第90話:薫の思い <薫サイド>
見直しました。
元カレの藤田翔と再会して二度目の日曜日、水草薫は、いつも通りに朝の八時からバイトだった。前日は久しぶりの天王夏祭りに行って割と楽しめたことで、薫はスッキリと明るい気分で、バイト先のコンビニEマートに入って行く。
「パぴパぴ」の聞き慣れたチャイムの音と共に、「おっはようございまーす」の元気な女の子の声がした。そうやって迎えてくれたのは、女子高生バイトの浅野里奈だ。
薫がギリギリに飛び込むことが多いのに対し、里奈はシフトの十分前には店内にいて、ちゃんと引継ぎとかをしてくれている。明るくて可愛いだけじゃなくて、とても熱心で優秀な子なのだ。
「水草さん、昨日、見ましたよー。射的、凄かったですぅ」
「ええーっ、いたんだったら、声を掛けてくれたら良かったのに」
「だってえ、すぐに大人の人達が寄って来て、お話しされてたから、声を掛け辛かったんですー」
「大人の人って、ああ、美香とかだね。美香は愛衣ちゃんの担任の先生でね、後の二人は市役所勤務なんだ」
「ふーん。水草さんって、そんな大人の人達とも、お知り合いなんですねー、あ、それと、水草さんの浴衣姿、すっごく似合ってましたよー。あの時、隣にいらっしゃった女の人、お姉さんですかあ……あれ? 店長、何で笑ってるんですかあ?」
薫が後ろを振り向くと、日比野店長がお腹を抱えて笑っていた。
その店長を薫が思いっ切り睨み付けた所で、「パぴパぴ」とチャイムが鳴った。
「「いらっしゃいませー」」
それからは、いつも通りの仕事が始まったのだけど、普段よりもお客さんが多い。特に十時を過ぎると、それが顕著になった。十一時に主婦の野田さんが来てくれて、本当に助かった。
正午になると、里奈との入れ替えで牧野愛衣がやって来た。三人でお客さんを一生懸命に捌くのだが、一向にレジの行列が短くならない。
そこで、やっと気が付いた。今日は、まだ夏祭りで、昼間のイベントが天王池公園である日だった。
内容は、子供向けのヒーローショーだとか、老人のカラオケ大会だとかの地味なものだけど、それなりの集客力がある。
という訳で、とても午後一時には上がれず、ようやく薫がEマートを出られたのは、店内の壁にあるデジタル時計が午後一時三十分を過ぎた後のことだった。
★★★
薫が待ち合わせのファミレス「大衆食堂」に着くと、水瀬美緒と山口沙希は、食事の最中だった。美緒はオムライスとサラダ、沙希は海鮮丼を頬張っている。
その二人に「遅い」と言われて、一応は薫も謝ったものの、二人がしつこいので、「天王池公園で夏祭りのイベントがある日なんだから、仕方がないじゃない」と開き直る。
「しっかし、もうすぐ軍に入るってのに、いつまでバイトを続けるんだい?」
「店長には、『今週一杯で辞めるかも』みたいなことは言ってあるんだけど、まだ分かんない。正式な入隊日も決まってないしね」
「でも、借金の目途が付いたんだったら、無理して働く必要もないんだろう?」
「それは、そうなんだけどね……あ、私、海鮮丼で。ドリンクバーも付けてもらえます?」
可愛い制服姿のウェイトレスが注文を取りに来てくれたので、薫は沙希と同じ海鮮丼を頼んだ。それから、ドリンクバーの方は、「これを付けておくと、二時間くらいは余裕で居座れるよ」と美緒が言うから、追加しておいた。
ちなみに、この「大衆食堂」は、こないだの土曜日、沙希を含めた高校剣道部の仲間四人で飲んだ居酒屋「大衆酒場」と同じ系列のお店だ。
安い値段設定の割には料理がおいしい。しかも、最近のファミレスは注文を専用のタブレット端末に入力するスタイルが普通で、注文した料理もロボットやコンベアで運ばれて来るのが主流になりつつある中、この店はウェイトレスが笑顔で注文を取りに来て、料理を運んで来てくれる。その上、そのウェイトレスの衣装が可愛いと、最近ネットで話題になっているのだ。人気が出ない訳がない。
この店の仕掛けは、それだけではない。子供向けのメニューが充実していて、オモチャまでくれる。更に現在、イケメンのウエイターの導入を検討中だとか……。
