第30話:愛衣の父親 <薫サイド>
再度、見直しました。
水草薫は今日も昨日と同じで、お客さんがいなくなる頃合いを見計らって、牧野愛衣と随分たくさんの話をしたように思う。
その中には、愛衣の父親の話もあった。
今まで愛衣は、父親の話をするのをずっと避けているようだった。そこは彼女にとってタブーな部分だったのだが、このEマートに彼が現れる可能性に思い至ったことで、愛衣も薫に話しておくべきだと考えたんだろう。
牧野愛衣の父親、牧野秀樹は、複雑な家庭に育ったようだ。
母親を幼くして亡くした秀樹は、しばらくの間、父一人、子一人での生活が続いていたが、中学二年生の時、父が二十代半ばの若い女と再婚。しかも彼女には六歳と四歳になる女の子の連れ子がいた上に、その連れ子二人はどちらも父に懐いていて、顔付もどことなく父に似ていた。
それからは、父親がその若い後妻と娘達に夢中で、彼には見向きもしなくなってしまう。更に、その後妻が秀樹のことを毛嫌いするような態度を取ったことで、彼には自分の家の中に居場所が無くなってしまった。
それが中学二年の多感な時期だったこともあり、秀樹はすっかり勉強をしなくなり、悪い連中とばかりつるむようになってしまった。
中学を卒業して調理師の専門学校に進んだ秀樹は、そこで愛衣の母、安達由利と出会う。そして、その専門学校を出て仕事を始めると同時に彼は家を出て、古いアパートでの一人暮らしを始め、しばらくすると、そこに由利を住まわせて同棲生活を始めてしまう。
ちなみに、そのアパートは現在、愛衣達が住んでいる所だが、その周辺も当時は今ほど治安が悪くはなかったそうだ。今みたいに貧民街と呼ばれるようになったのは、ここ十年くらいのことらしい。
さて、秀樹と由利の二人は、調理師の専門学校を卒業した一年後の三月にささやかな結婚式を挙げた。ただし、そこに秀樹側の親族は父だけが参列。式が終わるとすぐに帰って行ったという。
それ以後、秀樹の父、つまり愛衣の祖父とは音沙汰無しで、愛衣は一度も会ったことが無いらしい。
「お父さん、弟の智也が生まれる前までは優しかったんですよ。ところが、智也が生まれてしばらくした時、職場でちょっとしたいざこざを起こして、カッとなったお父さんは、そこを辞めちゃったんです。その頃は、智也の夜泣きが煩い時期だったらしくて、お父さん、あまり帰って来なくなっちゃって、そのうち、次の職場でもトラブルを起こして今度は辞めさせられて……、それからは、働かなくなっちゃって。てか、お父さんに言わせれば、『俺は働いてる』って言うんですけど、それって、お仕事って言えるようなことじゃないんです」
要するに街のチンピラということなのだ。主に天王通りなどで通行人に絡んでは、金を巻き上げる。割と体格が良いので、そうしたグループのリーダー的存在になっているそうだ。
「けど、そんなことやったって、なかなか充分なお金は手に入らないみたいです。やっぱ、暴力団のみかじめ料みたいな金づるが無いと厳しいんでしょうね。元々お金が入ったら、すぐに使っちゃう人だから。お酒もギャンブルも大好きだし……」
それで、お金が無くなってどうしようもなくなると、愛衣のアパートにやって来て金をせびるのだそうだ。
「うちに余分なお金なんて無いのは、お父さんも良く知ってる筈なんだけど……」
「やっぱり、最後に頼るのは身内なんじゃない?」
「そんな時だけ身内だなんて、ずるいです」
愛衣はそう言って顔を伏せた。父親らしいことは全然してくれなくて、大切なお金だけ持って行ってしまう。そんな人、いない方が良い。
頭ではそう思っていても、小さい頃の優しかった父の記憶があるだけに、完全には捨てきれない。どうしても複雑な心境にならざるを得ないようだ。
「でも、弟の智也に暴力を振るうんだったら、私は父を憎みます」
最後に愛衣は、きっぱりとそう言ったのだった。
★★★
今日も業務中、愛衣と長い立ち話をしてしまい、少々後ろめたい薫だった。
