第25話:夜のコンビニ <薫サイド>
再度、見直しました。
牧野愛衣が八木颯太と一緒に帰って行くのを見送った後、しばらくしても日比野店長は現れなかった。つまり店員は、バイトの水草薫一人だけだ。
その店長には先ほど通話したのだが、完全に熟睡中だったようで受け答えが覚束ない状態だった。あまり変な状態で来られても困るので、薫はスマホを持たない手でこめかみを押さえながら、「ちゃんとシャワーを浴びてから来て下さいね」と念押しをしておく。
それにしても遅い。今の所、お客さんが少ないから別に良いのだが、気になるものは気になる。
日比野店長が現れたのは、そんな風に薫が痺れを切らし出した頃だった。彼は、「いやあ、寝坊しちゃったよー。ごめん、ごめん」と能天気な声を響かせながら店内に入って来ると、薫がいるレジカウンターの前でペコリと頭を下げた。
壁に付けられたデジタル時計が二十一時二十九分を示している。あ、今三十分になった。
「あれ、もうこんな時間なんだ。ほんと、遅くなって申し訳ない」
そう言って店長は何度も謝ってはくれるのだが、どうにも誠意が見られない。どうやら、昼間に起き出して、薫とくだらない話をしいたことなど、全く覚えていないらしい。憶えてなければ罪悪感も湧かず、羞恥心も無い訳だ。
薫は、『酔っぱらいと同じだな』と思うことにした。こういう時は、怒っても無駄なのだ。薫は心の中で、『ただの酔っ払い、酔っ払い』と呟きながら、店長とは顔を合わせないようにして次々と雑用をこなして行く。
そうこうするうちに夜は更けて行く。薫は日比野店長がバックヤードに行ったのとお客さんがいなくなった時を見計らい、カウンター奥のPC端末で来週のシフト表への入力を済ませてしまうことにした。
ここのコンビニでは、木曜迄に次の日曜から土曜迄の期間に働ける日時を専用のPC端末に入力することになっている。各自が入力した後、ダブったり足らない分は個別に店長が調整する仕組みだ。
今日はまだ水曜だが、愛衣が既に入力していたし、早めに入力しておいた方が店長に急かされずに済む。
休みは愛衣と合わせて木曜にした。日比野店長から、週に一回は最低でもオフの日を入れるように言われているからだ。夜遅くまで働くのは火曜日と水曜。他の日は、朝八時から午後五時までの勤務にしておく。
ちょうど入力し終わった所で、大学生風のお客さんが、ぞろぞろと店内に入って来た。男性ばかり六人の団体さんで、何処かで飲んで来た様子だ。
彼らは騒がしくしながらビールや焼酎の瓶を手に取り、更にスナック菓子を山盛り入れた籠をカウンターの上に置いた。
薫は淡々とバーコードを読み込ませた上で、商品をレジ袋に入れて行く。どうせエコバックなんが持っていないだろうから、最初から聞かない。
「全部で六千二百二十円になります。お支払いはいかが……」
「これで」
「畏まりました」
薫は、男のスマホで決済を終えて、「ありがとうございました」と軽く頭を下げた所で、他の男達が次々と声を掛けてきた。
「ねえ、君、バイト何時までなの?」
「俺達と一緒に飲まない?」
「家、何処? 僕が送ってってあげるから、大丈夫だよ」
相手は、どうせダメ元なんだろうし、私なんかに声を掛けるってことは、どうせ女なら誰でも良いって思ってるに違いない。
そう考えた薫は、冷ややかな声で言った。
「あの、私のシフト、朝までですけど……」
もちろん、嘘だ。そして案の定、薫の言葉は、男達のブーイングにかき消された。
「それ、嘘でしょう」
「そんなに働いて、どうすんのさ」
「夜更かしは、お肌の敵だよ」
「お金ないなら、僕が出してあげても……」
