二 承(8/24追加)
電車に揺られて十分ほどで、例の事故現場の、最寄り駅に到着。
日は沈んでも、まだ早い時間だからか駅前に人足が途絶えることはない。そしてさすが関東平野の夏の夜、湿度は高くて温度も下がる気配を見せない。暑いよう、と文句を言ったら「俺も暑い」と睨まれたので、それ以降気候に関してものを言うのはやめた。
裏路地に入ると、人の量は圧倒的に減る。店は格段に少なくなり、立ち並ぶのは民家ばかり。辺りの家々から団欒の声が漏れ聞こえる中、公園に向かって歩いていく。
そのとき、兄の携帯電話が鳴った。
「やっぱりな」
「どうしました?」
携帯電話を操作し、何やら納得したように頷く兄に尋ねると、彼は「言ったとおりだろ」と携帯電話をこちらに向けた。スマートフォンの大きな画面には、メールの受信画面と、細かい文字が映し出されている――新聞記事?
私は記事の中で、一回り大きな文字で書かれたそれを読んだ。
「『死亡ひき逃げ事件で市職員逮捕』……?」
■死亡ひき逃げ事件で市職員逮捕
警視庁世田谷警察署は18日、埼玉県大鳥市職員、山崎佐祐容疑者を自動車運転過失致死と道交法違反(ひき逃げ、酒気帯び運転)の疑いで逮捕した。逮捕容疑は同日午後6時ごろ、世田谷区横山の市道交差点で乗用車を運転し、歩道を歩いていた同市の主婦芹見沢赤音さん(29)と男児(2)に追突、そのまま逃げたとしている。芹見沢さんは頭を強く打つなどして、まもなく死亡、男児は腕や足に軽傷を負った。同署によると、山崎容疑者の呼気からはアルコールが検出された。「酒を飲んでおり、よく覚えていない。何かにぶつかったような気はするが、定かではない」と供述しているという。
文章としては長くなく、どうやら記事自体がそれほど大きく取り上げられていなかったようだった。地方面の端に、ささやかに載ったようなそれ。
「知り合いに頼んで記事探してもらった。日付は三年前の七月十八日だな。やっぱり死んだのは女だ。女の、大人」
「はあ。……でもいちおう子供も轢かれてますよ」
「その当時の怪我が原因で死んだってか? 三年前の軽傷が原因で、二ヶ月前に?」
まあ完璧に有り得ない話じゃないけどな、と肩をすくめた。しかし、腕に軽傷ということは、つまりは擦り傷とかその程度で、それが原因で死に至ったという可能性は低いだろう。
いつも兄がするように顎に手を当て唸ってみるが、答えは出ない。若干の空腹も相まって、思考がまとまらない。考えているうちに兄は、腕が疲れたのか、かざした携帯電話をポケットに戻してしまった。
そうこうしているうちに私たちは、例の交差点に到着した。
あたりをぐるりと見回す。信号のない、見通しのいい道路。事故が起こりやすいとも考えられないその通りだが、それが記事の通り飲酒運転だったのなら、地形は事故の抑止力には繋がらないだろう。起こったとしても、無理はない。
「そこがカリガネ公園だから、その花瓶は……ええっと」
暗がりに佇むパンダを見ながら、友人から聞いた位置情報を思い出そうとする。だが私が思い出すより早く、兄が、私たちから対角線上の角にあるガードレールを指さした。
「あのガードレールの、左から二本目の脚だ」
左から二本目。目を凝らして見やれば、確かに何かあるようにも見えるが……ここからでは距離があってよくわからない。横断歩道を渡って実際にそちらに行ってみると、確かに青磁色の細身の花瓶が縛られていた。一本の花も活けられておらず、中には雨水が溜まっている。人が弔いに訪れることはもう久しくないようだ。
しかし。ここに住んでいたのはもう数年前になるというのに、まだ花瓶の位置を覚えていたというのか。「記憶力いいですね」と遅れてやってきた兄を振り返るが、しかし兄は「いや」小さくかぶりを振った。その花瓶のほうから視線をそらさない。
「覚えてたわけじゃない。
お前が聞いたとおり、確かにそこに『いる』からな」
「ああ……」
そういうことか。
兄の言葉に合点がいって、頷いた。なんとなく呆れの感情に似たものを覚えてしまったのは、それが示すところを私が知っていたからに他ならない。
「男のガキだ。歳は五、六歳程度、身長はざっと百センチ、比較的細身。短い黒髪。服装は緑と青のチェックのシャツに、ジーンズ、上着はなし、靴なし、白の靴下……」
――兄が人より優れている点は、容貌のほかにもうひとつある。
それは『霊感』である。
兄は俗に言う『見える人』だ。幽霊を目で直に見ることができる。……兄の力がどの程度のものなのかは私にはわからないが、少なくともそこにいる霊が、五、六歳程度の男の子であるとはっきり言い切れ、また、その服装まで細かく見られるだけの力であるのは確かだ。
美形なのに、霊感持ちでオカルトマニア。なんとも不思議な取り合わせだと思ってしまうのは私の浅学のせいか、それとも通常の反応かはわからないが,。
何にせよ、兄は不思議な力を持っていた。
兄はその鳶色の瞳で、私にはわからない世界を見る。
「おい、ガキ」
