第31話:気になる彼女 <翔サイド>
再度、見直しました。
◆7月23日(木)
藤田翔の歓迎会があった日の翌朝、彼が出社して自分の席に座ると、鈴村千春がすーっと目の前に現れて、神妙な顔で頭を下げてきた。
「藤田さん、昨日は本当に申し訳ありませんでした。あたし、普段はあそこまで飲まないんですけど、昨日は藤田さんがいたからハイになっちゃって、少しだけ飲み過ぎてしまいました。ごめんなさい。反省してます」
謝罪の言葉とはいえ、千春は例のキンキン声だ。朝っぱらから千春のそんな頭に響く声を聞かされるのは、二日酔い気味の翔にとって正直つらい。女性達に囲まれての緊張を紛らわせようとしたこともあって、飲み過ぎてしまったのは、むしろ翔の方だった。
対する千春からは、アルコールの匂いなど一切しない。明るい茶色の髪から漂う健康的なシャンプーの匂いがするだけだ。これは甘いミントの香りだろうか。
痛む頭を押さえて翔が顔を上げると、千春のすぐ後ろに犬飼葉月が控えているのが見えた。
「鈴村さんは、二日酔いとか大丈夫なの?」
「はい。ぐっすり寝たおかげで、ぜーんぜんへーきでーす」
途中まで静かな口調だったのに、後半から突然、いつもの明るい調子に戻ってしまった。
「それで、お詫びということでぇ、明日また飲みに行きませんかあ? あ、もちろん今日でもあたしは構いませんよ、ぜんっぜんオッケー。でも、葉月の方は都合が悪いらしくてぇ……。どうせ、デートですよ、ここだけの話ですけど、あいつ、弁護士の彼氏が……えっ?」
そう言う千春の背中を、葉月が後ろからつんつんと人差し指で突く。それでパッと振り向いた千春は、「うわっ」とやたら大げさな反応を示した。
「もう、わたくしが落ち込んでるあんたをここまで連れて来てあげたんでしょうがっ。あんた、瞬間記憶喪失でしょう、ねっ、絶対そうでしょう」
そう言って葉月は、千春の両肩をぎゅっと掴んで前後に揺さぶる。それに合わせて大きな胸が、翔のすぐ目の前でゆさゆさと揺れた。
「だいたい、何でわたくしに彼氏がいること、藤田さんにしれっとチクったりするわけ?」
「べ、別に成り行きってゆうか……」
「だったら、わたくしだって言わせてもらうけど、あんた、こないだの年下の医大生、どうするつもりよ。あの子、あんたにメロメロで、このままほっといたら、ストーカーにだってなりかねないと思うけど……」
「うるっさいなあ。あんたになんか心配されたかないよ」
「誰があんたの心配なんかするのよ。あの純情そうな医大生の心配をしてんの。もし、あの彼が、あんたなんかのせいで警察沙汰になっちゃったりして、人生を棒にふっちゃったらどうするつもりよ。彼がかわいそうじゃないの」
「あんた、それ誰のこと言ってんの?」
「何よ、しらばっくれるつもり? えーと……あ、そうだ。那須くんよ、那須くん」
「あ、そいつ、夏樹の友達じゃん」
「えっ、彼、あんたの弟の友人なの? だったら尚更、ちゃんとしてあげなきゃ駄目でしょうが」
「もう、朝っぱらからキャンキャン喚かないでくれる?」
千春が葉月に文句を返した所で、いつの間にか二人の背後にいた垣見課長が怒鳴った。
「こらーっ、鈴村っ! キャンキャン言ってるのは、お前もだろうがっ!」
怒鳴った後も垣見は自分のこめかみを押さえながら、顔を顰めている。
「しっかし、お前ら、朝っぱらから本当に良くケンカするよな。ただでさえ俺は昨日の酒が残ってるっていうのに、まったくもう、マジで勘弁してくれよ」
そんな垣見のぼやきは、そこで終わらなかった。
「あ、そうだ。藤田も覚えておくといいぞ。この二人の喧嘩、名古屋名物だって言われるくらい国内では有名だからな。何でも本社の社長が来た時の朝礼で盛大にやらかして、しかも、その時の朝礼って国内全支社と支店を映像で繋いでたもんだから……」
