終わりながらも続く道程
「てやー!」
「ぐぇっふ!?」
微睡みの中を漂っていた俺の意識は、強制的に現世に引き戻された。
重い瞼をこじ開け、加えられた衝撃の元を確認する。
「おはよ、ぱぱ!」
「……おはよう」
瑞穂が、俺の腹の上に圧し掛かっていた。
にへへと笑う瑞穂を避けながら、むくりと身体を起こす。
手探りでスマートフォンを探し、画面を見ると朝の8時。
今日も――朝が来たようだ。
「おはよ。パパ、悪いけど瑞穂の登園の準備お願いできる?」
「ふぁいよー……」
玄関に置かれたリュックに、いつものように詰め込んでいく。
手拭きタオル。
おしぼり。
歯磨きセット。
最近お気に入りの箸。
ひとつひとつ確認しながら入れていく手つきは、もうすっかり慣れたものだった。
考えなくても、順番に身体が動く。
以前は、何を入れたかを一つずつ思い返していた気がする。
足りないものがないか、何度も確認していた気もする。
今はもう、そんな事を意識する事もなくなっていた。
一通り入れたのを確認して、リビングへと入っていく。
「来月から、瑞穂のクラス1階に変わるんだって」
「年中になるから?」
「そ。階段上らなくなって、パパのお腹大丈夫かな」
「うるせい」
そんな話をしながら朝食を摂る。
湯気の立つ味噌汁と、焼いた魚の匂い。
テレビから流れる朝のニュース。
どれも特別なものじゃないはずなのに、妙に落ち着く。
それが済むと、今度は出掛ける準備だ。
大分暖かくなってきたけれど、まだ夕方は肌寒い。
「ぱぱみてー! みーちゃん、じぶんでくつしたはけるんだよ!」
「凄いなー。コートも着られるかな?」
「うん!」
瑞穂はするすると着込んでいく。
少し前までは手伝っていたはずなのに、いつの間にか一人でできるようになっていた。
途中で袖が裏返っても、自分で直している。
手慣れたものだ。
「ぱぱはやくー! ほいくえんいくよー!」
「はいはい」
瑞穂に急かされて、玄関へ急ぐ。
靴を履き、外へと躍り出た。
朝の空気はまだ少し冷たくて、けれどどこか軽い。
季節が一つ進んだのを、肌で感じる。
「きょうね、しーちゃんとおいしゃさんごっこするんだよ」
「そうなんだ。じゃあ怪我とか一杯治してあげないとね」
「ぱぱきょうさ、かえったらにらめっこしよ?」
「おー、いいぞ。瑞穂、目潰らずにできるかなー?」
「できるー!」
他愛のない会話をしながら歩く。
数分もかからず、保育園の門が見えてきた。
あぁ、やっぱり近いは正義だ。
門をくぐると、見慣れた風景が広がる。
園庭では既に何人かの子ども達が走り回っていて、その中に瑞穂も自然と溶け込んでいく。
「おはようございますー! みーちゃんもおはよう」
「せんせー、おはよー!」
靴を脱ぎ散らかしながら、瑞穂はそのまま部屋へと駆け込んでいった。
振り返りもせず、迷いもなく。
その背中を、ほんの一瞬だけ目で追う。
すぐに視界から消えて、いつもの音に紛れていった。
「今日も問題なさそうですね」
「あぁ、そうですね」
軽く言葉を交わして、それ以上は何もない。
特別な確認も、念入りな引き継ぎも、今はもう必要なくなっていた。
それが当たり前のように成立している。
「じゃ、後お願いね」
「はいよ」
帰宅した俺に、美里が告げる。
そうして彼女もまた、仕事へと向かっていった。
ドアが閉まる音がして、家の中から一気に気配が引いた。
ついさっきまで確かにあった声や足音が、嘘みたいに消えている。
それでも、完全に静かになった訳じゃない。
どこかに、まだ残っている気がした。
リビングを横切る時、さっきまで座っていた椅子が目に入る。
湯飲みの中には、少しだけお茶が残っている。
ほんの数分前までの時間が、そのまま置き去りにされているみたいだった。
仕事部屋の椅子に腰かけると、ようやく身体の動きが止まる。
モニタをつけ、今日は何があったっけと画面を眺めていて。
ふと、デスクトップの片隅にあるファイルが目に留まった。
――保育園決定と見直しの経緯。
デスクトップの隅に、ずっと置いたままになっていたファイル。
他のアイコンに押されて、少しだけ端に寄っている。
あれからもう、1年が経っていた。
瑞穂は希望していた保育園に入園し、最初は戸惑いもあったものの、すぐに慣れて友達とも仲良くなっている。
俺や美里も前までの負担はかなり減り、その日常も今や当たり前のものになっていた。
カーソルを合わせると、更新日時が表示される。
1年前の日付のまま、そこだけ時間が止まっているようだった。
開こうと思えば、すぐに開ける。
内容は、覚えている。
どこに何を書いたかも、大体は思い出せる。
それでも――クリックはしなかった。
ほんの一瞬、指が止まる。
開こうと思えば、開ける。
中身を確認する理由も、まだ残っている気がした。
けれど。
その理由が、今の自分にとって何なのかは、もうよく分からなかった。
マウスを少しだけ動かして、ファイルを掴む。
ゆっくりとゴミ箱の上へと持っていく。
躊躇いがなかったと言えば、嘘になる。
けれど、それ以上でもなかった。
手を離すと、軽い音もなく、ファイルは消えた。
一瞬、画面のどこを見ていたのか分からなくなる。
さっきまでそこにあったはずのものが、跡形もなく消えている。
それを確認するように、何もない場所にもう一度だけ視線を置いた。
1年前、意気込んで作ったそのレポートは――一度たりとも使う事はなかった。
「さて、と」
画面から目を離して、軽く伸びをする。
今日は金曜日。明日は週末だ。
先週は動物園に行ったけど、今週はどこに行きたいって言うだろうか。
最近は、動物よりも乗り物の方が好きらしい。
この前も、ずっと電車を見ていた。
また行きたいって言うのか、
それとも全然違う事を言い出すのか。
少し考えて、ふと笑う。
どちらにせよ、きっとまた振り回される事になるんだろう。
たまには少し、遠出してみるのもいいかもしれない。
そう考えながら、再びモニタへと向き直る。
手をキーボードの上に置いたまま、ほんの一瞬だけ動かずにいた。
何を考えているのか、自分でも分からない。
さっきまでそこにあったファイルは、もうどこにもない。
けれど、それで何かが変わった訳でもなかった。
終わったのかどうかを、考える事もなくなっていた。
そう思う事自体も、少しずつ減ってきている気がした。
それでも、何も困らない。
「――お仕事、始めますか」
俺は今日も、モニタ画面とのにらめっこに精を出す事にした。
今日も、いつも通り一日が終わっていく。
明日も、また同じように始まる。
――それはまるで、終わりながら続く物語のように。




