四 結(1) (9/7追加)
兄と行く食事の話。
普段誰と行くのか知らないが、また誰に教えてもらうのかも知らないが、兄は小洒落た店をよく知っている。
それらは雰囲気だけではなくて食事も優れており、――別に私を気遣っているわけではないだろうが――アルコールのあまり好きではない私の口にも良く合う料理ばかりで、だから図書館を出て兄が「行きたい店ができた」と言うから、すわどれほど美味しい夕餉が待っているのだろうと期待していた。
……と、いうのに。
「なんでサイゼなんですかっ」
「安いワインが腹一杯飲みたかったんだ」
向かいの席で、生ハムを咀嚼しながら兄が言う。
兄の案内でたどり着いたのは、全国各所津々浦々、どこにでもあるファミリーレストランの喫煙席だった。別にファミレスの食事が嫌で仕方ないとかそういうわけではないが、これだけいろいろな場所に付き合わせておいてたどり着く場所が一般的なファミリーレストランというのは、どうにも納得のし難い部分がある。労力との釣り合いというか、そんなものが。
ワイングラスを弄ぶ兄を眺めながら、私はジンジャエールを啜る。
「お預け食らった分、高級なお料理食べさせてもらえると思ったのに」
「大衆食堂とミシュラン認定店の違いもわからん貧乏舌が何を言う。元はといえばお前が無駄な噂話なんか俺に言うからこんな時間になったんだろうが」
「私のせいですか。私のせいなんですか」
「お前のせいだ」
と悪びれず答えるから、私が更に言い募ろうとしたそのとき、
「失礼致します」
店員がやってきた。
そして私の目の前に目の前に置かれたものは一枚の皿。白いそれにはティラミスが乗っていた――けれど私はドリンクバー以外、まだ何も頼んでいない。驚いて兄を見ると、兄はにやりと笑った。
「お前ティラミス好きだったろ。好きなだけ食っていいぞ」
と言う。
つまりは初っ端に、ワインと一緒に注文していたということだろう。どうやらこれは、兄なりの、私の懐柔策のようだった。目の前に置かれた皿はひんやりとしていて、エスプレッソの染み込んだスポンジと、とろりとした美味しそうなチーズクリームとカスタードソース。振られたココアパウダーの彩りもまた素敵で、
――危なく抱き込まれかけている自分に、はっと気づく。
「そんなんじゃ騙されませんっ」
そっぽを向いて、一秒。
二秒。
三秒。
「いただきます」
「我慢短けェー」
フォークを手にした私に向けて、呆れたように兄は言った。
「犬でも十秒は待てるぞ」
「損得勘定ができるのが人と犬の違いです。待ったところで利益は出ません。ああ美味しい。営業してくれてありがとうサイゼ様。一生着いて行きますサイゼ様」
「様とまで」
もうこいつとの飯は未来永劫ファミレスでいいんじゃなかろうか、という兄の呟きは聞こえないふりをする。
「ていうかお兄さん、お酒飲みたいなら私じゃなくて別の人誘ってくださいよ。会社の人とか誘えばよかったじゃないですか」
一口目を咀嚼し、またティラミスを突き崩しながら私は言った。
私は酒が飲めない。旨いとも思わない。飲んだことがないとは言わないが、ソフトドリンクの方が安いし旨いし、得である。兄が私に飲酒を強要することはまずないから私としては気安いが、酒を飲む人間にとって相手がそれでは、あまり面白い空間とは言えないのではなかろうか。
兄はグラスのワインを飲み干すと、手酌で注ぎながら、
「同期と行くと仕事の愚痴になるから嫌だ」
「そんなもんですか」
「月に五十時間以上サビ残させられてみろ……」
酒が入っているからか、珍しく気弱そうなそれである。
兄の仕事の話を聞いたところで社会に出るのがひどく恐ろしくなるだけなので、私は話題を変えることにした。そもそも今の私が聞きたいことは、兄の仕事の愚痴ではない。私が知りたいのは、そう。
「そんなことよりお兄さん、さっきのこと、わかったって」
「それ以上安くできねェって言ってんのに客はわめくし、そもそもうちの会社は労基法上の年休の消化方法が……ん?」
何か専門的なことを言い始めて死んだ魚のようになりかけていた兄の瞳に、私の言葉で焦点が戻る。あれか、と呟いてまた半分くらい一気にワインを飲んだ。「ありゃたいしたことじゃない」
「たいしたことじゃなくても私にはわからないんです。教えてください」
そう言い募ると、
「考える力は若いうちに使わないと、すぐ駄目になるぞ」喉を鳴らしてまた酒をあおり、「まあ、いい」右手の甲で口を拭うと、息をついた。
「解説してやろう。ただし――」
「ただし?」
復唱する。
兄は右腕を伸ばし、立てかけたメニューを手に取った。
「追加で食い物頼んでからだ」
【「兄の話・結(2)」に続く】