「お前、エンコーのつもりかよ」
「こんな若い子とか? 犯罪だろ」
そろそろウザいと薫が思い始めた所で、日比野店長がバックヤードから戻って来た。
「あっ、店長だ」
どうやら、彼らは店長の知り合いらしい。
「あのー、店長。彼女、お持ち帰りして良いですかあ」
「ちゃんと洗って、お返ししますんで」
「何だよ、その洗ってっての?」
「一緒にお風呂とか?」
「ゴホン」
ようやく状況を把握できたのか、日比野店長が咳払いをした。
「君達、困るよ、うちの店員をからかっちゃ」
「別にからかってませんよ」
「そうです、そうです。単にお誘いしてるだけでーす」
「できたら、お持ち帰りしちゃいたいなあって」
酔っ払いたちの言葉に、日比野店長の顔が険しくなって行く。
「困るなあ。うちは店員のレンタル、してないんだよね。だから、早く帰った、帰った」
そう言った後、日比野店長は男達の追い出しに掛かった。
それ以上は男達の方も騒ぐつもりは無いようで、しぶしぶながらも外へ出て行った。
★★★
パぴパぴ……
「ありがとうございましたー……あ、店長、ありがとうございました」
一応、おきまりの言葉を口にした後、自動ドアの前でUターンした日比野店長に薫はペコリと頭を下げた。
「いやいや、こっちこそ、近所の奴らが迷惑掛けたね。あいつら、普段は大人しい連中なんだけど、酔っぱらって気が大きくなったのかな」
日比野店長は、そう言いながら店内の壁にある時計を見る。そのデジタル時計は、午後十時四十四分を示していた。
薫のシフトは十一時迄なので、残りはあと僅かだ。でも店長は、今夜も朝までここにいることになっている。
前々から薫が思っていることだけど、コンビニの店長というのは本当に大変な仕事だ。この日比野店長にしても、週の半分以上は夜勤の仕事をこなしながら、バイト達のマネージメントの仕事もしているからだ。
本当は店長だってもっと夜勤を減らしたいと思っているのだが、昼間のバイトはいくらでも集まるのに、夜間に働ける人は求人を出してもなかなか来てくれないのだそうだ。
以前、薫も夜勤をやりたいと店長に申し出たことがある。だけど、薫のような若い女性に夜勤までやらせる訳にはいかないと断られてしまった。
こう見えて日比野店長は、相当なフェミニストなのだ。
実は、夜十一時までのバイトにしたって、店長はなかなか首を縦に振ってくれなかった。
愛衣ちゃんみたいな高校生ならまだしも、二十五にもなる大人の女に、そこまで気を使ってくれなくても良いですよ?
もうこの歳になったら、たとえ何かあったとしても、自己責任で良いんじゃないですか?
そんなことを言っても駄目だったので、仕方なく薫は、高校時代、剣道部だったことまで持ち出して、ひ弱じゃないことをアピールしてみた。
それなのに店長は、「水草さんって、体育会系とは対極に見えちゃうんだけど」と言って、全然、取り合ってくれない。
「あのー、私、これでも剣道二段なんですけど」
「そうは見えないなあ。痩せてるし、すぐに骨とか折れちゃいそう」
「ひっどーい。私、運動神経は良い方だと思うんだけどなあ。走るのだって得意だし……あ、店長、私と競争して私が勝ったら、夜間勤務を認めて下さいよ。天王池公園を一周とかどうです?」
「……」
薫の提案に、日比野店長は黙り込んでしまった。やっぱり体系からして、走るのは苦手なんだろう。
薫は、ここぞとばかりに「勝ち目が無いと悟ったんだったら、不戦勝を認めてくださいよ」と詰め寄った。それで店長は、渋々ながら二十三時までの勤務を認めてくれたのだが、その後も何かと薫のことを気にしてくれる。