これらは全て美緒からの情報なのだが、何で彼女がこんなに詳しいかと言うと、彼女の叔母の桐山朱音から色々と聞かされているからだ。というのは、実は朱音の夫の桐山晴臣が居酒屋チェーン「大衆酒場」のオーナー経営者で、その大衆酒場が新たに始めたファミレスチェーンが「大衆食堂」だからである。そして、この天王店は、最近できた一号店ということだ。
ついでに言うと、美緒が働いているスナック未来のオーナーも桐山夫妻で、その店は晴臣から朱音にクリスマスプレゼントとして贈られたのだという。もっとも、当時の朱音はキャストとしてその店で働いており、前のオーナーの都合で店が売りに出された際、「朱音が職を失わないように」と晴臣が買い取ったというのが真相らしい。
「この店は前の店の座席とかをそのまま使ってるから、ファミレスとして違和感ない雰囲気なんだけどね、今月オープンする二号店と三号店は、もっと殺風景な感じになるみたいだよ」
「えっ、殺風景って?」
「もっと、食堂っぽい感じになるんだと思う。要は、名前の『大衆食堂』ってコンセプトに合わせるってことだね」
「てことは、床とかもコンクリートの内っ放しだったりすんのかな」
「そういうことだと思う」
「あのさあ、それって大丈夫なの? 大衆酒場みたいな飲み屋だとか、それこそ安けりゃ良いっていう『飯屋』って感じなら分かるけど、ファミレスの存在意義って、普段の食事とは別の所にあるんじゃない? 『ちょっとした贅沢』っていか、『ハレの日の演出』っていうか……、まあ、庶民の下の方まで客層を広げたいってことなんだろうけど」
「そんでも、ホントの貧民は、やっぱり行けないと思うよ」
「薫が今いる地区の住民は、食べられれば何だって良いってことでしょう?」
「あ、でも、お酒は飲みたいみたい」
「嫌なことを、忘れられるからだろ。まあ、薫の話は別として、あたしも沙希の言うのも分かるんだけど、叔母さんが言うにはね、ウェイトレスが可愛ければ入れ物なんてどうでも良くて、ちゃんんと客は入るんだってさ。それに椅子の座り心地が良すぎない方が、客の回転率が上がるんだって言うんだ。まあ、それがハズレだったら、すぐに直すんじゃないの」
「確かに」「そだね」
この突然の食事会は沙希の発案だったんだけど、その沙希の口数が少ないのが、薫には少し気になった。いつもの沙希と比べると、テンションが低い気がする。
沙希がトイレに行った時、そのことを美緒に行ったら、「お酒が入ってないからじゃないの」という答えだった。確かに美緒は、お酒が入っていない時の沙希のことは、あまり知らないのかもしれない。
最近の沙希は、愚痴っぽい。それは、四月に変わった新しい小学校の教頭がパワハラオヤジで、何かと沙希を目の仇にしてくるからだ。薫は、そのうち沙希がプッツンして、何かやらかさないかが心配だった。
その沙希が、今日は珍しく自分の話をせずに、人の事を聞きたがる。薫が「なんか、いつもの沙希と違う」と言うと、「別に良いじゃない。てか、今は私のことより、薫のことの方が気になるんだよ」と言う。
考えてみれば、そうかもしれない。だって、もうすぐ私は軍に入るのだから……。
そう思った薫は、それ以上、沙希のことは追及しないことにした。
「でもなあ。私のことって言ったって、何もないよ。えーと、こないだ、うちのコンビニにチンピラ風のオジサンが四人、ぞろぞろと来ちゃってさあ。まあ、前にもあったんだけど……」
最初に話したのは、愛衣のお父さんの話だった。
「確か、夜の九時をだいぶ過ぎてた頃だったっけなあ。お店の中で暴れそうだったから、私、天王池公園に誘ったんだ。そしたら、バイトの男の子が気を回してくれて、パトカーを呼んじゃったの。彼のお父さん、警察署のお偉いさんでね……」
「ちょ、ちょっと待った。それで薫は、大丈夫だったんかい?」
「えっ、もちろん大丈夫だけど……」
「相手は、チンピラの男が四人なんでしょう?」
「そうだけど?」
二人に、すっごく心配されてしまった。何でなんだろう?