そこで何故か、千春が口を挟んできた。
「ええーっ、あたし達って、そんなに有名人なんですかあ?」
「もう、千春ったら、そこは喜ぶとこじゃないから……ったく、あんたって子は、正真正銘のバカなんじゃないの?」
「だってえ、全国にあたしの可愛い映像が放映されたんだよ。喜んで何で悪いのよ?」
「違う違う、放映されたの声だけだから。そのキンキン声だけが……」
「ええーっ、可愛いじゃないですかあ、この声……」
「だから、うるさいって言っとるだろうがっ! 仕事しろよ、仕事!」
今度こそ垣見に追い立てられた千春と葉月は、渋々ながら階段の方へと向かって行った。
「ああもう、藤田もちゃんとあの二人、押さえ付けとけよ……って言いたい所だが、そりゃまあ、無理だわな。ほんと、何とかならんか、あの二人……」
垣見は、ブツブツと独り言を呟きながら、自分が座っていた席へと戻って行く。
翔がやれやれと思って正面を見ると、今日も桜木莉子が優しいまなざしで微笑み掛けてくれた。
つまり、翔は今日も、彼女の前の席に座っていたのだ。彼は、自分がこの名古屋支社にいる限り、この居心地の良い席を他の誰かに譲るつもりは無かった。
彼女の笑顔に癒された翔は、エイッと気合を入れて仕事に取り掛かることにした。
今日は、この後また客先とのアポイントメントがある。オフィースを出る前に、メールの処理だけでも終えておきたい。
勢い込んでパソコンに向かった翔は、顧客や同僚から来ている大量の電子メールに次々と目を通し始めたのだった。
★★★
名古屋支社の新入社員、桜木莉子と藤田翔との接点は、支社長が選んだ三人の女性に彼女が含まれていたことと、初日に翔が彼女の前の席に座ったことの二つ以外、最初は何も無かったように思われた。
少なくとも、翔は当初、そう思い込んでいたのだ。
中山支社長が彼女を選んだとは言っても、空港での最初の出会いからして彼女は千春と葉月の付録みたいな扱いだったし、その後だって、いつも派手な二人の女性の影に隠れた地味な存在でしかなかった。
それに、席が向かいだとはいえ、翔が名古屋支社に来た最初の週に、二人は数えるほどしか会話を交していない。
彼女は、とびっきりの美人というわけじゃないし、控えめで大人しく、むしろあまり目立たない女性だった。たぶん、この頃の桜木莉子について翔が語るとしたら、きっとそんな表現になってしまうことだろう。
もちろん、既に彼女は翔にとって、充分に気になる存在ではあったのだが、それ以上の感情を抱くほどには、まだ翔は桜木莉子のことを知らなかったのだ。
そんな彼女のことを翔が気に入った最初のポイントは、「一緒にいて何も話さなくても、気疲れしないこと」だった。
二人は最初の数日間、ためらいがちに相手に視線を送っては、照れたり俯いてしまったりを繰り返していた。そして多少馴染んでくると、今度は互いに視線を交わしては、少しだけ微笑み合うようになった。
そうして徐々にではあっても、二人はお互いの心の距離を縮めて行って、やがて視線を絡めた目配せで、簡単な意思疎通ができてしまうくらいに関係値を深めて行ったのである。
そんな二人が一気に親密度を増したのは、その週の金曜日、鈴村千春と犬飼葉月を加えた四人で行った食事会がきっかけだった。そして、そのことが具体的に固まったのは、更に前日の木曜日の午後にまで遡ることになる。
その時、翔が客先訪問から戻って来ると、犬飼葉月と鈴村千春が翔の二人が彼の席の所で待ち構えていたのだ。
「もう、藤田さん、遅いですぅ」
「こらっ、千春。まずは、お帰りなさいでしょうがっ!」
「だってえ……」
「あの、藤田さん、これ、どうぞ」
お決まりのように言い争いを始めた二人を無視して席に座った翔の所に、莉子がさっと紙コップを差し出してきた。中身は冷たい麦茶だった。
