第56話:藤田家の夕食会 <翔サイド>
再度、見直しました。
◆7月26日(日)
元カノに会いに行った藤田翔は、バイト先から彼女を天王池公園に誘い出すことには成功したものの、彼女と碌な話もできないままに激しい夕立に見舞われて、二人共ずぶ濡れになってしまった。
その彼女、水草薫とは公園の入口で分かれ、翔はずぶ濡れ状態のまま、とぼとぼと実家への路を歩いていたのだった。
薫と別れた時、「翔くんも早く帰って着替えないと、風邪、引いちゃうよ」と気遣ってもらったことは覚えている。その後、彼女は自分のアパートの方角に走り去って行ったのだが、どうしても翔には早く歩く気になれないのだった。
翔は、水草薫に過去の自分の行いを詫びた上で、これからのことを相談するつもりでいた。だけど結果は、全てが空振りに終わってしまった。その為に彼は、すっかり意気消沈していたのだ。
今日の収穫と言えば、彼女が軍に入るつもりであることを本人の口から聞けたことくらいだ。もっとも、それを聞いた所で、どうこうなるものではないのだが……。
それ以外の彼女の現状について、翔は何も聞き出せてはいない。今朝、女友達の山口沙希が話してくれたことが、翔が持っている情報の全てだった。
まあ、薫が話すつもりが無いのなら、仕方がない。今の俺にとって、薫は別に彼女でも何でもないのだ。その彼女が自分に何も話すつもりが無いのだったら、これ以上、俺にはどうすることもできないんじゃないか?
そう思って強引に自分を納得させてはみるものの、全くもってもスッキリとはしない。
それに、沙希には薫と話した結果を報告することになっている。こんな状態で、いったい何を話せば良いんだろうか?
翔には、沙希のブチ切れた怒鳴り声が容易に想像できてしまい、もう何度目かの溜め息を吐いた。
だけど、そんなことを考えて多少ゆっくり歩いていた所で、すぐに実家には着いてしまう。元々たいして離れていないのだから当然だ。
気が付くと翔は、実家の玄関の前に立っていた。
ガラガラと引き戸を開けて入って行くと、目の前に若い女性がやって来て、彼女にしては大きな声を上げた。
「うわあ、ずぶ濡れじゃないですかあ? ちょ、ちょっと待ってて下さいね。お母さーん、翔さんが大変なの……」
その彼女、倉橋三姉妹の末っ子の花音は、ドタドタと奥へ引っ込んで行く。そして代わりに現れたのは、花音の母親の倉橋彩音だった。
その彩音が、落ち着いた口調で言った。
「あらあら、こんなに濡れちゃって、どっかで雨宿りできなかったんですか?」
「一応、屋根のある所に入ったんだけど、遅すぎたんだ」
「そうなんですか。まあ、急に降って来ちゃいましたからねえ」
彩音がそこまで言った所で、娘の花音が両腕にバスタオルをいっぱい抱えて戻って来た。
翔は彼女から一枚を受け取ると、顔と髪の毛を拭く。その間に花音が身体の方にタオルを押し当てて、床に雫が落ちない程度に衣服の水気を吸い取ってくれる。
「もう良いから、その濡れた服、さっさと脱いじゃって下さいよ。花音、貴方はあっちに行ってなさい」
そう言いながら、彩音は翔のポロシャツを脱ぐのを手伝ってくれる。身体にピッタリへばり付いていて、非常に脱ぎ難いらだ。
ズボンの方は何とか自分で抜いで、翔は身体にタオルを巻き付けた状態で浴室へと向かった。
★★★
翔は熱めのシャワーを浴びてから、自室で新しい服に着替えた。と言っても、さっきと同じような格好だ。
それからベッドに腰を下ろして、ドライヤーを持って髪を乾かす。頭に浮かんで来るのは、さっきの薫のことばかりだった。
あいつ、相当に怒ってたんだろうな。
いや、怒ってるだけなら、まだ良い。完全に拒絶されている気がする。
『ねえ、翔くん。私、軍に入ることにしたよ。もう決めちゃったから』
あの時の言葉は、自分の一切を拒絶していたようだった。
――俺なんて、もう要らない。
薫には、そんな風に思われていたんじゃないか?