それでも、斉藤美月がやってくる午後四時迄には、あらかた話を終えていて、薫は普段どおりに外回りの仕事へと向かって行った。
それが終わって薫が店内に戻った時には、既に夕方の混雑が始まっていた。美月と愛衣がレジに立ってフル稼働で働いている上に、セルフレジにも行列ができている。どうやら年配の男性が操作に手間取っているようだったので、薫は早速、手伝うことにした。
それから美月が帰る時間までずっと忙しかった。その彼女を見送ってから、ようやく薫は休憩を取ることにした。
さっき愛衣が取り分けておいてくれた賞味期限切れの焼きそばとおにぎりを、レジ奥の電子レンジで軽くチンして休憩室に持って行く。おにぎりは余分だと思ったけど、「これくらい食べないと、夏バテしますよ」と言われて押し付けられてしまったのだ。それよりも本当はサラダが欲しかったけど、今日は愛衣に譲ってあげた。
薫は二十分弱で休憩を切り上げて、愛衣と交代した。愛衣は、やはり賞味期限切れの焼肉弁当をチンして、それと薫が譲ったグリーンサラダを持ってバックヤードに消えて行く。
それから、十五分くらい経った時だった。
店内のデジタル時計は、午後八時三十六分を指している。今日も愛衣が九時に帰り、日比野店長がシフトに入ってくれることになっている。彼は週の半分以上が夜勤で、しかも十二時間近く働いていて、休みは週に一日あるかないかだ。本当に店長は大変だ。
そんなことを思いながらレジにぼんやり立っていると、パぴパぴと自動ドアのチャイムが鳴った。条件反射で「いらっしゃいませー」の声を放った直後、薫の頭の中で警報が鳴り出した。
入って来たのは、一見して普通じゃないと分かる中年の男だった。赤シャツと白いズボンをだらしなく着こなし、裸足の足にサンダルを引っ掛けている。顔には無精ひげが目立ち、目元はサングラスで隠しているものの、薫を不躾に睨んでいるのは明らかだった。
薫は、さっと店内を見回す。他にいるのは、大学生風の若い男性とOL風の女性。あ、女性の方が外に出て行った。薫が「ありがとうござい……」と言い掛けた所で、中年男が野太い声を発した。
「おい、姉ちゃん、牧野愛衣、いるだろ」
薫は少し考えて、取り敢えずレジカウンターから出て行く。
「今日は、来てませんけど」
「アパートの方に居るってことか?」
「さあ」
「知らないってことか? お前、嘘つくと……」
男の言葉が途中で途切れ、一歩前に出て来る。自分の身体をじろじろ見られている感じが、薫には気持ち悪かった。
「お前、どっかで見た気がするな」
薫には、こんな男の知り合いはいない。
「気のせいでは?」
咄嗟にそう言ったのだが、薫にも心の隅に少し引っ掛かるものがあった。でも、あのサングラスが邪魔をしていて、単に「何かを感じる」としか言えない。
「いや……まあ良い。それよりも愛衣だ。お前、どっかに隠してたら、ただじゃおかねえからな」
突然、大声を張り上げたせいで、まだ残っていた若い男が出て行ってしまった。
パぴパぴ……。
今度は薫も挨拶しなかった。
「おい、いるんだろ?」
うるさい男だ。
薫がそう思った所で、バックヤードに続くドアがバタンと大きな音を立てて開いた。
「……お父さん」
出て来たのは、愛衣だった。
「おう、愛衣か。やっぱり、いたじゃねえか」
薫の横をすり抜けようとする愛衣を、薫は素早く押し留める。
男の顔が歪んだ。
「何の真似だ」
「その前に、ここに来た目的を教えてもらいましょうか?」
「お前には関係ねえだろう」
「勝手に決め付けないでくれるかしら」
「なんだとお」
ブチ切れた様子の男が、更に一歩前に出た。そして、おもむろに薫の方へと右手を伸ばしてくる。左腕を掴まれそうになった時、さっとその手を払い除けた薫が身体を半身にすると、軽く足を引っ掛けた。
次の瞬間、男は床に転がっていた。背中を強く打ち付けたようで、呻き声を上げている。辺りにアルコール臭が漂っている所からすると、今夜も酔っ払っているようだ。
