三 転(8/31追加)
調べてみると図書館の閉館時間は午後八時で、急いだ私たちはなんとか閉館時間十分前に到着することができた。
自動ドアをくぐると心地よい冷風が吹いてくる。兄の速度に合わせてここまでやってきたので、体力はもう限界だった。エアコンの冷気を浴びながら肩で息をするが、兄は私を置いてさっさと歩いていってしまう。本当に、思いやりとかいたわりとかいう言葉を知らない人だ。
兄はカウンターの女性に一言二言ものを言って、新聞らしきものを数部受け取ると、右手奥の本棚に向かって歩いていった。何を調べるつもりなのだろう。
呼吸と鼓動が落ち着いて、さて、と私は図書館の中を見まわした。兄は調べ物に行った。私は――どうしよう。
少し迷った後、兄の行った方向に歩き出した。何をするにしても、あの人がどこにいるのか確かめてからでも遅くない。
兄の姿はすぐ見つかった。――というか、女子高生二人が小声で「あの人、超格好いい」などときゃあきゃあ言っているのを盗み聞いてすぐにわかった。性格は最悪ですよ、と心の中で忠告した後そちらへ行くと、予想したとおり、本棚の横に設置された椅子で、何か分厚い本をめくっている。
「お兄さん」
絵になるのが非常に腹立つなあ、などと思いながら目の前に立つと、兄はちらりと視線を上げた。しかしやってきたのが私だということがわかると、興味をなくしたようにまた本に戻る。
いったい何をそうも熱心に読んでいるのか。見てみると、古い新聞を冊子にしたものだった。兄の腰掛けた隣の本棚に同じような冊子がたくさん置かれているが、そこにはちょうど一冊分の隙間がある。並んだ冊子の名前は『日経新聞 縮尺版』。
並んだもうひとつの椅子には、新聞が置かれていた。おそらく先ほどカウンターで司書から拝借したものだ。日経と読売。日付は――今日からおよそ、二ヶ月前。
「時間、かかりそうですか」
周りに迷惑にならない程度の声量で尋ねると、顔も上げないままで答えた。
「そうでもないと思うけどな。そこらで待ってろ」
そして軽く左手を振る。揃ってここにいたところで特段得るものはないだろうし、また、楽しくもないだろう。私は了承すると、本棚の間を歩き出した。
陰からこちらを伺っていた女子高生の隣を通り過ぎる。そのとき「妹のほうはそれほどでもない」というかすかな呟きが耳に届いて、聞こえてますよ、と言ってやりたい気分になる。まったく、兄と比べないで欲しい。それは私の外見が標準に比べ特段劣っているというわけではなくて、あの兄が格別優秀なだけなのだ。あれが隣にいれば、たいていの人間はかすんで見えるだろう。第一、私は兄とはヒト科である以上の遺伝子の合致はしていないのだし、似ていないのは当たり前である。長く細く息を吐くことで、私は女子高生らの呟きを忘れた。
……さて、何をしよう。
考えて、結局、私も私なりに男の子の正体を調べてみようという気になった。カウンターの司書に言って、二ヶ月前の新聞を数部出してもらう。空いた席をひとつ陣取って、新聞を机の上に広げた。そして、適当に開いた頁の見出しを黙読。アイドルグループリーダー、熱愛発覚――御堂社製エレベーターに欠陥――ユキヒョウの赤ちゃんお披露目――地域で防ぐ児童虐待――働く女性の為の育児サポート――討論会、再度の結束訴え――産地偽装の実態――等々。
ユキヒョウの記事には、写真が載っていた。少々大きめの猫のような動物が二頭写っている。産まれたユキヒョウは双子らしい。あらかわいい、このサイズならうちでも飼えるのではなかろうかと思ったそのとき、
「痛っ」
頭がかくん、と上がった。
後ろから髪を引っ張られたのだ。思わず声を上げてしまったが、それでも大声を出すのは避けられた。こんなことをする心当たりは一人しかいない。そして思ったとおり、天井を映す私の視界に兄の顔が入ってきた。悪がきのような表情で笑っている。
「子どもっぽいいたずらはやめて下さい、お兄さん」
「お前の髪は長いからな、ときどきやってみたくなるんだ。許せ」
そして握っていた私の髪を離した。
自由になった頭を元に戻して、振り返る。見ると兄は、右腕に先ほどの冊子を二冊と、新聞を抱えていた。ということはつまり、開いた左手で私の髪を引いたらしいが、それだけの大荷物でわざわざそんないたずらをしなくてもと思う。兄の価値観とか行動理念はよくわからない。
「お、いいの持ってんじゃねェか。ちょっと貸せよ」
と、突然目を輝かせた。いったい何のことかと思ったが、兄は私の広げた新聞を興味深そうに見ている。どうやらそれのことを言っているらしい。
やめてよジャイアン、とでも言ったほうがよかっただろうか。私が良いとも悪いとも言うより早く、兄はそれを左手で丸めて持って行ってしまった。座ったまま兄の行動を見ていると、カウンターで司書の女性が差し出した一枚の書類に何かを書きつけ、コピー機の元へ行った。冊子と新聞のコピーを取るようだ。
頬杖をついて待っていると、数枚の印刷用紙を片手に戻ってきた。原本は返してきたらしく、もう持っていなかった。
「図書館のコピーってのは本当に面倒だな。許可は要るわ、失敗分は即廃棄が義務だわで」
「著作権上の問題なんだろうし、仕方ないですよ」
抗議をしに行くほどではないようだが、それでも腑に落ちないようで、軽く肩を竦めた。
さて、次はどこに行って何をするのだろうと思いながら、私は兄の言葉を待った。この人のことだ、例の幽霊の答えが出るまでは、夕食含む他のことには気を向けてくれないだろう。
――そう思っていたから、
「まあいい、さっさと夕飯食いに行くぞ。腹が減った」
次いで言われたその言葉には、心底驚いた。
「え?」
予想外のことに、思わず声を上げてしまう。
ただ私の反応も兄にとっては意外だったらしく、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ。腹、減ってないのか」
「いえ、そうじゃなくて」
慌てて否定する。もちろん私だって空腹だ。夕飯は食べたい。幽霊のことなんかよりもそちらのほうが遥かに気になってはいる――が。
兄の気の変わりように驚いていた私は、つい訊いてしまう。
「幽霊のことはもう、いいんですか」
「あ? ああ」
すると兄は、すっかり忘れていた、とでもいうような反応をした。先ほどまであれだけ入れ込んでいたというのに、いったいどんな心境の変化があったのか。
私が理解できずにいると、兄はやはり、たいしたことではないとばかりにこう答えた。
「もうわかったから、いい」
それはつまり。
「……えっ」
言葉の意味を理解するまでに、少々の時間がかかった。つまるところ兄は、あの少年があの交差点に現れる意味を理解できたというのだろうが――いったい何を、どうやって?
しかし兄は私の心などいざ知らず、淀みない表情で、にっ、と笑った。
「さて、何食いに行くか」