そして彼女は、軍に入るという選択を止める気はもう無いのだ。
全ては遅かった。
そういうことなんだろうか?
そこまで考えた所で、髪は乾いてしまっていた。
さて、どうしたものか?
どのみち、沙希には報告しておかなければならない。でも、昼間は彼女も用事があるかもしれない。通話するにしても、夜で良いだろう。
それからも翔は、ベッドの上であれこれ悩んでいたのだが、どうにも考えがまとまらない。次第にイライラし始めた翔は、ベッドから立ち上がって、机の上に置いたウェアラブル端末を手に取った。時刻を確認すると、家に戻ってから一時間以上が過ぎてしまっている。
こんなのは時間の無駄だと思った翔は、少し外をぶらぶらすることにした。
リビングに出て行くと、彩音が声を掛けて来た。
「翔さん、またお出かけですか?」
「ああ、ちょっとだけ」
「今度は、傘を持って行って下さいね」
「分かった」
「それから、ちゃんと六時までに帰って来て下さいよ」
「分かってる」
心ここにあらずの翔は、どうしてもぶっきらぼうな受け答えになってしまう。それでも大きめの蝙蝠傘を手に取った翔は、そのまま外に出た。
★★★
外は、すっかり夏空が戻ってしまっていた。
翔は一瞬、傘を置きに戻ろうかと思ったけど、すぐに思い直して、そのまま持って歩くことにした。
明確にどこかへ行くと決めて外に出た訳ではなかったのだが、気が付くと再びコンビニEマートへと足が向いてしまっていた。しかし、駐車場の先に目をやって、そこで箒を持って働く女性を視界の隅に捉えた途端、翔は足の向きを変えていた。
見間違える筈がない。あれば、薫だ。
店とは反対側の方向へと足を進めながら、さっき見た女性のことを思い出す。幸いにも彼女は翔に背中を向けてゴミ箱の周囲を掃除しているようだった。さっきの雨に濡れた後、きっと彼女は大急ぎでアパートへ帰って着替えたんだろう。
あの店から薫を連れ出したのは自分だ。翔は、そのことを申し訳なく思ってしまった。
気が付くと翔は、天王通りを駅に向けて歩いていた。
やがて、昨夜、行ったばかりの居酒屋「大衆酒場」が見えてきた。今はまだ準備中らしい。
そこで翔は、ふと昨夜、薫と交わした会話を思い出した。
あの時、確か薫と同じコンビニでバイトをしている天高の後輩の話をしていた。その子は薫が今、住んでるアパートの近所に住んでいて、受験勉強をしながら必死に学費や食費を稼いでいるのだとか。
薫のアパートの近くということは、今朝、沙希が言っていた危険な地区ということだ。
そのことを思い出した時、翔の頭に浮かんだのは、昼過ぎにEマートを訪れた際に薫を呼びに行ってくれたバイトの子だった。彼女は天高の制服を着ていた。ということは、あの彼女が、薫の話に出てきた「危険な地区から天高に通っている後輩」なんだろうか?
それにしては、割と今風な子に見えたけど……。
いや、あの制服、着崩している気がしていたけど、単純に古くなっていただけじゃなかったか?
てことは、スカート丈が短かったのも、単にサイズが合わなくなっていただけとか?
まさかな……。
まあ、そんなことはどうでもいい。
やっぱり、薫の件は、もう諦めるしかないんだろうか?
