第33話:市民病院 <翔サイド>
再度、見直しました。
◆7月25日(土)
天王市民病院があるのは、名鉄天王駅の東側、つまり、神社や天王通り、そして藤田翔の家があるのとは反対側である。
翔の母、恵美によると、天王駅から歩いて十五分程のその辺りには、かつて市民病院以外にめぼしい建物がなく、田んぼの中に白いコンクリートの病棟だけがポツンとある状態だったようだ。
その市民病院とは目と鼻の先に立派な市庁舎ができたのは、恵美が幼稚園の時だったという。
その後、県の合同庁舎や市立図書館、簡易裁判所等の公共施設が近くに次々と移転して、更に周囲にマンションやスーパー等も立ち始めたことで、この周辺は、今や天王市の新市街とも言うべき街へと変貌を遂げている。
金曜日の深夜、日付が変わった後に親友の松永陽輝と久しぶりに携帯端末で通話した翔は、それから朝の九時過ぎまで眠った後、のんびりとブランチを取ってから、この市民病院に来ていた。
目的は、高校時代の友達、服部圭介を見舞う為だ。
時刻は午後二時十五分前。松永と待ち合わせたのは五十分だが、少し早めに着くようにした。
もちろん、ここまではセルフのタクシーを使った。歩いても三十分は掛からない程度の距離なのだが、この炎天下で歩く気にはなれなかったのだ。
ロータリーの端でタクシーから降り立った翔は、それでも不快な暑さに辟易とした。ここから病院のエントランスには、ざっと見て二百メートルはありそうだ。
古くからある病院なだけに、無駄に敷地が広い。その敷地内には木々が鬱蒼と生い茂っていて、小さな森の様相を呈している。
油蝉のジーっという鳴き声がやたらとうるさくて、翔の憂鬱な気分を増幅させていた。
空には、夏の雲が所々に浮かんでいる。いっそ、夕立でも来ないかと思いたくなる程に、強い陽射しが翔のむき出しの頬や腕の皮膚を焦がしていた。
今、翔の前にあるのは、煤けた壁に覆われた不気味な建造物だった。昭和の時代に建てられたという鉄筋コンクリートの五階建て。ただし、その後に耐震構造を強化したり入院病棟を建て増したりと何度も手を加えた結果、もはや継ぎはぎだらけのゾンビのような様相を呈している。特に、このエントランスを含んだ一画は老朽化が著しく、今にも崩れ落ちてしまいそうな印象を受ける。
実は、この天王市民病院は、県内でも有名な心霊スポットだったりする。夜間、敷地内の木立のあちこちで、実際に幽霊を見たと言う情報が絶えないのだ。夏のこの時期にはよくあるテレビの特番でも、何度か紹介されている程だ。
それに今から三年くらい前、ここの看護師が安楽死幇助の事件を起こし、全国的に騒がれてからは、心霊スポットとしての天王市民病院の地位は不動のものとなった。
翔は、今日、待ち合わせている松永や山口沙希なんかよりは、幽霊を怖がったりしない。それに、そもそも翔は、幽霊なんて現象を少しも信じちゃいないのだ。
ただ、それでも怖いものは怖い。たぶん、それは生物としての人間が普通に持っている本能的なものだ。
それを怖がらない元カノ、水草薫の方が異常なのだ。きっと彼女は、頭の中の重要な何かが欠落しているに違いない。
そんなことをあれこれ考えているうちに、翔はエントランスの前に着いてしまっていた。
翔は、そこで立ち止まって、溜め息を吐く。いざ中へ入ろうとすると、何故か足がすくんでしまうからだ。中は冷房が効いていて涼しいと分かっていても、身体が硬直してしまって前へは進めない。
翔には、その理由が分かっていた。ここは、翔の父、晶が息を引き取った病院だからだ。あの時の嫌な思い出が未だに頭にこびり付いていて、翔の身体にまで影響を与えているのだろう。
とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。既に額や背中から汗が噴き出していて、これ以上ここにいると口の悪い沙希とかに「汗臭いよ」と言われてしまう。
そう思って翔が何とか足を動かそうとしていると、ポンと軽く肩を叩かれた。
「よう、翔。久しぶりだな」
そこにいたのは、親友の松永陽輝だった。
「ほら、こんなとこに突っ立ってないで、早く中へ入ろうぜ」
そう言って松永は、さっさと中に入って行ってしまう。翔は「ああ」と呟きながら、慌てて彼の後を追う。すると、さっきの身体の硬直が嘘のように、すんなりと翔は病院の自動ドアを通り過ぎることができたのだった。
★★★
