第65話:愛衣の父親再訪 <薫サイド>
再度、見直しました。
◆7月29日(水)
その朝、水草薫が目を覚まして最初に頭に浮かんだのは、昨夜、北島亜紀から貰った拳銃のことだった。ハッとした薫は、頭の上に置いてある古びた黄色いウエストポーチを手繰り寄せると、恐る恐るジッパーを開けた。
あった!
銀色に光り輝くその物体は、昨夜と同じ異様な存在感を持って、そこに存在している。
薫は、昨夜のことが夢ではなかったことを、嫌でも実感せざるを得なかった。
それに……。
この拳銃を亜紀から受け取ったことで、いよいよ軍に入ることが現実のものとなってしまった。いや、本当は、あの海の日の前日、軍の採用内定通知書を入手し、その場で入隊承諾書にサインした時点で、既に入隊することは決定事項なのだが、薫は現実から目を逸らし続けていたのだ。
けど、もうそういう訳にはいかない。
今日からは、そのつもりで行動しなきゃ。
隣を見ると、母の佳代はぐっすりと眠っている。この母は、めったなことでは起きない。
薫は弾倉を開けて、そこに実弾が入っていることを確認した後、その物体を静かにポーチの中に戻した。そして、そっとジッパーを閉めて、それを部屋の隅に置いた。
薫は立ち上がって、シャワーを浴びようと浴室に向かって行く。そして、軽く髪を乾かしてから再び寝室に戻ると、Tシャツとデニムを身に付けてから、しっかりと腰にウエストポーチを巻き付ける。
古い掛け時計の針は、既に八時半を示していた。『楓は、どうしたんだろう?』と思いながら冷蔵庫に手を伸ばした所で、ちょうど部屋から出て来た。
「どうしたの、お姉ちゃん。バイト、お昼からでしょう?」
「うん。そうだけど、たまには散歩でもしよっかなって……」
しどろもどろになってしまった。
けど、そんな姉の様子には気付くことなく、楓は普段と同じ口調で話し掛けてくる。
「お姉ちゃん、冷蔵庫に昨日の親子丼の残りがあるから、温めてご飯に乗っけて食べたら?」
「昨日は、ギョーザじゃなかったの?」
「愛衣が嫌がるかもって思ったんだけど」
「大丈夫だって言ってたよ。それに智也くん、ギョーザ、大好きみたい」
「そうなの? じゃあ、今日はそうするね」
昨夜に続いて、今日も牧野愛衣の弟の智也を夕方から夜に掛けて預かることになっている。
「智也くんがね、『お父さんが、またEマートの方に行くんじゃないか?』って心配してたよ」
「また足跡でも、あったんかな?」
「足跡って?」
「月曜の夜、私が二人を送ってったじゃない。そん時、玄関のドアに足跡があってさ、それを見た二人がお父さんの足跡だって言ってたの。愛衣ちゃんとこ、玄関の鍵を変えたんだよ。それでお父さんが勝手に入れなくなって、怒ってドアを蹴ったんじゃないかってわけ」
「ふーん。そのお父さん、普段はアパートに寄り付かないんでしょう?」
「うん。時々、お金をせびりに来るみたい」
「最低だね」
「だね」
その後、妹の楓は図書館に行くと言って、アパートを出て行った。
薫は、いつものように野球帽を被り、暑いだろうに薄手のパーカーを羽織った妹の後ろ姿を見送ったのだった。
★★★
楓が出て行くと、すぐに母の佳代が起きてきた。それで、楓が言ったように昨夜の親子丼の残りを温め、ご飯の上に載せて佳代と一緒に食べた。
それから薫は、洗濯機で回していた洗濯物を取り出して室内に干す。その間に佳代は台所の洗い物を終えてしまっていて、今は古い黒革のソファーに座ってぼんやりとテレビを見ていた。
冷房は入れてないけど、暑く無いんだろうか?