薫に対する店長の一番の心配事は、もちろん薫の住んでいるアパートが危険な地区にあることだが、もうひとつ、夜間の勤務自体が危険だという事情もある。
このEマートがあるのは天王市内でも比較的治安が良い所だが、それでも夜間に強盗が押し入らないとは言えない、ということだ。
いや、強盗とはいかないまでも、さっきのように酔っぱらった客が来たりするというのもあるだろう。
「さっきの連中は、僕の知り合いだったから良かったんだけど、やっぱり水草さんのような可愛い子を夜中まで働かせるってのは、どうなんだろうね」
「あの、店長。そうなると店長、大島くん、原田くんのうちの誰かが、今よりも長く働くことになるんじゃないですか?」
大島くんと原田くんは共に男子大学生のバイトで、夜間の勤務を好んでやってくれている貴重な人材だ。日比野店長も、そういった男子のバイトを増やそうとしているようだが、なかなか見つからないし、採用してもすぐに辞めてしまう。店長によると、最近の治安の悪化が原因なので、対処が難しいとのことだった。
「いやいや、こないだ採用した中川君だって、頼めば……」
「いやあ、どうですかねえ、彼は……あ」
パぴパぴ……。
「いらっしゃ……あ、大島くん」
「こんばんは、遅くなりました-」
そのタイミングで、ちょうど話題に上がっていた内の一人、大島が来てくれた。それで、薫は日比野店長に一声かけて更衣室へと向かって行く。
さっさと着替えを終えて店内に戻ると、大島が薫に「お疲れ様でーす」と声を掛けてきた。
その彼が何か話したい様子だったので薫が足を止めると、彼はレジ周りの整理をサッと切り上げて、いそいそと寄って来る。
「水草さんの後って、いつもやること無くて暇になっちゃうんですよね。少しは俺にも仕事を残しておいて下さいよ」
「分かった。今度は、そうするね」
薫が早く帰りたくてそっけなく言ったのに、大島は気にもせずに先を続けた。
「でもね、俺、水草さん見ると、何となくなごむんですよ」
「えっ、どうゆうこと?」
「俺、こないだ店長から、ちらっと聞いちゃったんですよ。水草さんも大学行くのに奨学金、借りたんでしょう?」
「まあ、そうだけど」
普段なら奨学金の話はしたくない薫だが、大島の人懐っこい目の前だと多少は気を許してしまう。
ちなみに、この大島は現在、地元の大学四年生。実家は岐阜のド田舎らしく、薫と同様、奨学金に頼らないと大学には行けなかったらしい。
「実は俺、なかなか就職活動、うまく行ってなくて、このままだとプータローになっちゃいそうなんです」
「えー、まだ諦めるのは早いと思うよ」
「いやいや、もう大半の会社は内定出し終わってますから」
就職活動は、夏休み前が勝負だというのは、昔も今も変わっていないようだ。
「水草さんには、ちょっと失礼な言い方になっちゃうかもしれないけど、最近、俺、思うんです。最悪、水草さんみたいに、ここでバイトを続けても良いかなって」
大島がぼそぼそっと言った言葉に、薫はついイラっとしてしまった。早く帰って寝たいのはやまやまだけど、ここは少し話し込んだ方が良い。
「良い訳ないでしょう、そんなの」
思わず低い声が出て、大島がビクッと身体を震わせた。
「だいたい私のこの格好、見てみなよ。ぼろぼろのTシャツ、夏なのに暑っ苦しいデニムのオーバーオール」
「えっ、それって、夜道に襲われない為のカモフラージュじゃ?」
「それも少しはあるけど、ほんとはお金が無いからに決ってるでしょう」
「はあ」
「大島くんがいくら借りたか知らないけど、バイトじゃあ、まともな生活は絶対ムリだと思うよ」
「でも、俺、別に贅沢したいと思わないし」