「ありがとう」と言って一気に飲み干した翔が、ふと横に目をやると、何故だか千春が大きな胸を前に突き出している。
「さっすが、莉子ちゃん。できる後輩は違うわ」
「あんたが何でえばるのよ。『藤田さんが戻ったら、麦茶でも出してあげたら』って桜木さんにアドバイスしてあげたの、わたくしでしょうが」
「そんなの、別に、良いじゃん。莉子ちゃんがあたしの後輩なのは、本当なんだからさ」
「それ、関係ないでしょう……って、忘れる所だったわ。藤田さん、明日の夜、ご予定はあります?」
二人を無視してパソコンを立ち上げ、メールのチェックを始めていた翔は、突然、葉月に問い掛けられて眉を顰めた。
「明日ですか? 別に何もありませんけど」
「良かったあ。だったら、約束どおり飲みに行きましょう。残念ながら、四人になっちゃいましたけど……痛っ」
「あんた、いつ約束なんかしたのよ?」
「痛ったいなあ、もう。いきなり叩かないでよ。あたしと藤田さんの関係なんだもん。以心伝心って奴に決まってるでしょうが」
「い、以心伝心って何よ。難しい言葉を使えば良いってもんじゃないでしょうが」
もう、キャンキャンと、犬はうるっさいなあ。あ、そんなことより、藤田さん、明日の飲み会、ていうか、お食事会、行きましょうよぅ。本当は今日が良いんだけど、莉子ちゃんもこっちの犬も今日は駄目みたいで……あたしは、その方がいいんだけど、犬が……痛っ」
「何が犬よ。もう、まったく……まあ、確かに早い方が良いとは思うんだけど、今日は莉子ちゃんもお稽古事でしょう……」
「へえ、お稽古事って何かやってるの?」
適当に二人の会話を聞き流していた翔が、ふと気になって目の前の莉子に訊いてみた。
「あ、はい。月曜はお料理教室で、木曜は護身術です」
「えっ、護身術なんてやってたんだ」
「はい。母が自分の身は自分で守れなきゃ駄目だって。でも、千春先輩みたいには強くなれなくて」
そこで翔が驚いて千春の方を見ると、彼女はまたも大きな胸を張って、偉そうに「そんなの当然よ」と言ってのける。
ところが、説明してくれたのは、葉月の方だった。
「あの、翔さんは御存じないかもしれませんが、今は女子の間で、ある程度の護身術を習得しておくのは、当たり前になりつつあるんですよ。わたくしと千春の場合は、小学校の高学年の頃に一緒に同情に通ってました。桜木さんは?」
「私も同じ頃に始めたんですけど、練習でケガしちゃって、父に止めさせられたんです。けど、やっぱり必要だからって、会社に入ってから、また始めたんですよ」
「へえ、そうなんだ」
そう言えば、翔は自分の女子の幼馴染や従妹がやはり合気道や柔道等をやっていたのを思い出した。でも、それが女子の一般的な教養のひとつだとは思っていなかったのだ。
「まっ、そんだけ世の中が物騒になったってことだよね。藤田さんも女子には気を付けた方が良いよー。見た目がか弱き女性だと思って近付いて行ったら、投げ飛ばされてたってこと、よくあるみたいだから」
「そ、そうなの?」
翔は更に驚いて千春の方を見たのだが、彼女はニヤけた笑みを浮かべているだけで、とても強そうには見えない。
そうこうするうちに葉月が「詳細が決まりましたら、またお知らせしますね」と翔に言って、千春には「ほら、用が済んだんだから、さっさと行くわよ」と言いながら彼女の手首を掴むと、ぐいぐいと階段の方に引っ張って行ったのだった。
★★★
◆7月24日(金)
「ねえ、何で藤田さんと一緒のお店が、焼き肉屋なのよ。絶対これ、おかしいでしょう」
そうやって千春の店の選択に不満の声を上げているのは、その日もブランド物のスーツに身を包んだ犬飼葉月である。
もっとも翔とて店に一歩足を踏み込んだ際、「この店の選択は無いだろ」と思ったし、莉子だって明らかにとまどいの表情を顔に浮かべている。
