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第85話:花火 <翔サイド>

見直しました。


天王夏祭りのメイン会場となる天王池公園は、藤田翔(かける)の家から五分と掛からない距離にある。普段から歩き慣れたその道を、翔は桜木莉子(りこ)の手を取って、ゆっくりと歩いていた。

その二人の浴衣《ゆかた》は、同じ紺色で似たようなデザインだった。翔は鯉の図柄で、莉子は金魚。つまり、お揃いの浴衣を着て連れ立って歩く、誰が見てもカップルと分かる微笑ましい二人なのだった。


しかも、今の二人は、しっかりと手を繋いであるいている。お互いの指を絡ませた、いわゆる恋人繋ぎという奴だ。

『これだけ人が多いと迷子になりかねないから』というのが理由だが、もちろん、そんなのは付けたしでしかない。本音は、莉子に少しでも触れていたい、彼女の温もりを感じていたいということに決まっている。


昼間、莉子と一緒に実家までの道のりを歩いた時と比べると、同じ街とは思えないくらいに人が多い。しかも天王池公園に近付くにつれて、細い脇道から次々と新たな人達が合流してくる。そのうち公園に続く道は端まで人でぎっしりと埋まって、ゆっくりとしか前に進めなくなってしまった。

ちなみに、この道は夕方から車両の通行が規制されているので、車道の上も堂々と歩くことができる。


辺りは次第に薄暗くなっていて、人の顔が見分け難くなっている。そんな中でも、翔の目を引くのは、若い女性の浴衣姿だった。別に疚しいことじゃなくて、自然に莉子と比べてしまうのだ。そして莉子の方が可愛いことを確認しては、小さな優越感に浸るのである。

道行く人はカップルが一番目立つのだが、男どうしや女どうしのグループも多い。もちろん、小さい子供を連れた家族連れも多くいる。子供達は迷子にならないように、親の手をぎゅっと握り締めている。


それを見て翔の頭に浮かんだのは、まだ小さい頃の思い出だった。両親と一緒に夏祭りに来た翔は左右それぞれの手に父と母の手を握っていて、たったそれだけのことが幼い翔にとっては誇らしかった。まさに一人っ子の特権である。

翔が莉子にその話をすると、莉子は翔のことを羨ましがった。莉子が小さい頃は父親が忙しくて、いつも家にいなかった。だから、両親揃って一緒にお祭りへ行くなんて、全くの夢物語だったらしい。


「そう言えば、さっき、うちの母親と家の跡継ぎの話をしてただろう。前も聞いたことがあったけど、莉子は本当に家を継がなくて良いの?」


翔自身は、別に婿に行っても構わないのだが、母の恵美は悲しむだろう。恵美にとっての藤田家は、たぶん翔の父、晶《あきら》の思い出そのものなんだろうから。

そして、それは祖母の初枝にとっても、たぶん同じだ。そうやって家というものは過去と未来に繋がっている。


「大丈夫よ。うちの父も母もそういうことには、すごくドライなの。さっき、お義母《かあ》様にも言ったけど、うちって、そんなに大それた家じゃないし、婿を取ろうとかは本当に考えてないのよ。例えばだけど、もし私に男の子が二人できたら、そのうちの一人を桜木って姓にできたらって思わなくもないけど、それができなくたって、それはそれで仕方が無いことだと思う」

「そっか。じゃあ、そっちはそれで良いとして、次は会社の跡取りだな。さっきは莉子のお母さんの反対で仕事のできる社員をお婿にする話が消えたって聞いたけど、でも、オーナー会社なんだしさ」

「うん、そうなんだよね。経営に関してだけいうと、社内で任せられる人を何人か候補に挙げてるんじゃないかな。うちの親戚にも優秀な人がいないわけじゃないんだけど、父の代で会社の規模がだいぶ大きくなったこともあるし、もう身内だけでやっていくのは無理だと思ってるみたい。そうなると、やっぱり近いうちに、会社を上場させることになるのかなあ」

「ふーん。もし、桜木物産が上場なんてことになったら、名古屋の財界は大騒ぎだろうな。株価も相当な高値が付くんじゃないか?」

「うちの親も、相続税が心配だって言ってた。それで、父もいろいろと悩んでるみたい」


莉子の実家の桜木物産も翔の所の藤田コーポレーションも、共に上場はしていない。どちらも規模としては並みの上場企業を凌ぐほどなのだが、藤田の場合は手元資金が潤沢なので、その必要性を感じていないのだ。