「そんなこと言ってると、親が泣くよ」
「別に弟がいるから、あいつに家を継がせりゃいいし」
「実家は何やってんの?」
「何って、農家だけど」
薫は、「うちとおんなじかあ」と小声で呟いた。それでも、大島はしっかり聞いてたようで、「やっぱ、水草さんもですか?」と訊いてくる。
「そうよ。今時、農業で食べてくなんて厳しいと思うよ」
「あ、それはその通りだと思います。だから、俺……」
「だったら、弟さんの分まで大島くんが稼がなきゃなんないでしょうが。もっと真剣に就職先、探しなよ」
「はあ」
「で、奨学金、何処から借りたの?」
「何処って、えーと……」
「言いたくないなら、別に良いけど」
「あ、言います。軍です。軍」
薫は、ますます大島に親近感が湧いてしまった。彼の実家は遠いから、当然、一人暮らしだ。そうなると、生活費の分まで貸してくれる軍の奨学金は、本当に助かるのだ。もちろん、返す場合のことを除いてだけど。
頭を抱え込む薫に、大島が心配そうに声を掛けてきた。
「どうしました、水草さん?」
「いや、大島くんって、つくづく私とおんなじだと思ってね」
「水草さんも軍の?」
「そう。私が借りた時は、自衛隊だったけどね」
「えっ、水草さんって、そんな歳じゃ……」
「こら、歳の話はしないのっ……まあ、良いけどね」
薫は、心の中で溜め息を吐いてから、言った。
「とにかく、最後の最後まで足搔いてみなよ。今から、駄目だった時のことは考えないこと。軍に入るのは最終手段だと思いなさい。何かあったら、私が相談に乗るから。分かった?」
最後にちょっと睨み付けてやると、大島は声を震わせながら「はい。お、お願いします」と返してきた。
レジの奥でPC端末に向かっていた筈の日比野店長が、「やっぱ、水草さんは怖いなあ」と呟いたけど、無視してやる。
「じゃあ、お疲れ様でしたー」
パぴパぴ……。
薫は疲れた身体を引き摺りながら、それでも早足でコンビニを後にした。
★★★
大島と少し話し込んでしまったことで、時刻は既に夜十一時半だった。それで薫は、夜道を急いでいた。
この時間、街はひっそりと静まり返っていて、人気は全く無い。一度だけ、お屋敷街へと向かうタクシーにすれ違っただけだ。
神社の前までは、特に何も無かった。そのまま天王通りの反対側、北の方角へと進んでしばらく行くと、周囲の様子が一変する。見るからに古びた印象の家並が続き、やがて何十年も前に建てられたアパートが立ち並ぶ地区となる。
この辺りになると、道端や建物の軒下にしゃがみ込んだ男を、時々見掛けるようになる。彼らは何かをするでもなしにぼんやりと佇んでいて、めったに通らない通行人があると鋭い目線を向けてくる。どうせこんな所を夜中に歩くのは貧乏人ばかりなのだが、それでも彼らはダメ元で金を巻き上げられそうな獲物を物色しているのだろう。
おい、お前。金……てか、ガキじゃねえか。早く帰んな。
厳つい顔のオヤジが声をかけて来たかと思うと、薫が男の子に見えたのか、早く行けと手で示す。薫はペコリと頭を下げて小走りで通り過ぎた。
そんなことが何回かあって、天王シネマという古い映画館の前に差し掛かった時だった。映画館の入口辺りにしゃがんでコップ酒を飲んでいた若い男三人が、一斉に立ち上がった。
「やっぱ、女じゃねえか?」
「いやいや、男だろ」
「脱がせてみりゃ、分かるんじゃね?」
どうやら、薫が男か女かで揉めていたようだ。
薫は、咄嗟に駆け出した。彼らは道を塞ごうとするが、薫は一瞬で脇を通り過ぎる。そのまま全力で走ってから、さっと左手のアパートの陰に入った。そして、そのアパートの外階段を静かに上がって行った。