「相変わらず、ここは混んでるな」
「だな」
「ちっとも涼しくねえな」
「ああ」
入口付近で立ち止まった翔は、松永とそんな会話を交わす。外の玄関付近には全く人の気配が無かったのに、中に一歩足を踏み入れた途端、そこは大勢の人でごったがえしていた。そのせいでエアコンの効きが悪いのか、それとも設定温度そのものが高いのか、とにかく中に入っても全然涼しくはなかった。むしろ、人いきれで息苦しいくらいだ。
これでは、汗も一向に引きそうにない。
翔は白のポロシャツにチノパンといったラフな格好だったが、松永はきちんとサマースーツに身を固めていた。どうやら午前中は仕事だったらしい。たぶん、勤め先の市役所から歩いて来たんだろう。彼は、翔以上に汗まみれだった。
その松永は、スーツの上着と一緒に大きめの紙袋をぶら下げている。市役所の売店で買ってきてくれたお見舞いのフルーツゼリーだろう。昨夜、と言っても日付は今日になっていたが、彼と通話した際に決めた物だ。
翔は手ぶらなので、その紙袋を持ってやることにした。
フロアをざっと見回してみると、外来患者とその付き添い人でロビー中央の長椅子は全て埋まっていて、立っている人も数多くいるような状態だった。それらの人の話し声が、ざわざわした騒音となって耳にまとわり付いてくる。
そんな不快な空間の中を縫うようにして、白衣の医師や看護師、事務員が急ぎ足で動き回っていた。
翔は、マスクを持参しなかったことを後悔した。ここにいるほとんど全ての人がマスクをしている。マスクをするのが苦手な翔でさえ、『ここの空気は直接、吸い込みたくない』と思ってしまったのだ。
消毒液と様々な薬品の臭いが混ざり合い、言葉では表しきれない独特の饐えた臭いがしている。
ああ、あの時と同じだ。
再び立ち止まってしまった翔を見て、松永が「翔、どうした?」と声を掛けてきた。
「あ、いや、ごめん。前に来た時のことを思い出してさ」
「ああ、親父さんのことな」
すぐに松永は察してくれたようだ。
過去の思いに囚われて立ち竦む翔をその場に残し、松永陽輝がフロアの奥にある案内カウンターの方に歩き出そうとする。
「あれ、松永くん?」
「おっ、薫じゃん」
「松永くん、今、来たの?」
「そうだけど……」
少し離れた所で交わされた会話は、こないだケンカ別れしたばかりの水草薫と松永のものだった。今の翔にとっての薫は、かなり気まずい相手である。
ところが、その薫は翔の姿を目に留めると、フロアの人混みを掻き分けて近寄って来てしまう。小さめの花束を手にした薫は、ぼてっとしたデニムのパンツにTシャツ姿だ。目新しいのはTシャツの色が黄色に変わっているくらいで、月曜に会った時と似たような恰好だった。
めんどくさがりの松永は当然だが、薫もマスクはしていなかった。
「なーんだ。松永くん、翔くんと一緒だったんだね」
「まあな。それより、お前、圭介の病室、何処か知らねえ?」
「ううん、私も初めてだし、今来たとこだもん」
「じゃあ、やっぱ、案内カウンターに行って聞くか?」
「ええと、そこの外来受付でも良いんじゃないかな?」
そう言いながら薫は、古いリノリウムの床の上をすたすたと歩いて行く。翔と松永も慌てて彼女を追った。
★★★
結局、服部圭介の病室に着くまでの間、翔は薫に話しかけることができずにいた。
病室の場所を確認した薫は、すぐにエレベータに乗り込んでしまったし、エレベータの中には他の人がいた。その後の廊下はひっそりとしていて、会話がしづらい雰囲気だったし、それに圭介のことで、三人共それなりに緊張していたこともあるだろう。
病室のドアを開けたのは、薫だった。
そして、そこに立っていたのは、マスクで顔の下半分を隠し、目には眼鏡を掛けた背が高い女性だった。眼鏡はスクウェアタイプで、赤みがかった太めのフレーム。グレーの地味なスーツ姿とも相まって、 知的なイメージを醸し出している。長いストレートの髪を後ろで束ね、少し茶色く染めてあった。
さて、誰だろうと思ったら、声ですぐに分かってしまった。その声と見た目がまるで違うけど、間違いない。高校時代の剣道部同期、山口沙希である。
「おっ、翔、来たね。久しぶり。元気だった?」
「沙希は相変わらずだな、と言いたい所だけど、何だよ、その格好。まるで別人じゃないかよ」
「えっ、知らなかった? 私、小学校の先生やってるんだけど」
「先生ってさあ。普通、ジャージ姿とかじゃないのか?」