いや、そういうことも含めて、沙希と相談だな。
翔は結局、判断を沙希に丸投げしてしまうことにしたのだった。
★★★
「あら、珍しい。藤田くんじゃない?」
翔が考え事をしながらぼーっと歩いていると、突然、女性から声を掛けられた。翔が声のした方に顔を向けると、そこにいたのは松永陽輝の姉の松永京香だった。
「あ、京香さん、お久しぶりです」
「珍しいわね、てか、懐かしいわ。陽輝から、こっちに戻って来てるとは聞いてたけど、会えて嬉しいわ」
「はあ」
イケメンの松永の姉というだけあって、彼女は美人だ。女性としては高めの身長。スタイルが良くて、特に胸の膨らみが目立つ。松永から彼女の悪口は耳にタコができるくらい聞いているが、翔としては優しい人といったイメージしかない。
「ニューヨークに住んでるんだよね。良いなあ。あ、そうだ。時間ある?」
「え、まあ、ありますけど」
「だったらさあ、どっかでお茶でもしない?」
翔は少しだけ考えてから、「六時迄だったら、良いですけど」と答える。
夕食までは特にすることもないし、美人の京香さんとのお茶だったら、断る要素がないだろう。
「じゃあさあ、少し戻ることになるけど、喫茶愛愛か、あ、そこのビクトリアでも良いわね」
喫茶ビクトリアは、高校時代に良く行ったケーキが安い喫茶店だ。
「どっちでも良いですよ」
「じゃあ、喫茶愛愛ね。私、ケーキよりは餡子なんだ」
というわけで、翔にとって今日二度目の喫茶愛愛に向かう。
その京香は、翔の実家があるお屋敷街の外れにある高齢者施設グループホームで働いていて、その職場から帰る所だったらしい。つまり、翔と同方向に歩いていて、追い抜いてから声を掛けたようだ。
「私、夜勤明けなんだ」
「夜勤明けって、もうすぐ四時ですよ」
「えーと、二十時間勤務ってとこかな」
「うわっ」
「途中で少し仮眠は取ったけどね」
あっけらかんと言う京香は、元気一杯といった感じだ。とても、長時間勤務の後には見えない。
「私、夜勤明けだとハイになるんだよね。ふふっ、じゃないと、こんな逆ナンなんかしないよ」
「えっ、逆ナン?」
「さあ、入るよ」
気が付くと目的地い付いていて、翔たちは浴衣姿の女性店員に案内され、店内に足を踏み入れたのだった。
★★★
「それは、追い掛けても無駄って感じかなあ」
「やっぱり、そうですよね」
聞き上手でもある京香のペースに乗せられてしまい、気が付くと翔は、薫とのことを全て話してしまっていた。
彼女は松永や翔より三歳年上。アラサーだけあって、恋愛事には詳しい。元々、松永から過去の経緯は全て聞かされていたようで、翔からの話は短くて済んだ。
「まあ、軍に入るってのはショックかもしれないけど、今じゃあ、そんなに珍しくもないもんね」
「でも……」
「翔くん達の友達、えーと……」
「圭介ですか?」
「そうそう。圭介くんのことは、可哀そうだったわね。けど、戦地に行ったって、元気に帰って来る人だっている訳だし、軍に入ることイコール不幸ってことじゃないと思うんだよねえ」
そう言うと、京香は小倉トーストの端を少しずつ手でちぎっては、口に運んで行く。上に載った大量の餡子は既に皿に移されており、パンとは別にフォークで掬って食べるようだ。
翔の前にあるのは、もちろん普通のブレンドコーヒーで、脇にはサービスのナッツ盛り合わせが置かれている
「薫ちゃんだって、相当な覚悟をして決めたんだろうから、あの子の性格上、翔くんがどうこう言った所で覆るとは思えないんだ。家の借金だってあるわけだしね」
「それはそうですけど……」
「駄目よ。その借金を肩代わりしてやろうとか考えたって、薫ちゃんが受けるとは思えないわ。あの子、見た目とは違って、相当に芯が強い子だもの。たとえ、翔くんがプロポーズした所で、絶対に受けないと思う。結婚するとしても、対等な関係になってからって考えるんじゃないかな」
「はあ」