普通の親子だったら、慌てて父親の元に歩み寄る所なのだが、愛衣は薫の後ろに立ったままで動こうとはしなかった。
薫は、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「お客さん、そんな所で寝転んでおられますと、営業妨害になりますので……」
「うるっせえ。お前のせいだろうがっ!」
大声で悪態を吐きながら、男が立ち上がろうとする。
「お前、俺をこんな目に遭わせるとは、良い度胸だな」
立ち上がった男の手元には、バタフライナイフがあって、それを見た愛衣が、「きゃっ」と可愛い叫び声を上げる。
その愛衣に薫は、小声で囁いた。
「愛衣ちゃん、もう少し痛め付けちゃっても良いかな?」
後ろで愛衣の息を飲む音がする。でも、返事が無いのは了承ということだろう。
勝手にそう判断した薫は、自分の胸元に繰り出されるナイフを三度、軽く躱した後、足の裏で男の局部を思いっ切り蹴った。
今度は、呻き声すら出せないようだった。
薫は素早く男のナイフを回収し、折り畳んで愛衣に渡した。そして、男の脇にしゃがみ込むと、無表情のまま声を掛けた。
「ねえ、愛衣ちゃんのアパートには、もう行かないでくれる?」
男からの返事は無かったけれど、構わず薫は先を続ける。
「それからね、このお店にも来ちゃ駄目だよ。はい、オジサン、お返事は?」
男の顔が、微かに縦に振られた。
薫は、後ろに立ったままの愛衣に向かって、「この後、どうしよっか?」と訊いてみた。
でも愛衣は、軽く肩をすくめただけだった。
ああ、もう、めんどくさい。
薫が、そう思った時だった。
パぴパぴ……。
「いらっしゃいませー」
声を出したのは、愛衣だった。
「あ、店長?」
薫が呟きながら顔を上げると、日比野店長は入口の所で固まっていた。
「あ、この人、なんか急にお腹が痛くなっちゃったみたいで」
「えっ?」
「どうしましょう、店長。救急車、呼んだ方が良いですかね?」
「……い、いや、呼ばなくても大丈夫じゃないかな」
店長の声は、何故か震えている。薫が後ろに顔を向けると、愛衣も頷いてくれた。
『じゃあ、どうしようかな』と薫が思った所で、ようやく男が立ち上がった。男は自分の股間に手を置いたまま、ゆっくりと外に向かって行く。
パぴパぴ……。
「ありがとうございましたー」
そうやって声を掛けたのは、薫だけだった。
パぴパぴ……。
「あれ、颯太くん?」
愛衣の父親と入れ替わるようにして入って来たのは、八木颯太だった。
「あ、すいません。私、すぐ着替えてきますね」
慌てて愛衣が更衣室の方に走って行く。
「さっき、変な人が出て行きましたけど、何かあったんですか?」
颯太が尋ねてきたので、薫が何があったかを簡単に説明する。隣には日比野店長もいてくれたので、一緒に聞いてもらった。
「……だから、颯太は気を付けてね。たぶん、今日は大丈夫だとは思うけど」
「牧野さんとこ、鍵を変えた方が良いですね」
「あ、そだね。愛衣ちゃんに行っとくよ……てか、聞いてた?」
後ろを見ると、Tシャツとジャージに着替えた愛衣がいた。手には薄手のパーカーを持っている。
「明日はお休みだから、ホームセンターで鍵、買ってきますね」
「うん、そうしなよ。でも、やっぱり弟くんを独りにさせとくのは心配だから、うちに来る件、お母さんと弟くんに話しといて頂戴」
「分かりました。ありがとうございます」
そこまで言った所で、再びパぴパぴとチャイムが鳴って、カップルのお客さんが入って来た。
そのお客さん達の対応は店長に任せて、薫は愛衣と颯太を見送る為に外へ出る。途端に、ねっとりとした暑い空気が身体に纏わり付いてきて、思わず薫は顔を顰めた。
それでも薫は、大きく手を振って、自転車に乗って去って行く二人の背中を見送った。
その後、薫は颯太に聞かなきゃいけない事がたくさんあったのを思い出した。