当面、大きな投資をして急激に規模を拡大するつもりもないし、そういった社風でもない。堅実経営第一で、常に身の丈に合った形での着実な成長を図るのが藤田の経営スタイルなのである。

今の目まぐるしく変わる経営環境にはそぐわないという意見が社内にもあるが、逆にそういった時代だからこそ、「事業の軸をしっかりと据えたブレない経営が大事」というのが恵美の口癖だった。


「藤田組の歴史は、五百年。そんじゃそこらの会社とは違うのよ。あの大河の流れのように、ゆったりと地道にひとつの方向へ進んで行けばいいの。腰をドーンと据えて、些細なことには動じない。その為には、常に万全の備えが必要よ。うちは市場も地元密着型だし、この地方の経済が大きく落ち込まない限りは未来永劫、続いて行く。翔もそのつもりでいて頂戴」


つまり、ゆくゆくは藤田コーポレーションを継ぐようにと翔に言っているわけだ。翔自身は未だに迷っているのだが、事ある毎に、そうした母の期待をひしひしと感じてしまう。

たぶん、翔が現在、七星《ななぼし》商事で働いていることだって、恵美にしてみれば、将来、翔が藤田コーポレーションの経営者となる為のステップだと思っているのだろう。

そして、ニューヨークの山森支社長にせよ、名古屋の中山支社長にせよ、そのことを理解した上で、翔を育てようとしてくれている。それは、翔が藤田コーポレーションを継いだ暁には、非常に強いコネクションができるからである。商社というのは、人と人との繋がりがそれだけ大事という訳だ。


俺って、本当に、いろんな人達の思惑で動いてるって感じだよな。


今回の縁談にしても、最初から誰かの手の平で転がされている感じしかしない。今の翔は、それを分かった上で、莉子にプロポーズしようとしている。まあ、それについては自分なりに納得してのことなので良いのだが、『時々、俺の意思は、いったい何処《どこ》にあるんだろう?』と思ってしまうのだ。


そんなことをつらつらと考えているうちに、コンビニE(エコ)マートの看板が見えてきた。

もちろん、翔の頭にあるのは、「元カノの水草薫(かおる)とは会いたくない」という思いである。ここで莉子と一緒にいる所なんかを見られたりしたら、相当に気まずい思いをすることだろう。

そうしたリスクを少しでも避けようと、反対の隅を歩くことも考えた翔だったが、これだけの人混みである。たとえ薫がこの時間にバイトをしてたとしても、まず見付かることは無いだろう。それに莉子の手前、あまり不自然なことはしたくない。


そう思い直して、そのまま歩いて行くことにした翔だったが、すぐに全てがどうでも良くなってしまった。というのは、ここに来て更に周囲の混雑が増してしまったからだ。まるで、初詣での時の拝殿前のような込み具合で、なかなか前に進まない。

とはいえ、ここまで来れば、天王家公園の入口はすぐそこである。コンビニEマートの前の道路を渡れば、そこが公演の入口で、そこから石の階段を下りることになる。恐らく、この混雑は、その階段が原因なんだろう。


普段の翔だったら、たぶんイライラしている所だろうが、今は不思議と不快では無かった。それどころか、翔の半身が莉子の柔らかい身体《からだ》と密着していることで、年甲斐もなく胸の高鳴りを感じていたからだ。

翔は莉子に「大丈夫?」と訊いたのだが、彼女もまた不快ではなかったようだ。


「ううん。すっごく楽しみ」


翔は、そんな莉子の言葉に苦笑しつつ、隣に彼女の温もりを感じながら、ゆっくりと人の流れに付いて行ったのだった。



★★★



結局、天王池公園の入口に辿り着くまでに、普段の五倍以上の時間が掛かってしまった。二人は池の周囲を回る人の流れに加わって、尚ものそのそと歩き続ける。彼らの両側には、様々な屋台がずらりと並んでいた。


こうして祭りの人混みの中を歩いていると、どうしても昔のことを思い出してしまう。

幼い頃は、親と来ていたこの祭りも、小学校の高学年になると、仲の良い友達と来るようになった。中学の頃は、仲間とつるんで屋台を梯子《はしご》するのが楽しくて仕方なかった。そして、それは高校時代でも引き継がれ……。


そうだ。高校一年の時は剣道部の同期で集まってこの祭りに来たのだが、高二の時は水草薫と二人だけだった。

高三の時と大学一年の時はコロナ禍で中止。大学二年と三年の時は、同じく帰省していた薫と待ち合わせてこの祭りに来た。大学四年の時は就職活動、会社に入ってからはこっちに帰ってなかったから、もちろん来ていない。


薫は、今どうしてるんだろう?


