第32話:病院の記憶 <翔サイド>
再度、見直しました。
◆7月24日(金)
藤田翔と桜木莉子の二人は、週末の深夜の時間を一緒に過ごすことになった。
とは言っても、一次会の韓国焼肉店から歩いてすぐの所にある静かなショットバーで、お互いカクテル片手に話をしただけである。
そこは、翔たちが焼肉店を出た後、犬飼葉月が渡してくれたメモに書かれていた店で、知り合ったばかりの若い男女が親しくなるには最高のチョイスだった。まさに優秀な秘書である葉月の面目躍如といった所である。名古屋の夜の繁華街には詳しくない翔にとっては、願ってもないものだった。
その店は、ありふれたビルの二階にあって、入口は細い階段を上った先に小さな看板があるだけの地味なものだ。それでも店内は、シックな英国風のデザインで統一されており、静かなジャズ系の音楽がほどよい音量で流れている落ち着いた空間だった。
二人が案内されたのは窓際の二人掛けのテーブルだった。向かい合って座る二人を、控えめな間接照明が照らしている。それは、翔に目の前の彼女の肌を、実際以上に白く、美しく、艶めかしく見せていた。
翔たちの席からは、太い道路を挟んだビル群の前壁を彩る3Dの映像が一望できる。そのカラフルで鮮やかな光のイルミネーションが二人の目を楽しませてくれるのだった。
すぐに黒いスーツを着た年配の男性が、二人の注文を取りに来る。
翔はジントニック、莉子には翔が適当に甘いカクテルを選んでやった。
アルコールの影響もあってか、さっきとは打って変わって莉子は饒舌だった。もっとも、さっきも後半は二人で普通に会話していたのだが、それでも翔の問いに彼女が答えるパターンが多かったように思う。それが今は彼女が積極的に知りたいことを尋ねてくる。
とはいえ、千春みたいな圧迫感は全くなくて、心地よく会話できるテンポだし、彼女との会話のキャッチボールが、とても楽しく感じてしまうのだ。
薄暗い照明の中で、莉子の整った白い顔が浮かび上がって見える。昼間は子供っぽさが目立つ彼女だが、こうしてグラスを傾けるしぐさは意外にも色っぽく感じてしまう。
莉子は、不思議と門限を気にすることなく付き合ってくれた。
二人っきりでいたのは、およそ二時間くらいだろうか。その間、二人の会話が途切れることは無かった。莉子は終始笑顔だったし、その笑顔に釣られて翔も、だいぶ顔がにやけていたんじゃないかと思う。
日本人の女性とこんな風に二人だけで飲んだのは、ほとんど記憶にない。普段の翔だったら、間違いなく緊張していた所だろう。それなのに、彼女の前だとむしろリラックスしていられるのが、翔にはとても不思議だった。
翔がそのことを口にすると、莉子はこんな風に答えてくれた。
「たぶん、私達って、波長が合うんだと思いますよ」
波長が合う。それって心が通じ合えるってことなんだろうか。
そんなことを思った翔は、心の中で密かに舞い上がってしまっていた。
そこで、ふと店内の掛け時計に目をやると、既に十一時を回っている。
あれっ、こんなにもここにいたっけ?
