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第89話:元カレと喫茶店 <薫サイド>

再度、見直しました。

◆8月2日(日)


水草薫みずくさかおるの高校時代、剣道部の仲間達とよく一緒に来た思い出の喫茶店、「喫茶ビクトリア」。ケーキ屋さんも兼ねているので、ケーキのバラエティが豊富で、しかも価格がリーズナブルで美味しい。だから、女子には大人気のお店だった。

その懐かしい店に、薫は親友の水瀬美緒みなせみおと山口沙希(さき)の二人と一緒に来ていた。


薫がここを訪れるのは、本当に久しぶりだった。

こっちに戻って来た後、薫がこの喫茶店に来なかった理由わけは、ただひとつ。お金が無かったからだ。

でも、やっとお金に不自由しなくなった今、一度くらいは妹のかえでとか、バイト先の愛衣めいとかを連れて来てあげても良いな。


そんなことを考えながら、懐かしい店内に足を踏み入れた薫たったが、店員に席を案内してもらう前に、美緒がずかずかと中に入って行ってしまう。沙希も何かを察したようで、すぐに後を付いて行く。

『何だろう?』と思った薫だったが、取り敢えず二人の後を追って行った。


「見ーちゃった。この子、藤田くんの新しい彼女かい?」


声を上げたのは、美緒だった。背の高い沙希の肩越しに見慣れた顔を見付けてしまい、すぐに薫も状況を理解した。

だけど薫は、自分でも不思議な程に動揺を感じていなかった。前に彼と会ったのは先週の日曜日。ちょうど一週間前のことだ。きっと、その時に彼のことは、自分の心の中で決着をつけたからなんだろう。

薫は、そんな風に思ったのだった。


その彼、藤田(かける)は、かなり焦っている様子だった。薫の存在にも気付いているようなのに、目を合わせてくれない。

どうやら、彼の前に座っているのが、彼の新しい彼女のようだ。薫は、彼の後ろ側に回り込んでみることにした。


そうして、やっと見た彼女は、薫より年下で、薫と同じ長い黒髪の可愛らしい女の子だった。少し薫に似ている所があるとはいえ、髪の毛は艶々(つやつや)だし、着ている服は明らかに高級ブランド品。仕草も何となく上品で、良い所のお嬢様なのは間違いない。

彼だって、良家の御子息なのだから、まさにお似合いのカップルだろう。

そう思った瞬間、薫の口から自然と言葉がこぼれ落ちていた。


「ふーん、翔くん。可愛い彼女さんじゃない」


一方の薫は、よれよれのTシャツと、夏なのに暑っ苦しいデニムのオーバーオール。もちろん、どっちも古着だ。それに髪の毛はボサボサで枝毛だらけだろうし、お化粧だってしちゃいない。

家が没落した今の薫にとって、彼女は別世界の人なのだ。


その彼女は、既に彼にとっての特別な存在になっているようだ。

薫には、ひと目で判った。彼の眼差まなざしが、全てを物語っていたのだから……。


柔らかくて、とても優しい彼の眼差まなざし。それは、かつて薫だけが独占していたものだった。けど、もう薫のものじゃない……。

そう思った次の瞬間、薫の目に大きなダイヤモンドの指輪が飛び込んできた。

『ああ、やっぱりだ』と、薫は思った。


「良かったね。安心したよ」


自分でも気味が悪いと思うほど、冷たい声だった。仕方ない。さすがの私でも動揺しているのだから。

そう思って目を逸らそうとした時、ほんの一瞬だけ、その子と目が合ってしまった。


やや強張った表情。一見すると怯えているようだけど、絶対に違う。彼女の芯の強そうな瞳は、紛れもなく私を警戒していた。

彼女は、可愛いだけの子猫なんかじゃない。油断したら、隠し持った鋭い爪で喉を切り裂かれてしまいそう。

私は、もう彼とは関係ない存在だというのに……。


少しの間、ぼんやりと薫は彼女を見ていた。

そして気が付くと、彼が彼女、桜木莉子(りこ)を薫たちに紹介してくれていた。どうやら、彼女は彼と同じ会社、七星ななぼし商事に務めていて、彼がこっちに帰って来てから知り合ったようだ。

