第91話:翔のとまどい <翔サイド>
見直しました。
◆8月2日(日)
水草薫と別れた後の藤田翔は、実家への道を辿りながら、「薫のくせに、薫のくせに」と、何度も口の中で呟き続けていた。
もちろん、水草薫が悪いわけではない。だけど、彼女が今の翔を悩ませる要因のひとつであることは間違いない。
彼は、混乱していた。頭の中がごちゃごちゃで、全く整理ができていない。何から手を付けたたら良いのかすら、分からない状態なのだ。
最初は早かった彼の足取りが、徐々にゆっくりになって行く。やがて、ほとんど前に進まなくなった時、翔は実家の門の前に佇んでいた。
それでも翔は、しばらくの間、その場に留まったままで深く考え込んでしまった。
翔がショックだったことは、いくつかある。
直近で翔の心を苛む元凶は、さっきまで二人で会っていた水草薫なのだが、緊急に対処すべきは彼女じゃない。桜木莉子の方だ。彼女との関係修復こそ、迅速な対応が必要だ。
その莉子に翔は、昨夜の天王夏祭りでプロポーズして承諾してもらい、今日の昼に婚約指輪を渡したばかりだ。それなのに、その後のデートの最中、『急用ができたので、先に帰ります』というメッセージを残して、急に一人で帰ってしまったのだ。翔には、彼女が怒って帰ったとしか思えなかった。
もちろん、莉子が怒って帰ったのには、理由がある。彼女と二人で喫茶店にいる所に、突然、三人の女性が現れたのだ。
その三人とは、高校の剣道部で同期の山口沙希と水草薫、そして薫の幼馴染の水瀬美緒だ。そのうち、沙希と水瀬美緒は別にどうだって良い。問題は、元カノでもあった水草薫だ。
たぶん、薫が俺の元カノだってことを、あの時の雰囲気から莉子は察してしまったんだろう。あのタイミングで席を立ったのは、そうだとしか思えない。
ああもう、チクショー。何であいつら、あんな所に来やがったんだ。
いや、それは店の選択を間違えた翔自身が悪い。彼は、頭の片隅でそう思いつつも、どうにも納得がいかないのだ。
そんな訳で、大きく落ち込んだ状態だった翔に追い打ちを掛けたのが、薫の長い告白だった。
もっとも、後で思い返してみれば、彼女が語ったことの大半は既に翔が知っていることだった。知らなかったことは、薫が幼少の頃、多くの使用人達から疎まれていたということ、そして彼女の生家が凄く広いということぐらいだろうか。
それでも、翔が薫の告白で心に大きなダメージを負ったとしたら、それは彼自身の問題だろう。高校と大学の七年間、彼女に不誠実な関わり方をしてきたことを、その彼女自身の言葉で訊いて、その重みに耐えられなくなったのだ。それは彼が改めて自分自身と向き合った結果、過去の彼女に対する無知と無関心の罪に激しく苛まれているのだとも言える。つまりは彼が、それ程に罪作りな男だったということだ。
そして、そんな彼を更なる絶望に追い込んだのは、高校時代からずっと自分を好きでいてくれた彼女に対して、この期に及んですら何もできないという現実である。それらは全部、不甲斐ない自分が招いたこと。なので当然、彼は全てを受け入れて、それらを未来への糧とすべきなのだが、あいにく彼は、そうした類のことが苦手である。
その結果として翔は、今まさに混乱の極みにある訳だった。
俺には、昨日プロポーズしたばかりの莉子がいる。そんな状態の俺が、薫にいったい何ができる?
いや、薫は何も望んでやしない。そもそも薫は俺から何かを欲しがるような女じゃない。
でも、だからといって、このままで良いのか? 高校の時から七年も付き合った彼女が、借金を返せずに止むを得ず軍に入ろうという状態なのに、本当に何もしなくて良いのか?
しかも、あいつが借金をしたのって、俺が原因でもあるんだぞ。あいつが俺を追い掛けて東京に行きたいが為に、こしらえてしまった借金じゃないかよ。
とはいえ、よくよく考えてみれば、翔にはまだ知らないことが数多くある。
そもそも薫の借金って、いったい幾らなんだ?
たぶん、奨学金だけだったら、翔個人で何とかしてやれなくもない金額の筈だ。ただ、そこに家の借金が加わるとすれば、どうなんだろう?