信じられない速さで、時間が流れている気がした。
「あら、もうそんな時間。ごめんなさい、私、帰らなくちゃ」
翔の視線の先に気付いた莉子が、急に慌てて口走った。さっきは門限を気にしない子だと思ったけど、やっぱり日付が変わるのはマズいということなんだろう。
「送ってくよ」
「えっ、良いですよ。だって、私を送ってたら、藤田さん、家に着くのが明日になっちゃう」
「大丈夫だよ。それに犬飼さんに頼まれたしね」
それを聞いた莉子が、「ああ、そうでしたね」とにっこり笑いながら頷いた。
「じゃあ、お願いしますね」
日本でセルフのタクシーを呼んだことが無かった翔は、その場でウェアラブル端末を起動して、莉子に教えてもらいながら予約をした。
運良くすぐに捕まって、二人は急いで外に出る。
さっきよりは少しだけ涼しくなっていた。
そして、目の前にサーっと停まる無人のタクシー。二人は横に並んで座って、再びたわいもない話をして、十五分くらいで莉子の家に着いてしまった。
一緒に外に出ようとした翔をやんわりと制した莉子は、ちゃんと翔にお礼を言って頭を下げてくれる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい。また月曜日に会社で」
「ああ」
手を振って別れて、莉子が自動で開いた門の中に消えてから、翔はタクシーを発進させる。
そこで翔は、初めて気付いた。
何で莉子の家をもっとちゃんと見ておかなかったんだろう。
莉子の家の場所も含めて、翔は何も見てはいなかった。次に一人で行ける自信が全くない。
自動で開閉する門があったくらいだから、きっと大きな家だったんだろう。せっかくだから、彼女がどんな所に住んでいるのか知っておきたかった。翔は、なんかとっても損をした気分だったのだ。
つまり、莉子と別れて一人になるまで、翔は莉子の方しか見ていなかったということだ。
それでも翔は、「まあいっか」と小さく呟いて目を閉じる。
さっきまでの可愛かった莉子の顔を思い浮かべながら、一分もしないうちに翔は眠りに落ちてしまったのだった。
★★★
車内ですっかり熟睡していた翔だったが、天王市の実家に到着すると不思議にも目が覚めた。目的地に近付くと自然に覚醒できるスプレイが噴射され、座席が振動するシステムが作動するからだ。
もし、それでも起きない場合には、耳元で騒音が鳴ることになる。
翔は少し寝ぼけた状態で家に入ると、祖母と母親を起こさないように気遣いながら、静かにシャワールームへと向かう。
その途中、リビングの見慣れた年代物の柱時計を見たら、既に日付が変わっていた。
軽くシャワーを浴びた翔が自室に戻って来ると、さっき左手首から外して机の上に無造作に置いたウェアラブル端末が、点滅している。そう言えば、夕方からずっと電源をオフにしていたのだった。
急いで履歴を確認してみると、松永陽輝の名前がいくつも並んでいる。通話だけでなくショートメールも何通か来ていて、『話したいことがある』とのことだった。
高校で同じ剣道部だった親友の松永は、地元の大学を出て天王市役所に務めていた。
明日にでも、こっちからコンタクトしてみるか。
そう思いながらベッドに向かった時、再びその松永から着信があった。
『よお、翔、久しぶり。今、大丈夫か?』
「おう。今、帰ってシャワーを浴びたとこだ。何度か着信があったのに、出られなくて悪かったな」
親友だけど、翔は松永のことを苗字で呼んでいた。一方の松永は、翔と名前で呼んでくる。何故かと言われても、良く分からない。なにせ高校の時からの付き合いだから、今さら変えるつもりもない。
『いいよ。お前がこんな時間まで出られなかったということは、何か理由があったんだろう。ひょっとして、女か?』
別に隠すことでもないので、翔は「まあな」と答えた後、「どうした。何かあったんだろ」と訊いた。
翔が戻って来ていることは、こっちに着いた日の夜のうちにメールで伝えてある。女を口説く時だけは妙にマメな奴だが、基本は翔と同じでめんどくさがり。自分からはめったに連絡を寄こさないのが松永だ。それが何度もコンタクトしてきたというのは、余程のことなんだろう。