「お母さん、暑くないの?」
「別に、大丈夫だよ。暑くなったら、適当な所で店に行くことにするよ」
母の顔を見ると、まだ眠そうだ。
「熱中症にならないように、ちゃんと水分取ってね」
「分かってるよ」
薫は少し心配だったけど、今日は風もあるし大丈夫だろうと思ってアパートを出た。
まだ十時前だけど、たまには良いだろう。
外は静かだった……と思ったら、子供達が寄って来た。ケンタとミミ。仲良しの二人だ。小学二年生だけど、あまり学校には行ってないらしい。給食費が払えないからだとか。
「お姉ちゃん、今日は早いね」
「うん。たまには散歩でもしよっかって思ったの。部屋にいても暑いもんね」
「お外も暑いよ」
「今日は、まだましなんじゃないかなあ。君たちは?」
「天王シネマがもうすぐ開館するから、誰か来たら、お金をせびろっかと思って」
「そっか。うまく行くと良いね」
「うん。頑張る」「ミミも頑張るー」
そこで二人は離れて行くかと思ったら、ケンタの方が目を輝かせて話し掛けてきた。
「こないだ、お姉ちゃんが怖いお兄ちゃん達をやっつけたとこ、見てたよ。カッコ良かったあ」
「へぇ、近くに居たんだ」
「うん。あいつら、最近ここに来たくせに、僕らのこと、すぐ殴ろうとするから嫌い」
「ミミも嫌いー」
「そっか。でも、気を付けなよ。夕方は、ここに来ない方が良いかも」
「うん。そうする」
「そうだ。これ、あげるよ」
「うわあ、チョコだあ」「嬉しいー」
薫がポーチから取り出したのは、以前、斉藤美月から貰ったチョコだった。一個ずつ包装されている奴だ。散歩の途中で食べようと思って、さっき冷蔵庫から出してきたばかり。
「あっまーい」「美味しいね」
「毎日はムリだからね」
「うん。ありがと」「ありがとー」
「お姉ちゃん、コンビニで働いてるんでしょう。良いなあ」
「うん。売れなかったお菓子、貰えることあるもんね」
「ミミも大きくなったら、コンビニで働きたーい」
「そっか。でも、その為には学校、行かないとね」
「学校かあ。僕らの顔を見ると、すぐ先生、怒るもんなあ」
「給食費、払えって言うのー」
「うーん、良い先生がいるといいんだけどね」
たぶん、親友の山口沙希が受け持っているクラスにも、彼らと同じような児童が大勢いるんだろう。それで彼女は、そうした児童に少しでもまともな教育を受けさせようと奮闘しているわけだ。
でも現実は、そうした子供達を疎んじて、むしろ学校に来て欲しくないと思う教師の方が主流みたいだ。ただでさえ、小学校の教師というのは忙しいのだから、少しでも余計な面倒毎を背負い込みたくないのだろう。
薫はケンタとミミの前にも今後、沙希のような教師が現れてくれるのを心の中で切に願った。
「お姉ちゃん、またお菓子、くれる?」
「うん。また会えたらね。あ、でも、もうすぐ、いなくなっちゃうかも」
薫がそう言うと、二人の顔が急に曇った。
「ねぇ、何でぇ?」
「あのね、私、軍に入るんだ」
何故か二人の顔が、また元に戻った。
「うわあ、良いなあ」
「ミミのお兄ちゃん、こないだ軍に入ったんだよー」
「軍ってさあ、美味しいご飯が、お腹いっぱい食べられるんでしょう?」
「えっ?」
「こないだミミの兄ちゃん、帰って来てさ、教えてくれたんだよ」
「そうなんだ」
「僕、十七になったら絶対、軍に入るんだ」
「ミミは、コンビニがいいけど……ダメだったら、軍に入るー」
この辺の子供達の間では、軍は人気があるようだ。
薫は、ケンタとミミの頭を撫でてやると、天王通りの方に向かって歩き出した。
★★★
何となく天王通りに来てみた薫だったが、別に行く当てがある訳ではない。いっそ、楓や愛衣がいる図書館に行こうかとも思ったけど、勉強の邪魔をするのも気が引けるので、止めておいた。
以前ならコンビニのマルエムに入って、商品の陳列の仕方などを眺めたりできたのだが、今はまだ工事中だ。
気が付くと薫は、何となくバイト先のコンビニEマートの方に歩いていた。そして、お屋敷街の入口に入った所で一度立ち止まり、スマホで時刻を確認すると、まだ午前十時半。さすがに、この時間にEマートに行ったら邪魔だろう。
『じゃあ、どうしよう?』と思った所で、和風の喫茶店が目に入った。あそこは昔、沙希と一緒に入ったことがある。
確か、モーニングが有名だった筈。今だったら、まだ間に合うかも。
そう思った薫は、その喫茶店、「喫茶愛愛」の中へと足を踏み入れた。
うわあ、涼しい。
心の中で小さく叫んだ薫に、青い浴衣姿の女性店員が、「おひとり様ですか?」と声を掛けてくれる。それに薫が頷くと、奥の窓際の席に案内してくれた。
その場で薫は、ブレンドコーヒーを頼む。もちろん、モーニングセットを付けてもらった。さっき、親子丼を食べたばかりだけど、甘い物は別腹だ。
そう思った薫だったけど、運ばれて来たモーニングセットのトレイを見て驚いた。これって全部、食べられるんだろうか?