誰もいないように見えるそこに向けて、兄が声を発す。そしてその空間をしばらくじいっと見ていたが、やがて呆れたように右手を振った。
「こいつ、俺のこともわからないな。他人に興味がないらしい」
「どうしてですか?」
「俺が知るか」
それはそうだ。
「しかし本当にガキがいるな。それも、女じゃなくて。……どういうことだろう」
それから兄は顎に右手を当て、少しばかり俯いた。兄が思考に耽るときによくやる姿勢だ。こうなったときに話しかけると、たいていの場合は怒られるか文句を言われるか、殴られるか、選択肢としてはそのくらいで、いずれにせよ、ろくなことにはならない。
だから私も口を閉じて、少し考えてみることにした。
交差点と、花瓶。男の子と、女性。交通事故。二ヶ月前、三年前……知っていることを、ひとつずつ反芻して、
「……そうだ」
顔を上げた。
私が少々考えをめぐらせたところで、そう簡単に答えの出る問題ではないことなどわかっている。しかしそれでも、ひとつの可能性を思いついた。それは、蓋然性の高低はともかく、可能性としてあり得ることではある。
だとすれば、確認してみる価値はあるだろう。
兄はまだ熟考しているので、私は兄のそばを離れ、勝手に調べてみることにする。
腕時計を見ると、七時二十分を指していた。辺りには、仕事帰りらしい人々がぽつぽつと歩いている。味噌汁の美味しそうな香りが漂ってきて、空腹を思い出した。早く夕食にありつきたいが、そんなことは思ったところで仕方ない。かぶりを振って煩悩を打ち消した後、ぐるりと周囲を見回した。さて、尋ねるに適当な人は――
いた。
少し離れた場所に、チワワを散歩させている女性を見つけた。散歩の途中ということはきっと地元民だろう、そう考えた私はなるべく友好的な笑顔を作って、女性に駆け寄り声をかける。
「すみませェん」
私に気づいたその女性は、有り難くも無視はしないでくれた。
「何でしょう?」
しかしながら、足を止めて私を見返した彼女の、怪訝と不審の混じった目と、声。特筆すべき点のないただの学生に見えるが、それが自分に何の用か――私へのそんな感情が、ありありと見て取れる。
しかし私はそれに気づかないふりをする。私はただの、特筆すべきところのない、そこらによくいる大学生の一ですよと、そんな笑顔を崩さないようにして、こう尋ねた。
「ちょっと聞きたいんですけど、このあたり、交通事故ってよく起きたりするんですか?」
――私が思いついたのは、まったく関係のない少年が二ヶ月前にここで事故か何かで亡くなり、花瓶とは一切関係なく、ただぼうっとそこに立っているだけであるという可能性だ。確率的な話はどうあれ、有り得ないことではないはずだった。
怪訝そうな顔を崩さない女性に、私は「ええと、実は」と少し口ごもった――ような演技をした――後、
「私、今度、兄家族と一緒にこのあたりに引っ越してくることになったんですが、近いうちに私の甥が産まれることになっていて……」
ちらりと兄の方に目配せをすると、それを追って女性の視線もまた兄を向いた。勝手に子持ちにして申し訳ない、と心の中で謝罪する。聞かれたらまた殴られているところだろうが、向こうは思考中のようだし、兄のもとからここまでは距離もあるので問題ないだろう。
私は女性に視線を戻して、
「……だから、事故が多いと怖いなって思って。ほら、あそこに花瓶置いてあるじゃないですか。あれって、そのう……言いにくいんですけど、そういうものでしょう?」
苦笑いを作りながら尋ねる、と。
「ああ、なるほど」
女性はようやく納得したようで、表情を緩めた。
そして、質問に対して答えを返す。
「あの花瓶が置かれたのは、もう結構前のことですよ。昔ここで、ひき逃げ事件があって――」
話を終え、戻ると早速睨まれた。
「誰が子持ちだコラ」
どうやら聞こえていたらしい。なんという地獄耳。
だが幸運にも、拳を落とされることはなかった。私の思いついた案がいい線を行っていたと思ったか、それとも思考することに忙しくてそれどころではなかったか。
念を押すように、兄は言った。
「別人死亡説はなしか」
「ええ、まあ」
チワワの女性が言うことには、数年前の女性のひき逃げ以降、この交差点で特筆すべき交通事故は起こっていないとのことだった。私自身も、蓋然性はそれほど高くないような気がしていたが。この見通しのいい交差点では、交通事故などそう起こりようはないだろう。
兄は目の前――おそらくはそこにいる男の子――を、もう一度見た。
「……しかし、なんだ。こいつ、何か違うな」
「そりゃあ幽霊ですから。普通の人とは違うでしょうよ」
何を当然のことを、と私は言う。しかしそんな疑問を抱くほど、兄は幼子と接す機会があるのだろうか。
だが兄は、それに否定を返した。
「そうじゃねェよ馬鹿。何か……なんだ。なんつうか」
と、いまいちまとまらない言葉。歯に全力で研いだ鉈でも仕込んでいるような兄にしては、珍しいことである。何が不思議なのだろう。確かに、女性のための花瓶を少年が見ている謎はまだ解けていないけれど。
「それにこの、赤黒くて丸い……」
丸い?