そこからして、翔は分かっていないのだ。でも、それを今の翔が薫に訊いたって、教えてもらえる筈がない。今の翔は薫にとって、既に元カレでしかないのだから……。
こうして考えてみると、薫って女は、とてつもなく強い。
大学の時だって、ひたすら自分の窮状を俺に隠してたわけだし、就職の時だって、俺には全く頼ろうともしなかった。
何か困ったことがあった時、普通の女は彼氏に頼ろうとするもんじゃないのか? 少なくとも、相談くらいはして当然だろう。
生活が大変だった方は、まだ良い。問題は就職活動の方だ。
あの頃、薫は俺に自分の状況をあまり説明してこなかった。聞いても、いつもはぐらかそうとしてしまうので、翔も突っ込んでは聞かなかったのだ。
全部の会社に落ちてしまい、最後に見付けてきたのが派遣会社だと知った時、翔は愕然としたものだ。
あの時、俺が手を差し伸べてやっていれば、全てが変わっていたことは間違いない。俺だったら最悪、藤田コーポレーションへの口利きをしてやることができたのだ。どうしても東京に居たいんだったら、藤田の東京支店勤務にしてやることだって可能だった筈だ。
そもそも、俺が自分に釣り合わないからって勝手に決め付けて、入社式の前日に自ら別れ話を切り出すって、いったい何なんだ。何でそんなことができるんだ。
いつだって自分一人で苦しんで、何でも自分で決めちまいやがる。彼氏だった俺にすら、自分の窮状について何にも話そうとしやしない。
そして今もまた、全てを一人で決めてしまって、危険な戦場へと旅立とうとしている。
勝手な女だ。
翔は、腹を立てていた。だけど、そこでふと思ったのだ。
もし、薫が俺に縋り付くような女だったら、たぶん俺はそいつから逃げていたんじゃないのか?
ひょっとして薫が俺に頼ろうとしなかったのは、俺のことを誰よりも良く知っていたから、つまり、俺に頼っても仕方がないと分かっていたからじゃないのか?
それくらい俺は、役立たずで薄情な男だということだ。
翔には、水草薫という女がますます凄い奴に思えてきた。
彼女は元々、翔なんかの助けは必要としてなかったのかもしれない。
だけど今日、薫にショックを与えてしまったことは確かだ。
昔の彼氏の新しい彼女に会って、その彼女が婚約指輪をしてるのを見せ付けられたんだ。それで、ショックを受けない女なんていないだろう。
薫は、ああ見えて繊細だ。それは、翔が一番良く知っていることだった。
あの店から神社の手前まで天王通りを歩きながら、翔はずっと薫に何を言うかを考えていた。けど、どうしても思い浮かばない。七年間も付き合っていた彼女だというのに、最後に言うべき言葉を翔は、どうしても見付けることができなかったのだ。
「じゃあな」
結局、翔の口から出た言葉は、たったそれだけだった。そして、そそくさと彼女の傍から逃げ出してしまった。
それって、男としてどうなんだ。いや、人間として最低だ。
自分の不甲斐なさにすっかり打ちひしがれた状態の翔は、実家の玄関の前で、しばし茫然と立ち尽くしていたのだった。
★★★
それでも、いつまでもそうしているわけにはいかない。近所の人の目だってある。
翔は思い切って「ただいま」を言って、家の中に入った。すると、母の恵美がやって来て、「どうしたの、こんな時間に? 何かあったの?」と心配そうに話し掛けてくる。
出かける時、珍しくリビングにいた恵美に、「夕飯は彼女と食うからいらない」と言って、翔は家を出たのだ。何かあったことが、バレバレだ。
それでも翔は、できるだけ平静を装って、「莉子、今日は用事があるから、早く帰るんだってさ」と嘯いてみた。でも母親ってのは、そんなごまかしが通じる相手じゃない。
「何を言ってんの。その顔を見たら、それだけじゃないのが一目瞭然じゃない。どうしたの? 喧嘩でもしたの?」
やっぱり、母さんには適わないなあ。
そう思った翔は、莉子が途中で帰ってしまった経緯を正直に打ち明けた。
ところが、目の前でうなだれる息子を前にしても、恵美の表情は変わらなかった。
「もう一度、確認するけど、莉子ちゃんは、ちゃんと指輪を受け取ってくれたのよね?」
「うん」
「それで、お店を出てった時も、その指輪をしたままだったのよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、問題ないわね」