その薄暗い店内は、雑然としていた。
壁は一面にデコデコした装飾が施され、隙間なく写真や色紙で埋め尽くされている。フロアには四角い小さめのテーブルがところ狭しと並べられ、どのテーブルも人で埋まっていた。ただし、そのほとんどが男性客で女性の姿は数える程しかいない。
そして何より気になったのは、にんにくとキムチの強烈な匂い。それと店内がすごく煙たいことだ。
「これ、焼肉屋と言うよりは、韓国料理屋だな」
「うーん。私、辛いの苦手なんですけど」
「まあ、美味しくはあるんでしょうけど、男女で来るとしたら、よっぽど親しい関係以外、有り得ないと思うんだけど……」
「そうでしょうね」
「そうよ、そうよ。ここ、すっごく美味しいって評判のお店なんだからね」
三人の懸念を全く聞いて無いか、聞いてても意に介さない千春であった。
「こら、千春。あんた、わたくしの話、聞いて無かったでしょう」
「だって、美味しいんだから、良いじゃん。美味しいの他に、何の文句があんの?」
「おおありでしょうがっ。服に匂いが付いたらどうしてくれんのよ」
「そういう服、着て来るからじゃない」
「藤田さんとのお食事会だったら、普通、それなりの格好してくるでしょうが」
そういう千春は、オレンジ色のTシャツにデニムのミニスカートといったラフな格好である。それに合わせて足元も、いつものハイヒールやミュールではなくて厚底スニーカーだった。どうやら、ちゃっかり自分だけ着替えを持ってきたらしい。
そのことを葉月が指摘すると、千春はしらっと、こう言ってのけた。
「だってえ、週末は何処も混んでて、行きたいお店で予約できたの、ここだけだったんだもん。仕方がないじゃない」
「じゃあ、なによ、その格好は?」
「これはね、別に今日の為ってわけじゃなくてぇ、元々ロッカーにある奴なの。ほら、服なんか気にせず、ぱーっと遊びに行きたい時ってあるじゃない……痛っ」
「何バカなこと言ってんの。そんな発想、あんただけでしょうが。しかも、何なの、その厚底スニーカー」
「だって、普通のスニーカーだと……」
「あんた、いつもヒールの高い靴しか履かないもんね。このチビが」
「あれ、何か言った? 犬の遠吠えかなあ? ワン、ワン」
「うるっさーい。この無計画女。いや、その上、無責任、無鉄砲と三拍子揃った、バカ女」
「なんか、お店の中で吠えるの止めてくんない? このバカ犬」
「うるさい、うるさい、うるっさーい。この無頓着、無節操、無慈悲、無自覚、無感覚……」
「ねえ、何ぶつぶつ言ってんの?」
たぶん、こんな店頭で葉月が喚いているのは珍しいことなんだろう。それに莉子の方も、いつもは仲裁に入る所なのに、完全にノータッチ。心ここにあらずの状態だった。
と、そこで首を傾げた千春が、いきなり翔の手を取った。
「犬はほっといて、藤田さん、早く行きましょうよお。ほら、莉子ちゃんも」
「もう、待ちなさいよ、千春ったら……」
翔を含めた三人が呆れ返る中、千春だけが平常運転だった。そして、そんな千春に押し切られた翔たちは、店内の奥へと足を踏み入れることになってしまったのだった。
★★★
若い男性の店員に案内されたのは、一番奥の四人掛けテーブルだった。一応、葉月と翔のジャケットは店員に預かってもらえたが、莉子は預けられるものがない。薄い黄緑色の袖なしワンピで、胸元のひらひらが可愛らしい服だったからだ。
「何か、このテーブルって、ねばねばしてるんだけど……」
「そこが良いんじゃない。ああ、楽しみだなあ。えーと、まずは飲み物からだよね-。藤田さん、ビールで良いでしょう?」
一人で浮かれている千春のことを、他の三人は冷ややかな目で見ていた。
「何よ。あたしの店の選択に、まだ文句があるわけ?」
「だから焼肉店ってのは、親しい男女じゃないと来ない所だって、さっきから言ってるじゃない」