さっきコンビニの前を通った時は、『どうせバイトだろう』と思ったけど、案外、誰かとその辺を歩いているのかもしれない。一緒にいるのは、きっと幼馴染の水瀬美緒《みなせみお》か山口沙希(さき)あたりだろうか? 

それとも、歳が離れた妹かもしれない。確か楓《かえで》ちゃんだったかな。その子と会ったのは、一度だけ。大学三年の夏で、まだ彼女は中学一年生。おさげが似合う可愛い少女だった。


薫はこの祭りが大好きで、毎回とても楽しみにしていた。結局、行けなかったんだけど、大学四年の時も何とか就活の合間を縫って夏祭りに行こうと、あれこれ画策していたくらいだ。でも、あの年に帰省するのは、どうしたって無理があった。会社訪問の合間にハンバーガー屋で会った時、本当に悔しそうで涙目だったのを今でも良く覚えている。


翔が薫を最初に天王夏祭りに誘ったのは、高校二年の時だった。松永陽輝(はるき)が、「自分は沙希を誘うから、お前は薫を誘え」と言ってきたのだ。

そして、何とかお互い相手を誘い出すのに成功し、最初は四人で歩き出したのだが、すぐに陽輝と沙希のカップルとはぐれてしまった。それも今思えば、翔と薫を二人っきりにさせる為の策略だったのかもしれない。


親友の沙希とはぐれてしまった薫は、最初のうちそわそわしていたけど、すぐに開き直った様子で屋台を物色し始めた。そして、翔の浴衣の裾を引っ張って連れて行かれたのが、金魚すくいだった。

本人が、「私、これ得意なの」と言うだけあって、薫の技は卓越していた。小さな金魚が次々とお椀の中に入って行く。まるで魔法を見ているかのようだった。

最初は呆れて見ていた屋台のオジサンだったが、お椀から金魚が溢れそうになった時点でストップが掛かった。

薫が例の無表情な顔で、そのオジサンをじっと見詰める。一瞬、怯んだオジサンだったが、すぐに両手を合わせて頭を下げてきた。


「なあ、お嬢ちゃん。金は返すから、これ以上は勘弁してくれよ。お願い、このとおりだ」


それで薫は、やっと自分がしでかしたことに気付いたようで、「うわあ、またやらかしちゃった。ごめんなさい」と言うと、お椀に入ったたくさんの近業を全部ぶちまけてしまった。

そして、お金を返してもらって立ち上がる。

突然、翔たちの背後から拍手が沸き起こった。薫を見ていた大勢の野次馬《やじうま》達だった。薫は急に恥ずかしくなったのか、翔の浴衣の袖をぎゅっと握り締めると、そそくさとその場から立ち去ったのだった。


あの時の薫の浴衣は、確か何かの花の模様の可愛らしいデザインだったと思う。翔は、その浴衣も悪くないと思っていたのだが、次の大学二年の時には、今の莉子よりも渋い紺色を基調にした大人びた浴衣に変わってしまった。

一方の翔も、大学二年の時に浴衣を新調したのだが、実は、帰省する前に翔は薫に、「今年は浴衣を新しいのにしようと思うんだけど、どんなのが良いと思う?」と訊いたのだ。そしたら、返って来たのが「紺色」だったのである。


それから、薫が同じ紺の浴衣を着て来た時、翔は『なんだ、そういうことか』と勝手に納得してしまった。

『薫は、自分が紺の浴衣を買ってもらったから、俺にも紺色を勧めたんだろう』

その時の翔は、そんな風に思い込んでしまったのだった。


今思うと、あの紺の浴衣は母親の物だったという気がする。何故なら、あの浴衣は相当に良い物だったと思うからだ。

沙希の話からすると、当時の水草家は既に困窮していた筈。とすれば、そんな高価な物を買う余裕なんて無かったに違いない。

それなのに薫は、翔に一度も自分の家のことを話してくれなかった。強情な薫らしいと言えば、それまでなんだけど、それが翔にとっては悔しいし、とても淋しい……。



★★★



「ねえ、翔さん。ひょっとして今、元カノさんのこと考えてたりしてなかった?」


慌てて横に顔を向けると、莉子が悪戯っぽい笑顔で翔の方を見ていた。


「ふふっ、図星だったんだ」

「えっ?」

「ちゃんと、そう顔に書いてあるよ」


莉子のその言葉に焦っていると、彼女はいつもの素直な笑顔に戻って話を続けた。


「大丈夫。こんだけ大きなお祭りなんだもの。女の子と一緒に来たくなるよね。それに翔さんだったら、高校の時とか、女の子にすごーくモテたに決まってるもの。彼女さんの一人や二人、いたって当然だよね」