「えっ、なんで?」
「だって、指輪を受け取ったままなんでしょう?」
「でも、そんなの、あとで返しに来るかもしれないじゃん」
「そんなことしないわよ。彼女、桜木さんとこのお嬢さんなのよ」
そして、翔は恵美に、「ちょっと早いけど、ご飯にするから、お義母様、呼んできて頂戴。ほら、さっさと行って」と言われて、追い払われてしまった。
翔は首を傾げながらも、祖母の離れへと向かったのだった。
★★★
夕食後、翔が莉子と通話するタイミングを見計らっていると、おせっかいな母の恵美がまたまた話し掛けてきた。
「もう、だらしないわねえ。さっきからずっと、そわそわしっぱなしじゃないの。そんなに気になるなら、さっさと電話すりゃ良いじゃない」
「だって、まだ七時だしさ。たぶん、食事中じゃないかと思うんだ。せめて八時くらいにはならないと……」
「そんなの、分かんないじゃないの。電話してみて食事中だったら、あとで架けるって言えば良いでしょうが」
「まあ、そうだけどさ」
翔は恵美とそんなやりとりをした後、肩を竦めて「昭和の人は、これだもんな」と呟いた。
今どき「電話」って言葉自体、ほとんど死語のようなものなのだ。もはや電話機なんて、誰も使っちゃいないんだから。
そもそも翔だって、桜木莉子にチャットで「今、話せないか?」くらいは聞いている。返事が来ないってことは、「食事中」か「入浴中」か「何か別のことで取り込んでいる」か、それとも「翔のことを無視している」かのいずれかだ。
翔が焦っているのは、最後の奴の可能性があるからなのだ。
恵美の言葉を信じるとすれば、それほど大事にはならないということだが、そうだとしても、プロポーズをした翌日に早くもケンカ別れをしてしまったのだ。このままだと明日、犬飼葉月と鈴村千春の二人に吊し上げを喰らうのは、目に見えている。それだけは、どうしても避けたい所だ。
「そう言えば、私、さっき聞きそびれちゃったんだけど、その天王通りの喫茶店でバッタリ出くわした同級生の女の子達って、誰なの?」
今更そんなことを訊かれると思わなかった翔は、再び顔を強張らせて、その三人の名前を口にした。
「へえ、沙希ちゃん、小学校の先生やってるんだ。あの子、ハキハキして良い子だったわね。あんたとも気が合ってたみたいだし」
「男っぽい性格で、話がし易いからだよ」
「「そうね。分かるような気がするわ。確か、ご両親も教師だったわよね。ということは、まあ、妥当な所かしら」
沙希は中学も同じだったことから、親同士も多少は面識があったようだ。
「で、問題は中州の水草家の御令嬢ね。えーと……」
「水草薫」
「そうそう、薫ちゃん。高校の時、うちにも一度、来たことあったわよね。懐かしいわ」
意外なことに、恵美は薫のことを憶えていた。しかも……。
「あの時は、びっくりしたわ。あなたが水草家の娘と懇意にしてるってことは知ってたんだけど、まさか家に呼ぶような関係だとは思ってなかったもの。確か、図書館が休刊日だったから、うちで勉強しようってことで誘ったんだったかしら?」
「母さん、良く覚えてるね」
「当然よ。会社から慌てて帰って来たんだもの」
「えっ?」
「それより、彼女、翔と一緒に東京の大学に行ったわよね。優秀な子だったし、とても芯の強そうな子だったわ……ふふっ、あの時ね、私、ちょっと意地悪しちゃったの。うちのリビング、洋間でしょう。そこで、わざと抹茶を出してやったじゃない。羊羹まで付けて。さあ、どうするって見てたんだけど、あの子の作法は完璧だった。それに、落ち着いてたし、凛として全く動じてなかったわね。正直、あの歳であの態度は空恐ろしいと感じちゃった。『これが、あの水草の娘なんだ』って思い知らされた感じだったわ」
「だけど、あの時、母さんは……」