ところが松永は、なかなか本題を話したがらない。本当は、たいして興味なんか無いだろうに、翔の仕事のことなんかをしつこく訊いてくる。
「どうしたんだよ。お前、何かあるんだろ?」
しびれを切らした翔の問いに、松永は『実はな』と呟くと、思い切った様子で声を発した。
『圭介が帰って来たんだ』
「えっ、圭介が。ちょうど良かったじゃないか。だったら高校の時の皆を集めて、一緒に飲みにでも行こうぜ」
服部圭介もまた、同じ剣道部の仲間だった。割と背が高くて細身の翔や松永とは違い、小柄で小太りだった圭介は、そのハンディを補うかのように人一倍お調子者で、常に誰かを笑わせたがる明るい性格の男だった。剣道の腕は今一つだったが、ムードメーカーの役目を果たす、翔たちの剣道部になくてはならない存在だったのだ。
弾んだ声の翔とは対照的に、松永の声は沈んでいた。
翔は、嫌な予感がした。
『オレは、沙希から聞いたんだ。沙希は、薫にも連絡したと言ってた……』
薫の名前が出たことが気になった翔だが、今はそれ以上に圭介のことが気になった
「おい、何が言いたいんだよ。沙希から何を聞いたんだ。はっきりしねえ奴だな」
翔がいらついた声を上げると、ようやく松永がぽつんと呟くように言った。
『病院なんだよ、あいつ』
「おい、病院って、どういうことだ?」
『市民病院に入院してんだ』
「な、何の病気だよ?」
『ケガだ』
「ケガ?」
『それ以上はオレも知らねえ。沙希が先に見舞いに行って来たんだけど、あいつも細かいことは言いたがらねえ。けど、大ケガしてるのは間違いないんだ』
やはり地元の大学に進んだ服部圭介が卒業後、軍に入ったことは翔も知っていた。しばらくして中東に送られた圭介のことは、松永もずっと消息が掴めなかったらしいが、今回やっと日本に戻って来たと思ったら、大ケガをしていたということのようだ。
『とにかく行ってみなきゃ分かんないからさ。明日、皆で見舞いに行ってやろうと思うんだ。な、お前も行くだろ』
という訳で、既に日付が変わっている今日の午後、翔は市民病院を訪れることになったのだった。
★★★
翔にとって天王市の市民病院は、できれば行きたくない場所だった。それは、父の晶が息を引き取った病院だからだ。
その時、翔は、割と近くにいたのだが、父親の死に目には間に合わなかった。翔にとっては、あまり触れたくない苦い思い出である。
父の晶にガンが見付かって最初に市民病院に入院したのは、翔がまだ中学生の時だった。その後、何度か入退院を繰り返し、遂にこの世を去ったのは、翔が高校三年の受験生の時である。
季節はちょうど今と同じ七月の終わり。一年で最も暑い時期の良く晴れた午後のことだった。
その日、翔は水草薫と一緒に市立図書館に来ていた。もちろん、受験勉強をする為である。
暑い時期にも関わらず、まだコロナ禍の最中だったことから、二人とも顔に白いマスクをしていた。翔はそれが嫌で時々外してしまうのだが、その都度、薫に注意されてしまう。
そんな二人はキリの良い所で休憩コーナーに行って、缶ジュースを飲みながら休憩することにした。
「なあ、薫。お前、わざわざこんなとこまで来なくても、家で勉強してた方が効率良くないか?」
「そんなことないよ。家だとすぐサボりたくなっちゃうし、こうして翔くんと一緒にやった方が捗るんだもん」
「でも、疲れるんじゃないか? 三十分以上も自転車漕ぐんだろ?」
「全然、大丈夫。少しくらい運動しなきゃ、身体がなまっちゃうよ。やっぱり何するにも、基本は体力だもん」
「だけど、行き帰りとか一人だと危ないだろう?」
「それも大丈夫だよ。部活とかやってる後輩が結構いるから、ちゃんと中州の子と一緒。ほら、バスケ部の美香がそうだし、あと北高にも何人かいるんだよ」
「バスケ部の美香って中野だろ、大鹿久美といつもつるんでる、あのでっかい奴」
「そだよ。あの二人も夏の大会が無くなっちゃって、可哀そうだよね。このままだと秋も無いかもしれないし……」
「それより、あいつら、修学旅行って行けんのかな。そういう意味じゃ、俺らってラッキーだったよな」
「うん。去年の秋って、今思えばギリギリセーフだったよね。中学だと三年のとこが多いから、軒並み中止だよ」