「もっとも、家族のことは大事だろうから、背に腹は代えられないってことはあるかもしれない。でも、翔くんや陽輝の話を聞く限りでは、そこまで追い詰められてる訳でもなさそうじゃない」
「どういうことですか?」
「まあ、私の想像だけど、軍に入りさえすれば借金の目途が付くってことじゃないの?」
「そうでしょうか?」
「そうだと思うよ。ほら、陽輝って沙希ちゃんと仲良いっていうか、だらだらとした関係を続けてる訳じゃない。その沙希ちゃんからの又聞き情報だけど、今年の冬から春に掛けての薫ちゃんって、本当に生きてるかどうか分からないって感じだったみたいなの。それで私も密かに心配はしてたんだけど、沙希ちゃんが六月に会った時は、だいぶすっきりした表情だったんだって」
「そうなんですね」
「そういうこと。まあ、藤田の財力をもってすればどうにかなるんでしょうけど、それって翔くんにとっては、生半可な気持ちじゃできないことでしょう?」
「……はい」
それまで優しかった京香さんが、急に厳しい表情になって翔の方をじっと見詰めてくる。
美人の真剣な目で見詰められた翔は、思わず唾を飲み込んだ。
「まあ、無理よね。翔くんだって、そろそろ結婚してもおかしくない歳だとは思うんだけど、うちの陽輝と一緒で、いきなり誰かの人生を抱え込むなんてこと、すぐに決められる訳ないもの。それに、中途半端な気持ちで関わることだけは止めなさい。お互いに不幸になるから」
それから京香は、具体的な事例を引き合いに出して、翔に分かり易く説明してくれた。彼女が持っている恋愛話の豊富さには、いつだって驚かされてしまう。
翔の場合、薫との繋がりは、やはり大学を卒業した時点で途切れてしまっているらしい。
彼女の説によると、一度ほどけてしまった運命の糸を再び繋ぎ直すことは、ほとんど不可能なのだそうだ。つまり、あの時、翔は薫を何としてでも手放すべきではなかったということだ。
「大丈夫、翔くん?」
翔がしょげ返っていると思ってか、京香が優しく声を掛けてきてくれた。
「翔くんだったら、薫ちゃんへのこだわりさえ無くせば、いくらでも新しい子が見付かると思うよ。翔くん、カッコ良いと思うもの」
その京香の励ましに翔は、あいまいに頷いておく。
「しっかし、うちの陽輝も困ったもんだわ。確かに沙希ちゃんは良い子だけど、相手にその気が無いんだから、しつこく追い掛けても仕方がないのにね。もう、そろそろ諦めろっちゅーの。翔くんからも、そう言ってやってくれると嬉しいんだけど……」
最後は親友の松永の話になって、翔は「そろそろ時間ですので」と言って、喫茶愛愛を後にしたのだった。
★★★
翔が実家に戻ると、迎えてくれたのは倉橋亜里沙だった。彼女は倉橋家三姉妹の長女で、藤田家でイベントがある際は倉橋家の一員として働くのだが、普段は美容師をしている。
「翔さん、せっかく戻って来られたんですから、うちの店に来てくださいよ」
「すいません。髪の毛、こっちに来る前に切ったばっかりなんで……あ、でも、帰る前には一度、お願いします」
適当にあしらうつもりだった翔は、途中で亜里沙の目が険しくなったのに気付いて話を修正した。昔から亜里沙は姉のような存在であり、だいたい言いなりになってしまう。
「ふふっ、宜しくね。それより、翔さん、さっきまで京香と会ってたんでしょう?」
「えっ?」
「さっき、京香からメールがあったんです。年下の男の子から恋愛相談されちゃったって、彼女、喜んでましたよ」
「ええーっ?」
実は、さっきまで会っていた松永京香と倉橋亜里沙は、共に天王北高の同級生で友人同士なのだ。
でも、喫茶愛愛からは、せいぜい二、三分の距離だ。その短い間に、どこまで二人は情報交換をしたんだろう? これだから女性というのは恐ろしい。
「大丈夫。だいたい話の内容は、想像できますから」
そう言いながら、亜里沙は思わせぶりな表情を翔の方に向けて来る。明らかに翔の元カノのことを頭に思い描いている気がする。