「翔には合わないと思ったのよ。あんたには、もっと積極的に引っ張ってってくれる子の方が良いかもって思ったの。ていうか、もっと正直に言うと、あんたとは釣り合わないかもって思えちゃったのよ。あの子、まだ高校生なのに、あんたとは比べ物にならないくらいしっかりしてたでしょう。それと比べると、あんたが見劣りするように思えちゃって、あの後、あんたに『農家は落ち目で、日本の農業には将来性が無い』みたいなこと言っちゃったわけ。まあ、あの時に言ったこと自体は正しいことではあるんだけど、完全に私の僻みだったわね」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。本当は私自身、あの子に怖気付いてたのかもね。なんたって、あの水草の娘なのよ。藤田もそこそこの伝統ある家だとは思ってるけど、水草の家には到底、敵わないわ」
「えっ? そんなに……」
翔は、恵美が薫だけじゃなく、水草家のことをそこまで高く評価しているのは、少し意外だった。
「まあ、今はすっかり没落しちゃったものね。あ、それとね。あん時のあの子、あんたのこと、そんなに真剣に思ってるようには見えなかったの。名家のお嬢さんだからでしょうけど、感情を表に出さないから、私が彼女の本音を読み違えたんだろうけど……。でも、あの時は、本気で藤田の嫁になる気があるとは思えなかったのよ。あと、ちょっと影がある子だったわね。たぶん、お家の事情なんでしょうけど……。今は、あんなことになっちゃった訳だし、当時もいろいろ大変だったんでしょうね」
恵美の話は長かった。翔にとっては、その中身があまりにも意外なことの連続で、ただ唖然として聞いていた。
「でもね、あんたを追って、あの子が東京まで行ったことを知った時、自分の見立てが間違ってたと思ったわ。それに……」
珍しく恵美は、そこでしばらく黙り込んでしまった。
「……それに、何?」
「ああ、ごめんなさい。私、あの子には、ひとつ借りがあるの。ほら、お父さんが死んだ時、あんたを私の所に連れて来てくれたのって、薫ちゃんだったんでしょう。あの時は私、お礼のひとことも言えなくて、葬儀の時にも来てくれたから、言葉を掛けようとしたら、すーっといなくなっちゃってて……」
恵美は、翔の父が死んだ時のことも、ちゃんと覚えていた。あの時の事は、翔にとっても痛い思い出だ。それなのに、翔は薫の父親が死んだときは何もできていない。
「だからね。もしも翔が、もう一度、あの子をうちに連れて来たら、私は反対しないつもりだった。もちろん、その時点で水草の家のことも、うちで引き受けるつもりだったの。かなり借金があるみたいだったけど、今の藤田が出せない金額だとは思えなかったもの。私はね、翔、あんたがあの子を連れて来るのを待ってたのよ」
「……っ」
「結局、あんたには、あの子を連れて来るだけの甲斐性は無かったってことなんでしょうね。結果的には、高校生の時、あの子が家に来た時に私が感じたとおりになったってことかしら。ちょっと惜しい気もするけど、あんたとあの子じゃ、所詮、釣り合わなかったってことよ」
恵美がここで言う「釣り合わない」は、個人としての力の差だ。薫が言っていた釣り合わないは、社会的立場のことで、全く違う。
今の社会的立場では翔の方が上でも、裸の個人としての力では、翔は薫に負けているということだ。
「あの、薫って、そんなに……」
「当然でしょう。あの子だったら、藤田の嫁を充分に任せられるわよ。当時は私も倉橋に言って、あの子のことは一通り調べてもらったから、あんたが知らないことだって知ってるわよ。人の器としては、莉子ちゃんなんかより、ずっと上。まあ、あの水草の娘なんだから、当然なんでしょうけど……」
「水草家って、そんなに凄い家……」
「えっ、あんた、知らないの?」
「あ、いや、最近、知ったんだけど、大名家の末裔だとか……」
「最近ってことは、付き合ってた時は知らなかったってことね?」
「……うん、まあ」
「呆れた」
恵美が言うことは、もっともなので、翔は黙って項垂れているしかない。
「普通、好きな相手のことは、何だって知りたがるもんなんじゃないの? まして、長く付き合ってるなら、知ってて当然だと思うけど。それに、そもそも水草家のことなんて、日本史の教科書に出て来るでしょうが」
「俺、日本史、取ってないから」
「それだって、この辺りに住んでるんだったら、知ってて当たり前よ。水草っていうのは、元々は室町以前から続く豪族でね、大河の中州の広大で肥沃な農地を千年以上に渡って支配し続けてきた一族なの。戦国時代には、水軍と言われる小舟をたくさん持っててね、中州以外にも大河周辺の地域に大きな影響力があって、織田信長の美濃攻めだとか長島の一向一揆制圧とかにも兵を送って活躍したし、信長が堺の商人から鉄砲を大量に購入した際、資金を提供したりもしてるわよ。もっとも、そん時は藤田も間に入って活躍したんだけどね」
