彼女と僕は同じものを見る
僕は竹下先生の教室に入る気がなかった。
今のままでもピアノは弾けるし、弾いてる時にうるさく言われるのは好きじゃない。
だから、最初竹下先生のところのテストを受けてみないかと言われていたが断っていた。
しかし、竹下先生の一つ前の先生があまりにしつこいので、見学だけならと一度親と見学に行った事がある。
適当な理由をでっち上げて、やっぱり行きたくないと言うつもりだった。
でも、奈央ちゃんがいた。
奈央ちゃんは鍵盤とにらめっこをしていて気が付かなかったかもしれないけど、僕はその後ろで何人かの子供たちと一緒にお行儀よく椅子に座って、その演奏を聴いていたんだ。
衝撃だったんだ。
僕と変わらないぐらいの年の子があんなに上手に弾けるのかと。
なにより、ピアノに情熱とか愛情とか、ついでに執念や怨念ぐらいまで、文字通りすべてを乗せて弾いていた。
同じ年の子の中では上手い方だと思っていたけど、僕は完全に負けたと思った。
だって、僕は彼女を越える演奏をしたいと思うのではなく、彼女の演奏をもっと聴きたいと思ってしまったのだから。
僕はここで一目惚れをした。
病室で笑いそうになったよ、僕たちは両想いだったんだね。
僕は彼女の演奏を聴くためにあの教室に入ったんだ。
気が付けば、朝だった。
僕はピアノに頭を乗せて寝ていた。
どこまで弾いたっけ?
僕は楽譜を確認する。
いい夢だったな。
僕は夢で見たあの思い出の事を彼女に言うつもりはない。
だって、僕はピアニストだ。
言いたいことは演奏で伝えればいい。
何かに熱中している時は時間は素早く流れるもので、あっという間にコンクール当日になった。
予選が始まる。
しかし、彼女はその会場にはいない。
退院はしたが、勿論まだ両手は治っていない。
僕は会場に向かう前に彼女の家に向かった。
見慣れた赤い屋根の家のインターホンを鳴らすと、おばさんが出てきた。
「ごめんなさい、直哉君。奈央、今は会いたくないって」
今は。
その言葉で十分だ。
風に乗せられて、酷い音が僕とおばさんの耳に入った。
その音は奈央ちゃんの家から流れてきていて、本当に酷い音だった。
これを音楽とは言えない。
「……あの子、まだ日常生活だってまともに出来ないのに」
いつだったか、奈央ちゃんは言っていた。
ピアニストが一日ピアノに触れなかったら、勘を取り戻すのに一週間はかかる。
一週間触れなかったら、元の実力まで戻すのに半年はかかるって。
彼女はまだ諦めていない。
一年、二年いやそれ以上か、もしくはもう今までと同じようには弾けないかもしれない。
それでも。
僕やプロとの才能や力の差が分かっていてもなお、その壁に向かい合う気だ。
己の弱さも足りないところも分かった上で戦おうとしている。
これまでだって、必死にやって来たはずだ。
僕やプロとの差を埋めようと、どれだけ現実を叩きつけられようと。
これは僕もうかうかしてられない。
これは何よりものエールだ。
僕はおばさんに頭を下げ、会場に向かう。
負ける気がしない。
予選なんて小手調べだ。
軽く最低限の技術があるかチェックされる程度のものでしかない。
しかし、だからといって僕はもう一切手を抜かない。
いつもなら落ち着かない自分の順番の前でも今は驚くほど緊張しない。
出番だ。
舞台袖のステージマネージャーに軽く会釈し、僕は舞台に立った。
舞台なんて言っても、そこには真っ黒なピアノが一つあるだけだ。
だが、それがこの会場の全てだ。
世界に触れる。
これから僕が世界を作る。
イ短調ソナタ。
モーツァルトにしては珍しい短調。
先生がいくつかある課題曲の中からこの曲を選んだ理由が分かった気がする。
これはモーツァルトが母を亡くした時に作った曲。
パリに母と移り住むも暮らしが安定しなかった矢先の不幸。
軽快で華やかな曲の多いモーツァルトらしくない悲しみを背負う曲。
自由に気ままに好きなように弾いていた僕に先生が加えたかった色。
僕は、今日彼女を背負って弾く。
そうすれば、僕たちは無敵だ。
指が真っ白なキャンバスに重なった。
陽気な村での出来事。
僕たちはいつもピアノを弾き、村人たちと愉快に暮らしていた。
しかし、ある日、そんな村に恐ろしい牙を持ち炎を吐くドラゴンがやって来る。
暴れ、壊すドラゴン。
陽気だった村人たちの顔から笑顔が消えた。
僕もただ震える事しかできなかった。
だけど、彼女は違った。
恐ろしいドラゴンの前に立ち、歌を聴けと言った。
そして、僕の手を引き、いつものピアノの前に立つ。
僕は手まで震え、とても弾けるわけないと言った。
その手に彼女の手が重なる。
大丈夫、あなたは強い。
そして、僕たちは生まれてから一番の演奏をし、ドラゴンはその曲に聞き惚れ、村人と仲良くするようになった。
僕たちは無敵だ。
この数日、驚くべきスピードで自分が今まで持ってなかった技術を習得していくのが分かった。
彼女の技術だ。
何年も彼女の演奏を集中して聴き続けたのだ。
いつでもどこでも、その演奏は頭の中で再現できる。
あとは、それを指に持ってくればいいだけだ。
僕たちは無敵だ。
僕たちが演奏を始めれば、敵はいなくなり、皆聴衆になるのだから。
いつの日か必ず彼女はこの舞台に戻って来る。
いつの日か必ず僕の前に立ち塞がる。
両想いの僕たちだ。
出会えないはずがない。
だから、僕はその日を楽しみに弾き続けよう。
最後まで読んでくださった方に深い感謝を