けど、今日はいろいろあったから聞けなくても仕方がない。
「まあ、いいや」
そう呟いて、薫は店内に戻って行った。
★★★
それから、きちんと二時間働いてから、薫は普通に歩いて帰った。
途中でチンピラ風の男二人に遭遇したけど、薫が道を空けてやると、無言のまま通り過ぎて行った。どうやら、薫を女として認識しなかったようだ。そのことに薫は一抹の寂しさを感じながらも、そのまま早足で歩いて、すんなりアパートに着いた。
リビングの古い掛け時計を見ると、午後十一時半。楓の部屋も暗いから、もう寝ているみたいだ。
取り敢えず薫はシャワーを浴びて、バスタオルを探す。洗濯機に放り込んである湿ったのを取り出して、濡れた身体を拭いた。そのバスタオルを頭に巻き付けて、首元がほつれたTシャツとショーツだけの格好で寝室に向かう途中、テーブルに置いたスマホが点滅しているのに気が付いた。
すぐに取り上げて確認すると、親友の山口沙希からメールが入っている。早速、読もうとした所で、着信があった。沙希からだ。
通話ボタンを指でなぞって、耳に当てると、懐かしい親友の声が聞こえた。
『薫、久しぶり。今、大丈夫?』
「うん。大丈夫。てか、さっき帰って来て、シャワーだけ浴びたとこ」
『そうなんだ。相変わらず、遅くまで働いてるんだね』
「うん、まあね。どしたの、沙希?」
『えーとね、こっちに圭介が帰って来たんだよ」
「へえ、確か軍に入って、中東に行ってたんだよね?」
天王高校剣道部の同期、服部圭介の家も専業農家だ。彼は家の仕事に興味を持っていて、前向きに跡継ぎになるつもりでいた。だから、国立大学の農学部に進んだのだ。
ところが、専業農家を取り巻く環境は悪くなる一方で、薫の家と同じように、彼の実家も立ち行かなくなってしまった。
ただ、水草家と違ったのは、圭介の両親の場合、あっさりと農業に見切りを付けて、家と田畑を全て売り払ってしまったことだ。それで彼らは天王市の郊外に新築の家を持つことができたし、早期退職を決め込んで、贅沢さえしなければ老後もそこそこの生活ができるだけの貯えも得られた。
もちろん、それには彼らの田畑が市街地に近いといった好条件だとか、売り払ったタイミングが良かったというラッキーな側面もあった。
ただ、この両親の決断は、服部圭介の側からすれば最悪だったのだ。その時の彼は、大学四年生だったからだ。
『俺は何の為に奨学金まで借りて、国立大の農学部なんかに入ったんだよ』
季節は既に秋だった。今更、就職活動をしたって、まともな会社に入れる筈がないし、何の準備も無しに公務員試験を受けたって合格できるとは思えない。
考え抜いた末に唯一の選択肢としてあったのが、軍に入ることだったのだ。
そのことを薫が知ったのは、大学を卒業して迎えた最初の夏、祖母の葬儀で帰省した時のことで、薫にとっては、全く他人事ではない。そう思ったから、薫は良く覚えている。
「私、圭介に会ったら、軍のこと、いろいろと訊いてみたいかも」
つい本音が漏れてしまった。
それで焦った薫は、慌てて付け加える。
「あ、いや、別に深い意味は無いんだけど……」
取り繕うように発した薫の言葉に、沙希の反応は不思議にも穏やかだった。
『薫の言いたいことは分かるけど、たぶん、圭介は話したがらないと思う』
その反応に何かを察した薫は、慌てて問い返した。
「え、何かあったの?」
『何買って言うか……』
何故か、沙希の口は重かった。
「ケガしたとか?」
『うん。そんな所。あいつ、ドジだからさ』
薫が思い付きで言った言葉が、正解だったようだ。
「それ、笑えないね」
『うん。それでさ、取り敢えず私はお見舞いに行ったんだけど、あんまり元気が無いから、皆で行って元気付けてやったらどうかって思ってね』
沙希の回りくどい口調から相当な大ケガだと判断した薫は、即答することにした。
「分かった。で、いつなの?」
