第84話:浴衣選び <翔サイド>
見直しました。
藤田家の十八畳の座敷では、藤田翔の母親、藤田恵美と翔の新しい彼女、桜木莉子との対決が始まろうとしていた。
そんな中、ふいに翔は、香ばしいコーヒーの香りに気が向いた。どうやら、いつもよりも良い豆を使っているようだ。
そっちに翔の意識が行ってしまうのは、無意識に目の前の現実から目を逸らしたいからなのだが、今の翔には当然、そんなことを冷静に考えている余裕はない。
「ところで、桜木さん……」
「あの、少しずうずうしいかもしれませんけど、できれば莉子と呼んで頂けますか?」
「へえ、莉子ちゃんって言うんだね。桜木莉子ちゃん。良い名前だねえ」
そこで声を発したのは、祖母の初枝だった。隣で恵美が苦々しい表情をしている。
「じゃあ、私も同じように呼ばないとね。莉子ちゃんは、桜木物産の桜木剛史社長のお嬢さんよね?」
「父をご存じなんですか?」
「ええ、一部でお取引をさせて頂いてますもの。まあ、だいたいは競合関係にありますけど」
再び恵美が、顔だけに笑みを浮かべる。そして、自分の分のコーヒーに口を付ける。ブラックのまま飲むのが藤田家の流儀だからなのか、座卓の上には砂糖もミルクも無い。
もちろん、一般のお客様には恵美もちゃんと用意するのだが、莉子の場合は特別ということだろうか?
「莉子ちゃんも、宜しかったらコーヒーをどうぞ……あ、お砂糖、あった方が良いかしら? 私としたことが、すっかり忘れてたわ」
恵美が、ほんの少し焦った表情を浮かべた。演技だと取れなくもないが、どうやら単に忘れたみたいだ。
『母の方も、実は緊張してるんだ』と分かり、翔は少しだけ気が楽になった。
「大丈夫です……。うわあ、美味しいコーヒーですね」
「そうでしょう。うちがブラジルから直接、取り寄せてる豆なのよ」
今日の昼食の後に出たコーヒーは、確か砂糖を入れて飲んでいたと思うのだが、勘違いだったんだろうか?
「うちの父もコーヒーには煩い人なんです」
「あら、意外ね。確か、お酒は日本酒じゃなかったかしら」
そう言う恵美だって、和室でコーヒーとか出してるじゃないか!
翔はそう思ったけど、口に出さないでおいた。
「はい。父は日本酒が好きです。母はワインですけど」
「ああ、ワインの輸入じゃ、うちは桜木物産さんに負けてますものね。莉子ちゃんは、どっちが好きなの?」
「私は、ワインの方です。赤も白も好きです」
「お料理に合わせて嗜む感じかしら?」
「はい」
「あ、そうだ。ケーキも召し上がって。地元の小さなお店のものなんだけど、私は大好きなの」
「そうなんですね。では、頂きます……。うわあ、本当だ。すっごく美味しいです」
莉子が笑った。いや、さっきまでも笑ってはいたけど、今のは、いつも見ている本当の笑顔だったことで、翔は内心で安堵したのだった。
「良かった。気に入って貰えて」
「実は私、甘いものが大好きなんです。あ、それに父も甘党。母は、それほどでもないんですけど」
「へえ、そうなの。日本酒が好きな人って、甘いのが苦手な人が多いのだけど」
「いろんな人にそう言われるみたいです。うちの父、日本酒飲みながら、チョコレートとか摘まんじゃう人だから」
「想像も付かないわね。ワインだと、割と普通なんだけど」
「ですよね。日本酒も甘いのあるんだけど、父は辛い方が好きなのに……」
「へえ、そうなの。やっぱり、辛口の日本酒は、和食だと思うんだけど」
「父の味覚が変なんです。実は、母の料理も微妙な味で……って、それ言うと怒るんですけどね」
「ということは、お手伝いさんがいらっしゃるのかしら?」
「はい。お料理がすっごく上手な人がいます。私が小さい頃から、ずーっと働いてもらってます」
「なるほどね」
いつの間にかお酒と食べ物の話で盛り上がっていて、だいぶ場が和やかになってきた。
ところが、そろそろ翔も口を挟もうかと思った時だった。恵美の顔付きが微妙に変わったのだ。