ということは、薫が彼と天王池公園でケンカ別れした後に、二人は親しくなったということだ。


そりゃあ、こんな自分よりは、彼女の方がずっと良いに決まってる。

そう思った薫は、悲しくなった。


「名古屋支社の子ってことは、知り合ってたった二週間でこういう関係になっちゃうんだ。へえ、藤田もニューヨークに行って、随分と変わったもんだねえ」


薫の事情を知っている美緒が、冷めた口調で言った。もう一人の親友の沙希は、薫のことを思ってくれてか、じっと彼を睨み付けている。

その沙希が美緒と何やら目配めくばせをしたと思ったら、美緒がさっと桜木莉子の前に立って、唐突に自己紹介を始めた。


「初めまして、水瀬美緒と申します。今はスナックで働いていて、藤田くんとは高校の時からの知り合いです。と言っても、あたしは別の高校なんだけどね。あ、この二人は藤田と同じ高校だよ。沙希、自分で言いな」


次に、沙希が口を開いた。


「私は山口沙希。こいつとは中学から一緒だけど、親しくなったのは高校時代の剣道部の時からだね。仕事は、えーと、一応まだ小学校の英語教師かな」


沙希らしい、ぶっきらぼうな物言いだった。

今度は自分の番だと思った時、当の彼女が「ちょっと、ごめんなさい」と彼に断って、席を立ってしまった。

困惑している様子の彼に、美緒が冷たく言い放った。


「それじゃあ、話してもらいましょうかね」


彼が座っていたテーブルは四人掛けだったので、美緒が彼の正面、沙希がその隣、そして薫は沙希に促されて彼の横の席に座った。

薫の正面の沙希は、相変わらず彼を睨み付けている。薫の目から見ても怖い表情だ。


反対に美緒は、ニヤニヤと笑っている。まるで、この状況を楽しんでいるかのようで、ちょっと不気味。美緒は、薫と彼の関係が、既に終わっていることを知っているからだろう。

彼や自分の思いがどうであれ、今さら二人がよりを戻すなんてことは、もはや有り得ない。彼のことは沙希にも話してあるのだが、彼女はそこの所が未だに分かっていないのかもしれない。


「じゃあ聞くけど、さっきの子と出会ったのは、藤田がこっちに来てからで間違いないね……」


美緒による尋問が続いて行く。中学と高校で生徒会長をやっていた美緒は、こういうことに慣れているのだ。だから、美緒の厳しい質問から彼が逃れられる筈がない。彼には可哀そうだけど、今の彼は、「まな板の上の鯉」といった所だろうか。

それだからか、新しい彼女との出会いから今に至るまでの経緯いきさつを、全て彼は事細ことこまかに打ち明けてくれた。

どうやら、二人が親しくなった背景には、色々と支援者がいたようだ。それに彼の母親もまた、彼女との婚約の後押しをしているらしい。昔、薫にはあまり良い顔をしてくれなかった彼の母親も、この桜木莉子と言う子のことは気に入ったということだ。


薫にとって一番ショックだったのは、昨日の夏祭りに彼が新しい彼女を連れて行ったことだ。はっきりと彼は言わなかったけど、どうせ、そこでプロポーズでもしたんだろう。ていうか、この新しい彼女に誘導されて、成り行きでプロポーズをさせられたというのが実際の所に違いない。

彼女は見た目おとなしそうだけど、実はしっかりしていて、相当に気が強い女だという気がする。それに案外したたかな所もありそうだ。

そもそも薫が知る限り、ほとんどの金持ちの女は、そんな感じだ。元はと言えば、薫だって同じ金持ちの家の御令嬢。その薫が思うのだから、間違いない。


「ねえ、彼女、ちょっと遅くない?」

「そうだね。あたしが見てくるよ」

「じゃあ、私も行く」


薫が考え事をしているうちに、沙希と美緒が席を外してしまった。二人は、どうやら、薫を翔と二人だけにする魂胆のようだ。

薫は小さく溜め息を吐くと、席を立って茫然としていた彼に、「座れば」と言った。


彼が座ろうとした所で、薫は翔の正面に席を移した。二人が席に着くのとほぼ同時に、それぞれがメールを受け取った。

薫のは美緒からで、『彼女はこっちで捕まえておくから、後悔の無いように藤田と話し合うこと』と書かれてあった。


彼が受け取ったメールは、彼女からのようだった。どうせ、『急用ができたから、先に帰る』とでも書かれているに違いない。

実際、彼女の立場からすれば、彼の元カノ、つまり薫とのことを詳しく知る絶好の機会なのだ。彼との一度のデートなんかすっぽかしたって、普通ならそっちを取るだろう。

それなのに、彼は絶望的な顔をしていた。相変わらず彼は、そういう所には頭が回らないようだ。


「なんか、美緒も沙希も急用なんだって。どうしちゃったんだろう、あの二人」


取って付けた感じの言い方になってしまったけど、大丈夫だろうか?