『土曜日の午後かな。薫は、バイト?」
「うん。あ、でも、行けるように店長に話してみる」
『そっか。だけど、無理しなくても良いよ。急な話だし』
「たぶん、大丈夫だと思うよ。うちの店長、私には優しいから」
『そうなの?』
「うん。いろいろ弱みとか掴んでるし、ちょっと脅しちゃえば……」
『何か、怖いんだけど』
「持ちつ持たれつって感じかな」
『良く判らないけど、もし来られるなら午後二時に市民病院ね。私は早めに行って圭介の病室で待ってるけど、多少は遅くても大丈夫だから。それとね、薫の他に陽輝にも声を掛けたから、あいつは来ると思う。えーと、それから……』
「翔くんでしょう。こっちに帰って来てることなら、知ってるよ」
『えっ、そうなの?』
「うん。沙希は、松永くんから聞いたんだね?」
『うん、そう。驚いたよ。圭介と同じで、三年ぶりだもんね』
「そだね」
『薫、ひょっとして会ったの?』
「うん」
『まさか、翔が誘ったんじゃないよね?』
「もちろん、偶然。天王駅の近くで、ばったり会っちゃったの。だいたい、翔くんが誘ってくれるわけないじゃない」
『それは、どう、かな……』
「……?」
『あれ、薫、起きてる?』
「起きてる。ちゃんと聞いてるよ」
『そう』
沙希の言葉が心持沈んでいる。
『あの、薫、何かあったの?』
いや、沈んでいると思ったのは、自分の方だ。
そのことに気付いた薫は、努めて明るい声で言った。
「うん、ちょっとね。こないだの月曜、天王駅の前で爆破事件があったの知ってる?」
『えーと、マルエムだっけ?』
「そうそう。その時ね、私、ちょうど名古屋に行って、帰って来たとこだったの。そしたら、そこに翔くんがいてね。その時の翔くん、ちょうどニューヨークから戻って来た所で、もう、嘘みたいな偶然。それで、その日は普通に話して終わったんだけど、問題は次の日」
『何があったの?』
「うん。翔くんがね、私が働いてるEマートに来てくれて、えーと、午後の六時過ぎだったかな。一緒に天王池公園に行って、少し話したんだけど……ケンカしちゃった」
『えっ、ケンカ?』
「だって、翔くん、とんちんかんなことばっかり言うんだもん。全然、会話が噛み合わなくてさ……」
それから薫は、翔との間で起こったことを事細かに説明した。特にムカついたのは、翔が「普通の会社で働いたらいいじゃないか」と言った時だ。
『だったらさあ、薫もコンビニなんかじゃなくて、きちんとした会社で働いてみたらいいんじゃないか? せっかく良い大学、出てるんだし……』
ああもう。思い出しただけでムカつく。
『ふーん。翔は相変わらずだね。浮世離れしてるっていうか、世間知らずっていうか、やっぱ、翔は良いとこのお坊ちゃんなんだ』
「でしょう? 本人に悪気がないだけに、もう、プンプンだよ」
『そっか、大変だったね』
「うん。ありがと。なんか、愚痴っちゃって、ごめん」
『良いよ、そんなの。あ、でも土曜日は、私の方が愚痴らせてもらおっかな』
「うん、いっぱい愚痴ってくれて良いよ。沙希のお仕事、大変みたいだし」
『そうなんだ。ほんと、大変なんだ』
「あ、でも今日は、もう寝ようよ。沙希は、明日もお仕事なんでしょう?」
『うん。薫は?』
「私は、久しぶりのオフなんだ。でも、この部屋って、すごく暑いから、ずっとは寝てられないんだよね」
『そっか。じゃあ、そろそろ切るね』
「うん。土曜日、できるだけ行くようにするから。また、連絡する」
『うん、待ってる。じゃあ、おやすみ』
「おやすみー」
沙希の通話は、すぐに途切れた。
しばらく、スマホを耳に当てて固まっていた薫は、はっとなって寝室に入る。そして、母の佳代の分と自分の布団を並べて敷いて、すぐに身を横たえたのだった。
次は、翔視点に戻ります。
なかなか話が進みませんが、気長にお付き合いください。
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