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第26話:年末のバイト <薫サイド>

再度、見直しました。


水草薫みずくさかおるが藤田(かける)と別れて、三度目の秋が来ていた。

薫が大学を卒業して社会人になってから、既に二年半以上が過ぎ去ったことになる。


そして、その秋も徐々に深まって行き、気が付くと銀杏の葉が黄色く染まっていた。


薫は最近、中州なかすの屋敷には全く帰っていなかった。帰るお金が無いのもあるけど、今のような状態では親に合わせる顔が無い、というのが本当のところだ。

最後に家に帰ったのは祖母が亡くなった時だから、もう二年以上も前のことになる。


そんなある日のこと、薫は母の佳代からの電話で「お屋敷と田畑を手放すことになるかもしれん」と聞かされた。薫にとっては、まさに寝耳に水だった。


「うちの使用人で最後まで残ってくれた瀬古さんも野崎さんも、もう年寄りになってしまって、そろそろ引退したいってことなんだわ。どっちみち、これが限界かもしれん」


祖母の幸子が死んで三年。あの父と母だけで経営をやって行くのは、もう限界ということなんだろう。本来なら薫が戻るべきだったんだろうけど、今更それを言っても仕方が無い気がする。

瀬古さんは祖母と同じ歳だったから、今年で七十三。野崎さんも今年で七十だ。引退を言い出して当然だろう。どのみち、今の水草家には、彼らを養っていく力はない。かと言って、父と母だけであれだけの田畑を耕して行くのは不可能だ。もはや八方塞がりということなんだろう。


十年以上前のTPPに続いて様々な自由貿易協定が施行され、遂に先日、農業の完全自由化を日本政府が決断したことは、まだ記憶に新しい。

数年前から、個人経営の農家は何処どこも経営が苦しくなっており、廃業する所が続々と出てきて問題になっていることも、薫はネットを見て知ってはいたのだが……。


中洲でも有数の豪農である薫の実家は、今でも相当に広い田畑を持っている。日本の標準的な専業農家の規模とは桁違いの広さなのだ。それが、どうしてそんなことになるのかが薫には分からない。

屋敷だって巨大である。それは、敷地の中に大勢の使用人達の宿舎だとか作業場や倉庫とかを有しているからなのだが、とにかく、それらの全てを売らなきゃいけないなんて、薫には思いもよらないことだった。


「ご近所さんが次々と田んぼを売っててね、次々と中州なかすから出てってしまっただ。うちだけじゃ、もうどうしようもならんだわ」


母の佳代が言うには、中洲の全ての農家に外資系の企業があの手この手で買収工作を仕掛けたようだ。そうして廃業を決意した農家の土地を、その企業が次々と買い取っているらしい。

彼らは中洲全体を効率の良い大規模農場として再生することで、安くて新鮮な農作物を名古屋周辺の市場へと供給する計画だという。


でも、そんなことをされたら、中州だけの犠牲では済まない筈だ。天王市を含めた名古屋周辺の個人農家全てが、立ち行かなくなってしまうんじゃないだろうか?


それだけじゃない気がする。

日持ちのする農作物は海外から輸入され、生鮮野菜などは外資系企業が経営する近場の大規模農場から供給される。それ以外の選択肢が無いとなると、一般の消費者だって影響を受ける筈だ。日本人の食の安全は、いったいどうなってしまうんだろう?