そう思って彼の顔に目をやった所で、タイミング良くウェイトレスが来て、おひやを薫の前に置いてから、注文を訊いてきた。薫は小声で、「アイスミルクティー」と返す。すると、ウェイトレスは無言のまま去って行ってしまった。どことなく、感じの悪いウェイトレスだった。


高校時代、ここに来た時はケーキセットを頼んでいたけど、今日は飲み物だけ。とても、甘い物なんて食べている余裕がない。

そこで、ようやく薫は、このビクトリアという喫茶店では、いつもテーブル上のタブレット端末を使って注文していたのを思い出した。ウェイトレスから注文を訊かれたのは初めてだ。ということは、案外、訳アリの客だと思われたのかもしれない。


まあ、いいや。


余計なことを頭から振り払った薫は、早速、お冷の入ったコップを手に取った。そして、冷水と一緒に氷を口に含むと、それをガリガリと齧り始める。


さてと、どんなことを喋ろうか?


そうやって考えながら、薫の思考は次第に過激になって行く。


どうせ最後なんだし、いっそ、思っていること全部、彼にぶちまけちゃおうかな。


そうやって決意した後は、話したいことを頭の中で並べていく。ガリガリガリと氷を噛み砕いて、ようやく一通りのリストが出来上がった所で、薫は砕いた氷をゴクリと飲み込んだ。そして、おもむろに口を開く。

薫の口から出てきた言葉は、「翔くん、また会えたね」だった。


薫は、にっこりと笑って見せた。もちろん、それがどう見えるか承知の上での、彼に見せた笑顔だった。



★★★



薫は、次々とコップの中の氷をガリガリと噛み砕きながら、彼の新しい彼女のことを考えていた。

彼女が彼と同じ七星ななぼし商事勤務ってことは、相当に家柄の良い子に違いない。七星商事のような一流企業の正社員となると、よっぽど優秀でない限り、そういう子しか採らないからだ。薫が就職活動をしていた時でもそうだったが、その後も、その傾向が強まっていると聞いている。


ああ、あの子は自分とは違う人種なんだ。


あの子は、向こうの世界の住民。目の前の彼だって、今はもう向こうの世界の人。だから、二人とも私とは関係ない人達だ。


「翔くん、おめでとう。彼女、とっても良さそうな子じゃない」


薫がそう言うと、目の前の彼は顔を歪めてしまう。


「薫、お前、何考えてるんだよ」


でも、薫にはちゃんと分かっている。


「だって、翔くん、あの子と結婚するんでしょう?」


その瞬間、彼が薫に見せた表情は、ちょっと可笑おかしかった。狐につままれたようなというのは、たぶんこんな顔。


「彼女、きっと良いお嫁さんになるよ。だって、翔くんが選んだ子だもん」


本当に彼が選んだかどうかなんてことは、どうだって良い。薫が分かっているのは、彼女の方が自分なんかよりもずっと彼を幸せにできるということ。


「そうかな」


薫の言葉で、ようやく彼は、薫が全部お見通しだと気付いたみたいだ。


「翔くんは、あの子に会うために、ニューヨークから帰って来たんだね。私に会う為じゃなくて残念だけど、考えてみれば当たり前だよね。私なんか……」


その後は、言葉が続かない。代わりに薫は、笑ってみせた。

笑うのは得意じゃない。どうしても不気味な笑顔になってしまう。「お前、俺を馬鹿にしてるのか」って、いろんな人に言われてきた笑顔だ。

だけど薫は、自分の為に笑ってみせたかった。自分自身を嘲って、「馬鹿な女」って笑ってやりたかった。


「薫、お前……」


彼は何か言いたそうだったけど、結局、何も言わなかった。そんな彼の様子が少し可哀そうに思えてしまった薫は、『翔くんを虐めるのは、もう止めよう』と思った。

それで薫は、頭の中のリストにある次の項目に移ることにしたのだった。



★★★



次に薫が考えていたのは、自分のことを話すことだった。


「あのね、翔くん。私、今まで自分のことは、あんまり言ったこと無かったよね。翔くんも、ほとんど言ってくれないからだけど……」


そんな風に皮肉っぽく切り出して彼の方に目をやると、彼は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。