★★★
「ところで、莉子ちゃんは一人っ子よね」
「はい」
「お父さんの会社を継いで欲しいとか、お婿さんを取りなさいとか言われないの?」
翔が恐る恐る隣を見ると、莉子はさっきの余所行きの笑顔に戻っていた。
「うちの父、私が会社を継ぐことは全く考えてないです。正直に申しますと、以前は婿を取ることも考えていたみたいですけど……、というか、会社で一番仕事のできる人と私を結婚させようと父が企んでて、母と大喧嘩になったんです。それで母の方が勝って、父は私の結婚相手について、何も言わなくなりました」
「へえ、そうなのね。ということは家の中だと、お母さんの方が強いってことかしら?」
「そうなんです。実は、うちの両親って高校の同級生でして、父が母に頭が上がらないのは、その頃からみたいです」
「へえ、同じ歳のご夫婦なのね……。だけど、そのご両親も家のことは気にしておられるんじゃないのかしら?」
「いや、そんなこと全然ないです。父は会社の方には愛着があるようですけど、家のことは本当にどうでも良いって感じなんです。だいたい、うちってそんなに古い家じゃないですから、大丈夫です」
「あら、そうなの? でも、いくら古い家じゃないと言っても、明治の頃からお店をやってるって聞いたことがあるわよ」
「それはそうなんですけど……」
莉子によると、戦後までの桜木家は、小さな商店を営んでいたに過ぎなかったそうだ。それを先代と莉子の父親のたった二代で、今のように大きな企業へと成長させたのだという。
「だけど、お母さんの方は、どう考えておられるのかしら?」
「母ですか? 母はお嫁に来た立場だから、何も考えてないと思いますよ。それに、うちの母は一般家庭で育った人でして、元々、家が大事といった発想自体が無いんです……。まあ、それで結婚する時は大変だったみたいで……あ、結婚した後も祖父母との諍いが絶えなかったって聞いてます」
「そうだったのね。となると、その祖父母の方々が心配なんだけど」
「あ、祖父母は両方とも他界してまして、後は親戚なんですが、そっちも問題ないです。ふふっ、うちの父に意見できる人なんて、誰もいませんよ。うちの父は長男でして、会社でも親戚に対してもワンマンな所があるんです。うちの父に対抗できるのは、母だけです」
「あら、莉子ちゃんもじゃないの? 桜木社長が娘さんを溺愛してるのって、業界じゃ有名な話よ」
「うーん、お恥ずかしい話ですけど……」
「ふふふ。まあ、こんなに可愛いお嬢さんだったら、当然のことよね」
「はあ……」
莉子が溜め息を吐いた所からして、彼女にとっての父親は相当にウザい存在なんだろう。
そのことを翔は気の毒に思ったのだが、この時の翔は、それが自分にも関係することには思い至っていなかった。つまり、彼は未だ莉子との結婚に正面から向き合っていなかった訳である。
ともあれ、恵美の方は、莉子の説明に一応は納得したようだった。
「分かったわ。結婚は、莉子ちゃんの自由ってことね。ただ、うちは室町の時代から続く古い家柄なの。今時どうなんだと思われるかもしれないけど、うちの会社も天王の街と同じくらいの歴史があるのよ」
「はい。翔さんから伺っています」
「そう」
「藤田組っていやあ、尾張でも随一の豪商だって、あたしが嫁に来た時、聞かされておったからねえ」
いきなり話に割り込んできたのは、祖母の初枝である。
「祖母さん、俺、藤田組ってのヤクザみたいで嫌なんだけど」
「何とか組ってのは、別にヤクザだけじゃないだろうに」
「そうよ、翔。幼稚園だって、桃組とか桜組とか言うんだし、宝塚だってそうでしょう?」
「それは、ちょっと意味が違うと思うんだけど」
「時代劇にだって、火消の『め組』とかあるじゃない」
「まあ、そうだけどさ」
この母に口で勝とうなどとは、思わない方がいい。翔は、これまでの人生において、嫌というほど叩き込まれてきたことだった。