それでも、餡子が山盛りの小倉トーストをひとくち齧った途端、「おいしい」と呟いてしまった。
そう言えば、沙希が言ってたっけ。
「私、ここの小倉トースト、大好きなんだよね」
確かに、美味しい。小豆のうまみに絶妙の甘さ。それと、何よりもパンが絶品。サラダもヨーグルトもおいしいし、ゆで卵は黄身が程良く半熟だった。
そんな風に食事を堪能した後で、ゆっくりとおかわりのコーヒーを飲んでいると、何とも幸せな気分になってくる。
ぼんやりと思い浮かぶのは、昨夜、北島亜紀が話してくれた言葉の数々だった。
でも、そのことは、あまり考えても仕方がない気がする。
私が本当に軍でやって行けるかってことも、亜紀さんが何らかの機会を設けると言ってくれたんだし、あの人に任せておこう。
そういや、さっきケンタとミミが言っていた軍の食事が美味しいって話、適正検査の時も聞いたことがある。
適正検査は、駐屯地とは別の軍の施設で行われたのだが、そこに出向いて来てくれた兵士の方々が揃って、「ここの飯より、守谷の方がうまい」と言っていたのだ。
守谷というのは、彼らが所属している駐屯地のことである。
ただ、国内にいるうちは良いけど、海外に出るとなると、そうは行かないことだろう。
それよりも心配なのは、母と妹のことだ。
そろそろ、本気で引っ越し先を探した方が良いかも。
薫は、財布から軍のクレジットカードを取り出してみる。ベースの色は黒。昨夜、亜紀さんはもう使えるって言っていたけど……。
そうだ。ここの支払い、このカードを使ってみよう。
もし使えるんだったら、新しい部屋を借りた時の敷金や礼金とかも、このカードで払えば良い訳だ。
実は、軍から貰えることになっている特別貸付金は、一部だけが軍の採用内定通知書を貰った時に支払いがされていたものの、それ以外は、「もう少し待って欲しい」と言われている。そして最初に貰ったお金は、既に全額を家の借金の返済に回してしまった。
コンビニのバイト代の方は、全てが奨学金の返済に回しているので、現在、薫の口座にはほとんど現金が入っていない。
だけど……。
あれ? 奨学金の返済って、もう必要ないんじゃなかったっけ?
次の返済は、月末だった筈。ていうか、今週末だ。
薫は早速、北島亜紀にメールを打った。もし、払わなくても良いとなると、来月の生活費には相当に余裕ができる。
亜紀からの返信は、すぐに来た。
『水草、お前、馬鹿か。そんなの払う必要無いに決ってるだろう』
要するに、薫は既に入隊済ということのようだ。そして、奨学金の返済義務は入隊と同時に保留となり、一定年数が過ぎれば消滅する。
やったー。ヤッホー!