それが当たっているとすれば、彼女が想像していることは案外、その通りなのかもしれない。
倉橋家三姉妹のうち、上の二人は水草薫と翔との関係を知っている。次女の沙也加が翔と同じ歳で、天王高校の同級生。その沙也加と亜里沙は、頻繁に情報をシェアし合っているからだ。
「ほらほら、翔さん。今日は主役なんだから、早く席に着いて下さいよ」
亜里沙がダイニングテーブルの方に行くように促して来る。チラっとリビングの柱時計に目をやると、午後六時五分前といった所だ。既に主だったメンバーは席に着いていて、ここにいないのは母の恵美と倉橋家当主の倉橋悠介だけのようだ。
翔は、それぞれのメンバーに挨拶をしてから席に着いた。
今日の出席者は、全部で十名。畠山夫妻、倉橋夫妻と三姉妹、それから藤田家が祖母の初枝と母の恵美、そして翔だ。
ここに集まった十人に従妹の畠山紫帆を加えたメンバーは、翔にとって家族同様に近しい人達である。
畠山家の三人は一番近しい親戚であり、家も目と鼻の先にある。特に従妹の紫帆は、翔にとって唯一の従妹だ。
倉橋家は代々藤田家の番頭だった家系で、翔が生まれた時から家族同然の関係だった。家も隣と言うか、藤田の屋敷の中にある。そして亜里沙、沙也加、花音の三姉妹についても、幼馴染と言うより兄弟に近い。もっとも、紫帆も含めて全員が女だから、付き合いは相当に大変だったりする。
今日の翔の席は、いわゆるお誕生日席という奴だ。翔の対面には、母の恵美が座ることになっているらしい。
翔と一番近い右側には叔母の畠山麗華が座り、その向こう隣には叔父の竜馬が座っている。その更に向こうに祖母の初枝が座っていて、竜馬が相手をしていた。
左側は、さっきの倉橋亜里沙で、その隣の席は沙也加。更に向こうの空いている席には、給仕役の彩音と花音が座るのだろう。
そうこうするうちに、母の恵美が倉橋悠介を伴って入って来た。そして、やはり彼女は翔の対面に座り、その左隣に悠介が腰を下ろした。
「お待たせしちゃったわね。さあ、夕食会を始めましょう。今日は身内だけの会だから、気楽で良いのよ。ほら、彩音さんも花音ちゃんも座って頂戴な」
恵美がそう言った後、目の前のグラスに花音がビールを注いでくれる。全員の飲み物が揃った所で、叔父の竜馬が乾杯の音頭を取ってくれて、夕食会が始まった。
「しかし、相変わらず彩音さんの天ぷらは絶品ですね」
「いや、今日は花音が揚げたんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
少し離れた所で、そんな会話が交わされる中、叔母の麗華がニューヨークでの生活について尋ねて来る。
「向こうでも、日本料理店はたくさんあるんでしょう?」
「ありますよ。と言っても、最近は日本人の数が減ってるせいで、日本食まがいになりつつありますけどね」
「今の日本食だって、西洋の料理や食材が混ざり合ってできた訳でしょうから、別にいいんじゃない?」
「そうですね。うまいものを食べさせてくれるんだったら、何でも良いですけど……最近、ニューヨークは物価が高いですからね」
「ああ、円の価値が下がってるものね」
「向こうの外食代は、昔から高いんですよ。それとチップ。そろそろ、ああいう無駄な習慣、なくなりませんかね」
麗華は、叔父の竜馬よりも十歳年下だ。と言っても、大学生の娘がいるのだから、四十は過ぎている訳だが、どう見ても二十代にしか見えない。娘の紫帆と一緒にいると、普通に姉妹に間違えられる程だ。
しかも、メリハリのある身体をしていて、特に胸はかなりのボリュームがある。翔の身内では一番にグラマーで、妖艶な美女なのだ。
麗華と話をしている間、亜里沙がスマホをじっと見ていて、それを沙也加が覗き込んでいるのが翔には不気味だった。
そうかと思ったら、その沙也加が、いきなり核心を突いてきた。
「翔さん、こっちで水草さんに会ったの?」