「それからね、その次の日、初めて射撃訓練に行ったんだ……」
あの射撃訓練は、とっても楽しかった。だから、話しているうちにテンションが上がっちゃって、大勢の隊員に見られてしまい、恥ずかしかったことまで話してしまった。
「ふーん。まあ、薫は運動神経が良いもんね。そういうことは、得意だと思うよ」
「そっかなあ」
「まあ、あれだね。金魚すくいとかと一緒だね」
「えっ、何それ、美緒?」
「沙希は、知らなかったのかい。薫に金魚すくいやらせると、すぐに金魚がお椀から溢れちゃうんだよ。どうせ、昨日の夏祭りでもやらかしたんじゃないかい」
図星だった。それで薫は正直に、商品券をゲットしたことを打ち明けた。もちろん、妹の楓のことも付け足しておく。
「ふーん。薫が東京に行ってる間に、楓ちゃんも薫の技を習得してたって訳かい」
「そだよー。さすが、私の妹だね」
「まあ、血は争えないってことだねえ。だけど、それで貰った一万円の商品券を全部、使い切っちまうってのが凄いと思うよ。いったい、どうやったんだい?」
「私だけじゃないよ。四人でだよ」
「四人だって、普通は使い切れないんじゃないかい?」
「うーん、実を言うとね、射的もやったんだ」
「えっ、射撃訓練の後の射的だろ。それって、反則なんじゃ……」
「違うよ、美緒。射的と本物の拳銃は別……だと思う。たぶんだけど」
「で、商品を全部、かっ攫っちゃったんじゃないの?」
「ううん。ぬいぐるみだけだよ、沙希。私だって、そこまではしないもん」
「充分、やり過ぎだと思うけどねえ」
それから薫は、大勢の野次馬の中に中野美香、大鹿久美、松永陽輝の三人がいて、それぞれにぬいぐるみをあげた話をした。
「……あん時は、松永くんまでぬいぐるみを欲しがるとは思わなかったな。でも、松永くんにぴったりのがあって、本当に良かったよ」
「へえ、どんなのだい?」
「狸のぬいぐるみだよ。それ、こーんな顔してるの」
「うわ、何だい、その顔……ふふっ、あははは」「キャハハハ……」
「もう、美緒も沙希も、笑い過ぎ。私は、松永くんに似てると思ったから、あげたってのに……、ひどい」
結局、そのファミレスには、しっかり二時間いて、その間、馬鹿な話ばかりしていた。薫だけじゃなくて、美緒のお店のこととか、美緒の叔母の桐山朱音のこととか、彼女の娘の心愛ちゃんのこととか……。
それから外に出て、次はどうしようかと思ったら、沙希が高校時代に良くよく行った喫茶店、「喫茶ビクトリア」に行きたいと言い出した。喫茶店と言ってもケーキ屋を兼ねていて、ケーキの種類が豊富で安くて美味しい、女子には人気だったお店だ。
「あんた、さっきからドリンクバーのアイスコーヒー、やたらと飲んでたでしょうが」
「だって、デザートは食べてないじゃない」
「あたしは、もう少し落ち着いた雰囲気の店の方が良いんだけどね」
「沙希は高校の時、良く行ったお店だから、行きたいんだよ。私も、こっちに来てから行ってないんだ。せっかくだから行こうよ、美緒」
「そうかい。薫がそう言うなら、行こうかね」
こうして三人は、薫の元カレが新しい彼女といる店に向かって行ったのである。
★★★
もちろん薫には、藤田翔に会いたいだなんて思いは、これっぽっちも無かった。それどころか一週間前の日曜日に、もう二度と彼には会わないと決めたばかりだったのだ。
まさに、神様の悪戯だと思った。薫にとっては、人生の余計な一ページ……。
それだからこそ、自分の素直な思いを彼にぶつけることができたんだと思う。
薫は、そんな風に考えていた。
当然、そんなことをしたって、何かが変わる訳ではない。薫と翔との関係は、三年と少し前、お互いに大学を卒業した時点で終わってしまっているのだ。