「なんで、そうやって決め付けちゃうわけ?」
「だってもなにも、常識でしょうが」
「あのさあ、それだから、犬は頭が固いって言うの。それって逆なんじゃない。一緒に焼き肉を食べてこそ、男女は仲良くなれるもんなの。ここで焼き肉を食べて、一気に藤田さんと親密になっちゃおう大作戦じゃない。ねっ、藤田さん?」
ちゃっかりと翔の隣に座った千春が、身体をピッタリと摺り寄せてくる。
もちろん、この後は犬呼ばわりした千春を葉月は責めたのだが、すぐに店員が生ビールを持ってきたので、取り敢えず乾杯することになったのだった。
そして、お肉が次々と運ばれて来ると、それを受け取った葉月は焼くのに集中してしまう。鮮やかな手付きで上カルビを網の上に並べて行く所を見ると、どうやら葉月は肉を焼くのを他人には任せられないタイプのようだ。
更に、千春はもちろん、莉子もそのことを知っているらしく、下っ端の筈なのに、全く手を出そうとはしなかった。
「ねっ、最高でしょう」
「まあね。美味しいのは認めてあげるわ」
「ふふっ、千春先輩、舌だけは確かですもんね」
さすがに食べ始めてしまえば、誰も店の選択のことをぶり返そうとはしなかった。つまり、それだけ美味しいということだ。全員、焼けたお肉を競うように頬張っては、顔を綻ばせている。
「あっ、鈴村さんの次のビール来ましたよ」
「もう、藤田くんったら、千春って呼んでってばあ。ち、は、る、ですよー。はい、言ってみて下さーい」
「……ちはる、さん?」
「千春さんじゃなくて、ち、は、る。『さん』は入りませんよー」
「あのさあ、千春。あんた、藤田さんのこと、何で勝手に『くん呼び』しちゃってるわけ?」
「うっさいなあ。別に、良いじゃん。藤田くんだって、あたしのこと千春って呼んでくれたんだから」
「全然、良くないでしょうが。だいたい、それってあんたが決めることじゃなくて、藤田さんが決めることでしょう。それに何であんただけ名前で呼んでもらおうとしてんの?」
「それはまあ、あたしと藤田くんとの距離が……こうやってぇ、近いからじゃん」
会話の途中で、千春がへばり付いてくる。ちょうどジョッキを傾けていた翔は、思わずむせてしまった。
「だ、大丈夫ですか、藤田さん」
「……ふう。ああ、何とか大丈夫だよ、桜木さん」
目の前の莉子が心配そうな顔を向けてくる。彼女は今日も、あまり積極的には口を挟まず、聞き役に徹してくれていた。そして葉月が焼いたお肉の状態をきちんと見て、ちょうど良さそうな所で翔のお皿に乗せてくれる。
そうした作業に邪魔になるからか、今は長い黒髪を後ろで束ねている。そんな所も、翔の目には新鮮に写っていた。
「藤田さん、次もビールで良いですか?」
「あっ、莉子ちゃん、あたしにもビールね」
鈴村千春は今日も絶好調だった。ビールの中ジョッキの中身が、魔法のように減って行く。
「こら、千春。もっとペース落としなさい。あっ、そのお肉、まだ焼けてないから……ていうか、さっきからあんた、お肉ばっかりじゃない。少しは、野菜も食べなさい。ほら、サラダ……」
「もう、うっさいなあ。母親みたいなこと、言わないでくれる? もっと楽しく行こうよ。ねっ、藤田くん」
キンキン声とふやけた笑顔を振り撒く千春の前で、彼女のジョッキと一緒に運ばれてきた上カルビの皿を受け取った葉月は、せっせと中身を網の上に並べて行く。その鮮やかな手付きを、ジョッキ片手の千春がじっと見詰めていて、焼けた所でさっと箸を突き出しては葉月に文句を言われ、それに千春が突っ掛かる。そんな調子で時間が流れ、ふと翔は気付いてしまった。
さっきから喋っているのは、千春と葉月だけだ。
目の前の桜木莉子はというと、二人の女性の掛け合い漫才を、ずっと微笑みながら眺めている。