いや、今はそんなこと考えている場合じゃない。うちの実家がどうなるかの問題なのだ。


「今の農業は金が掛かるんだで、しょうがないだわ。農業はもう個人でやる時代じゃあねえ。金がなけりゃ、止めろっちゅうことだわな」


そう言って母の佳代は、スマホの向こう側で悔しがる。


「だったら、土地を買い取った会社で働かせてもらえばいいじゃない。聞いてみたら?」


それも聞いてはみたけど、年齢制限を理由に断られてしまったと母は言った。

今の農業は全てが人工知能(AI)のコンピュータで管理され、高度に機械化されている。薫の両親のような低学歴の高齢者が働ける職場ではないらしい。


「じゃあ、うちのお屋敷とかを売らなきゃいけないとしてだよ、代わりの家は何処どこに建てるの?」


あれだけの大きな屋敷と広大な土地を手放すのだ。新築の家ぐらい建てられるだろう。薫は、そんな風に思ったのだ。

ところが、薫の母の佳代は完全に黙り込んでしまい、そのまま口を開こうとはしなかった。


その日は薫もそれで通話を終えたのだが、薫にとってはどうにも腑に落ちない内容だった。それと同時に、何となく不気味なものを感じていたのだ。

後になって思えば、その正体をきちんと暴いておくべきだったのだが、この時は何となくあいまいなままにしてしまった。


数日後、薫はその答えの一部を妹の楓から聞かされた。


「あのね、お姉ちゃん。誰も私にはあんまし教えてくんないけど、うちの財政事情って、相当ヤバいことになってるみたいだよ」

「やっぱ、そうなんだ」

「そうなんだって、お姉ちゃん、知ってたの?」

「詳しくは知らないけど、中学の頃からね……」

「あ、それなら私も知ってるよ。お父さんがでっかいトラクターとか買っちゃったんでしょう?」

「うん。でも、それからは、お祖母ばあちゃんも何も言ってなかったし、私、てっきり持ち直したんだと思ってた」

「もう、お姉ちゃんったら、呑気のんきなんだから……んなわけないじゃん」

「そうなんだ」

「そういうこと。それで、うちら、無一文むいちもんで中州から追い出されちゃうっってわけ?」

「ええーっ、無一文って何?」

「だって、うちには借金がいっぱいあるんだよ」

「いくら借金があるからって……あんだけの土地だよ?」

「もう、お姉ちゃん、分かってないなあ。土地なんて、今じゃ大してお金になんないんだよ。税金だって掛かるんだし……」

「えーっ?」

「お姉ちゃんが東京に行った後だって、うちは何度も銀行から借りてるんだよ。で、ここ数年は、何処どこの銀行も貸してくれなくて、こんな状態になっちゃってるわけだけど」

「……?」

「つまりね、うちは屋敷と田畑を売ったって無一文どころか、借金まみれかもしれないんだよ」

「……っ」

「それにね、こういうのって、うちだけじゃないだ。中州の他の家もみーんな、同じ状況なの。親方衆も含めて、何処どこも似たようなもんだって、こないだ瀬古さんが言ってた」

「……そんな」

「つまりさあ、うちらは、誰にも頼れないってわけ……。ああ、もう。うちの親って、老後のこととか、どうするつもりなんだろう……」



★★★



そんなことを家族から聞かされてしまったら、薫だっていろいろと考え込まざるを得なくなる。

いや、本当はすぐにでも家族の下に駆け付けるべきなんだろうけど、薫にはどうしてもそれができない理由があった。

その頃は薫自身も深刻な財政問題を抱えていたのである。


今まで騙し騙し使っていた電化製品が次々と駄目になってしまい、安い中古を探したけど、それでも薫にとっては大きな出費だったのだ。それで、なけなしの貯金が一気に底をついて、気が付くと財布の中身が二千円を切っていた。

次にバイトのお給料が出るのは、まだ一週間以上も先だった。これは、東京に出て来てから最大のピンチかもしれない。


どうしよう。もっと早く気付くべきだった。


暦は既に師走に入っていた。大都会のビルの谷間で冷たい風に吹かれながら、薫は疲れた身体からだを引きずるようにして、次のバイト先へと向かっていた。


そんな薫が着古したブラウスの上に羽織るのは、ぼろいグレーのダッフルコート。高校時代からずっと着ているせいで裾や袖先とかがほつれていて、そろそろ本当にヤバい状態だ。

思えば大学を卒業して以来、古着ですらあんまり買って無いな。いや、それ以前を含めたって、薫が東京に来て買った服と言えば、特価で買った下着と古着のリクルートスーツ以外は、本当に数えるほどしかない。


そんなことをつらつらと考えてぼーっとしていたせいだろうか。突然、誰かに突き飛ばされた薫は、前のめりになって歩道に置かれた立て看板に身体を強くぶつけてしまった。

涙目になって立ち上がり、気まずい思いで歩き出す。そして、ふとポケットの中に手を突っ込んでみたら……。


無いっ! いつもここに入れている筈の財布が無いっ!