――私が首を傾げていると、
「ん?」
兄が突然、顔を上げた。
「なんですか?」
「いや、今こいつが何か言った。……どちらが、し? 何? 聞こえねェんだよ馬鹿ぼそぼそ言うなもっかいはっきり言えっつんだよコラ」
「お、お兄さんお兄さん、子供いじめちゃ駄目ですお兄さん」
今、自分には幽霊が見えなくてよかった、と心から思った。もし見えていたとしたら、おそらく今の兄は、いたいけな子供を恫喝するやくざにしか見えなかったろう。兄は腰を折り顔を寄せて、しばし静止する。そこにいるものがわからない私は、黙って兄が何か言うのを待った。
結局その子がその言葉を、もう一度言ったのか言わないのか、それは私にはわからない。けれどどちらにせよ兄は、
「……フン」
背筋を戻し息を吐くと、その空間をつまらなさそうに見下ろした。何があったか知らないが、もうその子供に対する興味は薄れたらしい。
次いで私を見た。
「ひとつ調べたいことがある。図書館に行くぞ」
「あ、はい。……わかりました」
もう夕飯は半ば諦めている。同意の言葉は存外容易に吐くことができた。
「御友人に頼むんじゃ、駄目なんですか? さっき、あの新聞記事送ってもらった」
「さっきのメールに、これから用事あるって書いてあったからもう無理だろう。ここから一番近い図書館どこだったかな、地図、地図……」
携帯電話をまた取り出して、今度は図書館の位置を調べ始める。その携帯電話が以前会ったときに持っていたものと違っていることに今更気づいて、私は言った。
「そういえばお兄さん、携帯変えたんですね。スマホですか」
「携帯売り場の同期が機種変しないかって煩くてな」
画面を操作しながら、こちらを見ずに答えた。
兄は都内のとある店で、販売の仕事をしている。本性を隠しているのかそれとも押し殺しているのか、店員としての姿は本当に店員らしく、客の前ではきちんと営業スマイルを浮かべているのだから意外である。お客様は神様、ということなのだろうか。
仕事の話題が出たのでふと思って、世間話程度に尋ねてみる。
「お仕事の調子はいかがですか?」
しかし。
「あ゛?」
聞き返す声に、濁点がついた。眉間にひどい皺が寄り、口角が一気に下がる。途端に鋭くなった視線が、携帯電話から私に移動。思わず、ヒッ、と短く悲鳴を上げてしまう。そういえば今日のこの人は、仕事のことで機嫌を損ねていたのだった――だが直後兄は、その毒の塊のような表情を消し、にかっと頬を笑みに歪めた。……しかしその目は欠片も笑っていない。
「知、り、た、い、か?」
「す、すみませんつまんないこと聞いてすみません私別に悪くないけどホントすみません」
「ああああああああああ畜生クソ上司どもとバカクレーマーめ腹立つ腹立つ全員死ねッ」
とっぷりと暮れた空に向けて、兄はきィっ、とヒステリーのような声を上げた。
「お、お兄さん、殺人は犯罪ですよ」
「わかってるよ。誰も殺したいとは言ってねェだろ」
物言いの物騒さに慌ててたしなめるが、一応その辺りの分別はあるらしく、呆れたようにそう言った。
「ただ、明日にでも予期せぬ事故でうっかり死んで自縛霊になって成仏できずに死後も全力で苦しんで欲しいとは思ってる」
…………。
「まァ、あんな会社で働いてるおかげで、ひとつ学んだことはあるけどな」
なんとも言えず、相づちすら打てずに黙り込んでいると、兄は喉を鳴らしてくつくつと笑った。それはなんとも恐ろしい、温かみのない声だった。
腕を組み、小ばかにしたように鼻を鳴らす兄に、私は恐る恐る尋ねる。
「学んだことって、なんですか」
あまり、いいことではなさそうだが。
兄は私を見下ろすと、お前も覚えておけよ、と前置きして。
ひどく冷たい、嫌な笑顔でこう言った。
「幽霊なんざ怖くない。
本当に怖いのは、――生きている人間だ」