第55話:笑いなよ <薫サイド>
再度、見直しました。
水草薫の親友、水瀬美緒は、成長するに連れてどんどんと綺麗になって行った。
小学四年生になった頃には、川合光流の美緒を見る目が明らかに違って見えた。もう一人の六年男子、河村正人は光流ほどじゃなかったけど、美緒と接する時は動作がぎこちない。
近所の男の人と道端で会ったりした時は、「美緒ちゃんは、別嬪さんだなあ」と言われることが多くあった。その後で彼らは薫の方を見て、「あ、薫ちゃんだって、可愛いよ。まあ、でも、薫ちゃんは、もう少し大きくなってからかなあ」と付け足す。そんなことを言う人の口元は少しにやけていて、何故か目は美緒の胸元に向いているのが常だった。
つまり、美緒の胸は、小学四年生の頃から膨らみ始めたのだ。
薫が五年生になると、正人と光流は中学に行ってしまって、代わりにひとつ下の男子、八木瑛太達三人が美緒のことをひそひそ話すようになった。それに、一緒にバスケをやる時とかに、ちらちらと美緒の方を見ている。それでミスとかすると、中野美香にバシッと頭を叩かれていた。
その中野美香は、分校で学年が上がるに連れてグングンと背が伸びて行った。そして背が伸びたことで自信が付いたのか、小さい頃の泣き虫が影を潜め、逆に乱暴な子になって行った。それと同時に前はインドア派だったのが、薫たちの影響を受けたせいか外で身体を動かす方が好きになってしまった。更にバスケに熱中するようになったことで、まさかの脳筋スポーツ少女へと変貌を遂げて行ったのである。
更に、美香は五年生になると、とうとう身長で瑛太を抜いてしまった。元々彼女は瑛太とは仲が良かったのだが、この頃になると、美香は彼を子分みたいに扱うようになった。そして、この二人のそういう関係は、その後もずっと長く続いて行くのだった。
小学校の高学年になっても、水瀬美緒に対する態度が変わらなかった男子が一人だけいた。同級生の河村直人である。相変わらず彼はゲームに夢中で、それ以外には興味を示さない。つまり、完全にオタク予備軍と化していたという訳だ。
それが証拠に、この頃から直人は、二次元の美少女を見てはニヤニヤするようになっていた。そして、そんな彼の頭を「キモい」と言って叩くのは、だいたい美緒の役目だった。
だけど、美緒に叩かれて嬉しそうなのって、何でなんだろう?
やがて六年生になって、美緒はますます綺麗になった。胸だって大きくなって、五年生の男子三人は熱の籠った目で美緒の方をじろじろ見るようになる。そして彼らの頭を叩くのは、彼らの同級生である中野美香の役目なのだった。
ちなみに、薫が六年生の時、美緒が児童会長で、薫が副会長だった。六年が三人しかいなくて、直人はオタクなのだから、この人選は仕方がない。
でも、薫の副会長は名前だけで、ほとんどのことは美緒がやってしまう。
薫の親友、水瀬美緒は、とっても頼りになる存在なのだ。
そして、そんな彼女と一緒にいた薫は、いつも陽だまりのような気分に包まれながら、分校での日々を送っていたのだった。
★★★
「薫ちゃん、顔が怖い」
「こら、美香。怖いって言うな」
「だってえ……痛っ」
薫は、美香の頭を叩いてやった。
「もう、薫ちゃん、すぐ叩くんだもん」
「あんただって、瑛太の頭、すぐ叩くでしょうが」
「瑛太は別に良いんだよ。それより薫ちゃん、顔、怖い」
「二度も言うな」
そうなのだ。当時の薫の悩みは、「顔が怖い」ということだったのである。
薫は基本的に無表情なのだが、その表情が何かの拍子に崩れた時、人には「不気味」だとか「怖い」と思われるらしい。例えば、つい愛想笑いをしてしまった時とかがそうなのだが、ほとんど無意識のことなので自分では気づかない。気付かなければ、直しようがないから困ってしまうのだ。