頭の中が真っ白になった。


たとえ財布に入っていたのが千円札一枚と小銭が少々だけだったとしても、今の薫にとっては全財産だ。


慌ててスマホで一番近い交番を探して、何とか取り戻したいと言う一縷の望みを胸に飛び込んだ。

その時、そこにいて相手をしてくれたのは、ちょうど薫の父親くらいの年齢の、人の良さそうなおじさんだった。


「残念だけどね、財布のことは、もう諦めた方が良いよ。もちろん、我々も探してあげたいけど、最近、こういうスリや万引は増える一方でね。とても手が足りてないんだ」

「……っ」

「それとね、犯人は君みたいな若い子が多くてね。まあ、みんな、お金に困ってるんだろうね。本当は、警察がこんなこと言っちゃいかんのだが、うちの息子と同世代の子なんかが、もう三日も飯を食ってなくて、『お巡りさん、捕まえて下さい』って交番ここに来るんだよ。餓死するくらいなら、牢屋に入れてもらった方がましだってことなんだが、そういうの見てるとね……あ、君も同じようなこと、やっちゃ駄目だからね」


お巡りさんは、そう言って、そっと薫に千円札を握らせてくれた。


もうすぐ私、二十五になるのに、情けなさ過ぎる。


薫は涙ながらに、「バイト代が入ったら、絶対にお返しますから」と言って、そのお巡りさんに深々と頭を下げたのだった。



★★★



薫は焦っていた。とにかく、もっと実入りの良いバイト先を探さないと駄目だ。


実は、奨学金の返済が滞っており、金利が嵩む一方なのだ。もはや一刻の猶予もないと思った。このままじゃ、もう東京には居られなくなってしまう。


そんな時、例の危ない感じの派遣会社から紹介されたバイトがあった。クリスマスイブの日から年末にかけての仕事で、もらえるお給料はかなり魅力的。薫は一も二も無く飛び付いてしまった。


そして年の瀬も迫まり、街中がクリスマスのきらびやかな装いに包まれたイブの日。道行く人々は親しい人達、家族や恋人、友人達と楽し気な会話を交わしながら、誰もが明るい笑顔で通り過ぎて行く。


それなのに……。


今の薫の状態は、身体も心もすっかり冷え切っていた。


寒い。とにかく寒い。


薫が着ているのは、バニーガールの衣装である。


そんな恥ずかしい恰好で薫は目下、ディスカウントショップの店頭に立たされ、大勢の客たちの興味本位で無遠慮な視線に晒されているのだった。


その上、更に辛いのが寒さである。

入口の自動ドアは、客がひっきりなしに出入りするので、始終開きっぱなし。外の冷たい風がビュービューと吹き付けて来る。身体の芯まで凍り付いてしまいそうだった。

薫のすぐ隣には、天井まで届く巨大なクリスマスツリーがあって、実はその下にレトロな電気ストーブが隠してあるのだが、そんなの気休め程度にしかなりやしない。


寒い。寒い。もう凍えてしまいそうだ。


今の薫の仕事は、来店してくれる客にビラを手渡すことなのだが、ただでさえ表情に乏しいと言われることが多い薫である。今や顔が強張って凄いことになっているに違いない。


ああ、もう。いったい誰が、こんな真冬にバニーちゃんになるなんてこと考えたんだろう。

変態。そうよ。絶対、サディストの変態に違いない。


そして、寒いとどうしてもアレが近くなる。

ついさっきも行ったばかりだし、またフロア長に言うのも気が引ける。


だいたい男の人に「おトイレ行かせて下さい」だなんて、いったいどういう羞恥プレイなの。


先程、差し迫った状態になった薫が、どうしても仕方なしに言いに行ったら、彼はニヤニヤ笑いながら「行って来て良いけど、それってさ、全部脱ぐんだよね」とか嬉しそうに言いやがった。

