祝ってやる
38.
――ふわり、桜が散る。
え?
え、え、え?
あれ? わたし、なんで抱き締められてるの?
背に回された力強い腕。呼吸をも埋めるような密度。わたしより少し高い体温。頬に当たる毛先。汗と、シャンプーと、お香の匂い。先輩の匂い。条件反射で、胸がいっぱいになる。代わりに、頭は真っ白だ。いや真ピンク?
先輩の意図を理解できないまま、わたしは笑顔の石像と化した。
「瑠衣……瑠衣、瑠衣」
耳元で、うわごとのような吐息が囁く。
「なんでお前は……お前って奴は……そうなんだ」
初めて聞く。先輩の熱っぽい声音。
浅い溜息が首筋を掠めて、背筋をゾクッと撫で上げる。
「なんでだよ。なんで俺がいちばん欲しかった言葉がわかるんだよ。そんなサラッと言えちまうんだよ。バカか? バカなのか? なんでだよ?」
つらつら吐き出される言葉は、いつになく感傷的な響きを含んで、わたしの鼓膜を湿らせた。苛立ちか、悲しみか、それ以外か。判断が付かない。或いは、初めて触れる感情なのかもしれなかった。
「なんでそうなるんだよ。眠り蛇の件だって、俺のせいだろうが。あんな怖い目に遭わせたってのに。下手すりゃ死んでたんだぜ。懲りねぇのか。恨まねぇのか」
いやいやいや。
こっちの台詞だ。なんでそうなる。予告編ナシのハグハグだぞ。欧米か。
なんか変なスイッチ入っちゃった?
っていうか、先輩の身体……こんなに熱…………、
ようやく思考が状況に追い付いて、ぼふんと顔から湯気が出た。
「ちょ、ちょっと先輩! どうしたの?」
思いっきり声が裏返ったが、それどころじゃない。
密着してる。急接近どころか、ほぼ一体化だ。どうなってんのこれ。抱き締められてる? これ夢? 鼓動が弾んでる。血液が大暴れする。どっちの? 先輩? それともわたし? ていうか、窒息しそうなんですけど!
あぁ頭クラクラしてきた。
死ぬ!
「待って待って、ちょっと、放して!」
「嫌だ。放さない」
「どうしたの? ねぇ、先輩、変だよ? 冷静になろう?」
「うるせーバカ。このバカ。バカやろう」
「ちょっと、あんまりバカバカ言わないでくれる!? 気にしてるんだけど!」
「だってバカだろ。俺の幸せなんか祈ってどうするんだよ、バカ」
「しつこい! バカって言う方がバカです!」
「あぁバカだ。俺もバカだ。大馬鹿だよ! こんなバカ女に惚れちまって!」
…………。
え?
先輩。今。
今、なんて言ったの?
「そうだよ! 好きなんだ! 俺は! お前が! 好きなんだよォ!」
絶叫に近い答えが、桜吹雪と共に、全身を吹き抜けていった。
好きなんだ。その一言が、遠い花火のように、じわり鼓膜を震わせる。頭の中に木霊する残響は、断じて聞き間違いなんかじゃない。先輩を振り解こうと藻掻いていた手から、脚から、ヘナヘナと力が抜けてゆく。
「…………なん、で……」
脊髄反射。
自動的に吐き出された言葉は、あまりにも慣れ親しんだ自虐だった。
「なんで、わたし……なんか」
だって、信じられない。
先輩は学校一のイケメンだ。成績だって悪くない。スポーツ万能。喧嘩も強い。ちょっと意地悪だけど、根は優しくて。実際モテモテだ。わたしなんかとは、釣り合うわけない。不相応もいいとこ。誰が見たって嗤うだろう。なんの冗談よ。
選ぶはず……ないじゃない。
よりによって、わたしなんか。
「わ、わたし……なんかの……どこ、が、いい、の?」
「知らねぇよ。ドジだしバカだし優柔不断でお人好しで。すぐ泣くし。くだらねーことで悩んでばっかりで。そのくせ芯が強いから折れねーし。土壇場じゃ変に度胸据わってるし。頑張り屋でさ。一生懸命でさ。意味わかんねーんだよ、お前」
喘ぐように息を継ぎ、先輩は、抱き締める腕に力を込めた。
「けど、そういうとこ、好きなんだよ。可愛くて仕方ねーんだよ」
選ぶはず……ないのに。
どうして、そんなこと言うの?
せっかく覚悟を決めたのに。こっちが全力で自己否定してるのに。
期待して叶わなかったら、落胆するでしょ。ダサいでしょ。傷付くでしょ?
そんなの怖いじゃない。嫌だよ。
なら、最初から期待なんかしない方がいいでしょ?
わたしなんかが、期待したら駄目でしょ?