そう言いながらも、莉子は俯いてしまう。そうして、その後に彼女がボソッと口にした言葉に、翔はギクッとして内心冷や汗をかくことになった。


「でも、高校時代の彼女さんのこと、ちょっと知りたいかな」


もちろん、莉子に薫のことを話せる筈は無い。翔は、話題を変えることにした。


「なあ、今のうちに何か食べておこうか。莉子は、何が良いかな?」


翔が聞くと、莉子はぐるっと周囲を見た上で、お好み焼きの屋台を指差した。

『それって、ついこないだも食べたんだけど』と思いながらも、翔はミックスのお好み焼きを二つと冷たいペットボトルのお茶二本を買って、お金を払う。ふと隣の屋台を見ると、タコ焼きがおいしそうだったので、それも買っておくことにした。

急いで莉子の所に戻ると、半分は彼女に持ってもらって、再び歩き出す。


相変わらず、人は多い。翔は、『もし、ここで知り合いなんかに会ったりしたら、嫌だな』と思ったりもしたのだが、意外と会わなかった。

人が多いこともあるけど、たぶん、暗くて顔が見づらいからだろう。

やれやれ、この分だと、薫とバッタリ会うなんてことも無さそうだ。


そう思って、何気なく金魚すくいの屋台に目をやると、何だか凄い人混みができている。そっちを莉子がちらっと見て、一瞬、やりたそうな素振《そぶ》りを見せたのだが、待たされると思ってか諦めたようだった。

いや、違う。あれは、たぶん野次馬《やじうま》だ。あの時の薫のように、誰かが金魚をお椀一杯にして、皆《みんな》の注目を集めているんだろう。


案外、薫だったりしてな。


一瞬、翔は確かめてみようかと思って、やっぱり、止めにした。


そうこうするうちに、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。ふと池の方に目をやると、ちょうど最初の巻藁(まきわら)船が池に入ってきた所だった。

翔のすぐ隣で莉子が、「わあ、綺麗」と歓声を上げる。


巻藁《まきわら》船とは、二艘の船の上に屋形を乗せて、その上に提灯を半球状に飾り付けた祭船のことだ。無数の提灯の灯りが水面を照らし、ゆっくりと進むその優雅な姿は、夏の世に幻想的な彩《いろどり》を添えてくれる。夜空の花火とも相まって、若いカップルをロマンチックな気分に浸らせるには、まさに最高の舞台だった。

もっとも翔にとっては、小さい頃から見慣れた光景である。でも、初めて見るという莉子に対しては、相当な感動を与えたようだった。翔の隣で動かなくなった彼女は、しばらくの間、無言で見とれていたからだ。

その莉子が、やがて後ろの方を指差して叫んだ。


「うわあ、後ろからも別のが来たあ。いくつあるんだろう」

「全部で五艘だよ。昔この辺りに五つの村があって、それぞれが巻藁《まきわら》船を作って神社に奉納したんだ」


翔が小学生の頃、先生に教わった薀蓄《うんちく》を語ると、莉子は興味深げに聞いてくれていた。


そんな時、突然ドーンと腹に響く音がしたかと思うと、パッと夜空に大輪の花火が開いた。

翔が「いよいよ始まったな」と呟く隣で、莉子が「わーい、花火だあ」と子供のようなはしゃぎ声を上げる。

花火はその後も次々と上がり、やがて最初のスターマインが始まった。一瞬のうちに夜空が無数の花火で彩られ、まさに息を飲む美しさだ。


翔は、それが終わるのを待って、莉子の細い肩をそっと抱き、屋台の切れ目の先にある芝生の方へと移動することにした。



★★★



結局、芝生の辺りは既に花火の見物客で埋め尽くされていて、子供が遊ぶ遊具がある所まで進んだ。

ようやく翔たちが確保した場所は、ブランコを囲う鉄パイプの上だった。そこに二人がゆったり座れるスペースがあるのを、莉子が見付けてくれたのだ。仲良く並んで腰掛けた二人は、揃って夜空を見上げた。