「桜木さん、あんまり食べてないよね?」
「うん。私、小食だから」
「ほら、千春も少しは見習いなさい。だいたい、そんなに食べて飲んでだと、太るでしょうが」
「大丈夫。あたし、太らない体質だから」
「まあ、あんたの場合、余分な栄養が全部、胸に行っちゃってるからね。……はあ」
「何で、溜め息とか吐いてんの?」
「千春先輩、それ以上は言っちゃダメですよ」
「ハイハイ、莉子ちゃん。ありがとね」
「もう、この二人が同じ女子大出身だなんて、信じられないわ」
「大学だけじゃないよ。あたし達、中学から一緒だもん。つまり、葉月と一緒だったのは幼稚園と小学校だけでぇ、中高大は莉子ちゃんと一緒。ねっ、莉子ちゃん?」
「はい。先輩」
千春が呼ぶと、莉子は素直に返事をする。そういう所も、翔には微笑ましく感じられるポイントだ。もちろん、千春じゃなくて、莉子のことである。
千春と葉月が二人で言い合っているのを良いことに、翔と莉子は、ぽつり、ぽつりと会話を交わして行った。
それぞれの好きなもの、好きな食べ物、映画や本、そして子供の頃の思い出話まで、話題はとても広範囲に及んだ。
実際に話してみると、彼女は決して無口ではなかった。翔の話をちゃんと聞いた上で、適切な言葉を返してくれる。相手を飽きさせない豊富な話題を持っていて、それらを順序立てて、ジョークとかも交えて分かり易く話すことができる。実は、とても知的で魅力的な女性だった。
やがてお肉を食べ飽きて、最後に分け合って冷麺を食べて、シャーベットで口直しした頃には、翔と莉子はすっかり打ち解けていたのだった。
★★★
「では、わたくしはこの馬鹿な酔っ払いをうちに運び込みますので、藤田さんは桜木さんをきちんと家まで送ってあげてくださいね」
葉月は翔にそう言ってくれた後、千春を連れて道路の端の方に歩いて行く。
翔の歓迎会の時とは違って、千春の方も大人しくしている。今夜は相当に酔っているのか、随分と眠そうだ。
「あの、千春さんが寝ちゃっても、大丈夫?」
気になった翔が訊いてみると、葉月は涼しい顔で「全然、問題ありません」と返してきた。
「わたくし、こう見えても割と力持ちなんですよ。千春の身体だったら、背負って階段とかも登れますから」
いつもそうしているようなので、翔は納得して見送ることにした。
やがてセルフのタクシーがやって来て目の前で停まると、葉月は翔の手に四つ折りにしたメモを握らせて、耳元でこう囁いた。
「これ、お店の情報です。この後、桜木さんをお誘いするなら、使って下さいね」
それから葉月は、千春をタクシーの中に押し込めると、あっという間にいなくなってしまった。
『参ったなあ』と思って振り返ると、下を向いて恥ずかしそうにしている桜木莉子がいた。
『今の葉月とのやりとり、聞かれたかも』と思ったら、翔の方も何となく気恥ずかしくなってしまう。
それでも、目の前の莉子を見ているうちに、彼女に対する愛おしさがこみ上げてきて、そんな恥ずかしさなどどうでも良くなった。
この子って、本当に男と付き合ったことが無い箱入り娘なんだな。
そんな莉子のことを心から可愛いと感じた翔は、気が付くと、こんな柄にもない言葉を口にしていた。
「桜木さん。まだ時間も早いことだし、もし良かったらだけど、もう少しどっかで話して行かないか?」
そして、にっこりと笑顔になった彼女が「はい」と小さな声で頷いてくれた時、翔は心の中で歓声を上げたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次も翔のターンです。
もし宜しければ、感想、ブックマーク、いいね、評価など頂けましたら、大変嬉しいです。宜しくお願いします。
ツイッター:https://mobile.twitter.com/taramiro0