ねぇ、それなのに。
「だって……わたし……フラれたんじゃないの? あのとき屋上で……」
「違ぇよ! 俺は後ろから監視されるみてーなのは嫌だって言っただけだ」
如何にも心外だといったふうで頭を振り、先輩は、わたしの両肩を掴んだ。
ぐい、と情緒もなく押されて、わたし達は向かい合う。
――あぁ。
「俺は、隣がいいんだ。手ェ繋いで、同じ景色を見て、一緒に歩きてーんだよ」
どうして、そんな顔してるの。
そんなに眼を潤ませて。凜々しい眉を寄せて。叱られた子供みたいに。唇を結んで。耳まで真っ赤にして。何処までも真摯で誠実で、そのくせ今にも泣き出しそうな顔。初めて見る。先輩の、こんな表情は。
「わたし……なんかと……?」
「お前だからだ!」
優しい茶色の瞳に、ちっぽけな女子高生が映っている。
分厚い眼鏡。いつも同じ三つ編み。地味な顔立ち。色気もなにもない。
なんの取り柄もない、わたし。
叶瑠衣を。先輩、あなたは。
こんなにも、まっすぐ。
みつめてくれる……、
くれて、いたとしたら。
見開いた眼から、ぽろりと涙が零れた。
「ほんと、に……わたしで、いいの?」
「お前がいい。つか、お前じゃなきゃ意味がねーんだ」
「ど、うして?」
「惚れちまったんだ! 他に理由がいるか?」
「わたしバカだよ? ドジだよ?」
「知ってる」
「すぐ泣くし……私服ダサいし……胸小さいし……」
「知ってる」
「変なのいっぱい寄せるし!」
「知ってる! 俺が守る!」
ねぇ先輩。
本当?
……ねぇ。
わたし、自惚れていいの?
「瑠衣」
優しく名前を呼ばれて、頭の奥が、じんと痺れた。
風が吹く。桜が散る。
わたしより頭一つ高い上背を屈めて、潤んだ瞳が覗き込む。
いいか、とは訊かなかった。
そう。いつだって強引なんだ。この人ってば。
わたしも、作法なんて知らない。
でも、こういうときは、眼を閉じるもの、でしょう?
――重なった唇は、信じられないほど甘かった。
音が消えた。色も消えた。ただ熱が、爆発しそうな鼓動が、今この瞬間を身体の隅々まで運んでゆく。脳味噌を蕩かす幸福感は、途方もないピンク色。息継ぎさえ許さない峻烈さで、時間を止める。
天にも昇る気持ち、とは言うけれど。
あぁ、カンペキに致死量だ。
このままブッ倒れて昇天したって、おかしくない。
それなのに、頬を伝う涙は、どうしてこんなにも穏やかなんだろう。
ちゅ、と微かな音が立つ。
ピンク色の溜息を残して、わたし達の唇は、ゆっくり離れた。
「…………甘い」
夢心地で呟けば、先輩は悪戯っぽく微笑んで、ポケットに手を突っ込んだ。
出てきたのは、なにか小さい金属の、箱っぽいもの。
「ファーストキスが蓬莱丹じゃあな。あんまりだろ?」
受け売りだけど。
付け足して、軽く振ってみせる缶には、見覚えがあった。
「あ、それコンビニで売ってる……」
「らしいな。まぁまぁ美味いじゃん。俺のトリュフのが美味いけど」
チョコレート!
やられた。仕込みだ。わたしと喋る前に食べたんだ。どおりで甘いはずだ。先輩らしからぬロマンチックな演出に、今更ながら恥ずかしくなって、わたしは口元を押さえた。おそらく黒幕は奴である。あの小悪魔め。
「……今度、作ってよ」
「あぁ。嫌ってほど食わせてやるぜ。なんなら一生不自由させねー」
照れ隠しのつもりが、更なる殺し文句で迎撃されて、最早ぐうの音も出ない。
わたしにできることといったら、先輩の胸に顔を埋めて、せいぜい悶絶することぐらいだった。
「その代わり、だ」
不意にポン、と頭に手が乗せられる。
上目遣いに見遣ると、頬を赤らめた先輩が、ちらり視線を逸らせた。
「う、浮気すんなよ?」
「え?」
「…………」
しばしの沈黙に、わざとらしく咳払いを一つ。
斜め上の空を注視したまま、先輩の口が、モゴモゴと動いた。
「兄貴も華音もイケメンだけど……目移りすんな。お前、もう俺の彼女だから」
か……彼女……。
彼女かぁ。
やだ、どうしよう。夢にまで見た単語のはずが、改めて実装されると、どうにも実感が湧かない。余所行きの服を着てるみたいにソワソワする。でも不快ってわけじゃないし。むしろいい気持ちだ。酔っ払うって、こんな感じかしら。
ううん、なんて返すのが普通なのかな。
わかんないよ、初めてなんだし。
まごまごしていたら、念を押すように、先輩の指先が腰を突いた。
「あ、えっと……その」
よろしく。
考えた挙げ句、口を突いたのは、なんともトンチンカンな返答だったとさ。
――パン、パパパパン!