思わずビールを噴き出しそうになった翔だったが、必死で堪えた後で、「まあね」と頷いておく。彼女がそうやって聞いて来るということは、裏が取れているだろうからだ。
「彼女だけじゃなくて、高校時代の仲間で会ったんだよ」
「そうなの? それだけじゃないんじゃない?」
それに翔が答える前に、麗華がにやにやしながら問い掛けてくる。
「水草さんって、例の子よね。翔くん、振られちゃったんじゃ無いの?」
「三年前よね? それで翔さん、ニューヨーク勤務を希望したんでしょうう?」
麗華の言葉に追い打ちを掛けたのは、沙也加だ。
そこで、スマホを見ていた亜里沙が口を開いた。
「それがね、今度も振られちゃったみたいね」
「てか、それって明確な拒絶だよね……。ふーん、やっぱ、彼女の家が没落しちゃったからなんだ」
沙也加の言葉に、翔は少し動揺した。
「沙也加、お前、何か知ってんのか?」
「えーと、彼女が軍に入るってことでしょう?」
「えっ?」
翔が亜里沙の方を見ると、亜里沙は首を横に振ってみせる。
確かに京香には包み隠さず話しはしたのだが、それをそのまま京香が亜里沙にメールしたとは思えない。
「水草さんの家が没落したって話は、結構、有名よ。そのことと、今回も翔さんが振られた話を結び付けて考えれば、だいたい想像付くんじゃない?」
「そうなのか?」
「だって、そういう状況になってて、お金が借りられる所っていうと、貸金業者のヤバい所か軍しかないじゃない。脅されでもしない限り、あの水草さんが風俗に身売りするなんて考えられないし、そういうとこじゃ、彼女の才能が活かせるとは思えないもんね。まあ、軍なら案外、適任じゃないの?」
「どういうことだよ?」
「例えば、諜報員とか」
「はあ?」
「知ってるでしょう? 一流のスパイって、頭が良く無いとなれないのよ。それと、運動神経に度胸かな。ポーカーフェイスも大事な訳だし、彼女って適任だと思わない?」
「まさか?」
翔は、またしても動揺していた。確かに「動じない女」の薫だったら、有り得ない話ではなさそうな気がする。でも……。
「まあ、全部、私の推測だけどね」
沙也加が話し終えた所で、亜里沙が口を挟んで来た。
「そのスパイうんぬんはさておき、翔さんが振られちゃったことには違わないんじゃない?」
「亜里沙さん、京香さんのメールには、なんて……」
「何も書いてないわよ。あの子、人の秘密をばらすような子じゃないもの。京香のメールには、『翔さんが落ち込んでたから、宜しくね』ってあっただけ。まあ、それから、いろいろ聞いてはみたんだけど、結構、ガードが固くてね……」
それだけの情報で、「薫に振られた」だとか、「薫が軍に入る」とかの話に辿り着けるのだから、彼女達の想像力は凄いと言わざるを得ない……。いや、待てよ。さっきの沙也加の話とか、ひょっとしてカマを掛けられてたんじゃないか?
そう思って翔が沙也加の方を見ると、彼女はすました顔で刺身を口に運んでいる。そうかと思うと、またしても彼女は翔が頭を抱えたくなる話題を口にした。
「翔さんの今回の帰国って、ひょっとして、『お嫁さん探し』なんじゃないの?」
「えっ?」
思わず翔が沙也加の方に驚いた顔を向けると、沙也加はニヤッと笑って「やっぱりね」と言った。
「ちぇっ、またカマを掛けたのかよ」
そこで叔父の竜馬が、「まあ、翔くんは素直だからな」と言う。
すると調子に乗った沙也加が、畳みかけるように言葉を繰り出してきた。
「そうそう。その何でも顔に出ちゃうとこ、改めた方が良いと思う」
「お前が言うな」
「あのね、私は、翔さんの為を思って言ったんだけど……まあ、良いわ。それで、翔さんの会社に良い子、いたの?」
「お前に言う訳ないだろ」
「いたんだ。ふーん。だったら、別に水草さんに振られても大丈夫って訳ね。まあ、今の彼女じゃ、藤田家の嫁の線はどのみち無いんだけどね」
そこで、麗華も口を挟んで来る。