「そうだ。冷めないうちにこれ食べようよ」


翔は、母の恵美に借りた敷物を莉子の膝の上に掛けてやり、さっき買ったお好み焼きを取り出して二人で食べ始める。

しばらくすると、莉子が「こっち向いて」と言うので顔を向けたら、爪楊枝に刺したたこ焼きを口の中に突っ込まれた。そんなに熱くなくて良かったと思いながら咀嚼して飲み込む。

「おいしい?」と訊かれたので、「おいしいよ」と答える。


翔は、再び空を見上げる莉子の横顔を見た。花火が上がる度に、様々な色に照らされる莉子の端正な横顔を、翔はとても綺麗だと思った。


「結婚しよう」と言うなら、今だと思う。

だけど、その言葉を口にしようとした途端、喉の奥に引っ掛かって出て来ない。

出会って二週間という短い間とはいえ、手筈は全て整っていて、後はそれを言うだけ。彼女だって、その言葉を待っている筈なのに、どうしてもそれが出て来ない。


怖いとかじゃない。もはや結婚への道筋は決まっていて、断られることなど有り得ない。

恥ずかしいというのとも違う。この歳で恥ずかしがったりするわけがない。


だったら、言ってしまえばいいじゃないか?

ドーンと花火があがる度に翔はそう思うのだが、どうしても言葉が出て来ないのだ。


「どうしたの、翔さん? (翔くん?)」


莉子は「翔さん」と言った筈なのに、翔には「翔くん」と聞こえてしまった。

その声は莉子のものではなくて、違う女性のもの。何故か、急に薫の透き通った鈴の音《ね》のような声が聞こえた気がしてしまう。何度も一緒にここに来て、こうして並んで花火を見たからだろうか?


「翔さん?」


いつの間にか莉子は、花火ではなく翔の方をじっと見ていた。その真摯な瞳を見てしまうと、やはりここでプロポーズしなくちゃと思ってしまう。

でも、その整った顔が次の花火で明るく照らし出された時、それが薫とダブって見えてしまうのだ。


いったい自分は何をためらっているんだろう。この子と結婚すれば、きっと毎日が楽しいだろうに……。

彼女と一緒にニューヨークのモールでショッピングしたり、セントラルパークを散歩したり、翔の行きつけのアイリッシュパブでふざけ合ったりできるのだ。そうして、そのうち二人の子供ができたら……。


「翔さん。私……」


その時、翔の耳に飛び込んできたのは、やや熱を帯びた莉子の声だった。


「私、ずっと翔さんと一緒に居たい」


莉子が翔の方に身体《からだ》を預けてくる。柔らかい身体の感触と高鳴った心臓の鼓動が感じられる。

柑橘系のシャンプーの匂いに女性特有の魅惑的な香り。それらが翔の臭覚を刺激して、彼の心を痺れさせる。

思わず手を伸ばした翔は、彼女の華奢な肩を抱いた。浴衣のなめらかな肌触り、柔らかくて愛おしいその身体のぬくもり……。


そこには、確かな重みがあった。それは、女性一人の一生を預かることの重みだ。未だに若輩者の翔にとっては、気が遠くなりそうな程の重みである。


ただ、その一方で翔には、自分に縋り付く女性を拒絶できる程、強くはなかった。

果たして、それは優しさなんだろうか……。


いや、そんな疑問なんかどうだっていい。

所詮、翔には、莉子の潤んだ瞳の威力に勝てるすべなど無いのだから。


「翔、さん?」


胸の鼓動が早い。もはや翔は花火の音さえ、聞いてはいなかった。


翔は、再び莉子の方に目を向けた。それでも、直接顔は見られなくて、彼の瞳は彼女の胸元にあった十字架へと吸いつけられて行く。

その銀の十字架が、花火でキラッと光った。


「分かった。結婚しよう」


気が付くと、翔はそう口走っていた。


やはり、自分ごときが運命に抗《あらが》うことなど、できる筈が無いのである。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

ようやく、翔が莉子にプロポーズしました。といっても、出会ってまだ10日しか経ってないのですけど……。

次話は、薫視点になって、「薫の夏祭り」です。


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