これって、マジで嬉しいかも。
薫は、小躍りしたい気分になった。
★★★
結局、軍のクレジットカードは、ちゃんと使えた。
そして、今日も薫のEマートでのバイトは、お昼から牧野愛衣と一緒だった。
その愛衣には早速、智也を預かったことのお礼を言われてしまった。
「お父さん、やっぱり昨日も来たみたいなんです。鍵を変えちゃったんだから、何度来たって入れないのにね」
「そっか。やっぱり今日あたりは、こっちに来るかもね」
「そうなんですよ。それ考えると、私、すっごい憂鬱なんです」
そういうことには慣れてる筈の愛衣でも、やっぱり、落ち込んだりすることはあるらしい。
「逆に今日、こっちに来てくれて、お灸を据えてあげた方が良いんじゃないかな。ほら、明日は愛衣ちゃんだって、お休みじゃない。まあ、そん時は、智也くんと二人でうちにいてくれても良いんだけどね」
「毎日は、悪いですよ。それと、お父さんが今度こっちに来るときは、一人じゃないって気もします。私は、そっちの方が心配です」
確かに、その可能性はある。それで、このお店に迷惑を掛けてしまったりすると、ここでの愛衣のバイト継続も厳しくなるかもしれない。
「そん時は申し訳ないけど、警察に連絡するしかないかもね」
「ですよねー。ああ、うちの両親、早く離婚してくれると良いんだけど……」
やっぱり、愛衣は相当に落ち込んでいるようだった。
★★★
薫は、今も制服のスカートのポケットに、例の拳銃を忍ばせていた。
そのことは気にしないようにしていても、どうしても気になってしまう。例えば、午後に外回りの掃除をする時、絶えず周囲には気を遣うようになってしまった。
この辺りには少ないのだが、天王通りなどでは最近、スリが横行しているのだ。特に、ポケットの中の財布とかが狙われるらしい。万が一、財布と間違えられて盗まれでもしたら、本当に一大事だ。
もちろん、財布の方だって気にはなるのだけれど、そっちは現金以外、何とかなるようになっている。軍のクレジットカードとかも、すぐに届け出れば勝手に使われることは無い筈だ。
そんなことを思いながら店内に戻ると、既に斉藤美月が来る時間になっていた。つまり、午後四時を過ぎているということだ。
そして、今日も夕方は忙しかった。
考えてみると、美月は忙しい時間帯ばかり働いていて可哀そうだ。
お客さんが途切れた時に、そのことを薫が美月に言ってみると、「私ね、暇にしてるより忙しい方が好きなの。その方が働いてるって実感があるし、いろんな経験だって積めるでしょう? 水草さんも、そういう風に考えた方が良いと思うよ」と言われてしまった。
とても立派な考え方だと思う。だけど、それって絶対に、私を目下の存在だと思っての発言だよね。
そう思った薫は、複雑な気分だった。
もちろん、「美月の上から目線での物言いが、気に食わない」とかではない。実際には五つも年上で、しかも指導員としての時給を頂いている自分が、どうにも情けなく感じてしまったのだ。
その美月は、午後八時の帰り際に、「水草さん、明日、休みだったよね。今日中に来週のシフト、忘れずに端末へ入れときなよ」と言い残して去って行った。
そうだった。この店では、翌週月曜日からのシフトの希望を、木曜日中に共有のスケジュール表に入力しておくことになっている。そのシステムにはネットからも入れるので、スマホからの入力もできなくは無いのだが、店のPC端末の方が動きがずっと早くて入力し易いのだ。
薫は、お客さんが途切れると、すぐにPC端末の前に座った。
本当はもう働く必要なんて無いのだが、他にやりたいこともないし日比野店長にはお世話になっているので、来週くらいは働くつもりでいる。
だけど、今週みたいに夜遅くまでのシフトは、もう良いだろう。それに、一回のシフトの時間も短くしたい。一日に六時間くらいで、ちょうど良いんじゃないだろうか?
そんな風に来週の自分のシフトを思い描きつつ、既に何人かが入力済みのスケジュール表に目を落としてみると……。
「あれっ?」
薫は、レジの所にいた愛衣を呼んだ。
「愛衣ちゃん。来週の月曜だけど、夜九時迄になってるよ。これって、間違いじゃない?」
「あ、そうですね。月曜は八木さんが来られない日でした」
月曜は大衆酒場が休みなので、八木颯太のバイトが無い。もっとも、「バイトが休みの日で悪いけど、愛衣ちゃんを送ってあげて」と言えば、彼なら来てくれそうな気もする。だけど、それって、あんまり良いことじゃないだろう。
「そうだ。私が愛衣ちゃんと同じ時間に上がることにするから、一緒に帰ろうよ」
「えっ? でも……」
「大丈夫だよ。私が一緒なら、何とかなるから……」
パぴパぴ……。
「「いらっしゃいませー」」
薫は、即座に立ち上がって店内に目を走らせたのだが、入って来たサラリーマン風の男性は一直線に雑誌コーナーへ行って立ち読みを始めてしまった。
スマホの普及で雑誌の売り上げは年々減っているけれど、未だに一定数は売れている。やっぱり、紙の方を好む人がいるようだ。
本の方は電子化が進んでいるのだが、雑誌は読み捨てが基本なので、却って無くならないのかもしれない。もちろんエコじゃないから、いつかは完全に電子化されてしまうだろうけど、それはまだ先の気がする。
それでも、コンビニの役割が今後も少しずつ変わっていくのは避けられないだろう。
そんなことを思いながら、再び薫はPC端末に向かった。
日比野店長からは週に一度以上、休みを入れるように言われているので、比較的シフトの希望が多そうな火曜を休みにすることにした。愛衣は来週も木曜が休みだけど、無理に合わせなくても良いだろう。それに今の所、木曜の日中は希望者がいない。
月曜以外は八時から四時迄にしようとして、すぐに三時迄に変えてしまった。
本当にこれからいなくなるとすれば、それなりにやることはありそうだからだ。最低限の買い物だとか、友人との交流。こないだ行った水瀬美緒のお店に、また行きたいし、服部圭介のお見舞いにだって行きたい。
そうだ、圭介にも軍に行くことを言わなきゃ。その時の彼は、いったいどういう反応をするだろうか?