「でも、俺らの修学旅行って、長野だっただろ。ハイキングばっかで疲れたよな」
「ボートとかも乗ったよね。私は楽ちんだったなあ」
「ちぇっ、俺ばっか漕いでたもんな」
そんな感じの雑談から始まるのだが、いつも話題は薫の好きなオカルト系に移って行く。
そして翔の記憶だと、その日はたまたま「人が死んだ後は、別の人に生まれ変わる」というテーマだった。もちろん、話していたのは薫の方で、翔はもっぱら聞き役である。
「何で翔くんは、死んだらそれっきりだって思うのかな。魂は絶対にあるよ。それで、人は生まれ変わるの。インドとかにはね、前世の記憶がある人がたくさんいるんだよ。輪廻って本当に起こることなの。人は一度死んだら終わりじゃないんだよ。何度も何度も生き死にを繰り返すものなの……」
相変わらず薫は、熱っぽく語っていた。普段は無口な薫なのだが、翔と二人の時は意外と良くしゃべる。もっとも、自分の興味ある分野について語る時に限ってのことだ。
とはいえ、薫がどんなに力説しようと、翔は死後の世界なんて信じちゃいなかった。人は死んだら終わりだ。だからこそ、死ぬのは怖い。親しい人が死ぬのは、もっと嫌だ。
「……だったらね、幽霊のことは、どう説明するの。昔から、ずっごくたくさんの人が見てるんだよ。今更、幽霊は存在しないなんて言う人、私は認めない。そういう昔からの言い伝えっていうのはね、必ず理由があるの。幽霊の存在こそが、魂は絶対にあるっていう証拠なんだよ」
翔にはツッコミどころ満載のとんでも理論にしか思えないのだが、それをいちいち指摘したりするのを、翔は好まなかった。それをして薫を泣かせたりしたら、後が大変だと経験則で知っているからだ。もし万が一、それが山口沙希にでも知れようものなら、翔は地獄を見ることになる。
それでも、翔はいくつかの反論を試みてみた。あくまでも全面否定ではなく、部分否定に留めた反論だ。
「あのなあ、薫。死んだら生まれ変わると分かってたら、殺人とかの意味合いが違ってこないか。殺してもまた生まれ変わってくるんだろ。だったら、貧乏で可哀そうな子とか、むしろ、殺してやった方が親切なんじゃね? そう思う奴がどんどん増えて、殺人ボランティアとかできたりして、可哀そうな子とか……あ、そうだ。死に掛けて苦しんでる病人とかも、治すの面倒だから、殺しちゃえば良いじゃんってなったりして……」
「翔くん、その話、お父さんに言える?」
いつもの無表情な薫が、じっと翔を見詰めてきた。この目は俺を非難する目だと気付いた翔は、思わず言い放っていた。
「何だよ。死んだら生まれ変わるって話、薫が言い出したんだろう」
もちろん、翔自身はそんなこと、これっぽっちも思っちゃいない。入院中の父親には、死んで欲しくない。翔は死が怖い。父親が死ぬかもしれないと思うと、怖くて怖くて……。
その時、翔のスマホが振動していることに気付いたのは、薫の方だった。図書館に入った時にマナーモードにして、そのままだったのだ。
「翔くん、電話じゃない?」
翔が画面を見ると、母の藤田恵美の名前が表示されている。その瞬間、翔の頭に嫌な予感がよぎった。
「きっと何かあったんだよ。早く出てあげなよ」
そんなこと、薫に言われなくったって分かっている。すぐに腕を動かそうにも、震えて動かないのだ。それでも翔は何とか手を伸ばし、振動するスマホを取り上げる。必死に着信ボタンを押すと、思いっ切り耳に押し当てた。
母親の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「翔っ、あんた何で電話に出ないのっ!」
「だって勉強してたから……」
「そんなのどうでもいいから、早く病院に来なさいっ!」
母親のただならぬ剣幕に翔は、かつてない程にうろたえていた。
そんな様子の翔を見て、何かを悟ったんだろう。薫が早口で言った。
「市民病院だね。行こう。ここからだったら、すぐだよ」
それが、翔にとっての最悪の時間の始まりだった。
★★★
それから二人は、急いで勉強道具を片付けると、図書館の出口へ急いだ。普段は翔の少し後を歩いている薫が翔の前にいて、早く来いと翔を急かす。