「それに、お義母様。今はもう、その頃とは違いますよ。天王市そのものが地盤沈下してますもの」
「そうだねえ」
「あ、でも、藤田コーポレーションは、今でも業界一位じゃないですか」
「限られた業界の中だけの話ですよ。とは言っても、うちは急拡大を目指すような会社ではなくて、常に堅実経営ですけどね」
「財務体質は万全ですものね。父の会社とは大違いです」
「あら、儲けは桜木物産さんの方が多いでしょう」
「うちは借入金が多いですから、これ以上、金利が上がったりしたら、いずれ戦線縮小を余儀なくされかねません」
「それだけアグレッシブな証拠ですよ。でも、桜木さんは引き際も上手ですし……」
「逃げ足が速いってことでしょう。よく言われます」
「ふふっ。莉子ちゃん、良く知ってるわね。うちの翔なんかよりもずっと、経営に向いてるんじゃないかしら」
「それは、ちょっと買いかぶりです」
莉子が胸の前で小さく手を振った所で、初枝がまた口を挟んできた。
「莉子ちゃんはね、うちのご先祖様に、お線香あげてくれたんだよ」
恵美は一瞬、きょとんとした顔をしていたが、すぐに「まあ、そうなの」と言って笑った。
「翔が頼んだの?」
「いや、莉子からだよ。仏壇があるから、お参りさせて欲しいって」
「そうなのね。ありがとうね、莉子ちゃん」
それから話題は、翔の父のことになった。この場で湿っぽい話はどうかと思った翔だったが、莉子は真剣な表情で聞いてくれていた。
父親が早く亡くなったことで翔にはもっとしっかりして欲しかったんだけど、なかなかそうはいかず未だに頼りない。小さい頃は祖母にべったりで甘やかされて育ったのがいけなかったに違いない。もっと厳しく躾けるべきだった……。
要するに、愚痴である。
翔としては、莉子に聞かせたくない話ばかりなのだが、彼女の方は楽しそうに聞いている。とても翔が口を挟める雰囲気ではなかった。時折り初枝も話に加わり、女たちのお喋りが続いて行く……。
★★★
三人の女性のお喋りが始まって、かれこれ一時間近くが過ぎた頃だった。
静かに襖が開いて、もう一人の女性が顔を覗かせた。
「あの、奥様。そろそろ始めませんと」
「あら、亜里沙ちゃん、もう、そんな時間かしら」
「はい。お約束の時間から二十分ほど過ぎておりますが」
「まあ、ごめんなさい。すっかり話し込んじゃったわ。じゃあ、莉子ちゃん、隣の部屋に行きましょう。浴衣をプレゼントする約束ですものね」
莉子は、「お借りするだけで」と言っていたが、恵美は「うちの商品ですから」と押し切ってしまった。
「こちらのお嬢様が、本日のお客様でございますね?」
「そうよ、亜里沙ちゃん。最高に可愛らしくしてね」
「畏まりました」
それから亜里沙は、莉子の方を向いて頭を下げた。
「わたくし、お嬢様の浴衣の着付けを申し付かっております、倉橋亜里沙と申します。さあ、あちらのお部屋の方に準備しておりますので、ご移動をお願いします」
亜里沙が莉子を伴って、奥の部屋へと消えて行く。その後を初枝と恵美が付いて行く。と思ったら、恵美が急に戻って来て言った。
「翔、あんたの分の浴衣、莉子ちゃんのに合わせて決めるから、部屋で待ってなさい。私は前の奴も気に入ってるんだけど、莉子ちゃんがどういうのを選ぶかに依るわね」
翔は、「ヘイヘイ」と軽く返事をしながら、自分の部屋に向かおうとした所で、ふと思い付いて恵美を呼び止めた。
「あ、母さん。俺、その前にシャワー浴びたいんだけど」
さっき、あれだけ炎天下を歩き回ったのだ。身体中、汗まみれに違いない。
「部屋で少し待ってなさい。先に莉子ちゃんにシャワー浴びてもらうから。あんた、覗いたりしたら承知しないからね」
翔は「しねえよ」と言って自分の部屋へと向かうが、正直、少しだけ後ろ髪を引かれるものがあった。
部屋に入ると、大学まで翔が着ていた懐かしい紺の浴衣が、ベッドの上に畳んで置かれていた。莉子の浴衣に合う物をくれるという話だったが、念の為、美緒が箪笥の奥にあったのを出しておいてくれたんだろう。
