36 無効
それは、突然の出来事だった。
セシリアとアレクシウスの婚姻届が無効だという書類が送られてきたのだ。
また、時を同じくしてアレクシウスの実家からも『誠に不本意ながらも、二人の婚姻は無効とする』といった内容の書簡が送られてきた。
――理由がわからなかった。
初めて見るアレクシウスの顔だった。 人というのは怒りが頂点に達すると、こうも無表情になるものだろうか。
表情筋が死に絶えたかのように、眉一つ動かない。 が、能面のような彼の顔からは、うねるような怒りが感じ取られた。
それは、書簡を握りしめるアレクシウスの指先が、白く硬直し節々が軋んている様子や、彼の腕にそっと添えたセシリアの腕に伝わる、細かな振動からも察する事ができた。
「取り合えず、家に戻って理由を調べてくる。 一度、受理された婚姻届が今頃になって無効だなんて……。 納得できない」
「えぇ、お願いするわ。 私には調べる術もないから……」
セシリアは俯く事しかできなかった。
(私の身分が問題になったんだわ……。 きっと、そうよ)
自分では同仕様もない物事に、無力さを思い知らされた。 何もできない。 何もできないのだ。
その事実が、哀しみとなってセシリアを襲う。 ポロポロと彼女の瞳から絶望が溢れ出る。
「大丈夫。 きっと、何かの間違いだよ」
セシリアの顔を伝う涙を、指先で柔らかくすくい上げたアレクシウスは、流れるような仕草で、その頬にそっと口を寄せた。
「アレク!!」
悲鳴にも近い声を上げながらセシリアは、アレクシウスの首筋に腕を絡みつけ、その口唇にむしゃぶりついた。
そうでもしていないと、不安に、恐怖に押しつぶされそうだった。
セシリアは全体重をかけて、アレクシウスを冷たい板張りの床に押し倒した。
困ったような表情を見せたアレクシウスだったが、セシリアは気にすることもなく馬乗りになり、手慣れた様子で彼の服を剥ぎ取った。
そして、その鍛えられた彼の白い胸に、紅い花弁をつけ始める。
(アレクシウスは誰にも渡さない)
まるで、自分の所有物であると主張するように、その身体に『セシリアの刻印』を刻みつけていた。
******
アレクシウスがヴィンドストランド国へ旅立ってから、いくつかの夜が流れた。
眠れぬ夜を過ごしているセシリアは、生欠伸を噛み殺し、瞼を擦りながら鏡の前に立つ。
そこには、赤く腫れた瞼の哀れな女が映っていた。 寝衣の隙間から覗く、胸元に散らされた紅い花弁に、指先でそっと触れる。
もう、だいぶ色が薄くなっていた。 それなのに――。
「なぜ、なんの連絡もないの?」
考えれば考えるほど、悪い予感しかしない。
「こんな事なら、初めから反対してくれていれば良かったのに……」
あの日、あの時「平民との婚姻は認められない」と、言われていたほうが傷は浅く済んだだろう。
こんなに幸せを感じてしまった後では、さすがに辛すぎる。
セシリアは溜息をつく。 もう、溜息と涙しか出てこない。
「奥様……」
ノックの音と共に扉の隙間から、アンナの顔が覗いた。 彼女に奥様と言われるのは、まだ慣れなかった。
「何?」
「王城から書簡が届いてます……」
「今度は何よ……」
セシリアはぶっきらぼうに手紙を受け取ると、その封蠟を確認した。 確かに国璽が押されている。 王族からの手紙のようだ。
――エヴァーグリムの妖精店『セシリア』
その宛名を見た瞬間、自分の中から不安と恐怖、それと、憎悪に近い黒い感情がこみ上げてくるのを感じた。
(本当にアレクとの婚姻を認めていないんだわ)
身体の震えは恐怖からなのか、それとも怒りからなのか。
少しふらつきながらも彼女は、サイドテーブルに近付き、その引き出しを乱暴に開けた。
そして、ペーパーナイフを手に取ったのだが、その手は笑えるほどに震えていた。
ジャッ…シャッ…と不器用な音を立てながら開いた手紙には『呼出し』の文字が一際目立っていた。
そして、重く存在感のあるその文字は、セシリアの瞳を射貫いていた。