ようやくPC端末への入力を済ませて、店内の細々とした仕事をしていると、颯太が店に来てしまった。その颯太に薫は、「今夜も天王シネマの所には、近付かないようにしてね」と念押ししてから、彼と愛衣の二人を送り出す。
遠ざかって行く二人の背中を見送った後、ふと、薫の脳裏に浮かんだのは、「こうして二人を見送るのも、これが最後かもしれないな」という思いだった。
だけど、仕方がないのだ。
何にだって、始まりと終わりは必ずあるのだから……。
★★★
愛衣がいなくなった後、代わりに来てくれたのは、男子大学生の原田だった。彼は、いつもどおりのへらへらした調子でレジカウンターにいた薫の所までやって来ると、「今日は何も無いと良いなあ」と言った。
「いやね、こないだ酔っぱらいのオヤジが急に店で騒ぎ出しちゃってさあ。なんか、会社をリストラされちゃったらしくて、大暴れ。と言っても、刑事沙汰になるようなことじゃなかったんだけど、店内でゲロ吐かれちゃったんだよ。そんで掃除が、すっげえ大変でさあ」
「それは、災難だったね。でも、さっきの原田くんの言葉、変なフラグになっちゃいそうで怖いんだけど」
「えっ、どういうこと?」
「だからー、『何も無いと良いな』とか言った日に限って、何か起こるんだってば」
「そういうもんなの?」
「そうなのっ。こうならないと良いなあとか口に出して言うと、だいたいそうなるってこと」
「もう、脅かさないでよ。フラグ立ててんのって、薫ちゃんの方なんじゃないの?」
原田がそう言って、三十分くらい経った時だった。
パぴパぴ……。
「「いらっしゃいませー……えっ?」」
その瞬間、薫は原田と顔を見合わせることになった。
最初に入って来たのは、愛衣の父親の牧野秀樹だった。当然、サングラスはしているのだが、それでも容易に彼だと分かる。
そして、彼の後に三人の若い男達がぞろぞろと入って来る。彼らも揃って黒いサングラスをしている所が、何とも笑いを誘っているみたいだ。つまり、全員が典型的なチンピラ風の格好だったのだ。
薫が「これって、コスプレ集団だったら良かったのにね」と呟くと、原田が「こんな時に、冗談言わないでよー」と泣きそうな顔で言う。
そこまでは、まだ良かった。しかし、その直後に原田が、「警察、呼んだ方が良いかなあ」と呟いたのだ。明らかな失言なのだが、父親が警官の彼には、割と自然な発想だったんだろう。
ともあれ、彼の不用意な発言は、しっかりと男達に訊かれていたようだ。
「おい、兄ちゃん、良い度胸してるじゃねえか」
「お前ら、警察がどうのこうのとか、俺らに喧嘩を売ってんじゃねえぞ、こらっ!」
若い連中が騒ぎ立てた後で、牧野秀樹が、「今日は、愛衣はいねえのか?」とボソッと言った。
「こんな遅い時間に女子高生を働かせるなんて、できませんって」
そう答えながら薫はレジカウンターから出ると、原田の前に立った。
「こらっ、姉ちゃん。舐めるんじゃねえぞ」
「てか、こいつ、こないだの女じゃね?」
その口調からすると、こないだ天王シネマの前でやり合った連中かもしれない。
薫がそう思った時、三人の若い男達がポケットからナイフを取り出した。
「なあ、兄ちゃん、もし警察なんか呼んだら、おめえの命はねえからな」
「てか、警察を呼んだって、すぐには来ねえだろうが」
「いや、契約してるセキュリティ会社がありますので、すぐに来てくれますよ」
普段どおりの事務的な口調で答えたのは、薫だった。
すぐに来てくれるだろうけど、その人達が役に立つかどうかは別だ。たぶん、契約内容は従業員を守る為じゃなくて、店の損害をミニマムにすることだろうからだ。