一度、誰かに相談した方が良いかも……。
薫がそう思った時、後ろの方で男子達のひそひそ話が聞こえてきた。
「うちの女子って、すぐ怒るし、すぐ叩くよな」
「だな。何であんなに乱暴なんだろう?」
「知らねえよ」
「美香はしょうがねえけど、六年の二人は勘弁して欲しいよな」
「だな」
「うるっさーい」
薫は咄嗟に振り向いて叫んでから、「しまった」と思って後悔したのだった。
★★★
中州分校での六年間を通して、水瀬美緒は薫の無二の親友であり続けた。
この分校を薫にとって居心地の良い空間にしてくれたことの半分以上は、美緒がいてくれたお陰なのである。
そして、美香や瑛太を筆頭に、六年生になった薫には子分と呼べる存在が多くいた。水草家の娘として、薫は本来、そういった指導的な立場にあるべきなのだが、子供達にとってはあまり関係がない。ところが、期せずして薫は、そうした立場を分校という閉鎖的な社会で掴み取っていたのだった。
ところで中野美香だが、この頃になると薫よりも背が高くなっていて、かつての弱々しい泣き虫の印象はすっかり影を潜めていた。更に、この年の四月、美香の四つ年下の弟である中野拓哉が分校に入学した。それで美香にも多少は姉としての意識が芽生えたようで、言動や態度が多少まともになってきた。
とは言っても、やはり美香は美香である。どこか抜けていて、残念な子であることには変わりがない。しかも体格が良くなったことで、彼女が引き起こすトラブルの規模が大きくなるといったマイナス要素すらあったりする。
その美香がバスケのボールを教室に持ち込んで遊んでいて、サッシの窓ガラスを割ってしまった時は、さすがに薫も真っ青になった。その時の教室は二階で、下が通路になっていたからだ。
当然、教頭先生にまで怒られるハメになったのだが、この時もやっぱり薫は、美香のとなりで一緒に頭を下げていたのだった。
ともあれ、美香は妹分であって、親友ではない。当時の薫の親友は、水瀬美緒ただ一人である。
児童会長としても美緒は表の目立つ仕事をやって、美香がしでかしたトラブルの後処理なんかは、副会長の薫の担当だった。
薫は、その役回りに不満は無かったし、綺麗な美緒には、そういう晴れの舞台で輝いていて欲しかったのだ。
この頃になっても薫は、昼間の大半の時間を美緒と一緒に過ごしていた。明るく目立つ美緒の隣にいると、薫はあまり人目に晒されずに済む。薫は、そこに心地良い居場所を得られて満足だった。
それに薫は、もちろん美緒のことが大好きだ。自分は可愛くないと思い込んでいる薫にとって、誰が見ても綺麗な美緒の隣にいられることは薫の誇りでもあった。薫は、美緒の一番の親友であることで、自己顕示欲を満足させていたのである
一方、美緒にとっても薫は大切な存在であるようで、何かにつけて薫の面倒を見てくれる。
美緒はいつも「薫のことを一番分かっているのは自分だ」と言ってはばからない。
この頃には既に薫が笑うと、「顔が怖い」と言われることが時々あったのに、美緒は絶対にそんなことは言わない。
それどころか美緒は、薫の本当の笑顔が凄く可愛いと言う。
美緒に言わせると、薫がその笑顔を見せるのは三人だけ。その三人とは、祖母の幸子、妹の楓、そして自分なのだそうだ。
薫は意識したことがないのだが、その笑顔は普段の薫の不気味な笑顔とは全く別物らしい。
「薫は、もっと笑いなよ。薫が笑えば、皆が薫のことを大好きになるよ。本当の薫は、あたしなんかよりも、ずっとずっと綺麗なんだからね」
美緒は、よく薫にそう言うのだが、薫は全然そんなことは信じちゃいない。
薫は、「可愛い」とか「綺麗」とか言われるのが嫌いだ。だって、自分はちっとも可愛くなんかないし、綺麗でもないからだ。