「普通、長く付き合ってれば、そういうことだって話すと思うんだけど……まあ、いいや。最後だから、私のこと、話すね。私んち、実は、もの凄く大きかったの。それはもう、うちの高校の敷地全体とだって変わらないくらい。いや、ひょっとすると、もっと広いのかな? とにかく、普通の家とは比べられないくらいに広いの。まあ、昔はお城だったんだから、当然なんだけどね」

「……」

「ふーん、驚かないってことは、沙希あたりから聞いたのかな……。でね、小さい頃は使用人が大勢いたんだけど、彼らは私のこと、あんまり良く思ってなくてね。ほら、私って笑わないでしょう。だから、不気味な人形みたいだって言われてたんだ。その頃は、私の他に子供はいなかったし、お堀と塀で囲まれたお屋敷の外には、なかなか出してもらえなくてね。私、いつも広いお屋敷の中を好き放題にうろちょろして、ほとんどの使用人に嫌がられてたんだ。時々、虐められたりもしたから、逃げ足だけは速くってさ。使用人がお屋敷に出入りする業者まで、私が『変な子』だって言ったりするもんだから、そこら中に私の悪い噂が広がっちゃってね。たぶん、翔くんのお母さんなんかも、私が『変な子』だって訊いてたんじゃないかな」

「……っ」

「まあ、それから、美緒と出会ったりして、だんだんと私のことを悪く言う人は減っていったんだけどね。それで私が小学校の頃、その美緒と良く話してたのは、『早く中州なかすから出て行きたい』ってことだったんだ。ほら、中州って周りを河で囲まれた閉鎖的な土地じゃない。箱庭と言うには広すぎるかもだけど、よく箱庭みたいって言い合ってたよ」

「……」

「その頃の私には、あの大きな河に掛かる橋が素晴らしい未来に繋がっているって、本気で信じてた。だから中学生になって自転車に乗って、あの橋を渡って最初に向こう岸に着いた時は嬉しかったな。それだけで、夢がひとつ叶ったような気がしたんだ」


そこで薫は、ちらっと彼の方を見たけど、彼は無言のままだった。

『まあ、いいや』と思った薫は、大きく息を吸って、ひとつひとつの言葉を彼に叩き付けてやることにした。


「でもね、それよりもずっと嬉しかったのは、翔くんを追い駆けて東京の大学に行った時だよ。翔くんと比べたらダメダメな私だったけど、一生懸命がんばって勉強したんだ。そん時は家にあんまりお金が無くて、一時は本当にどうしようかって悩んだりもしたけど、奨学金で何とかなっちゃった。ふふっ、今になって思えば、無謀だったよね。若気の至りって奴かな。でもね、後悔はしてないよ」


薫の告白を、目の前の彼は黙って聞いているだけだったけど、薫は構わなかった。彼の前で話ができる、ただそれだけでも有難いことだって思ったからだ。

それは自己満足に過ぎないのかもしれないけど、自分にとっては大切なんだと薫は分かっていた。


「たぶん、大学の頃にも言ったと思うけど、私ね、昔からずっと現実感っていうのが希薄なの。うーん、分かりやすく言うとね、自分が生きてるっていう実感が、あまり無いの。自分が本当はこの世界の人じゃなくて、何かの間違いでここにいるみたいな感じかなあ。物心付いた時から、ずっとそう。だから、使用人とかから邪険にされたりしても、わりかし平気だった……」


薫は、残り少なくなっていた氷を齧ってから、再び口を開いた。


「だからね、何をするにも本気にはなれなかったんだ。それには祖母の影響もあるんだけど……お祖母ばあちゃん、『能ある鷹は爪を隠す』って、良く言っててね、まあ、それとは少し違う意味なんだけど、私、何をするにも手を抜くのが自分の中では当たり前だったんだ。でね、そんな私が本気になったのは、翔くんと一緒に東京に行きたいって思った時だよ。あの時は、どうしても翔くんを追い掛けて行きたいって、本当に必死だったんだ」