一回目がそれだったんだから、二度目は何て言われるか分かったもんじゃない。


「どうした、姉ちゃん。さっきから見てると、足をもじもじしちゃってよ。ひょっとして、便所に行きたいんじゃねえのか」


目の前に、浮浪者風の男が立っていた。


「その服、脱ぐのに時間が掛かりそうだよな。えへへ、早く行かなくていいんかい。それとも、ここですっか?」

「お客さん。困ります……」


さすがに見るに見かねた年配の女性店員が、その男を追い払ってくれた。


「ほら、しばらく私がビラ配り代わってあげるから、今のうちにトイレ、行って来な。今なら、フロア長。休憩に行ってて居ないから」


助かった。ちゃんと中には、優しい人だっているんだ。


薫はその人に頭を下げると、早足でトイレに向かって行った。



★★★



さて、何でこうなったのかと言うと……。


もちろん、バニーガールにならなきゃならないなんてことは、派遣会社から事前に一切聞かされてはいない。薫がバイト先に来て初めて知ったことだ。

薫がサインした契約書の何処どこを見ても、そんなことは書かれていなかった。ただひとこと、「衣装はこちら側で提供します」とあっただけだ。


だいたい人前でお尻を晒すなんて、恥ずかし過ぎる。


店の事務所で中年オヤジの担当者にコスチュームを渡された時、さすがに帰ろうと思った。

それで、「やせっぽっちで地味な私なんかで、勤まるんでしょうか」と訊いてみたのだが、「人数合わせに必要なんだよ。君でも良いから何とか頼むよ」などと失礼なことを言う。


「それに君だって、金が欲しくてこの仕事を受けたんだろ。普通のことやってたら、それなりの金しか手に入らねえぞ。もっと稼ぎたいんなら、このくらいは我慢するんだな」


中年オヤジは「まあ頑張りな」と言いながら、薫のお尻をさっとひとなでする。薫が「きゃっ」と叫んだ時には、もう彼は部屋からいなくなっていた。


それでも、その衣装は意外としっかりしたもので、一緒に渡されたピンヒールも高級そうなものだった。靴のサイズとかも前もって申告してあったお陰で、薫の足にピッタリだ。

それで薫は、しぶしぶバニーの衣装に着替えた。その更衣室には姿見があったので、背中を鏡に映してみる。むき出しのお尻が目に飛び込んで来た。荒い黒タイツが、お尻の白さを際立たせている。こりゃ、駄目だ。とても、人前に出られそうもない。

薫が内心、そんな弱音を吐いていると、ノックも無しにいきなりドアが開いた。薫を出したのは、さっきの中年オヤジである。ここは女子更衣室だというのに、全くのお構い無しだ。


「君、まだそこにいたんか。他の子は、もう全員揃ってるんだ。着替えが終わったなら、早く出て来い」


薫は、そのオヤジに手首を掴まれて、更衣室から引き摺り出されてしまう。そして、連れて来られたフロアには、バニーの衣装を着た女の子達が八名いた。つまり薫を入れた九名のうち、常時六名がお店で接客して、三名ずつ休憩を取ることになるらしい。

ざっと見た限りでは、どの子もスタイルが良い。薫は、身長だけは高い方だが、身体のメリハリの点で完全に負けたと思った。


やがて朝礼が始まると、店員達が大勢いる前で横一列に並ばされた。店員は男の人がほとんどで、誰もが薫たちを見てニヤニヤしている。

係の男の人の合図で、全員が一斉に「宜しくお願いします」と声を出しながら頭を下げると、パチパチとまばらに拍手が起こった。


それから、さっき薫のお尻を触った中年オヤジの紹介もあった。

彼は今回薫たちが拡販する製品メーカー側の人で、店員ではないらしい。しかも、本当はそのメーカーと契約した広告代理店の人で、その代理店があちこちの派遣会社やコンパニオンのプロダクションを通じて、バニー役の女の子を集めてきたらしい。どうやら複雑な雇用関係になっているようだ。


朝礼が終わった後、フロア長を名乗る三十歳くらいのノッポな男の人が現れて、随分と横柄な口調で話し出した。内容は細々(こまごま)とした注意事項だ。適当に聞き流していると、「おい、そこのお前、ぼやっとしてるんじゃないっ!」といきなり指を差されて怒られた。

内心ムッとしたけど、一応「すいません」と謝ると、更に怒鳴ってくる。


「何だ何だ、そのいい加減な返事は。それに、そのふてくされた顔。お前、俺のことバカにしてんのかっ!」


この彼が怒鳴るのはいつものことなのか、フロアに集まった店員たちは平然としている。でも、バニーの女の子達は、急にざわざわし始めた。


バイトなのに、何でこんな理不尽なことで怒鳴られないといけないのか。これって、完全なパワハラじゃないのか。


薫とて、そう思わなくもない。

だけど、その一方で、『また、いつもの奴だ』といった諦めもあって、一応「すいません」と、今度は丁寧に頭を下げておいた。

それなのに、彼はじーっと薫の方を見ている。その彼の口元が僅かに歪んでいた。何かを企んでいる不敵な笑いである。


バイトの期間は、一週間。


どうやら、この先が思いやられそうだ。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

次話も年末のバイトの続きです。


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