幕間 -She already knows everything 第二章エピローグ-
「ヒヒッ! ヒヒヒッ!」
薄暗い研究室の中、モニターに表示されたデータを見ながら笑っている一人の女がいた。
腰まで届きそうなほど長い黒髪は、前髪の部分も長く、目にかかりそうなほど伸びている。しかもそれを真一文字にバッサリと切って無理やり前が見えるように整えていることから、彼女がいかに見た目に気を使っていないかがわかる。その一方で、眠たげに開かれた目には濃すぎるのではないかというくらいのアイラインが引かれている。そして不自然なほど黒く闇に沈んだ瞳。これだけで十分インパクトのある容姿なのに、最も目を引く部分が別に存在する。
彼女の口元を覆うのは大きなマスク。ただの医療用のマスクなのだが、何と、そこには赤い口紅で描かれた、大きな唇のイラストが存在していた。口裂け女のように大きな口がニヤリと笑顔を作っているような、不気味な雰囲気を作り出している。
さらに、そのマスクを下から支えるように、スティック状の装置が耳ぎわのあたりから伸びていた。スティックはアゴのラインに沿ってカーブを描き、しかしあご先に到達することなく途切れている。途中には緑色に光るランプがあり、時折明滅していた。
「ふふっ……ふヒヒッ!!」
不気味な女が不気味に笑うその不気味な空間に、もう一人、男のシルエットが現れた。
「うるさいぞ黒須。何がおかしい」
「あらぁ? 寅井、いたの?」
寅井と呼ばれた男は肩をすくめてみせた。
「さっきからそこにいただろう。一体何のデータを見て嗤っているのだ」
「ヒヒッ! いいえ、データを見て嗤っていたのではなくて、少し、思い出し笑いを」
「ほう。それはどんな事を?」
今度は、黒須という女の方が肩をすくめた。
「言わないわ。言ったら面白くなくなってしまうもの」
「チッ……」
“黒須というのはこういう女だった。人をおちょくって楽しんでいるのに違いない”、と寅井はすぐさま興味を失い、部屋の逆側にある自分のデスクへ戻ろうとした。逆側とは言っても、生体サンプルの入ったシリンダー一本を挟んでいるだけで、気配は常に感じられるような距離である。なのできっと、黒須は最初から寅井の存在には気づいていたはずだ。
「まあまあ、許して寅井。もう一つ、面白い話題があるのだけれど」
寅井は面倒くさそうに振り向くと、光るシリンダーの一つに手をかけ、体重を預けた。
「なんなんだ今度は」
「ミズハから連絡があったの。“こちらの研究も上々”、だそうよ。ひと段落したら、また自由に動かせると思う」
「――ヤツを動かす気か」
黒須は座っているシリンダータイプのデスクチェアーを体ごとくるくると回し、またヒヒッと、あの独特の笑い方をした。彼女の表情そのものは見ることができないが、何やらとても気分が良いことは分かる。寅井にとっては何がそんなに楽しいのか全く理解できず、彼は眉根を寄せて苛立ちの感情を露わにしていた。
「ミズハをね、〈仮面の騎士〉に接触させてみようかと思うの。どう?」
「な……っ!? 馬鹿な、危険ではないのか!?」
「そろそろ、シ・ゲ・キ、欲しくなぁい? ヒヒッ!」
寅井はますます黒須という人間が分からなくなる。
そもそも、この研究は黒須の個人的な願望を叶えんがための研究だ。寅井が初めて彼女に会った時、どこにでもいるような大人しめの少女のように感じた。そして、互いの利害が一致し、事を動かすことを決めたのだ。
それがいつの頃からか、黒須という女はどす黒い本性を露わにしてきた。押さえていた闇の一端が垣間見えたと思った瞬間、全てが漆黒の闇に覆われていたような、そんな感覚。ただ、溢れ出た闇は彼女の心底を覆い隠してしまい、“本性を現したのに本心が見えなくなる”という矛盾めいた現象を引き起こしていた。
「い、一体誰と接触させる気だ?」
「決まっているわ。この状況で一番面白いのは彼だもの」
黒須は一呼吸置いてから、その名を呼んだ。まるで、寅井が唾を飲み込むタイミングを待っていたかのような絶妙なタイミングで、その名を。
津野 深矩の名を。
◇ ◇ ◇
ある日の帰り道。