この浴衣は翔が大学二年と三年の夏祭りに着た物で、翔も結構、気に入っている。その二回の夏祭りに翔は、帰省した水草薫と一緒に行ったのだ。
そう言えば、薫は夏祭りが大好きだったな。
翔は一瞬、 『今回も薫に声を掛ければ、来ただろうか?』と考えてから、慌てて大きく首を振った。
たぶん、薫だったら来ただろう。ただ、その場合は、沙希や陽輝だって誘おうと言い出したに違いない。薫だって、今の俺と二人じゃ、気まずいだろうからだ。
中止になった高校三年と大学一年の時の薫は、本当に悔しがっていた。大学四年の時は就職活動で帰省が難しかったのだが、最後まで何とか帰ろうと画策していたのを翔は良く知っている。その検討に翔も付き合わされたからだ。
代わりに行ったのが、墨田川の花火大会だったのだが、あの時は本当にもの凄い人出で、二人は早々に引き上げてしまった。まさに疲れただけの失敗イベントだった。
そんなことをつらつらと思い出していると、ドアがトントンと叩かれて、恵美が入って来た。
「翔、莉子ちゃんがシャワー終わったから、あんたが使って良いわよ。それと、浴衣だけど、これにして頂戴」
手渡された真新しい浴衣は、鮮やかな紺色だった。前のも紺だったが、色合いが違う。こっちの方が明るい色だ。
翔は色以外、見もせずに、それをベッドの上に無造作に投げて、替えの下着を手に部屋を出た。
脱衣室で服を脱いで浴室に入った時、一瞬だけ莉子の匂いを感じた気がした。彼女がシャワーを使っている所の想像を必死に打ち消しながら、翔は手早くお湯で汗を流して行く。
素早く身体を拭くと、下着姿にタオルを引っ掛けただけの格好で、自室に戻った。
部屋に入ると、陽射しが随分と柔らかくなっている。
ベッドの上には、古いのと新しいの、二つの浴衣が置かれていた。
しばらくして新しい方を手に取った翔は、ぎこちない手付きでそれを着始める。
最後に莉子から貰った香水を身に付けると、翔は一度だけ振り返ってベッドの方に目をやってから、早足で部屋を出て行った。
彼のベッドの上にあった物……、彼の思い出が詰まった古い浴衣は、その時、橙色の夕陽に照らされて、ポツンと淋しそうに残されていたのだった。
★★★
翔が先程の座敷に戻って三十分くらい経った頃、突然、奥の襖が開いた。
最初に現れたのは、莉子だった。その時の彼女は、はにかむような笑顔を向けていたのだが、翔は全く気付かない。莉子の華やかな浴衣姿に、すっかり目を奪われてしまっていたからだ。
彼女に見惚れて無言のまま立ち尽くす翔の様子に呆れたのか、恵美が声を掛けてきた。
「何、ぼーっとしてるの。翔、まず言うことがあるでしょうが」
いつもの口調で母に叱られてハッと我に返った翔は、たどたどしく「似合ってる」の言葉を口にした。
「ふふっ。翔さんは、相変わらず口下手ですねえ」
そう言ってからかってきたのは、倉橋亜里沙だった。
倉橋家三姉妹の中で長女の亜里沙は美容師で、若くして既に自分の美容院も持っている。それでも着付けや髪を整える必要がある時には、こうして藤田邸に駆け付けてくれるのだ。
代々の使用人とはいえ、倉橋家と藤田家との繋がりは一心同体と言える程に強固だ。家も隣というか藤田邸の敷地内にあるので、ほとんど家族のような関係にある。
特に、三人いる倉橋家の娘達は、一人っ子の翔にとって姉や妹のような存在だった。つまり、翔より三つ年上の亜里沙は、少々口うるさい姉という訳だ。
莉子が選んだ浴衣は、やはり翔のと同じ紺色で、金魚の絵柄が幾つか描かれている物だった。図柄が金魚と言えば子供っぽくなりそうに思うのだが、莉子の物は落ち着いた感じにまとめてある。地の色が深海を思わせる紺だからなのか、見方によっては幻想的ですらあった。