★★★
外階段を上がって一番手前のドアの前で立ち止まった薫は、ポケットから昔ながらの鍵を取り出して鍵穴に差し込む。カチッと小さな音がして、ドアが開いた。
中は暗い。妹の楓も既に寝ているようだ。
キッチンの灯りを点けた薫は、服を次々と脱いでいく。熱めのシャワーをさっと浴びて、楓が揃えておいてくれたバスタオルで身体を拭く。
冷房が点いていないので、室内は暑い。窓を網戸にしてあるのに、じめっとした熱気がこの時間でも無くならない。
Tシャツと下着一枚だけの姿で小さな食卓の椅子に腰を下ろした薫は、コンビニから持ち帰った破棄品のおにぎりをゆっくりと頬張った。
それを食べ終わって歯を磨いた所で、ドアが開いて母の佳代が入って来た。
「おや、まだ寝て無かったのかい」
「うん。今日はちょっと遅くなってね。今、寝るとこ」
佳代は、それ以上は言わずに寝室に向かって行ってしまう。パジャマに着替えて戻って来た佳代は、疲れ切った顔をしていた。
お母さん、老けたな。
薫は、心の中で呟いた。
昨年末、薫がこっちに戻って来た時にも思ったことだが、母の佳代は、ここ数年で別人のように老けてしまった。それは、それだけ彼女を苦しめることが続けざまに起きたからだ。
特に、ここ一年半の間に彼女を襲った出来事は、彼女の全てを奪ってしまったと言っても過言ではない程に過酷なものだった。
――せめて、あと少し早くこっちに戻っていれば……。
そのことを薫は、こないだから数えきれないくらい、繰り返し悔やみ続けてきた。
でも、何度それを思った所で、過去はもう変えられない。変えられるのは、これからのことだけでしかない。
妹の楓についてもそうだが、佳代についても薫は今まで何度も繰り返し様々な提案をしてきた。だけど、佳代に受け入れられたことは、ほとんど無い。特に、佳代自身に関することは皆無だ。
佳代は、父の武以上に頑固な女なのだ。
例えば、佳代の通勤についてだ。佳代は、勤め先のスーパーから三十分以上掛けて歩いて帰っている。薫は「自転車を使ったら」と何度も言ったのだが、佳代は首を縦に振らない。
うちには自転車が一台しかなくて、それは楓のだ。自転車くらい安いのにと薫は思うのだが、もったいないと佳代は言う。
「疲れて自転車に乗るのは危険かもしれない」という思いもあって、それ以上は薫も勧めてはいなかったのだが、佳代の通勤問題については、今でも何とかしてやりたいと薫は思っている。
「薫、まだ寝ないのかい」
「あ、ごめん。寝るよ」
今は、二間ある六畳間のひとつを受験生の楓が使い、もうひとつに佳代と薫の二人が布団を並べて寝ている。
その部屋に薫が入ると、佳代は既に寝入ってしまっていた。佳代は昔から寝付の良い人で、しかも一度寝たら梃子でも起きない。
薫は、隣の布団にゆっくりと身を横たえる。最近はTシャツとショーツだけの状態で、お腹の上にタオルケットを掛けて寝るのが習慣になりつつある。
目を閉じてから、ぼんやりと今日あったことを振り返る。
最初に頭に浮かんだのは、八木颯太のことだ。愛衣をアパートまで送って行くことになったのが、まさか颯太だとは思わなかった。
颯太に愛衣を送って行くように頼んだのは楓だということだけど、自分のことが好きな男の子に別の女の子を送って行くように頼むのって、どうなんだろう。
そこんとこ、楓に問い詰めなきゃ駄目だ。
それと、もうひとつ気になることがある。愛衣を送って行った後の颯太は独りだ。あの子を夜中、こんな危険な所で一人にしてしまって良いんだろうか?
八木のおじさんとおばさんは知ってるんだろうか?