突然、背後で破裂音が上がった。
吃驚して振り返った前髪に、ひらり。
薄いピンク色が貼り付いて視界を奪う。
払う間もなく、青が。黄色が。白が。鮮やかな色彩が、目の前に満ちてゆく。
そうしてトドメに飛んできたのは、野郎三人の、ハイテンションな声。
「イエーイ! おめでとさんっ!」
「おめでとう、ご両人」
「おめでとう!」
安っぽい紙吹雪の向こう、残りの仇志乃兄弟達が立っていた。
紫音さんの手には、愛用の煙管。華音さんと流音君の手には、未だ煙の尾を引くクラッカーがある。わたしは呆然と立ち竦んだまま、瞬きもできない。ただ三人の眩しい笑顔が、懐かしい記念写真みたいに、強く瞼に焼き付いた。
「良かったね、瑠衣ちゃん!」
真っ先に駆け寄ってきて、わたしの肩を叩いたのは、華音さん。
「天晴れ、世音。これで仇志乃家も安泰だ」
羽織の袖に両腕を収め、うんうんと頷く紫音さん。
「おアツイね~! この、このっ」
エア肘鉄でピーピー口笛を吹く流音君。
あっという間に取り囲まれて、スリーウェイの祝辞弾幕である。なんせ不意打ちだった。わたしでなくとも、誰だって同じ反応をしただろう。即ち、ポカンと口を開けてマヌケ面で絶句である。ちょっと耳がキンキンする。
やや遅れて、ようやく火薬の匂いが漂ってきた。
「マジ二人っきりの世界なんだもんね~? 全然気付いてなかったの?」
ほくそ笑む流音君に、わたしと先輩は、顔を見合わせる。
あっ。二人して呟いて、仲良く頬が紅潮した。
……もしかして、最初っから。
一部始終、見られてたの!?
ちょい待ち、だとしても、なんでクラッカーなんて持ってるわけよ? 確かに、此処へ来る途中でホームセンターにも寄ったけど。華音さんが会計担当したけど。そのときに買ってた? お菓子だけじゃなくて?
ということは、この告白劇。
みんなのお膳立てでセッティングされたってこと……?
「余計なお世話だっつーの……」
斜め上を見ながら、先輩が舌打ちした。
「そんなん言ってもね~? 顔に書いてあるもん、超ハッピーですって!」
「うるせー文句あっか」
「今度、本格的にお祝いしようね。俺、お店予約するよ」
「んじゃ、もう一発! 祝砲いっとく? はい、紫音兄さん」
「これは紐を引けば良いのだね?」
「熱っ! ちょ、こっち向けないで危ないから!」
「うふふ、めでたいのだよ」
「慶事があると弟を撃つの兄さんは!?」
「それより、お式の料理は和、洋、インドのどれにしようね」
「気が早……ってか、なんでインド出てくんの!?」
「おや不服かね。では和印折衷ということで、カレーうどんに」
「来賓の礼服という礼服を皆殺しにする刑!?」
「あ、僕フランス料理がいい!」
「仏前式だけにな」
「そうそう、あれ数珠交換するんだよね~ウケる!」
うわあぁああああん。
突拍子もなく響き渡った慟哭に、賑やかな祝賀ムードが一転、静まり返った。
みんなの視線が集中した先は、わたし。
――わたしが、泣いていた。
「お、おいどうした!? 瑠衣!?」
「カレーうどんは苦手かね?」
「え、え、僕知らないよっ、僕のせいじゃないし!」
「ごごごごめん瑠衣ちゃん! ごめんよ! 嫌だった?」
だからなんであんた達は一斉に喋るのよ。
心中密かにツッコみながら、わたしは、駄々を捏ねるように頭を振る。
「うううぅ、ちが……ちがうぅうう」
熱い塊が喉を迫り上がる。両眼で滝になって溢れ出してくる。
自分でも、いつ涙腺が決壊したのか、わからなかった。
気が付いたら、わんわん泣きじゃくっていた。
「う、うれしい、の」
わたし達、祝福されてるんだ。
「わた、し、幸せで……幸せすぎて……みんな優しくて……嬉しいの」
わたし、これからも先輩と一緒にいられるんだ。
ずっとこのまま、好きでいいんだ。
みんな、そう思ってくれてるんだ。
理解した途端、熱い塊が喉を迫り上がった。
そこからは、もう止まらない。堰を切った感情は滝になって、後から後から両眼を溢れ、頬を伝い、しとどに襟を濡らす。なんて素敵な兄弟達なんだろう。なんて素敵な一日なんだろう。なんて優しいんだろう。この世界は。