薫は翔を自転車置き場へと誘って、素早く鍵を外して運転席に跨ろうとする。さすがにそれはマズいと思った翔は、薫を後ろに乗せて自分で漕ぎ出した。
市民病院に着くと、入院病棟の階段を二人で駆け上がる。父親が居た筈の病室に駆け込むと、そこはがらんとしていて誰もいなかった。
思わずその場にへたり込みそうになった翔に、薫は「翔くん、ナースステーションだよ」と言って、強く手を引いた。
再びドタドタと廊下を引き返してナースステーションへと向かう。
窓口で「藤田ですけど」と言うと、奥から年配の看護師がゆっくりと近付いて来た。
「藤田さんの息子さんですね。お父さんとお母さんは、地下におられます」
彼女は、そう言って、一枚の紙を差し出してきた。
「エレベータの場所が分かり難いので、これを渡しておきますね……」
その後も、その看護師は何か言ったと思うのだが、翔は聞いちゃいなかった。彼女がどんな表情だったのかも分からない。
翔の代わりに、薫が「ご丁寧にありがとうございます」と言って頭を下げたのを見て、『こいつ、何やってんだ』と思ったのだけは覚えている。翔は、一刻も早く父の所に行きたかったのだ。
それなのに、そのエレベータへと向かって歩き出してすぐに、翔は方角が分からなくなってしまった。
というか、まるで頭が働いていないし、足だって思ったように動かない。
だって今朝、病院に寄った時、翔は父と普通に会話していたのだ。それが何で急にこんなことになったんだ。全くもって訳が分からない。
その時、翔は自分の肩に柔らかい手の感触を覚えた。それから、その手が翔の手に触れたかと思うと、さっきナースステーションで貰った見取り図を奪って行く。
次の瞬間、翔の耳元で、鈴の音のように澄んだ声がした。
「行こう。翔くんのお母さん、待ってるよ」
しっかりした口調だった。
そうだ。こういう時の薫は、誰よりも頼もしいのだ。
その見取り図をさっと見た薫は、そこに示された普段あまり使われないエレベータを迷いもせず探し当てた。そして、ためらうことなくボタンを押すと、スライド式のドアがゆっくりと開いて行く。
人が通れるくらい開いた所で、薫はさっと中に飛び込んで、中から翔の手を強く引っ張った。
地下と書かれたボタンを薫が押すと、変な機械音と共に震えがきた。そして、エレベータはゆっくりと動き出した。
そのエレベータの動きは、やたらと遅かった。その間、人形のように無表情な薫の顔を、翔はじっと見ていた。
ようやくエレベータのドアが開くと、薫の白くて細い手が再び翔の方に伸びて来る。翔は薫に手を取られ、その彼女に引き摺られるようにして、地下の不気味な白い廊下を歩く。
全てが夢の中の出来事のようだった。
それでも「霊安室」と書かれた標識のある部屋の前に連れて来られた時、気が付くと翔の身体はガタガタと震えていた。
薫の柔らかい手が翔の手をぎゅっと力強く握って来る。
「翔くん、開けるよ」
普段どおりの澄んだ声がした。
翔が頷くと、そのドアがゆっくりとスライドして行く。
「翔っ!」
鋭い叫び声と共に、翔の母親が飛び付いて来た。
「翔ぅ、お父さん、死んじゃったよ。死んじゃったよぅ!」
そうやって叫びながら、母の恵美が少女のように泣きじゃくる。
うちの母さん、こんなにちっちゃかったかな。こんなに痩せてたんだっけ。
翔は、そんなことをぼんやり思った。
首を横に向けると、顔に白い布を乗せて横たわる父親の姿があった。頭の所に太いろうそくが一本、橙色の炎が悲しげに揺らめいている。そして、その隣で線香が焚かれていた。
全てが質の悪い冗談のように思えた。
母親に抱き付かれてとまどう翔は、そっと振り向いて部屋の入口の方に目を向けた。
薫は、そこにひっそりと佇んでいた。彼女は、いつも通りに無表情で、翔には何を考えているのか分からない。
だけど、この時の翔にとっては、そんな彼女が何故か翔の心を落ち着かせてくれたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、病院での話になります。
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