だから、全ては自分自身の為。ゲームで言うなら、自分の心の中の何かに決着を付けて、これ以上は引き摺らないようにする為のボーナスステージとでも言った所だろうか。
だけど、それが果たして何処までうまく行ったかは、自分でも良く分かってはいない。てか、正直いうと、あまり自信がない。
最初に何を喋ろうかを考えてから口を開いたつもりだったけど、話しているうちに、なんか、ぐちゃぐちゃになってしまった気がする。
途中からは、ただ思いの丈を彼に投げ付けただけの結果になってしまった。
それに、ほとんど自分が一方的に話しただけで、彼の発言は最後に少しだけだったのも気になる。しかも、その内容が、全くもって筋違いなものだったことも不本意ではあった。
まあ、彼の私に対する認識なんて、どうせあの程度だと思ってはいたから、想定内ではあったんだけど……。
つまり、彼の前で何をどう話した所で、どうせ何も伝わりはしないのだ。
所詮は、私の自己満足。
きっと、彼には迷惑だっただろうな。
でも、どうせもう最後なんだから、そのくらいは良いよね?
そう思って、薫は席を立つたのだった。
★★★
「出ましょう」
翔に長々と自分の思いをぶちまけた後、薫は立ち上がってテーブルにあった伝票を掴むと、早足でレジの方へと歩いて行った。
支払いは、軍のクレジットカードを使った。指紋か虹彩認証だから一瞬で決済ができて、とても便利だ。
翔は、少し遅れて追い掛けて来たけど、その時には既に薫は、店のドアを押して外に出ていた。
「薫、お金は?」
「大丈夫だよ、もう済ませたから」
「済ませたって、どうやってだ?」
「軍のクレジットカード。今日は、私の奢りで良いよ。今まで、い-っぱい奢ってもらったんだし」
「でも……」
「あのね。今の私って、実は結構、リッチなんだ。と言っても、まだ現金は持って無いんだけど、クレジットだったら、かなりの金額が払えるみたい。まあ、私も知ったのは、数日前なんだけどね」
「そうなのか?」
「うん。軍での私のお給料、相当に良いみたい。たぶん、翔くんより、ずっと高給取りだと思うよ」
もうすぐ陽が沈みそうな時間だったけど、外はまだ暑い。ここに立っているだけで汗が滲み出て来る。
不毛な言い争いをしている場合じゃないと思った薫は、天王通りを神社の方に向かって歩き出した。
しばらくすると、翔が薫に追い付いて来る。すると薫は翔よりも一歩下がって、彼の後ろを付いて行く形に変わった。
今まで、薫はずっと翔の後ろか斜め後ろを歩いてきた。高校の時からずっとだから、もう薫の身体に習慣として染み付いてしまっている。
薫は、そんな自分に心の中で苦笑いするしかない。
最初のうち薫は、前を行く翔が何か話し掛けて来るんじゃないかと身構えていた。だけど、いつになっても彼は何も言ってこない。
二人は、ずっと無言のまま歩き続けた。
天王通りを行く二人の正面に、真っ赤な夕陽が見える。この夕陽はやがて大河の向こう、養老山脈の山際に今日もゆっくりと沈んでゆくのだろう。
薫の前を行く翔は、その夕陽に向かってどんどんと歩いて行く。まるで夕陽の中に彼が消えて行ってしまうんじゃないかと、変な錯覚を覚えてしまいそうになる。
翔の背中を見て歩きながら、薫は思った。
今までの私は、ずっと彼の背中に追い付こうとしていた。どうせ追い付けやしないのに、いつも必死になって追い掛けていたのだ。
それで終いに引き離されて、彼を見失って過ごした東京での最後の三年間は、本当に惨めだった。
もう止めよう。
そんなことをしたって、何の意味も無いのだ。
色々と考えていたら薫の歩みが遅くなっていて、気が付くと翔から離れてしまっていた。だけど、もう薫は足を速めることはしなかった。自分のペースでゆっくりと歩くことにしたのだ。