「うちの教頭、服装にうるさいのよ。もう、嫌になっちゃう。何で休出するのに、スーツなんか着なきゃダメなわけ。外はこんなに暑いっちゅーに」
いきなり、愚痴られてしまった。
「おいおい、病室で話してて大丈夫なのか?」
「だって、圭介、今寝てるから」
沙希は、白いカーテンで囲まれた一角を顎で示す。入院患者が寝てたら静かにするのが普通であって、この発想は、あくまで沙希のオリジナルだ。
でも、相手が沙希なので、敢えてスルーしておく。
「一人なのか?」
「うん。圭介のお母さん、買い物だから当分は帰って来ないと思う」
「そっか」
「とにかく大変なの、今の私。ねちねちと嫌味ばっか言う教頭だけじゃなくて、子供はちっとも言うこと聞かないし」
「そうなのか。どんな悪ガキだって、沙希が怒鳴りつけたら震え上がって泣き出しそうだけどな」
「あのね、翔って私にどんなイメージ持ってるのよ。だいたい、怒鳴って済むんだったら、とっくにそうしてるわよ」
「えっ、怒鳴っちゃ駄目なのか?」
「そりゃそうでしょう。どんなに言うことを聞かなくても、優しく言い聞かせなきゃなんないの。そんなんで、子供が言うこと聞くわけないのにさ」
「そうなのか」
「そうなのっ。だから、ストレスが溜まるんでしょうがっ……ったく、もう」
「こら、沙希。病室で怒鳴るの止めろ。それに翔も、沙希を刺激すること言うんじゃねえよ」
慌てて沙希を宥めに入ったのは松永で、スラックスのポケットからおもむろに白いハンカチを取り出して、しきりに額の汗を拭っている。
「ふーん、陽輝もスーツ姿なんだ。市役所もやっぱ、休出するのにスーツなわけ?」
「当然だろ。役所っていや、お堅い所に決まっとるだろうが」
「そりゃ、そうだね。でも、あんた、ちょっと汗臭くない?」
「しょうがねえだろうが。俺は外、歩いて来たんだぞ」
「そっか。ご苦労さまだね。まあ、私だって似たようなもんかも」
そこで沙希が再び翔の方を見たので、翔はおずおずと訊いてみた。
「でも、二人がスーツで俺だけラフなのはマズかったかな?」
「大丈夫じゃない。薫だって、いつもの格好だし」
「薫は、まあ、薫だから」
「ふふっ、確かにそうだ」
「ちょっと、それってひどくない。私だけ仲間外れみたいじゃない」
薫が口を尖らせて言う。仲間内では、これが薫の怒ったポーズなのだ。表情だけだと分かりづらいから、自然と彼女はこんな子供っぽい態度でアピールするようになった。
「ねえ、それより圭介、まだ起きないのかなあ」
薫の言葉で、急に病室内が静かになった。圭介が早く起きるのを望んでいるのは、たぶん、この四人の中では薫だけだろう。他の三人が何となくそわそわしている中、薫だけは普段通りに見えた。そして残りのメンバーを正しい方向へと誘導する。それもまた、仲間内での薫の役割なのだった。
★★★
ちょうどその時、病室のドアが開いて、くたびれた表情の中年女性が入って来た。
最初に挨拶をしたのは、薫だった。
「あ、お邪魔してます。私、高校の時、圭介くんと同じ剣道部だった水草です」
丁寧に頭を下げて挨拶した薫を見て、その女性の顔がパッと明るくなった。
「まあまあ、沙希ちゃんのお友達の薫ちゃんでしょう? よく覚えてますよ。高校の時と全然変わらないわね。あとは、松永君と藤田君だったかしら。皆さん、お見舞いに来てくれてありがとうね。圭介の母親の服部和紗です」
そこで彼女は、深々と頭を下げてくれた。
それから、カーテンの隙間から中をちらっと覗いてから、「ごめんなさい。圭介、まだ寝てるみたい」と呟くように言った。
それに答えたのは、松永だった。
「大丈夫ですよ。俺ら、まだ時間ありますから、お邪魔でなければ、のんびりと待たせて頂きます。あ、それと……」
松永の合図で、持参したフルーツゼリーの入った紙袋を翔が和紗に渡すと、薫も花束を差し出した。
花束の方は沙希が受け取って、空いている花瓶に生けてから、窓際に置かれることになった。
その間に和紗は、小さな冷蔵庫から麦茶を出して紙コップに注ぎ、全員に手渡してくれた。
「最後に皆さんが前の家に来てくれてから、もう随分と経つわね。懐かしいわ」
「このメンバーだと、俺らが高校三年の夏ですね。コロナ禍の最中だったってのに、大変失礼しました」
「いや、それは良いのよ、藤田君。あの時は、本当に嬉しかったわ。ほら、あんまり人が来なくて淋しかった時だから」