唯一の希望はというと、原田の父親が天王警察署のお偉いさんだということだろうか? だけど、警察が来たら来たで面倒毎が増えるだけな気もする。
「おい、てめーら、くだらねえこと言ってないで、金を出しな」
「お金なんてありませんよ。ほとんどが電子決済ですから」
「そんでも、少しはあるんだろ?」
「つべこべ言ってねえで、あるだけ出せば良いんだよ」
「ほあら、さっさとしろ」
うるさい奴らだ。
幸いなことに、店内にお客さんはいなかった。
それでも、これ以上、お店の中で暴れられるのは宜しくないかも。
そう思った薫は、外に出ることにした。
「あのね、オジサン達。今、うちにある現金なんて、せいぜい四、五万円ってとこなの。そんなのより、私と少しお散歩しない?」
「はあ?」
男達は一瞬、あっけに取られた顔をしている。その間に薫は、原田に話し掛けた。
「原田くん。私、オジサン達と一緒に外に出て来るね……あ、オジサン達が言う通り、警察には連絡しなくても良いから」
「えっ、でも……」
「私は大丈夫だから、店番の方、宜しくね」
薫は、無表情のまま早口でそう言うと、再び男達の方に向き直る。
「じゃあ、オジサン達、天王池公園でも一緒にお散歩しましょうか?」
薫の言葉に、若いチンピラ三人の反応はまちまちだった。オジサンと呼ばれたことに怒る者、若い女の相手ができると喜ぶ者、薫が何を考えてるのかと訝る者……。
口を開いたのは、愛衣の父親の牧野秀樹だった。
「お嬢ちゃん、相変わらず良い度胸してんな。けど、いくらお嬢ちゃんでも、ナイフを持ってる四人を相手にして、勝てるとは思えねえんだがな」
「別に、心配してくれなくて良いよ。早く行きましょう。あ、公園に行くまでは、私に触んないでね。後でゆっくりと相手してあげるから」
薫の言葉の後で秀樹が、「お前ら、行くぞ」と言って先に店を出て行く。その彼の後に薫、その後に若いチンピラ三人の順番で店を出て、天王池公園の方に向かって行った。
★★★
到着したのは天王池公園の入口で、昨夜、薫がリクルーターの女、北島亜紀と言葉を交した辺りだった。
薫は最後に秀樹を追い抜いて、男達四人と向かい合う形で立った。
薫が秀樹を追い抜いた時、彼が「こらっ、逃げるな」と怒鳴った。ところが、すぐに薫は「逃げないよ」と言い返して、その場でサッと振り向いた。
そして彼女は、彼らの前でニヤッと笑ったのだ。もちろん、それは例の不気味な「悪魔の笑み」だった。
それだけではない。その時、彼女の手には、昨夜に入手したばかりの拳銃が握られていた。彼女の手にフィットする小型の拳銃。敢えて彼女は、自分の立ち位置を街灯の下に置いたので、その銀色の拳銃のフォルムが彼らには光って見えていたことだろう。
実弾が入っているのは確認済み。後は安全装置を外して引き金を引くだけだ。
しかし 男達の反応は最初、薫の期待したものではなかった。
「お嬢ちゃん、そんなもん出して、どういうつもりだ?」
「そんなもんって、拳銃だけど」
「んな訳ねえだろ。どう見たって、オモチャじゃねえか。そんな型式の銃、見た事ねエぞ」
「それは、オジサンが知らないだけなんじゃないの?」
「そんな訳あるかあ。まあ、いいさ。撃ちたきゃ、撃てよ」
薫の頭の中に、昨夜の亜紀のセリフが思い起こされた。
『ためらわずに引き金を引け』と彼女は言ったのだ。
これは、本当に撃つしか無いかな?
でも、試し撃ちすらしたことがない銃の引き金を、本当に引いちゃって良いんだろうか?