翔は、それらを最近になってネットで見て知ったわけだが、正直、未だに薫がそんな名家の末裔だということを信じられずにいた。
「でも、そんな古い家だったら、分家とかいろいろあるんじゃ……」
「もちろん、ちゃんと調べたわよ。薫ちゃんは水草本家の長女。正真正銘の第一子よ。ただ、一人っ子が二代続いてて、あの子の代は娘二人だけ。有力な分家は幾つかあるんだけど、結局、誰も水草の没落を防げなかったわね。あの子の曾祖父は県会議員で、農地改革の時に役人を丸め込んで骨抜きにしてしまう程、凄い人だったんだけど、その後の当主は、はっきり言って凡人でね。特にあの子の父親は酷かった」
「そうなんだ」
「薫ちゃんが、もう少し早く生まれてて、水草の実験を握ってれば違ったのかもね。あの子の曾祖母の水草朋子って人、水草の女傑って言われてた凄い人でね。お義母様が若い頃、会ったことがあるそうなの。とても聡明で、しかも神々しいまでに綺麗な人だったんですって。昔のお義母様、あまり人を褒めない人だったんだけど、水草朋子のことはべた褒めだったわ。でね、その人の写真をこないだ見せてもらったんだけど、薫ちゃんと瓜二つよ。倉橋のレポートによると、薫ちゃん、水草朋子の再来って言われてるみたい。まあ、今の状態からの復活は、まず無いだろうけどね」
「あの、水草家って戦国大名ってことなんじゃ……」
「何を言ってんの? 教科書に載ってるのはそこだけだろうけど、全く違うわよ」
「えっ?」
「家康は、水草を五万石の大名に据えるつもりだったみたいだけど、水草の方は断ったの。その代わりに中州の自治を認めさせて、中州は幕府の直轄領。水草家はそこの代官になったのね。ただ、当時の石高で八千石はあったそうだから、実質的には大名よ」
「そうなんだ」
「でね、明治になっても、中州の本当の支配者は水草家。戦後、中州は川田村の一部になったんだけど、実際は独立した行政区だったみたい。川田村は単に隠れ蓑にしてたようなものね。さっき言ったように、農地改革も何故か、ほとんど影響無しでね。水草家には、五百人を越える使用人がいて田畑を耕してたってわけ。まあ、使用人の数は、機械化とかでどんどんと減って行ったみたいだけど、薫ちゃんが子供の頃は、まだ大勢、残ってた筈よ」
「でも、そんなに力を持ってた家が、何で没落したりなんか……」
「細かいことは色々あるんだけど、例えば、薫ちゃんの祖父の代から政治的な力を失くしてしまったとかなんだけど……あ、でも、直接的な理由は、外資系企業に乗っ取られたってことよ。戦後になっても、中州が治外法権扱いだったのが裏目に出たみたいね。それで、政府も介入できなかった……というのは方便で、実際は県や市のお偉いさん達が企業側に買収されてたって噂だけど……、農協とかもグルだったみたいよ。まあ、弱体化した水草家を、皆で寄ってたかって潰したって感じかしら。あんまり公にはされてないんだけど、最後の方は相当にあくどいこともされてたみたいね。薫ちゃんは東京にいたから無事だったみたいだけど、確か、妹さんとかいたでしょう? 良く無事でいられたと思うわ」
「……そんな」
「まあ、全部が済んじゃった話だけどね。薫ちゃんだって、相当に苦労したんでしょうね。本当は、そういう苦労した所も、私には魅力的に思ったんだけど……。ほら、そういった経験をすれば、当然、逆境に強くなって、ちょっとのことでは動じなくなるじゃない」
そこで、恵美は翔の顔をじろっと見てから話を続けた。
「それに引き換え、翔は今まで碌な苦労もせず、のほほんと育ってきちゃったから、私は心配なの。まあ、莉子ちゃんがそこそこしっかりはしてるから、何とかなるとは思うけど……。あれ、どうしちゃったの、翔。さっきから黙っちゃって」
「だって、薫がそんな凄い奴だとは思ってもみなかったから……」
「ふふっ、あんたが水草の娘を家に連れて来た時は、さすが私の息子だって思ったけど、それって単なる偶然だったのね。まあ、強運の持ち主だってことは認めるけど、その運も結局は逃しちゃったわね」