「……っ」

「本当に、あの時だけだよ、私があんなに必死になれたのって。就職の時は、そこまで必死になれなくて失敗しちゃった。何でだろうね。たぶん、あの時の私には、もう分かっちゃってたんだ。私は、翔くんとは別の世界の人間だってこと。だから、私は翔くんとは一緒になれない。そう思ったら、大学入試の時みたいには必死になれなくて、結局、全部の会社に落っこちちゃった。本当に馬鹿な私。あの時だって、もっとずっと頑張んなきゃいけなかったのに……」

「……」

「それとね。これも何度も翔くんに言ったことだけど、私、人は何度も生まれ変わるって思ってる。どうせ死んでもまた生まれてくるんだから、死ぬことなんてちっとも怖くない。それに、これは翔くんだから言うけど、私、きっと人を殺すことだって、できると思う。うん。たぶん、平気だよ。全然、平気……」

「……んなわけないだろう」


それまで黙っていた彼が、突然、大きな声で叫んだ。喫茶店の中だから、回りの人達が一斉にこっちに目を向ける。薫も彼と一緒になって、周りの人達に頭を下げた。


「ご、ごめん」

「うん、大丈夫」

「でも、俺、できれば薫には、人を殺して欲しくない……って、今の俺にそんなこと言う資格があるかどうかは、分かんないけど」

「そうだね。無いね」


薫が冷たく放った否定の言葉に、目の前の彼は、ただ苦笑いを返してきただけだった。



★★★



その時、さっきのウェイトレスがやってきて、薫の分のアイスミルクティーをテーブルの中央にドンと置いた。その彼女は無言のまま伝票をチェックすると、すぐに去って行ってしまった。

さっきの彼の大声を聞いて、自分達のことを修羅場のカップルとでも思ったのかもしれない。

薫は、さっき言いたかったことの続きを口にした。


「翔くんは、ずるいよね。昔からそうだけど、今もちっとも変わってない。本当のことをはっきり言ってくれないもん。いつもあいまいなままにして、笑ってごまかそうとするの。そろそろちゃんと自分に向き合うようにしないと、本当に大切なものが逃げて行っちゃうんじゃないかな」


薫はテーブルの中央のアイスミルクティーを手に取ると、おもむろにストローを差して、ゴクゴクと飲んだ。

すごく苦い味がした。


「まあ、私だって、本当は偉そうなこと言えないんだけどね。ホント私って、いつもダメダメだもんね」

「……そんなことないよ」


少し間を開けて、目の前の彼が何か呟いた気がした。


「えっ、何、聞こえない」

「だから、そんなことないよ」

「えっ、何で?」

「薫はダメなんかじゃない。充分に凄い奴だよ」

「違うよ。全然、違う。凄いのは、翔くんだよ」


今度、声を張り上げたのは、薫の方だった。

気まずくなった薫は、目の前のアイスミルクティーをストローで啜る。今度は味がしなかった。

やがてパッと顔を上げた薫は、ぼそぼそと言った。


「私はね、変な女なの。翔くんだって、本当はそう思ってるでしょう。私って無愛想ぶあいそうだし、何を考えてるか分からないような女だよ。へたに笑おうとしても、却って不気味だって言われちゃうような女……」


薫は途中で言葉を切って、再びストローでアイスミルクティーを啜る。

彼は、何も言わなかった。


「最近、思うんだけどね。きっと私って、心のどっかが壊れちゃってるんじゃないかな。それって、生まれつきだったかもしれないけど、東京でも色々とあったから、それで余計におかしくなっちゃった気がする」


相変わらず、彼は黙っている。薫は彼がどんな表情でいるか気になったけど、どうしても顔を見られなかった。


「たぶん、私の心はもう治らない。それは仕方がないことだと思ってる。それに、今の私には何をしたいだとか、将来こうなりたいだとか、そういうのが何もないの。うーん、そうね。強いて言うなら、家族かな。母に少しでも楽させてあげたいし、妹にだけは幸せになって欲しい。私の願いって、それくらいかな。自分から戦場に行こうとする女なんて、普通、こんなもんなんじゃないかな」