「おらおら、姉ちゃん、早く撃ってみろよ」
「ハハハ、撃てるんだったらな」
「案外さあ、水鉄砲とかじゃねえの? それとも、花がポッと出てくるとかよ」
「ギャハハ、パーティーグッズかよ」
「姉ちゃん、早くしてくんねえかなあ。てか、できねえんだったら……えっ?」
その時だった。突然、けたたましいサイレンの音が、彼らの背後で鳴り響いたのだ。
ここは立ち木の影になっていて道路からは見え難い場所なのだが、あれだけのパトランプが赤々と点滅していては、恐怖を感じない筈は無いだろう。
「ちぇっ、逃げるぞ」
牧野秀樹がそう言うと、三人の若いチンピラ達もこぞって公園の奥の方に逃げて行く。ほぼ同時にバタバタと靴音がして、制服姿の警官達が現れた。
薫は最近、地元の警官には良い印象が無いので、サッと身構えてしまう。でも、ポーカーフェイスが取り柄の薫である。表情には出ていない。
「大丈夫ですか?」と問われたので、「大丈夫ですよ」と返しておく。
「あの、お仕事、お疲れ様でーす。大変、助かりましたー」
薫としては心を込めて言ったつもりなのだが、警官達には全くそうは聞こえていないようだった。チンピラ四人に脅されて、顔色ひとつ変えない若い女なんて普通はいる筈がない。それが彼らの常識なのだから、不審に思っても当然だろう。
それでも何気に警官の脇を通り抜けようとしたら、しっかりと行く手を阻まれてしまった。薫が『これは、ちょっと面倒なことになるかも』と内心で溜め息を吐いた所で、日比野店長と原田が駆け付けてくれた。
店長は、原田が呼び出してくれたんだろうか? いや、監視カメラの映像は警備会社とも共有されている筈だから、そっちから連絡が行ったのかもしれない。
となると、警察にも警備会社が通報した可能性もある。だけど、こんなにタイムリーに駆け付けたとなると、やはり原田が通報してくれたんだろう。薫も最近知ったのだが、どうやら彼の父親は、天王警察署のお偉いさんらしいのだ。
ちぇっ、余計なことしやがって……。
薫は心の中で悪態を吐いたけど、もう遅い。それに薫が「警察には連絡しなくても良い」と言ったせいで、逆に原田は「すぐ来てもらわないと」と思って、警察署幹部の父親に必死で頼み込んでくれたのかもしれない。
そんなことを考えて不安を紛らわせていた薫の横で、日比野店長と原田の二人は、「彼女は、うちの従業員です」、「とても優秀な同僚ですよ」、「おかしな所なんて、ありませんから」と薫の証言をしてくれたのだが、案の定、警官達は納得してくれない。店に押し入った連中と一緒にいた薫のことを、やはり彼らは疑っているようだ。
それでも、取り敢えず全員で店に戻ることになった。
この時点でパトカーの何台かは、牧野秀樹と彼の仲間達を追っていなくなっていた。
薫たちと一緒に店内にやって来た警官は、四名。その内の一番年配で温厚そうな警官が、先に監視カメラの映像を確認したいと言い出した。いくら温厚そうでも、相手は警官。気の弱い日比野店長は従うしかない。
カウンター奥のPC端末の前に全員で移動を始めた所で、突然、左の二の腕あたりがガシッと掴まれて、薫だけ引き留められた。
「お前は、こっちに来い」
「痛いです。離してください」
「うるっせー。言うことを聞け」
相手は若手警官の一人だった。咄嗟に薫は彼の股間を蹴って腕を振り払おうと思ったが、何とか怒りを鎮めて引き摺られて行く。ここで騒動を起こせば、店に迷惑が掛かると思ったからだ。
薫が連れて行かれたのは、カウンターとは対角線上にある飲料コーナーと雑誌コーナーの間のスペースだった。その彼は壁の隅に薫の背中を押し付けると、親の仇でも見るような目で薫の顔を睨み付けてきた。
警官との距離が近い。彼の背丈がそれほど高くないせいで、厳つい顔が薫の直前に迫っている。普通の若い女なら間違いなく泣き出すだろうシチュエーションだが、あいにく薫は普通ではない。薫の心配事は、「この距離で怒鳴られると、唾が掛かっちゃいそうで嫌だなあ」だった。
「さあ、説明してもらおうか?」
「何をでしょうか?」
薫は、いつもの無表情な顔で警官を見た。彼は一瞬だけ躊躇った後に、「まずは、名前からだな」と言った。
それから矢継ぎ早に投げ掛けられる質問に、薫は淡々と回答して行った。薫としては真面目に答えているつもりなのに、何故か彼は苛立ちを増して行く。それでも最初の五分間は、何も無く過ぎて行った。
しかし、それまで訊き忘れていた様子の現住所を聞かれて薫が答えた時、遂に彼が激昂した。
「お、お前、やっぱ、さっきの連中の仲間じゃねえかよ」
「えっ、何でそうなるんです?」