気が付くと、季節は6月になっていた。道端のアジサイが美しく大輪を咲かせ、粒のような水滴をちょこんと乗せている。その上にカタツムリでもいればさらに風情を感じるのかもしれないが、あいにく見かけるのは建物のブロック塀を這いまわるナメクジが数匹、アスファルトの路面にミミズが数匹といった具合である。日は陰っているものの、路面の水分が蒸発を始めたために若干の蒸し暑さも感じる。
深矩とあさみの二人は、リニアの駅を降りてから津野家へ続く坂道を歩いていた。
「あのさ、俺ってまだあさみに監視されてるんだっけ?」
深矩の家と、あさみの家は逆方向である。深矩が〈仮面の騎士〉に接触した初期の頃は、あさみが深矩を監視するという名目で近くまでついて来ていたこともあったが、今は何の目的もない。
「なんとなくだよ。たまには遊びに行ってもいいんじゃないかな」
「俺は別に構わないんだけど、奥菜に怒られたりしないか?」
深矩の言葉に、あさみが少し驚いたような表情になった。
「あら、どうしてそう思うの?」
深矩は大変困った顔をして、
「いや……。俺の勘違いか自意識過剰だったら笑ってくれていいんだけど、奥菜って俺に気があるって感じだし」
「なんだ、気づいてたんだ」
「げ、やっぱりそうなのか!?」
深矩は人の心の機微を読み解くのは苦手である。他人と深い付き合いをしてこなかった為、表面上の利害関係だけで物を判断してしまうことがいまだにあった。それにしても奥菜の態度は露骨であり、深矩にも少しばかりその心理が透けて見えたらしい。
ただし、“冗談”なのか“本気”なのかは深矩には判断がついていなかった。元々奥菜には飄々としたところがあるため、実はあさみでも彼女の本気度合いは推し量れていない。
「なに? 嫌なの?」
「嫌なわけないよ。奥菜はいつも元気な笑顔をくれるし、その、なんだ、可愛いと思うし」
誰かに好かれて、しかもそれが奥菜のようにかわいらしい少女であれば、嬉しく思わない男子は少ないだろう……見た目が子供っぽいので、付き合うことは敬遠する場合があるかもしれないが。
「でも、でも俺は……」
深矩はその続きの言葉を言いかけて、結局肝心なところは喉から先へ絞り出すことができなかった。“あさみが好きなんだ”と、伝えることができなかったのだ。
気が付けば、深矩とあさみは毎日のように一緒にいた。あさみは登下校の時には遠距離からわざわざ立ち寄ってくれていたし、母親のことも気にかけてくれていた。深矩に稽古も付けてくれているし、彼にとっては本当に感謝してもし足りないくらいだった。出会った時には単に好みのタイプに過ぎなかったあさみのことが、いつの間にか本気の恋心へと変わっていったのだ。
しかし、深矩はしばし躊躇った後、ついに言葉を飲み込んでしまった。今ある関係を壊したくない。親しい友人のできなかった深矩にとって、あさみはかけがえのない存在だからだ。
一方、あさみは深矩が何も言わないことを選択したのだと気付くと、
「……へたれ」
と、ジト目で彼を見つめ、一言呟いた後も無言で抗議をするのであった。
そうこうしているうちに、津野邸の前までやってきた二人は、家の前にトラックが停車していることに気づいた。引っ越し業者のようで、どうやら隣の民家に誰か越してきたらしい。せっせと荷物を家へ運び込んでいるお兄さんたちの横で、一人、深矩の家を見つめている少女がいた。菓子折りのようなものを手にしているので、引っ越しのあいさつだろう。
ところが、少女の姿を見たあさみが意外な反応を見せる。
「あの子は!」
「あさみ、知ってるのか?」
すると今度は深矩の方を驚きの眼で見つめ返すあさみ。
「むしろ津野くんこそ知らないの!? 私たちの一つ下の後輩で、その理系の才能からミッドガルデの研究室にも顔パスで入れるって噂の、杜陸高校きっての天才少女だよ!」
興奮気味のあさみ。別に歓喜のために興奮しているのではないことは、深矩にも分かっていた。“ミッドガルデ”に出入りしている人間など、最上級警戒対象でしかないからだ。
あさみの声に気づいたのか、その少女が深矩たちの方を振り向いた。はたはたと小走りで近寄ってきた彼女は、主に深矩の方へ視線を向けながら、にっこりと微笑む。
「初めまして、津野センパイ。それから、八百神センパイですよね。ウチは隣に越してきました、静間 霞です! よろしゅうお願いしますね!」
第二章 コイノハナシ End
――――To Be Continued.