いや、それより注目すべきは、莉子の方だ。彼女がこの色を纏った姿を初めて見たせいか、普段よりも大人びて感じられる。髪もアップにしてあって、まるで別人のように艶っぽい。『さすが、亜里沙』と言った所だ。
そして極めつけは、胸元に光る銀色の十字架。ちょうど良いアクセントになっている。さっきはポシェットに仕舞っていたのに、浴衣の時は付けることにしたようだ。
「翔、『似合ってる』じゃなくて、『綺麗だ』って言わなきゃ駄目じゃないの。あんたもお父さんとおんなじね。口下手にも程があるわ」
「まあまあ、恵美さん。男ってのは、それくらいがええんだよ。口が軽い男なんて、碌なことがないからねえ」
二人の肉親からも、散々な言われようである。その間、顔に優しげな笑みを浮かべた莉子は、ずっと翔の方を見てくれていた。その落ち着いた様子からすると、恵美や初枝とは随分と打ち解けたようだ。
「翔さん、ごめんなさい。随分と待たせちゃったでしょう?」
「いや、俺は大丈夫。待ってるのも、楽しみのうちだからさ。それより、莉子としては、ちゃんと満足したのが選べたのか?」
「うん。素敵な浴衣がいっぱいで、なかなか決められなくて大変だった。それに、帯や草履、小物なんかもすっごくたくさんあって、ひとつずつ選んでたら時間が掛かってしまって、本当にごめんなさい。あ、それとね、この髪、亜里沙さんに結ってもらったんだけど、私、『どんな感じにしましょうか?』って言われても全然、何も言えなくて、全部、お義母様が『こんな感じで』って指示して下さったのよ。なんか、情けなかったわ」
「そんなの、仕方ないさ。これから覚えれば良い事だと思うよ」
「そうね。今までは智花さんに丸投げしてたことも、これからは自分でできるようにしなきゃね。私、お義母様みたいに、素敵な女性になりたいの」
智花というのは、莉子の屋敷に住み込みで働いている家政婦のことだ。
翔は莉子の決意表明に、「そうだね。頑張って」と安直に返しておく。その一方で、莉子の恵美に対する呼称が、いつの間にか「お義母様」になっていることにショックを受けていた。恵美にとって莉子が嫁に来ることは、既に確定事項なんだろうか?
それともうひとつ、翔が内心で思ったことがある。莉子は、「お義母様みたいに素敵な女性になりたいの」と言ったのだが、翔は反対に、『お願いだから、母さんみたいにはならないで』と思ってしまうのだ。
莉子が言ったのは、あくまで向上心の現れなんだろうけど、翔は彼女に今のままの純粋な心を持ち続けて欲しい。間違っても、母の恵美みたいな計算高い女にはなって欲しくない。
だけど、翔は知らないのだ。現実の世界に、彼が思っている女性なんていない。少なくとも男性から見て魅力的な女性であれば、それなりに計算高い部分だってあるに決っている。
「しかし、本当に良く似合ってるわねえ。それに、この金魚の絵柄の浴衣、まだ残ってて良かったわ。確か、数着しか仕入れてなかった筈だもの。翔の鯉の図柄は、最後の一着よ。お揃いのがあって、本当に良かった……」
恵美の言葉で、初めて翔は、自分の浴衣をじっと見てみた。確かに大きな鯉の絵柄があって、莉子の金魚の物とお揃いになっている。これでは、完全なペアルックだ。翔は、これを着て出掛けることが急に恥ずかしくなった。
ふと横を見ると、やっぱり亜里沙がこっちを見てニヤニヤしている。たぶん、彼女がこれを選ぶように誘導したんだろう。
「莉子ちゃんも私も、これと朝顔の絵柄の物とで最後まで悩んでたのよ。あっちも素敵だったんだけど、翔が着てる鯉の絵柄のとお揃いだったから、こっちに決めたのよねえ……あ、そう言えば、うちにも、朝顔があったわね。翔、後で案内してあげたら?」
「あのさあ、母さん。朝顔は朝しか咲かないんだよ」
すかさずツッコミを入れた翔だったが、母の恵美は涼しい顔でスルーして、今度はおもむろにスマホを取り出すと、莉子の写真をパチパチと撮り始めた。