薫は、小さい頃からずっとそう思い込んできた。だから薫は、「可愛い」とか「綺麗」とか言われると不機嫌になる。
これは大きくなってからのことだが、薫が東京に行った時、薫のことを「可愛い」とか「綺麗」とか言って擦り寄って来る男達が度々いた。当然、薫は嬉しくないので、相手の言いなりにはならない。すると、いつも彼らは、それで薫に対する態度を豹変させてしまうのだ。
そんな男達には下心や何か疚しいことがあって、自分の要求を満たすことしか考えていない。それが分かった時、ますます薫は、「可愛い」と「綺麗」という二つの言葉が嫌いになった。
それでも、美緒は薫のことをいつも「可愛い」とか「綺麗」とかいうのを止めなかった。
どうやら、美緒は本気でそう信じているようだ。
そして、美緒は、薫が「自分は可愛くない」と言うと不機嫌になる。薫とは正反対だ。
美緒は、思い込みの激しい性格だし、一度決めたら自分の主張は梃子でも曲げない。それに薫には、美緒が自分を好きでそう言ってくれていることを知っていたから、薫は美緒の前で「自分は可愛くない」と主張するのを止めてしまった。
薫のことを「可愛い」「綺麗」と言ってくれる人は、他にもいた。祖母と妹、それから薫と親しい近所の人達だ。
祖母の幸子は美緒と一緒で、いつも口癖のように「薫は可愛い子だよ」と言ってくれる。妹の楓はまだちっちゃいけど、いつもたどたどしい言葉で「お姉ちゃん、綺麗」と言う。
近所の人達だって、薫のことを「可愛い」と言って頭を撫でてくれる人は何人もいた。小さい頃は薫があまり家から出なかったこともあって、そんな人はめったにいなかったけど、薫が成長するにつれて、少しずつそういう人が増えたのだ。
それは美緒と一緒にいるようになった薫が、彼らにも積極的に話し掛けるようになったからなのだが、薫には彼らの方が変わったのだと信じて疑わない。
とにかく、そういう人達は、薫のことを美緒みたいに純粋に好きでいてくれる。それに薫のことを心から大切に思ってくれる人達だから、やっぱり薫は「可愛い」「綺麗」と言われても怒らないことにした。
薫は怒らないけど、それでも本当は自分が「可愛い」とか「綺麗」だなんて、これっぽっちも思ってはいないのだった。
★★★
薫の表情が乏しいという欠点は、小さい頃から徐々に造られて行ったもので、一朝一夕に変えられるようなものではない。
幼い頃から大人しく、あまり笑わない子だった薫の気質については、周囲のいろんな人達から何度も指摘されてきたことだ。それで、心無い人達からは悪意を向けられ、善意ある人達からは様々な優しい助言を得てきた。
そもそも中州には、感情をあまり外に出したがらない人が多い。その典型が薫の母の佳代だが、他にも大人は無表情な人がほとんどだ。
それには様々な理由があって、一番に考えられるのは、「集落が小さく全員が知り合いだから、何も表情を豊かにせずともお互い分かり合える」ということだ。それに、機械が導入される前の農作業は重労働だったから、誰もが黙々と仕事をしていたというのもあるだろう。
ただ、そんな中州であっても子供の場合は別で、薫のような子は珍しかった。
近所に住む川合のお爺さんは、昔から薫のことを可愛がってくれる奇特な人だが、薫が小学校に上がる前から「薫ちゃんは、笑うと可愛いんだから、もっと笑った方が良いよ」と繰り返し言ってくれていた。薫が「うん」と頷くと、優しく頭を撫でてくれた上で、いつも飴玉やお菓子をくれたものだ。
薫もそのお爺さんの前で時々は、ごく自然に笑うことができていたんだろう。そんな時は、とても喜んでくれた。
だけど、川合のお爺さんは、薫が小学校の三年生の時、天国に行ってしまった。