他の誰でもないわたしが、今、此処にいる。
その事実が、途方もなく嬉しかった。
驚き。心地良さ。激しさ。嬉しさ。切なさ。込み上げる感情は複雑に絡み合い、身体中ぎゅうぎゅうに詰まって、呼吸を圧迫する。解放を求めて暴れる。その衝動の名は、なんなのか。若すぎるわたしには、掴めないけれど。
すべてはたったひとつの言葉に収斂されて、出口に光を灯すのだ。
今なら心の底から言える。負け惜しみなんかじゃなく。
わたしを此処へ導いてくれた、すべての不運へ。
幸運へ。
「ありがとぉおお」
わけもわからず叫んだら、腹の底から、なにかドロドロした塊が流れ出た。
――音を聞いた。
弱虫の殻が割れる音を。怖がりの足枷が千切れる音を。自己嫌悪という名の呪詛が解ける音を。わたしを縛っていた卑屈な自意識、自分自身を蝕んでいた悪意が。粉々に砕けて散る。春霞に、とろり溶けてゆく。
そんな歪なアイデンティティは、もう必要ないんだ。
だってわたしの前には、新しい道がある。
それも、大好きな人が一緒に歩いてくれるっていうんだから。
最強無敵だ。なんにも怖くない。
わたし、ドジだしトロいし、鈍臭いし。きっと、めちゃくちゃ転ぶだろうな。
でも絶対、負けないから。何度だって立ち上がって歩くから。
先輩の歩幅、せっかちだけど。頑張って付いていくよ。同じ景色、わたしも見たいの。本当は欲張りなの。背中だけじゃ足りない。全方向からみつめたい。もっともっと至近距離で。傍に、いたいの。
「……わかってるって」
そっと、いたわるような温もりが肩を抱く。
この上なく優しい苦笑で、先輩の指が、涙を拭った。
「やれやれ」
いささか呆れた口調で、紫音さんが肩を竦めた。
彼らしい、悠然とした愛情の滲む嘆息に、状況を察してくれたんだろう。涙目でオロオロしていた華音さんも、叱責の予感にビビりまくっていた流音君も、ホッと表情を和ませた。さすが長男だ。話をまとめるのは、この人に限る。
「これにて一件落……うん?」
みんなの注目を集めた、そのときだ。
紫音さんの懐で、空気を読まない着信音が鳴いた。
「はい、仇志乃……あぁ山田さん。いつもお世話になっております。はい、住職の紫音です。はい。はい。ええ…………ん? 本当ですか?」
せっかくのシメに水を差された格好である。応対する紫音さんの声は、いささか不機嫌なものだった。
しかし数秒もすると、それは緊張感に取って代わり、膨れっ面は思案顔を経て、諦めの境地に達し、最終的にはプロの相貌となって、なにか短く二言三言の確認を済ませて、今度は別の種類の嘆息に行き着いた。
「やれやれ……どうにも間の悪いことだよ」
紫音さんが、ガラケーを畳む。
「どうしたの?」
「四丁目の山田さんが悪霊に取り憑かれたらしい」
「このタイミング!?」
「うわぁ、仇志乃あるある」
空気読まないどころじゃねぇ!
わたし、どんだけロマンチックの神様に恨まれてんの!?
「こんなときに……ごめんね、ほんとごめんよ瑠衣ちゃん」
「今から慣れとけば? うちの嫁になったらこんなんじゃ済まないよ~」
「先に行っておくれ、世音。私達は此処を片付けてから向かう」
「わかった」
素早く仕事を分担して、仇志乃兄弟達が動き始める。
えっと、わたし、どうしよう。片付け手伝った方がいいのかな?
考えているうちに、もう先輩は愛車のゼファ目指して駆け出していた。
すっかり仕事モードの背中が、ふと立ち止まって振り返る。
「行くぜ、瑠衣」
スローモーションで吹く風が、肩越しに先輩の毛先を揺らす。
目の前は、怖いくらいのピンク色。うっとりと瞬けば、濡れた睫に乱反射して、桜吹雪がキラキラ輝く。午後の陽射しを浴びて微笑む先輩は、初めて出逢ったあの日と同じ。青い空の彼方へ消えてしまいそう。
でも違う。
差し伸べられた、その手を。
わたし……今度こそ、しっかり握ってみせる。
そう。
今、わたしのすべきことは――
「――うん!」
頷いて、地を蹴った。
呪術師とチョコレート。/ 了