翔も松永も高校の時は、圭介の家にしょっちゅう遊びに行っていたので、圭介の母親の和紗とは顔なじみだった。当然、野郎同士で集まることの方が多かったのだが、何かにかこつけて沙希や薫が一緒だったことも多かったし、その他の女子も含めて、大勢の部員達で押し掛けることもあった。
ちなみに一人っ子の圭介の家には、それまで女子が来ることがほぼ皆無だったようで、集まるメンバーに女子が含まれている度に和紗は大はしゃぎだったのだ。
「そう言えば、あん時、スイカ割りやったよね」
「やったやった。沙希も翔も全然、当たんねーの」
「陽輝だって同じだったでしょうが。方向違いの方、向いちゃってさ」
「まあな。で、一発で綺麗に割ったのが、薫」
「まっ、予想どおりだったけどね」
「だな」
「なんで? あれは、まぐれだよ」
「はいはい。まあ、薫だからね」
「薫だからな」
「だよなあ」
「何よ、もう……まあ、別にいいけど」
相変わらず口を尖らせている薫だが、誰もがスルーである。こうした類のイベントで、薫は常に無敵なのだ。
「あの時はね、翔くんが元気無かったからだよ」
「別に、翔が元気な時だって、同じなんじゃない?」
「そんなことないよ、沙希。翔くんだったら、何でもうまくやっちゃうと思うよ。ほら、あの時の集まりって……」
「あ、そっか。あの時って、翔を励ます会だったんだよな」
「私も思い出したわ。藤田君、お父さんが亡くなられて大変だったのよね」
「もう、昔のことですよ」
「そうね、昔ね。もう、八年も前だわ。本当に皆さん、立派になって……」
そこまで言ったところで、和紗は急に口を噤んで俯いてしまった。今の圭介の境遇を思えば、自分達にも無神経な所があったかもしれないと、翔は少し反省した。
高校時代、翔たちが何かと圭介の家に足を運んだのは、立地の良さと居心地の良さの両面からだった。
当時の圭介の家は、天王高校から南の方に歩いてすぐの所にあった。瓦屋根の立派なお屋敷で、一階に十ニ畳の二間続きの座敷があって、翔たちはクリスマス会等の部活のイベントの度に、そこを使わせてもらっていたのだ。
いつも圭介が「うちでやれば良いじゃん」と言うので、そうしていたのだが、今になって思えば準備や後片付け等で和紗には大変な迷惑を掛けていた気がする。
それなのに、翔たちの心情を慮ってか、和紗はこう言ってくれたのだ。
「でも、あの頃は楽しかったわ。ありがとうね、皆」
翔たちは、尚も返答に困ってしまっていた。
あの頃の圭介の家は、今はもう無いのだ。
服部家は昔から、天王市の市街地のすぐ南に広い田畑を持つ専業農家だったのだが、今から三年ほど前、圭介の両親は、その家と田畑を手放してしまった。圭介が大学を卒業した直後のことだ。
翔がそのことを聞いたのは日本を離れる少し前のことで、あまり詳しくは知らない。松永の話だと、農業の自由化が進んだ結果、服部家のような大都市近郊の専業農家でさえ、採算が合わなくなったかららしい。それで、外資系の会社に全て売却したのだという。
代わりに服部家は、天王市の北の方に新しい家を建てた。前の家と比べれば小さいが、それでも二世帯住宅だし、最新式のホームオートメーションを取り入れた快適な家だ。
ただ、問題は圭介のことだった。
彼は国立大学の農学部に進み、将来は農家を継ぐ気満々でいたらしい。その為、ほとんど就職活動を行っていなかった所に、この売却話が進んでしまった。
慌てて会社訪問を始めた圭介だったが、その時、季節は既に秋。すっかりタイミングを逸した彼は、どの会社からも相手にされなかったようだ。
ちなみに、この就職活動に関しては、松永、沙希、薫の三人も圭介同様に全滅だった。この年はコロナ後の不況がまさに本格化し始めた年で、それだけ民間企業への就職が厳しかったということだ。
それでも松永と沙希に関しては、共に公務員として採用されたことで事なきを得たのだが、薫は派遣社員、そして、圭介は結局、自衛軍に入隊してしまったのだった。
「あら、圭介、起きたみたいね」
会話が止んでしばらくした所で、和紗が呟くように言った。そして、部屋を仕切っている白いカーテンが、さっと勢いよく引かれた。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、この話の続きで、圭介との会話になります。
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