薫が小さい頃、よく遊んだ治水神社の神主の河村和人と彼の妻の千縁にも、「もっと笑った方がいいよ」は良く言われた。
二人は薫の同級生、河村直人の両親でもあったから、何かを貰ったり何かしてもらったりする度に「どうもありがとう」とお礼を言っていたのだが、その時に薫がほとんど笑顔を見せたことが無かったからだろう。
それでも彼らの目には、「きちんと挨拶をする真面目な子」として薫のことが映っていたに違いない。それに、二人は昔から薫が「笑わない子」だと知っていたから、それで彼らが感情を害することは絶対に無いのだが、「もっと笑った方がいいよ」と言われると、いつも薫は少しだけ心が痛くなってしまうのだった。
ちなみに薫には、自分が無表情であることを、両親からは注意された記憶が無い。
これは薫の想像なのだが、父の武も母の佳代も、何度か注意はしたんじゃないかと思う。それでも、ちっとも直らないので、そのうち二人は言わなくなったという気がする。
たぶん、それは薫が幼少の頃のことで、今の薫の記憶には残っていないだけに違いない。
どのみち幼い薫への関心は、当時の父と母にとって、あまり高いものではなかった。その証拠に幼少時の薫は、ほとんど放置された状態だったからだ。
その頃、祖父の滋が病に倒れ、まだ若い二人は急に水草家を切り盛りすることになってしまった。祖母の幸子の手助けはあったにせよ、彼らは目の前の仕事に忙殺されていたのだから仕方がない。
それで両親に構って貰えなかった幼い薫は、祖母の幸子にべったりだった訳だが、その幸子からも「もっと笑った方がいいよ」と言われた記憶はあまり無かった。
だけど、祖母の前だと結構、自分も無邪気に笑っていたように思うのだ。だから、祖母に限っては、それを敢えて言う必要性を感じなかったのかもしれない。
あとは妹の楓だが、そもそも薫とは八歳も歳が離れている。楓が生まれた時、既に薫は小学校三年生。六年生の時でも三歳で、まだまだ可愛い盛りだった。そんな妹に対しては、薫も自然と笑顔になってしまう。
尚、楓が生まれた後は、親友の美緒も頻繁に楓の所に顔を出して、興味津々でおしめを変えることまで手伝ってくれるようになった。だから楓は、成長した後も美緒のことを実の姉のように慕っているし、美緒も楓のことは何かと気に掛けてくれているようなのだ。
その美緒だが、兄妹は兄一人である。その兄とは、歳が六つも離れているからか、彼女には兄と一緒に遊んだという記憶が全く無いのだという。だけど美緒は、その兄のことを特に嫌っていた訳ではないらしい。
これは薫が成長してからの感想なのだが、美緒のお兄さんは歳の離れた妹に対して、「どうやって接したら良いのか?」が分からなかったんじゃないかという気がする。
そのお兄さんのことは、ほとんど薫にも記憶が無い。美緒の家には頻繁に出入りしていたのだが、一度も会ったことが無かったと思う。だけど考えてみれば、当然なのかもしれない。彼は、薫が分校に行くようになった時には中学生だったし、薫が中学に上がった時には、三河の自動車部品の工場に就職して、寮に入ってしまったからだ。
その彼は、既に既婚者である。美緒に似て相当な美青年に違いない彼と、親しくなる機会が無かったことを、薫は密かに残念だと思っている。
さて、親友の水瀬美緒のことだが、彼女は小さい頃から口癖のように「もっと笑いなよ」とか「笑って」と言っていたのに、ある時を境にピタッと言わなくなってしまった。
美緒だって、薫が笑うと不気味とか怖い顔になってしまうことに気付いていた筈なのに、それまでは見て見ぬフリをしていたのかもしれない。
だけど、その時、やっと美緒も認めざるを得なくなったんじゃないだろうか?
