覚はあるのか…
この徳川将軍家を…
文昭院様と上様の御威光をなんと心得る」
月光院は冷たい視線に耐えながらも
微かに笑み投げ遣りな以外な言葉を返した。
「文昭院様に深く御寵愛された
一位様には、決しておわかりにならない。
愛されない寂しさや渇きを。
じりじりと身を焦がす苦しさを。
江島や宮路は苦しみから逃れるため
外に仮初めの癒しを求めただけです」
この期に及んでも月光院は自らの非を認めず
江島や宮路のせいとばかりに
上司として庇う姿を見せる。
月光院のあまりの発言に
豊原が諌めに入った。
「月光院様、
一位様に無礼でございましょう」
「よい。豊原」
熙子が豊原に目配せをし
月光院に語りかける。
全てを知っていると言葉の内に滲ませて。
「そなたの産んだ
上様はお健やかではないか。
わたくしも法心院も蓮浄院も
文昭院様の御子を失っているのです。
将軍生母となれた
その幸運を有り難いと思わぬのか?
それにそなた程美しければ
幾らでも正妻にと望まれたはず。
何故奉公に出たのです?
ここにいるのなら
結局はそなたの選んだ道なのですよ。
そなたの所業はわたくしだけではなく
上様をも陥れたのです」
熙子に正論で諭され図星を突かれた月光院は
一瞬狼狽えたが為す術もない。
いつもいつも高貴な熙子には敵わず
品行方正で教養ある二人の側室の
医者の娘の法心院と
公家の姫の蓮浄院にも敵わない。
浪人の娘の月光院は
武家とは名ばかりの
踊り子出身の劣等感を抱えたまま。
浅ましい本性を隠すように月光院は
ただ投げ遣りに座っているしかなかった。
その月光院に
越前が容赦のない凍る声で告げる。
「月光院様には
髪を結うことを禁じまする。
御髪を剃られませ。
加えて御親戚が御危篤といえども
城外に出ることは罷り成りませぬ」
恋い慕う越前の冷たい言葉に
月光院は真っ青になり狼狽え崩れるように
越前に躙り寄る。
「なんですって?髪を?
親の死に目にも会えないのですか?
法心院様は御危篤の御父上を
見舞われたではありませんか。
わたくしだけ禁じるなど
あまりに惨うございます」
月光院は父 元哲の搾取子。
元哲の悲願の立身出世の夢を叶えるべく
月光院は大名を渡り歩かされ
漸く家宣に辿り着き蜘蛛の糸を掴んだ。
搾取子は親から虐げられるゆえに
認められたい誉められたいと切望する。
親への情と執着は根深くなる。
「この期に及んで何を申されるのか。
自業自得でございましょう」
越前の異形の物を視る目と蔑む声。
恋い慕う愛しい男からの耐え難い視線が
月光院の心を深く剔る。
月光院は将軍生母であるという強みに
溺れていた。
家宣亡き後の幕府に於いて
将軍生母であり従三位である自分には
誰も手出しなど出来ないと
高をくくっていた。
家継将軍就任後、早くも
月光院の足元は漆黒の闇に崩れて行く。
徳川実紀には月光院を褒め称える
長く詳細な記述があります
身内に身を慎むよう言っていたとか
口数少ない才色兼備だとか
なのに家宣の弟の松平清武に小言を言ったとか
口数少ない淑女が将軍の弟であり叔父に文句を言う矛盾も記されるなど
将軍家継よりも詳しく書かれているのです
一方、徳川実紀に
熙子や五十宮倫子などの御台所は
誰々の娘で何時結婚したなど
あっさりと書かれるのみ
九代将軍家重などの将軍生母についても
誰々の娘で御慈しみを賜り、とあっさり
月光院の詳しい記述は徳川実紀において
異様なのです
異様なほど褒め称えることで
何かを隠したかったとしか考えられません
後世の人々よ、行間読んでね頼んだ
と、聞こえてくるような気がします
当時の調べによると
月光院は江島と同様の不品行があったと
ということは
芝居見物とセットの役者買い
不義密通と幕臣や商人との収賄
当時から
江島は月光院の身代わりでは?
との噂が絶えなかったそうです