翔は最後まで薫の方を振り返らず、天王通りをすたすたと歩いて行った。それでも、神社の手前では立ち止まって、薫を待っていてくれた。
そこで二人の道は、右と左に分かれる。
翔の家は左手、裕福なお屋敷街の中にある。
薫のアパートは右手、こっちは貧しい人達が集まって暮らす地区、いわゆる貧民街だ。
薫がやっと追い付くと、翔は「じゃあな」とそっけなく言って去って行く。
薫も「じゃあね」と呟いてみたけど、その時は既に翔はいなくなっていて、彼女の声が彼に届くことは無かった。
★★★
翔と別れた後、薫は、自分の身体から何かがごっそりと抜けてしまったような感覚に捉われていた。
もう彼とのことは終わったと思っていたのに、この大きな喪失感はいったい何なんだろう。
考えてはみたものの、答え何て分かる筈がない。
薄暗くなり掛けた貧民街は、相変わらず殺伐としていた。道のあちこちにゴミが散乱し、独特の饐えた臭いが漂う通りを、いつもよりもゆっくりとした歩調で薫は進んで行く。
あちこちにたむろッているのは、良き場を失くした人達と、捨てられた野良猫、そして、生ゴミや死骸を漁る黒いカラス逹だ。
この街に薫がやって来て、既に半年以上。人生の覇気だ目のような所にも、いつの間にか慣れてしまった。
「おい、坊主。なんか、陰気クサい顔しとるなあ……って、お前、女だったのかよ」
ここらで良く見掛ける厳つい男が、声を掛けてきた。やはり薫のことは、男だと思われていたようだ。
「まあ、女でも良いけどよ。これでも飲んで、元気出せよ。ほら、やるよ」
そう言って男が投げて来たのは、カップ酒だった。思わず彼の方を見ると、二かっと笑って親指を立てて見せる。薫は頭を下げて、「すいません」と呟くように言った。それから、男の前でプルタブを引っ張ると、一気に飲み干してしまう。少し遅れて、お腹の中が熱くなる。少しだけ、気が楽になった気がした。
薫は彼に、「オジサン、ありがとう」と言って、再び歩き出す。
それからは誰にも出会わずに、天王シネマの前に来た。相変わらず、若い男達がたむろっている。薫は最近になって知ったことなのだが、最後の上映が終わるのが、この時間のようなのだ。つまり、これより遅い時間は危険だから、客が入らないということなんだろう。
薫は、こんな所の映画館が、未だに営業しているのが不思議だった。
前を通る時、男達が何人か薫の方に顔を向けたけど、そのままだった。薫の方は、相手をする気満々だったのだが、肩透かしを食らった気分だ。
アパートのドアを開けたら、妹の楓が古い黒革のソファーに座ってタブレット端末をいじりながら、何やらブツブツと呟いていた。何かを暗記している所だったらしい。
薫は、小さく「ただいま」を言っただけで、そのまま服を脱いでシャワーを浴びる。バスタオルで身体を拭いてから、着替えが無いことに気付いた。ハダカのまま楓の前を通り過ぎたけど、何も言われなかった。
いつもの通り、Tシャツと楓の中学時代のジャージ姿で台所に立つ。そこで、ようやく楓から声が掛かった。
「お母さんがお惣菜を貰って来るから、おかずはいらないそうだよ。ご飯は、炊飯器のスイッチを押すだけになってるから」
「分かった」
「お惣菜、ギョーザじゃなきゃ良いけどね」
「そう言えば、こないだのギョーザ、まだあるよね」
「今度、智也くんが来たら、出してあげるつもり」
「そっか」
それから楓は、再びタブレット端末に目を落としてしまう。
やることが無い薫は、楓の隣に腰を下ろした。すると、またもやブツブツ言い出していた楓が、がバッと顔を上げて訊いてきた。
「あれ? お姉ちゃん、お酒、飲んだの?」
薫は、少し考えてから答えた。
「そう言えば、飲んだかも」