薫は、そう思っている。
★★★
美緒には、中洲を飛び出して天王市で働く水瀬朱音という叔母がいる。叔母とは言っても薫や美緒とは十歳しか離れてなくて、「オバサン」なんて呼ぼうものなら烈火のごとく怒るので、絶対に言えない。
美緒は「朱音姉ちゃん」とか「朱音師匠」とか呼んでいたけど、薫は単に「朱音さん」と呼んでいた。
朱音は、高校を卒業してすぐに天王市で一人暮らしを始めたのだが、少なくとも月に二回は実家に戻って来る。その時は必ず美緒の所にも顔を出してくれるので、昼間はほとんど美緒と一緒にいる薫も頻繁に顔を合わせていた。
その朱音は美緒と血の繋がりがあるだけあってか、とても綺麗な人で、しかもオシャレでもあった。そんな朱音を美緒が慕っているのは、小さい時から遊んでくれたりお菓子をくれたりするからなのだが、小学校の高学年になるとそれだけじゃなくなった。
彼女は、美緒にとっての美容の師匠なのだ。それはリップクリームとかハンドクリームとかをくれたりするのもあるけど、何より美容のことを教えてくれるかららしい。
実は、その朱音は薫と会う度に、「薫ちゃん、また綺麗になったね」と言ってくれる、薫にとっては不思議な人だった。
もちろん、薫の中で朱音のことは「近所の親しい人」の括りなので、綺麗と言われても腹は立たない。
それは薫が小学六年生のゴールデンウィークの終盤、五月五日のこどもの日のことだった。この五月壱日は男の子の節句であると同時に、美緒の誕生日でもあるので、薫はその日のことをとても良く覚えている。
ちなみに、子供の時の美緒は、自分の誕生日に相当な不満を持っていた。「自分は女の子なのに、何で男の子の日に生まれたの?」というのが不満の理由なのだが、そんなのは偶々だからに決ってる。男の子の日だからって、女の子が生まれてこないなんてことは無いのだ。だけど、当時は男勝りな美緒のこと。「男の子の日に生まれたから、お前は男勝りなんだよ」等と揶揄われることがしょっちゅうあって、それで余計に美緒はトラウマになっていた。
それで薫は、「五月五日は子供の日なんだから、別に男の子だけの日じゃないよ」と言ってなぐさめるのだが、「三月三日は女の子の日、五月壱日は男の子の日」というのは、誰でも知ってる常識だ。案の定、美緒には、「そんなハンパな慰めなんて、しないでくれる?」とおかんむりだった。
「薫は良いよね。クリスマスイブが誕生日なんだもん」
「全然、良い事なんて無いよ。だって、普通は二度ある楽しみが、一度になっちゃうんだよ」
「そんなの、どうでも良い事じゃん。それよか、一年で一番にロマンチックな日が誕生日だってことの方が、何倍だって良いじゃん」
「そっかなあ?」
「薫だって大人になれば、そう思うようになるよ」
たぶん朱音が言ったことの受け売りなんだろうけど、子供の美緒に言われたって説得力が無い。それだからなのか、クリスマスイブの誕生日は、やはり大人になった薫にとっても全く良い事なんて無かった。
閑話休題。
その日は、外は良く晴れていて、少々暑いくらいの天気だった。
連休中は、中州の外へ旅行に行く子が多くいるので、美緒のお誕生日会は既に済ませてある。だから、その時の薫は、普通に美緒の家にお邪魔して昼食をご馳走になっていたのだった。
お腹が満たされた二人が美緒の部屋に移って、「この後、どうしよっか?」「やっぱ、治水神社かなあ?」と言い合っていた時だった。急に襖が開いて、朱音がひょっこりと現れたのだ。
「美緒、お誕生日おめでとう。ほら、これ、誕生日プレゼント。日焼け止めクリームだよ。これからの季節、必要になるでしょう?」
「朱音姉ちゃん、ありがとう」
「あ、薫ちゃんも来てたんだ」
「お邪魔してまーす」
「ふふっ、今日はね、二人に良いもん見せてあげるよ」
「えっ、良いもんって、何処?」
「外だよ。ほらほら、早く。薫ちゃんも一緒に来てよ」