彼が座っている椅子が突然、ギーという耳障りな音を立てた。でも、彼はまだ何も言わない。

だから、薫は構わず語り続ける。


「翔くんは、違うよね。自分の中にきちんと目標を持ってて、それに向かって着実に歩んで行ける。私、ずっと翔くんのそういう所、凄いって思って憧れてたんだよ。翔くんにはずるい所もあるけど、良いところもいっぱいあって、私はそんな翔くんが好きだった。ふふっ、バカだよね。私なんかが、翔くんと釣り合うわけないのにね……えっ、何?」

「……違う」

「だから、違うって、何が?」


しばらく黙っていた彼が、ようやくポツリ、ポツリと呟くように語り始めた。


「違うんだよ。俺なんか、全然、大したことないよ。薫が憧れるような男じゃないんだ。さっき薫が俺のこと『ずるい』って言ったけど、ずるいだけじゃない。最低だよ。高校の時から大学を卒業する迄ずーっと一緒にいた薫のこと、結局どうしてやることもできなかった。それどころか、薫が大変な状況だったってことに気付きもしなかったんだ」


薫は、飲み干してしまったアイスミルクティーの氷を取り出して、噛み砕き始めた。ガリガリガリ、目の前の彼をじっと見詰めながら、無意識に氷を噛み続ける。

その間、彼は何かを喋り続けていた。


「……それで今は、勝手に別の女と結婚して、ニューヨークに帰って行こうだなんて思ってる。本当に情けない奴だよ。俺なんかより、薫の方がずっとずっと立派だと思うよ。自分の命を掛けて家族の為、国の為に戦おうっていうんだからさ。ほんと、凄い奴だと思う……」

「何それ、バッカじゃないの?」


薫が思わず彼の言葉を遮ってしまったのは、「国の為に戦う」というフレーズが耳に届いたからだ。

薫は、国の為なんかに戦うつもりはない。薫が戦うのは、お金の為だ。


目の前の彼は、ポカンと口を開けて固まっていた。昔の薫だったら、『そんな所もギャップがあって良いかも』って思ったかもしれないけど、今の自分にはただのまぬけに見えてしまう。


薫は、悲しかった。

ああ、やっぱり翔くんは、何も分かってないし、分かろうともしていない。

分かろうとしない所が、彼のずるい所だ。


薫は、思った。

もうよそう。これ以上、翔くんと話しても、自分が惨めになるだけだ。


ふと視線を横に逸らすと、熱帯魚の大きな水槽があった。

これがあるってことは、ここって私が大好きだった席じゃない。今頃になって気付くなんて、随分と損しちゃった気分だな。


高校時代、薫が今いる水槽の隣の席は、いつも薫の定位置と決まっていた。もちろん、その隣は彼の席だ。つまり、当時の彼は薫の横に座っていたのだ。そして熱帯魚が見れる席は他の女子達にも人気があって、薫と彼の前の二つの席は常に取り合いだった。

いや、彼女達の本当のお目当ては、彼と同じテーブルに座ると彼が追加のケーキを彼が奢ってくれるからだったかもしれない。

いやいや、そんなことはどうだって良い。それよりも気になるのは、私の低位置だった席に、彼が新しい彼女を座らせていたことだ。それだけは、大事な思い出を汚されたようで、ちょっと悲しい。


薫は、この席で大好きな翔と語り合った高校の時のことを思い出しながら、じっと水槽の中の熱帯魚を眺めていた。

この小さな魚達は、どうあがいたってこの水槽からは出られない。どんなに綺麗な姿だとしても、所詮は水槽の中だけで生きて、それで死んでいく。


てことは、こんな私だって、この魚達よりはましなのかもしれないな。


薫は、目の前の彼に気付かれないように、そっと溜め息を吐いた。それから、ゆっくりと立ち上がる。


「出ましょう」


少しぶっきらぼうに言ってから、ちらっと見た彼の横顔は、薫には知らない人に見えたのだった。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

次話も薫視点で、今日の前後の話になります。


もし宜しければ、感想、ブックマーク、いいね、評価をして頂けましたら大変嬉しいです。宜しくお願いします。

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