「しらばっくれるな。お前の住所、牧野のすぐ近くだろうがっ?」
どうやら、この警官は愛衣の父親のことを知っているらしい。つまり、愛衣の父親の牧野秀樹は、これまでにも度々警察のお世話になっているということなんだろう。
「そんなの、たまたまなんじゃないですか?」
「そんなこたあ、関係ねーんだよ。お前が貧民街の女だと分かった時点で、お前は黒だ」
「黒って、どういう意味ですか? まさか、犯罪者とか?」
「ああ、そうだ」
聞き捨てならない言葉だった。貧民街に住んでいるというだけで犯罪者だったら、愛衣はもちろん、妹の楓だって犯罪者にされてしまう。
ここにきて初めて薫は、ポケットの中にある拳銃を意識した。こいつがこれ以上バカなことを言ったら、『銃で脅してやるくらいはアリかも』と思ってしまったのだ。
とはいえ、軍人の立場で警察と揉めるのはまずい。しかも薫は、正式な入隊前だ。
咄嗟に、そんなことを思ってしまった薫を余所に、目の前の警官は早口でまくしたててきた。
「だいたい、おかしいと思ってたんだよ。お前みたいなガキが、このオレ様と対等に向き合っていられる時点で、フツーである筈がねえんだ。ほらほら、さっさと吐いちまいな」
「あのー、何を言ってるか、ぜーんぜん分かんないんですけどー。それに、ガキって何なんです? さっき私、二十五だって言いましたよね」
「はあ? そんなもん、信じられるわけねーだろ。容疑者の言ったことなんて、ほとんど嘘に決まっとるだろーが」
「そうですか……」
言ったことを信じてもらえないなら、真面目に答える必要なんてない。
薫が内心で溜め息を吐いている間も、目の前の警官はブツブツと見当違いの妄想をがなりたてていた。
「……どうせ、店の金をチョロまかして牧野に渡してたんだろうけど、こうして原田さんの息子さんにバレて通報されたんじゃしょうがねーわな」
「えっ? それじゃあ、原田くんが通報したのって、私が原因ってこと?」
「当然だろ?」
「何それ? 全然、有り得ないんだけど……」
「うるっせー。オレの経験上、お前みてーな貧民街のガキがまともなわけねーんだよ。どうせ、この店で働いてるのだって、あの弱気な店長に身体でも売って言いなりにさせてんじゃねーのか? そういう女は、今までに腐るほど見てきたからよ。ホント、お前らみてえな頭の軽い女を見てると、吐き気がするわ」
どうやら彼は、貧民街の女に偏見があるようだった。
薫は過去に彼と接触していて、その時に何かの恨みを買っていたのを想定していた為、少し拍子抜けだった。
その警官は、そこでポケットから手錠を取り出して、これ見よがしに見せ付けてくる。それを薫は無視して、「頭の軽い女ですか……」と呟いていた。
その彼が薫の手を取って、手首に手錠を掛けようとした瞬間、薫の膝が男の股間へクリーンヒットした。
大きな体格の警官が薫の前に蹲り、彼が手にしていた手錠が床にカランと音を立てて転がった。
「こら、縄田。お前、何やってんだっ!」
怒鳴ったのは、さっきまで温厚そうだった年配の警官だった。どうやら、ちょうど監視カメラの映像の確認が終わっで、彼の同僚の警官達が戻って来たようだ。
その一方で、薫の足下で痛みに耐えている警官は、「こ、こんなことして、ただで済むと思うなよ……」と脅しの文句を呟いている。
この場合、警官に危害を加えた薫が非難されてもおかしくない状況なのだが、年配の警官は若手警官の方を責め立てた
「何を言っとるんだ、縄田。お前、どういう判断で、そのお嬢さんに手錠を掛けようとしたんだ?」
「そ、そいつが犯人の一味で……」
「ほう。証拠でもあるんかね?」
「そんなもん、必要ないでしょう。そいつは貧民街の女で……」
「馬鹿もん。貧民街に住んでる女性が全員、犯罪者な訳ないだろうがっ!」
それから、その年配の警官は、今も蹲っている警官の非礼を薫に詫びると、別の若手警官に彼を店の外へ連れ出すように命じた。
ホッと一息ついた薫が、店内の壁のデジタル時計で時刻を確認すると、既に午後十一時を過ぎてしまっている。
薫は慌てて日比野店長に軽く目配せすると、早足でバックヤードの更衣室へ向かって行ったのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
いろいろと思い付きの勝手な設定が多発しておりますが、ご了承下さい。ローカルな地名は、できるだけ変えていくつもりです。
次話からは、薫視点で、薫の中学時代の話になります。宜しくお願いします。
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