そうして連れて行かれたのは、水瀬家の庭先にちょこんと鎮座している真っ赤な車だった。小さめだけど丸っこいボディーで、とてもオシャレなデザインだ。
「すっごーい」
「うん、可愛い車だね」
「でしょう? こないだ、思い切って買っちゃったんだ。まっ、中古のポンコツだけどね……あ、でも、『軽』じゃなくて、一応『5ナンバー』なんだよ」
「ふーん」「……?」
薫には朱音の言う「5ナンバー」というのが良く分からなかったけど、朱音に「さあ、乗った乗った」と促されて、中に入った。
途端に、フローラルな芳香剤の匂いがした。
「せっかく今日は良い天気だから、三人でドライブしよう。場所は……、とりあえず天王池公園で良い?」
「えっ、天王池公園かあ」
この頃になると、さすがに昔ほど天王池公園に行くのを有難がらなくなっていた。
「今は藤祭りの最中だし、イベントとかもやってると思うよ」
「イベントったって、カラオケ大会とか、小さい男の子が好きそうなレンジャーショーとかじゃん。それに、たぶん凄い人だと思うよ」
「そっか。だったら、喫茶店でケーキでも奢ってあげよっかな。誕生日なんだし……」
それを聞いた薫は、『お昼を食べたばかりなのに、ケーキなんて……』と思ったのだけど、意外と食いしん坊な美緒が「やったあー、ケーキだあ」と歓声を上げてしまった。
どうやら、好物のケーキは別腹のようだ。
「薫ちゃんも、それで良い?」
「あ、はい」
誕生日の美緒が喜んでいるのだから、薫の返事は一択なのだ。
「私にまで、ありがとうございます」
「どう致しまして」
その車の中は意外と広くて、薫が乗った後ろの席でも充分なスペースがある。全員がシートベルトを締めると、朱音の運転する車は、ゆっくりと動き出した。
助手席に乗った美緒が、「うわあ、ちゃんと走るんだあ」と冗談っぽく言って、朱音の左手に軽く頭を叩かれる。
「当ったり前じゃないの。失礼な。中古でも、ちゃんと整備してあるんだからね」
「整備って?」
「車の健康診断よ。車は、きちんと健康診断を受けてないと道路を走っちゃいけないの。ほら、そこのシールが、その証拠」
そう言って、朱音がフロントガラスの左上の丸いシールを指差した。薫には、正直、朱音の説明が良く分からなかったけど、車の方は軽快に走っている。
本郷の集落を抜けると、長閑な中州の田んぼの中を北へと向かう。やがて大河に架かる橋を渡り、川田村役場や農協がある辺りを通り抜けて行く。
当時のことだからマニュアル運転車だったけど、朱音の運転は割と手慣れていた。それほど飛ばすわけではなく、きちんと車の流れに乗っている。
そうこうするうちに車は天王市に入り、市街地の手前の洒落た喫茶店の駐車場に入って行った。
★★★
そのお店の内装は、洋風のクラシックな家具で統一されていた。とは言っても、店の客はもちろん日本人しかいなくて、しかも垢抜けないオジサン、オバサンが中心。それでも感動できるのは、夢見る少女の特権である。
このお店で薫と美緒は、紅茶とチョコレートケーキをご馳走になった。もちろん、紅茶はちゃんとした容器に入った奴で、一回くらいならお代わりもできる。特に香りが凄く高級に思えて、薫は感動した。
それにケーキの方だって、すっごくおいしい。昼食の後だとかは、やっぱり関係ないみたいだった。
「おいしいね」
「うん、おいしい」
「ふふっ、おいしいものを食べると、幸せな気分になれるんだよ。それに好きな人と一緒だと、尚更だと思うよ」
「そっかあ、あたし、幸せかも。朱音姉ちゃんも薫も大好きだもん」
「私も」
そんな当たり前の会話を交わしながら、薫と美緒は笑い合う。穏やかな春の陽射しが店内に差し込んでいて、薫は胸をわくわくさせていた。
そんな特別な場所で、朱音は薫に言ったのだ。
「薫ちゃん、何か、また綺麗になったね」
「へっ?」