「何、その今思い付いたみたいな言い方」
「だって、本当に今思い付いたんだもん」
「もう。何処で飲んだの?」
「すぐそこ」
「すぐそこって、何処よ」
「そこの道のとこにいたオジサンに、カップ酒を貰ったの。それで、むしゃくしゃしてたから、その場で飲んじゃった」
「えっ、オジサンって、道の隅でしゃがんでる人だよね……。あの、意味、分かんないんだけど?」
「オジサンにね、『陰気クサい顔してんなあ』とか言われて、カップ酒くれただけだよ」
「あのさあ、いくら貰ったからって、その場で飲む?」
「別に良いじゃない。飲みたかったんだもん」
「ありえん」
楓に呆れられてしまった。
「うーん、私って、いつの間にか、この街に馴染んでる?」
「もう、そんな風に言わないでくれる?」
楓が、ちょっとだけ怒った声を出した。
「そういや、こないだ、お姉ちゃんが子供達に、チョコあげてるの見たよ」
「えっ、何処で見てたの?」
「ベランダから。たまたまだけど」
「ケンタとミミはね、働き者なんだよ」
「働き者って、その子達、何やってんの?」
「うーん、お金を持っていそうな大人の人を見付けて、『お金、ちょうだい』って……」
「何それ、物乞いじゃん」
薫は、腕組みをして何やら考え込んでいる楓を見て、少し楽しくなってきた。
★★★
それから、まもなくして母の佳代が帰って来た。時刻は午後八時五分。日曜日は、家族三人で一緒にご飯を食べる日なのだ。
「うわあ、いっぱいあるじゃん。焼き鳥に春巻き、いつものコロッケとポテトサラダ、あ、これってエビチリじゃん」
「お刺身もあったんだけどね、当たると怖いから、止めといたよ」
「そだね。私、今日のお昼に海鮮丼を食べたから、お刺身はいいや」
「何それ、ずるい」
「ファミレスの大衆食堂って、こないだできたでしょう。美緒と沙希と一緒に行って来た」
「お姉ちゃん、何気で最近、贅沢してるよね」
「うーん、どうだろう。まあ、そのうち、楓も連れてってあげるよ」
「えっ、いつ? 私、予定、入れとかなきゃ」
そんな会話を交わしながらも、二人で次々とお惣菜をお皿に移して行く。それから、ご飯をお茶碗によそって、冷蔵庫から漬け物と麦茶を取り出すと、三つのコップに麦茶を注ぐ。
準備が出来たら薫と楓も席に着いて、それぞれが「頂きます」を言った。
「ああ、美味しい。お姉ちゃん、このエビチリ、サイコーだよ」
「チンした方が良くない?」
「ううん。夏だし、冷たいままでも充分に美味しいと思う」
コロッケにはウスターソースを掛けてから、大きな口を開けて頬張る。佳代の方を見ると、相変わらず疲れ切った顔だ。
楓だけがはしゃいでいた。
そんな楓を見ても、佳代は何も言わない。だから、薫も黙って、お勧めのエビチリを口の中に入れる。味は、あまり分からなかった。
佳代を先に寝かせると、楓と一緒に洗い物をする。それが終わると楓は、「もう少し勉強するから」と言って、自室に籠ってしまった。
薫は、歯だけ磨いて、さっさと寝室に引き籠ることにした。
さっき、翔と交わした言葉の数々が、まだ色濃く記憶に残っていて、全く消化しきれていないのだ。
灯りを消した部屋に入って、佳代の隣に敷かれた少し湿っぽい敷布団に身体を横たえる。そして薫は、そっと瞼を閉じた。
★★★
薫は目を瞑って、翔と会った時のことを、ぼんやりと思い返していた。
偶然だけど、彼とまた会ってしまった。
その翔には結婚を決めた彼女がいて、薫は彼が別世界の人だと改めて認識させられた。
それでも、不思議と涙は出なかった。
その後、二人っきりになった時、薫は自分の思いを彼にぶつけてしまった。それなのに、薫の言葉は全く彼には届かなくて、自分よがりの一方通行でしかなかった。
私、何やってんだろう?