「その『お嫁さん探し』って、最近、流行ってる企業内婚活って奴でしょう? 翔さんだったら超優良物件だから、どんな子だって選り取り見取りなんじゃないの?」
「そりゃあ、まあ、そうでしょうけど、藤田の嫁となると、候補者は限られると思いますよ。いくら翔さんの会社だって、そんなに候補者がいるとは……」
「でも、いたってことなんじゃないの?」
「まあ、そうでしょうね。てことは、『その子と、どの辺りまで進んでるか?』ってことになりますかね」
勝手に麗華と沙也加との間でやり取りが進んで行く。翔は何とか口実を作って、自室に籠りたくなってきた。
「ふーん。翔さんって、モテモテなんじゃない」
「そんな訳ないじゃないですか、亜里沙さん」
「ふふっ、そうやってムキになって否定するってことは、図星なんじゃないの?」
ここにいるのは翔が小さい頃から一緒にいる相手だけあって、話せば話す程、深みにはまってしまいそうだ。
「で、どういう子なの?」
「……」
もちろん、翔は黙秘だ。ところが……。
「大丈夫ですよ、麗華さん。私、翔さんの会社の名古屋支社なら、強力な情報網がありますから」
「そうなの?」
「はい。ここまで判れば充分です。あとは、こっちで調べます」
「なるほど、あの子のことね、沙也加」
「あら、亜里沙ちゃんも知ってるのね。なら、期待できそうだわ。何か分かったら、私にも教えて頂戴」
「はい、もちろんです。麗華さん」
沙也加は、完全に勝ち誇った顔だった。翔は、頭を抱えたくなってしまった。
そこで翔は、ふと母の恵美の方を見たのだが、何やら沙也加と視線を交している様子。これは、本格的にマズいかもしれない。沙也加が掴んだ情報は、恵美にも筒抜けなのだ。というのは、藤田コーポレーション勤務の沙也加は、専務である恵美の秘書でもあるからだ。
てことは、『お嫁さん探し』のことだけじゃなくて、最初に話が出ていた水草薫のことまで母に報告されてしまうかも。
そのことに思い至った翔は、ますます自分が泥沼に入り込んだような気分になってしまうのだった。
★★★
夕食会が終わった後、自室に戻ってから、翔は沙希に通話を入れた。
もちろん目的は、薫と会った時のことを報告する為だ。全く成果が無かったことを伝えるのは気が重かったが、「後で報告する」と言ってしまった以上、彼女と話さない訳にはいかない。
「沙希、俺だけど」
翔がためらいがちに声を掛けると、沙希からはぶっきらぼうな言葉が返ってきた。どうやら、機嫌が悪そうだ。
『俺って誰よ。オレオレ詐欺?』
「そこに、ちゃんと名前が表示されてるんじゃないのか。だいたい、今朝だって、俺はお前からの着信で叩き起こされたんだぞ」
『むぅ。何よ、もう』
「ひょっとして、寝てたのか? てか、もう寝てんのかよ。子供じゃあるまいし」
『うるっさーい』
いきなり怒鳴られてしまった。
翔は溜め息を吐きながらも、昼間の水草薫との出来事を淡々と報告して行く。沙希は、最初こそ怒鳴ったものの、翔が話している間は静かに聞いていてくれた。
『ふーん。やっぱ、ヘタレじゃ、薫の心の扉は開けられなかったってことね』
「まあな。面目ない……ていうか、情けないよ」
『あら、翔にしては素直じゃない』
「そうかもな。さすがに今日は堪えたよ。最後まで薫は、俺の話を聞こうともしてくれなかった訳だしさ」
『そうね。今まで翔が薫にやってきたことのツケが回ったのかもね』
「そうだな。沙希にいろいろと言われたとおりだったと思うよ。俺って、本当に薫と真剣に向き合ってなかったんだなって、つくづく思ったよ。俺、薫と表面的にしか付き合っていなかったんだ。本当に、何やってたんだろうな、俺……」
『……分かるのが遅過ぎ』
「だな。俺さあ、薫のこと、何も知らなかった訳だろ。しかも、自分が何も知らないことに気付いてすらいなかったんだよ。ひっどいよな、俺……恋人失格、ていうか、本当は恋人ですらなかったかもしれない……」
『ふーん。まあ、そこまで分かってんなら、私から何も言うこと無いよ。それより薫のことは、もう諦めんの?』