薫の口から、思わず変な声が出てしまった。でも、それは仕方のないことだと思う。だって、綺麗なお姉さんと親友の美少女が一緒にいるというのに、自分なんかが綺麗な訳ないじゃない。
それでも、信頼している朱音の言葉だから、薫は黙って聞くことにした。
「薫ちゃんはね、手足がすらっと長くて、顔が小さい。目鼻立ちがしっかりしてて、目が大きい。美人の要素は全部、兼ね備えてるの」
「でも、美緒の方が綺麗なんだけど」
「美緒は性格が派手だから、パッと見は美緒の方が綺麗に見えちゃうの。もちろん、美緒だって、すごく綺麗だよ。それは認める。けど、薫ちゃんが本気を出したら、美緒じゃ適わないと思うんだ。まあ、タイプが全く違うから、本当は比べるのがおかしいのかもしれないけど、薫ちゃんはきっと、周りの人達を圧倒するような凄い美人になると思うよ」
朱音のその言葉を薫は他人事のように聞き流していたのだが、途中でふと気になって美緒の方を見た。自分の方が美人だと言われて、プライドの強い美緒が感情を害さないかと思ったからだ。
ところが、美緒は何故か納得した表情で笑っている。
「そうだよね、薫は綺麗だもんねえ。でも、笑うともっと可愛いんだよ」
「へえ、そうなの? でも、薫ちゃんは、笑わなくても充分に美人だと思うけど」
「いいから、薫、笑ってみなよ」
そう言われて、少し考え込んでしまった薫は、何とかぎこちない笑顔を作る。でも、やっぱりうまくできてない自覚はあった。
そのことは、朱音にも伝わったようだ。その時、彼女が顔に浮かべた表情が、何とも言えない微妙なものだったからだ。
「うーん。やっぱり薫ちゃんは、無理に笑わない方が良いかもね……」
薫が美緒の方を見ると、彼女は悔しそうな顔をしていた。
「……でも、本当の笑顔は、すっごく可愛いんだよ」
「あ、うん。分かるよ、美緒。自然な笑顔だったら、たぶん、凄く可愛いんだろうね。でも、それは無理して作るものじゃないと思うんだ」
「むぅ」
美緒は、やっぱり不満そうだった。けど、薫は正直な所、少しほっとしていた。
その時の薫は、『ああ、やっぱり』と思ったのだ。
――やっぱり、私の笑顔は可愛くないんだ。
その思いはとても強いもので、ついさっき「凄い美人になる」と言われたことなんか完全に上書きされてしまう程だった。
だけど、この時の朱音のアドバイスは、薫にとって非常に貴重なものとなったのだった。
★★★
美緒の叔母の水瀬朱音には「無理に笑わない方が良い」と言われた薫だったけど、実際の生活の場面では、どうしても笑わざるを得ないことがある。
例えば集団写真を撮る時、一人だけ笑ってないと先生に怒られたりするだろう。
もっとも、中州の分校にいる間は、それほど強く薫を叱る先生はいなかった。薫がどういう子なのか、誰もがちゃんと分かってくれていたからだ。
でも、中学に上がると、そうも言ってられなくなるかもしれない。
これはヤバいと思った薫は、担任教師の田中椎菜に相談することにした。
職員室の隅で薫が必死にそのことを打ち明けると、田中先生も実は心配してくれていたようで、「じゃあ、毎朝、一緒に練習しましょう」と言ってくれた。
この田中椎菜は、薫が三年生までお世話になった飯田早苗先生が他校へ転任された後、代わりに分校にやって来た先生だ。薫は四年生の時から六年生まで担任をして頂いた恩師である。
当時の彼女は二十代前半で、とても几帳面な性格だった。最初の頃は薫のことを誤解して揉めたこともあったのだが、三年目ともなるとすっかり打ち解けていたし、薫の性格も美緒の次くらいに良く理解してくれていた。
「水草さん、私も今までは黙ってたけど、やっぱり、その無表情は頂けないわね。たぶん、いろんな人に誤解されて、水草さんが損することになると思うの。卒業するまで、あと十ヶ月よ。今年は、人前で上手に笑えるようになることを目標にして、頑張ってみない?」
「あの、やっぱり直さないと駄目ですか?」