「だって、薫、東京にいた時は、本当にビンボーだったし……」
「そんだけ、家が大変だったってことでしょう。あの子がうちに来た時に少し話してあげたのに、私が言ったことなんか無視しちゃうから、こういうことになるの。まあ、あの後、お父さんが死んじゃって大変だったのは分かるけど、もう少し薫ちゃんのことも考えてあげて、一緒に悩んであげたりできていれば、違った未来があったのは間違いないわね。本当にもったいない話だこと」
「……っ」
「まあ、今更、あんたにそんなこと言っても仕方ないわね。莉子ちゃんにプロポーズしちゃったわけだから」
「……」
「どうしたの? 逃した魚は大きかったとか思ってるんじゃないでしょうね。駄目よ。あんたのそういう優柔不断なとこは、悪い癖。自分が一度、決めたことには、責任を持ちなさい。じゃないと、あんた、そのうち全部を失っちゃうわよ」
恵美が言ったことは、薫に言われたことでもあっただけに、尚更、翔の心を抉った。
しかし、相変わらず恵美は鋭い。翔が触れられたくない所を的確に突いてくる。
「まあ、莉子ちゃんは翔のそういう不甲斐ないとこも、ちゃんと分かってくれてると思うけどね。あの子は、それでもうちの嫁に来るって言ってくれてるのよ。どうせ翔は、『修羅場だ、どうしよう』とか思ってんでしょうけど、違うからね。莉子ちゃんは、そんなやわな女の子じゃないわ」
恵美は、そこで大きく溜め息を吐いてから、先を続けた。
「あんたの優柔不断なとこって、ほんと、晶さんにそっくりね。私はね、莉子ちゃんのことよりも、翔がふらっと薫ちゃんの方に行ったりしないかの方が心配。もっとも、薫ちゃんだって、あんたのことなんか、もう見限ってるでしょうけどね」
恵美の表情が少し険しいものになった。鋭い目で翔を睨み付けてくる。
「いい、翔。あんたには、もう莉子ちゃんしかいないの。あの子を逃したら、あんた、絶対に後悔するからね」
「でも、今、薫は……」
「確かに、大変でしょうね。だけど薫ちゃんは、どんなに苦しくたって、翔なんかに助けを求めたりしないわよ。誇り高き水草の娘だもの。今更、あんたに助けを乞うくらいなら、野垂れ死にする方を選ぶでしょうね」
「……っ」
「だから、もうきっぱりと諦めなさい。ものは考えようよ。確かに薫ちゃんは素晴らしい女性ではあるけど、今の水草家は、私達に何の利益も生み出してはくれない。一方の桜木家の場合は、多くの可能性があるの。結婚は家と家との新たな繋がりな訳だし、莉子ちゃんとの結婚にだって、大きなメリットがあるのよ」
「で、でも……」
「あのね、翔。この際だからはっきり言っとくけど、男は、たった一人の女しか幸せにできないの。それを忘れないこと、良いわね」
★★★
恵美の長い話が終わって、ようやく解放された翔は、自分の部屋に戻ってもしばらくはぼんやりとしたままだった。それだけ、恵美との会話で疲れ果ててしまったのだ。
それでも、莉子との関係修復は急務だ。気は重いが、やはり早く連絡を取って、今日のことを謝っておく必要がある。
ところが、今、翔の頭に浮かんでくるのは薫のことばかりだった。
『私なんかが、翔くんと釣り合うわけないのにね』
さっき恵美は、翔が薫に釣り合っていないと言ったけど、社会的立場としては、薫の言葉は正しい。だから、翔は否定しきれなかったのだ。
薫のことにもっと早く気付いて、それなりの対応をしていれば、また別の道もあったかもしれない。だけど、さっき恵美が言ったように、全てがもう手遅れということだ。
やはり、薫のことは諦めるしかないんだろうな。
翔は、薫の無表情な顔を思い出す。整ってはいるが愛想の無い、まるで人形のような顔。莉子の曇りのない笑顔とは、まさに正反対だ。
いつだって莉子は、翔に優しい笑顔を向けてくれる……。
その時、翔の左手首のウェアラブル端末に、ようやく莉子からの着信があった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、莉子からの電話での告白になります。「莉子の決意」です。
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