「どうだろう。まだ、分かんない、ていうか……あ、でも、薫と会った後にさ、松永京香さんにバッタリ会ったんだよ。でさ、つい薫のこと話しちまってさ。あの人も俺と薫のこと、色々と松永から聞いていたらしくて……」
『へえ、そうなの。で、京香さんは、何て?』
「諦めろってさ。俺と薫との関係は、大学を卒業した時点で終わってたんだとさ」
そこで、しばらく沈黙があって、それから沙希がポツリと言った。
『そっか。確かに、そうかも。私はね、薫の方も、まだ翔のことは好きなんじゃないかと思う。けど、薫って子は、それを認めないと思うんだ。あの子、頑固だから』
「……そうかもな」
『ああ、でも、悔しいよ。やっぱ、翔に薫は無理だったのかなあ……ていうか、未熟だったのかもね。きっと、翔だけじゃなくて、薫もそうだったかもしれない。それに私だって、たぶん、そう』
「そうだな。俺も、自分が未熟だったってのは、痛いほど思う」
『まっ、じっくり反省するんだね。昨日も散々、愚痴ったけど、私も最近、いろいろとあってさ。やっぱり、この歳になると、いろいろあるよね』
「だな。俺さ、今回、こっちに戻って来て思ったんだけど、これからも、皆、ずっと友達でいられたらなって思っんだ。もちろん、薫も圭介も含めて……」
『どういうこと?』
「何かさ、皆、どんどんと離れ離れになっちゃうような気がしてさ」
『うーん、それは、仕方ないんじゃないかな』
「な、何だよ。やけに、あっさりしてるな。なんか、沙希までいなくなっちゃうみたいじゃないかよ」
『さあ、どうかな。ていうか、翔だって、すぐにニューヨークに戻っちゃうんでしょうが』
「あと、三週間だな。その間、せいぜい日本を満喫したいと思ってる……と言っても、この暑さと湿気は勘弁して欲しいんだけど……」
沙希とは、その後、ダラダラと雑談をしてから、通話を終えた。朝に会った時は、あんなにテンションが高かったのに、さっきの携帯端末越しの彼女は、何となく元気が無い気がした。
もっとも、単に寝起きだったからかもしれないけど、やっぱり沙希の方も、学校のこととかでいろいろと悩んでいるんだろう。
翔は、ベッドの上に寝転がって、この週末の出来事をもう一度振り返ってみた。この週末は翔にとって、非常にヘビーな出来事が目白押しだったからだ。
それらの全てが、高校の剣道部の仲間達との再会に伴うものだった。翔たちが社会人になったここ数年で、翔以外の皆には様々な出来事があって、相当に大変な思いをしていたようだ。
その最たるものは、軍に入って両足を失った服部圭介だろう。でも、これから軍に入る元カノの水草薫だって、かなり大変な事情を抱えているようだ。
それに土曜日、翔の前で散々愚痴っていた松永陽輝と山口沙希の二人も今は、かなりの苦労を強いられているらしい。
案外、翔だけがニューヨークで比較的平穏なサラリーマン生活を送っていたのかもしれない。
やっぱり俺って、金持ちのぼんぼんだったのかもな。
今まで、そんな風に考えたことは無かったのだが、改めて今の自分を思うと、世間知らず、苦労知らずの若造だったことは明らかだ。
高校を卒業して七年と少し。その間、ここまでいろんなことがあるなんて、高校生の時には全く考えてもみなかった。
正直な所、「これ以上は、もう何も起きて欲しくない」「何も変わらないで欲しい」という思いが、翔にはある。だけど、心の中のどこかでは、「そうやって変わって行くのは、仕方がないことなんじゃないのか?」とも思っていたりもするのだ。
そんな複雑な思いを抱えながら、翔はベッドの上でそっと目を閉じたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話も翔視点で、月曜の朝からです。
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