それでも翔には分かる。本当は翔の言葉をちゃんと聞いてて、自分の失言が恥ずかしいに違いない。恵美は驚くほど頭が回る一方で、こんな風に抜けている所もあるのだ。
「翔、こっちに来なさい。一緒に写真撮ってあげるから。ほら、早く早く」
翔は強引に莉子の隣に並べられて、恵美に何枚も写真を撮られる。
「本当に、綺麗なお嬢さんだねえ」
祖母の初枝も莉子のことは、大層気に入ってくれたようだ。
「なんか、うちの孫にはもったいない感じがするねえ」
「ふふっ、本当にそう」
「あのー、翔さんの浴衣姿も素敵です」
小声で口を挟んだ莉子だったが、徐々にその顔が真っ赤に染まって行く。
「あらあら、可愛い。翔、良かったわね」
「母さんっ!」
「ふふっ、翔ったら、照れちゃってえ……」
ニヤニヤした顔の恵美を翔が睨んでいると、またもや話題を変えられた。
「それより、莉子ちゃんの胸元の十字架、素敵だわ。十字架って案外、浴衣にも合うのね」
「江戸時代の『隠れキリシタン』って感じだからだろ?」
「そう言われてみると、昔から着物と十字架の組み合わせもあったってことかしら?」
「それって、あんまり良いイメージじゃない気がするんだけど」
「あら、それは違うんじゃない? 悲劇のヒロインって感じがして、私は素敵だと思うわよ」
翔も隠れキリシタンがどんな存在だったかは知らないので、これ以上は恵美のコメントにどうこう言う気は無かった。だけど、莉子がクリスチャンであることに、恵美も初枝も全く抵抗が無さそうなのは朗報だ。
さっき莉子が仏壇で手を合わせた時、彼女がクリスチャンであることは翔自身、全く意識していなかった。案外、死者を弔う気持ちに宗教は関係無いのかもしれない。
それに、座敷で談笑していた際、その時の話が出ても恵美がクリスチャンの話を持ち出さなかったことからして、きっと彼女も同じ考えなんだろう。もし不快に感じたのであれば、恵美は確実に嫌味を口にしたに違いないからだ。
「でも、本当に可愛らしい子だねえ。晶が恵美さんを初めてうちに連れて来た時のことを思い出すよ。懐かしいねえ……」
最初は無口だった祖母も、だいぶ口数が増している。
それがやがて昔話になって、そのうち、とんちんかんなことを言い出すんじゃないかと、翔は気が気でない。
ところが、そんな祖母の長話ですら、莉子は笑顔で聞いてくれている。むしろ楽しそうなので、翔は密かに胸を撫で下ろした。
「恵美さん。せっかくだから、お昼はお寿司でも取ろうかね」
「お義母様。もう夕方ですよ」
恵美に鋭く指摘されても、祖母は「まあ、そうかい」と言うだけで、にこやかに笑っている。
恵美の方はというと、どんどんテンションが上がっていく一方だ。『最初に莉子と対面した時の、あの澄ました顔は何処に行ったんだろう』と思わずにはいられない。
「うちは、男の子一人でしょう。本当は私、女の子が欲しかったの。だから、今日は莉子ちゃんが来てくれて、すっごく嬉しいの」
この家に莉子を連れてきたことで、母の恵美がこんなに喜ぶとは思わなかった。
翔は、何となく親孝行ができたようで嬉しかった。
座敷にある昔ながらの柱時計を見ると、既に午後六時をだいぶ回ってしまっている。そろそろ出た方が良いだろう。
翔は家族の二人に、「じゃあ、出掛けてくるよ」と告げて立ち上がった。
恵美は、「莉子ちゃん、今日は泊まっていきなさいよ」とさかんに勧めていたのだが、「初めて来た家で、いきなりそれはないだろ」と翔の方で断った。
それでも母の恵美は名残惜しいのか、「莉子ちゃん、またすぐ来てね。今度は夕食を一緒に食べて、ちゃんとうちに泊まってくのよ」と、最後の最後までしつこく絡んでいたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、翔が莉子と花火を見に行きます。無事にプロポーズ、できるのでしょうか?
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