本当に、自分が情けなくなってしまう。
元々翔くんとは、もう会わないつもりだったのだ。私にとって、今日の出来事は「おまけ」みたいなものだった。だからこそ、あんな風に本音が話せたんだと思う。
たぶん、恥ずかしいことをいっぱい言ってしまった気がする。だけど、全部が私の本音なのだから、それはそれで良かった。
それに、あの子に出て行かれちゃった後の翔くん、何かそわそわしてたし、きっと私の話なんか、そんなに真剣には聞いてなかったんじゃないかな。たぶん、あの子のことで頭の中がいっぱいだったんだと思う。だって翔くんは、彼女が怒って帰っちゃったんだと思い込んでいるんだもん。本当は、違うっていうのに……。
だから、もう最後だっていうのに翔くん、あんな風にそっけなく別れたんだ。私のことなんかどうでも良くて、一刻も早く彼女と連絡を取りたかったんだろうな。
どうせ彼女は怒ってなんかいないのに、翔くんは必死で謝るに違いない。そんな彼の姿を想像すると、ちょっと悔しい気もするけど、しょうがないよね……。
薫だって過去に、『翔くんと結婚できたらいいな』とか思ったことが無かったわけじゃない。
でも、いつだって薫は、思ってしまうのだ。
私なんかと結婚しても、翔くんは幸せになんてなれない。私と翔くんとでは、どう見たって釣り合わないもん。
翔くんには、幸せになって欲しいから……。
★★★
そして、深夜。
薫は熟睡している所を、妹の楓に起こされた。薫のスマホがさっきから何度も振動しているのだと言う。
スマホは食卓テーブルの上に置きっぱなしだったから、寝室で寝ている薫では分からなかったんだろう。
楓がわざわざ起こしに来たのは、待ち受け画面に表示された名前が、「北島亜紀一尉」だったからじゃないかと思う。「一尉」という階級が無かったら、楓だって起こさなかったに違いない。
薫が亜紀の番号を最初に登録した時は、「一尉」は付けていなかった。その後、忘れないようにと付け足したのがいけなかった。
いや、そう言えば、軍から支給された方の携帯端末は、どうしたんだっけ?
そう思った途端、冷や汗が出て来た。そう言えば、あれから一度も充電してなかった。
そんな風に薫が寝ぼけた状態でぼんやりしていると、楓が痺れを切らしたのか、震えているスマホを薫の所まで持って来てくれた。
それを薫は手を伸ばして受け取って、布団に横たわったままで耳に押し当てる。隣で佳代が寝ているけど、めったなことでは起きないので、ここで話しても大丈夫だと思ったのだ。
『水草、お前、軍の方のスマホも電源、入れておけよ』
「あ、すいません」
やっぱり、言われてしまった。
『まあ良い。次から気を付けろ。それより、明日の朝だ。と言っても既に今日のことなんだが、六時半にそっちへ迎えに行くから、準備して待っていて欲しい。良いか、「ぜろろくさんまる」だ。きっと面白い経験ができると思うから、楽しみにしておけよ。……おい、水草。お前、私の話、聞いてるのか……』
その後、亜紀が呼び掛けても応答はなく、薫は既に寝息を立てていたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、翔視点になります。まだ日付は変わりません。この後、翔視点で日曜日の話が三話ほど続きます。
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