「その方が良いと思うわ。ほら、女の子だったら、毎朝、鏡を見るでしょう? その時に、ちょっとだけ笑う練習をしてみたらどうかしら? 鑑の中の自分に向かって、何回か笑い掛けてみるの。その時、『今日も可愛いね』って言いながらやれば、自然に笑えるんじゃないかな?」
「うーん、私、そんなに可愛くないから、難しいカモ」
「そんなことはないんだけど……。だったら、『今日も頑張ろう』でも良いと思うわ。そうすれば、元気が出るでしょう。それでね、学校に来たら、今度は私の前で笑ってみる。その時は、私も水草さんに率直な意見を言うつもりだから、水草さんも頑張ってみてよ。すぐには直らないと思うから、根気よく続けてみましょう」
「はい」
そこまで言われてしまえば、薫も真剣にならざるを得ない。だから、毎朝、鏡の前で練習した。
そんな薫の様子を、まだ三歳だった妹の楓は、不思議そうに見ていたものだ。
そして、夏休みが終わって二学期になった時、田中先生は言った。
「うーん、やっぱり水草さんには難しいのかな。もっと自然に笑えるようになると良いんだけど……。水草さんは勉強もできるし、運動神経も悪くないんだけど、どうしてなのかなあ」
「あの、私だって、笑ったり怒ったりはしてるんですけど」
「知ってるわ。うーん、水草さんの場合、お母さんもその傾向があるもんね。遺伝というよりは、習慣なのかな。私から見ると、中州の人って感情を表さない人が多いように思うのよね。どうしてなのかなあ。あ、でも、子供達は、そうでもないよね。水草さんって、頭良いから、大人の真似をしちゃったのかな。そんなに早く大人になんかならなくたって良いのにね……」
田中先生によると、どうやら大人になるってことは、表情が無くなっていくことらしい。確かに大人の人が笑ったり泣いたりした所は、あまり見たことがない。
いや、大人でも、怒る人なら、いるような……。
薫は、父の武が怒った所を思い浮かべた。武が怒ると、本当に怖いのだ。
薫がそのことを言うと、田中先生は笑った。
田中先生は、割と良く笑う。先生の笑顔は、中学生くらいのお姉さんみたいに可愛らしい。
「大人はね、子供に対しては、よく怒るものなのよ。あ、でも、うちの教頭も、よく怒るなあ。私なんか、朝から怒られてばっかり。いや、待てよ。それって、私が子供ってこと? 確かに、あの教頭から見たら、私だって子供に見えちゃうってことなのかも。うーん……」
何だか、話の主旨がズレてしまったようなので、薫は田中先生に頭を下げて職員室を出た。
それからも薫は毎朝、笑う練習を続けて、それなりには笑えるようになったのだが……。
「お姉ちゃん、お顔が怖~い」
洗面所の鏡を前に笑う練習をしていると、ようやく口が達者になった妹の楓が、何故か泣きそうな顔でそんなことを言う。慌てて笑うのを止めると、「良かったあ」と言って寄って来てくれるのだ。
つまり笑う練習は、なかなかうまく行ってなくて、卒業が近付く頃になっても、田中先生ですら首を傾げるばかりだった。
だから、分校での薫の卒業写真には、一人だけ人形のように無表情な顔の少女が写っている。
それでも、田中先生が真剣に薫のことを考えて勧めてくれた「笑う練習」のことは、薫にとって決して悪い思い出ではない。その結果とは関係なく、薫は田中先生に感謝していたし、その証拠に薫が後に東京へ行ってからも毎朝「笑う練習」を欠かさず続けたのである。
そうやって十何年もの間、練習に練習を重ねた薫の笑顔は、ある意味、一種の完成された「凄み」を帯びていて、それはそれで彼女の武器になっていくのだが……、それが本当の意味で役に立つのは、まだまだずっと先のことになるのであった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、翔視点となります。
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