薫は、次に颯太に会った時、そのことも話し合わなきゃと思った。
それにしても、いつも瑛太の後ろに隠れてばっかりで、ちょっとしたことですぐにピーピー泣く、あの颯太がねえ。
颯太が居酒屋でバイトを始めたと聞いた時も驚きだった。
そのことを教えてくれたのは、妹の楓だ。その時、楓は自分も同じ所で働きたいと言ったのだ。
「そんなの、駄目に決まってるじゃないっ!」
薫は思わず、そう叫んでしまったのだが、その後を引き取って楓を叱り始めたのは佳代だった。薫も楓も最近は、めったに叱られなくなったのだが、その時の佳代は本気で怒鳴った。
「うちはね、娘をそんな所で働かせる程、まだ落ちぶれちゃいないよ」
佳代のそんな言葉に、つい薫は『そこまで落ちぶれちゃったと思うんだけど』とツッコミたくなったのだが、もちろん黙っておいた。
薫も東京では水商売どころか、バニーガールの格好をするバイトまでしたことがあるだなんて、絶対に口が裂けても言うことはできない。
佳代と薫が揃って徹底した駄目出しをしたというのに、それでも楓は抵抗した。
「どうして駄目なの? うちにはお金が必要なんじゃないの?」
「それとこれとは話が別でしょう」
「楓は、勉強することが仕事なんだよ」
「そりゃ、勉強はするけど、バイトするくらいの時間はあるよ。颯太が良くて、何で私が駄目なのよっ!」
目に涙を滲ませて叫ぶ楓だったけど、頑固さでは佳代だって筋金入りだ。そのことを楓も知ってるわけで、最後は楓が折れることになった。
そう言えば、愛衣の母親も颯太と同じ居酒屋「大衆酒場」で働いているって言ってたっけ。
颯太は、愛衣の母親が同じ所で働いてることを知ってるんだろうか?
薫は、それも颯太に訊いてみようと思った。
今日はお客さんが少なかったこともあって、牧野愛衣とたくさん話すことができた。
愛衣は、とても頑張っている。あの子は、今の困窮した生活、そして、この荒廃した地区のアパートから抜け出す為に、必死で頑張ってるんだと思う。
その為に必要なことは、大学に受かること。それも彼女の希望を叶えてくれる難関大学に合格する必要がある。
そして、それは妹の楓にも言えることだ。
薫は、楓に何としてでも今の生活から脱却して欲しかった。それも、薫のように軍から奨学金を借りるとかではなく、もっと別のやり方で這い上がり、上級国民になることを目指して欲しい。
幸いなことに楓は、薫以上に頭が良い。それに楓には、夢を実現する為の我慢強さが備わっていると薫は思っている。
薫が子供の頃の水草家は、まだまだ裕福だった。少なくとも表面上だけは、中州の豪農であり、伝統ある名家としての体裁を保っていた。
でも、薫より八歳年下の楓の場合、物心付いた時から水草家は借金まみれになっていて、贅沢なんてできる筈もない状態だった。やがて、広大だった屋敷と田畑を手放さなければならなくなり、貧民街の古いアパートに移り住むことになる。それと同時に大黒柱の父が倒れ、父を亡くした悲しみに浸る暇も無く今度は借金取りに脅かされることになってしまう。
まさに不幸を絵に描いたような少女、それが薫の妹、楓だった。
つまり、楓は薫とは違って、子供の頃から我慢を強いられる毎日を過ごしており、貧困は身近なものになっていた。
それでも楓にだって、名家の末裔としてのプライドくらいはあるだろう。そうであるなら、願わくは楓に、今の状態から何とかして抜け出そうとする意欲と向上心を保ち続けていて欲しい。
恐らく楓には、その為の力が充分にある。
あとは、チャンスと運だろうか……。
そんな楓や愛衣と比べた時、薫には自分がどうにも情けない存在に思えてならない。
――なんで、こんなことになってしまったんだろう?
それもまた薫が東京を離れて以来、数えきれない程に繰り返した問い掛けだった。
しかし、薫には未だにその答えを見付けられずにいる。
そんな薫の頭に蘇ってくる記憶があった。
それは昨年のクリスマスイブ、薫が東京から帰ろうと決心するきっかけとなったバイトでの屈辱的な出来事だった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
もし宜しければ、感想、ブックマーク、いいね、評価をして頂けましたら大変嬉しいです。宜しくお願いします。
ツイッター:https://mobile.twitter.com/taramiro0




