第九話 「いさみの恋」 その②
4月の終わりごろ、翌週に大型連休を控えた月曜日の華山高校1年1組。電子黒板でもホワイトボードでもない、昔ながらの黒板を備え付けられた教室。タイル状に敷き詰められた木板の床、ところどころが薄く禿げた教壇など、古臭いながらも風情を感じさせる。
机や椅子にはところどころにイラストや名前が彫刻されているし、白い壁をよくよく見てみると数十年分の生徒たちの落書きが。流石にスプレーでアーティスティックに落書きをしていたり、ガラスが割れていたりすることはないものの、決してお行儀はよくない学校のようだ。
「おーい、八百神ー?なんでお前ジャージなんだ?」
担任教師の萬井 竜は、いさみに対してそう投げかけた。
萬井教諭に質問を受けたいさみは、制服姿の生徒達の中で一人ジャージ姿。片肘をついた姿勢から少し背筋を伸ばして萬井の質問に答える。
「えと、登校ん時に車に泥はねられたんス」
「昨日も今日も雨は降ってないぞー?」
教室内がクスクスという笑いに包まれた。
「まあ、いろいろとありまして」
「八百ちん、どうせ喧嘩で汚したんじゃねぇの?」
あまりに嘘っぽい言い訳と、あまり焦りを感じていない態度から、いさみはごまかし切る気はない様だった。クラスメイト達にも完全に見抜かれてしまっている。というのも、いさみが喧嘩三昧だという話はすでに周知の事実であり、制服を汚したり破いたりしたことも初めてではなかったからだ。
「うっせーな。なんか“果たし状”的なヤツを渡してきたから、イラッと来てぶん殴ってやったんだよ。そしたらアイツらムキになりやがって―――」
「はいはいそこまで。八百神、お前後で反省文な。放課後職員室来いよ。」
「なにぃ!?マジかっ!」
今度はドッと湧き上がるような笑いが起きた。まったく隠す気なくネタバレをしたいさみは、まさか反省文を書かされるような事態になるとは思っていなかったらしい。しゅんと項垂れる。彼の特徴的な二本のクセ毛も垂れ下がり、覇気が消失していた。
こうして、いさみにしては珍しく、放課後もしばらく学校に残る運びとなったのである。
放課後の簡易応接室、職員室の隣にある準備室のような部屋。業者の方と話をしたり、生徒を呼びつけたりするのに使われている。現在いさみは、その簡易応接室でぶつくさと文句を言いながら反省文の記入にいそしんでいる。
「お前ももう少しちゃんとしろよな。」
「ちゃんとって何をだよ。」
「……普段の生活態度だ。おれはお前がいつか身を滅ぼすんじゃないかって心配でな。」
余計なお世話だとそっぽを向くいさみ。それに対し、余計な世話を焼くのが大人の仕事なんだと、萬井は笑って言うのだった。
それからしばらく流れるのは沈黙の時間。いさみが反省文を綴るシャープペンだけががさりさりと音を奏で、外からは野球部の練習している声が反響して聞こえてくる。いさみは頭の回転が速く、学力も決して低くはない。文章を書くこと自体に苦労はなかった。ただ、面倒なだけだ。
いさみの反省文は10分後には体裁が整い、萬井を納得させることに成功した。自分から仕掛けた喧嘩ではなく、相手のほうが人数が多かったことなどもあり、それ以上の咎めを下すことはできないと萬井は判断する。一通り文章を読み終えると、萬井はいさみに告げる。
「八百神、ちょっと付き合え。」
「は?」
そう言っておもむろに立ち上がり、いさみをいざなったのだ。何をするつもりなのか、何が起きるのかもまったくわからないまま、いさみは渋々萬井の後ろをついて歩いた。
簡易応接室から職員室を経て廊下に出る。廊下に出ると左へ進み、突き当りをまた左……果たしてその場所、格技場に到着した。体育館を一回り小さくしたようなホールの中には畳が敷かれ、半面を剣道部員たちが、もう半面は柔道部員たちが練習に勤しんでいる様子が見える。
いさみはその場所に到着したとき、一つピンとくるものがあった。中学の時少しばかりとはいえ剣道部に所属していたことは事実であり、妹のあさみが剣道でそこそこ優秀な成績を収めていることも、おそらく教師の間では周知の事実なのだろうと。つまり―――
「なんだよ、剣道部に入れとかいうんじゃないだろうな」
性根を叩き直すために部活動に取り組めと、そう言いたいのだと解釈したのだ。
しかし、萬井は肩をすくめて否定の意を示す。
「そうじゃない。おーい、ちょっと端の方借りるぞ」
萬井はそう言うと、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを解いていさみの方へ向き直った。第一ボタンを開けると、軽く跳躍を繰り返して体をほぐすような挙動を見せる。それから屈伸などの準備運動まで行う萬井に、いさみは激しく戸惑った。
「萬井、何を―――?」
「呼び捨てにすんな!“先生”をつけろよ“先生”を。……いいか?ちょっとお前に思い知らせてやる」
そう言って深く息を吐き、クロスさせた腕を腰の位置まで落とした。最終的には体の左側を前にした姿勢で構え、いさみを見据える。
「空手?」
そう、萬井の行ったのは武術の型であると見て取れる。その形態は、おそらく空手。拳法の中にも空手と似たような型を取るものがあるが、もっと流麗なイメージになるはずだ、といさみは考えた。萬井の構えは、より腰を据えたものに見えたのだ。
「そうだ。お前、ボクシングかじってたことあるんだよな?」
「一応。」
空手であることを肯定した萬井は、剣道ではなくボクシングの経歴を尋ねた。いさみがボクシング歴を学校側に公言したことはないのだが、生徒たちの間でも噂になっているのだろう。
「ちょっとかかってこい。あ、準備運動はしとけよ。」
まさかの展開だった。萬井は強いとされているいさみに対し、実戦で何かを示そうというのだ。
「準備運動?必要ねぇよ!!」
教師である萬井に対して中指を立てて挑発するいさみ。いいだろう、お望み通りボクシングで相手だ、とでもいうように相手と同じく半身に構える。が、両腕の位置がまるで違う。顎を守るように拳を添え、左腕の動きで相手をけん制するボクサーのスタイル。
二人の様子に気付いた周りの剣道・柔道部員たちも「何だ何だ」と集まり始めた。顧問やコーチの制止の声がかかるも、これから始まる一戦が気になってしまうようで、練習にならない。やがて生徒たちを制することをあきらめたコーチ陣も、輪の中に加わった。当然彼らは萬井に苦言を呈する。萬井はそれを笑って受け流すだけであった。
「せんせー、“始め”とかいる?」
ギャラリーの生徒から開始の合図が必要か尋ねられる。
「いらないいらない。八百神のタイミングで始めてもらっていいから。」
萬井の言葉にいさみが返事をする。
「あそ。」
――刹那。いさみ、いきなりの右下段回し蹴り。返事から一呼吸も置かずに放たれた攻撃に、ギャラリーの生徒は度肝を抜かれた。普通、自分のタイミングでと言われたならば、呼吸を整える間くらいは取るだろう。さらに、相手は教師だ。いくら教師側から言い出したこととはいえ、いきなり本気でぶつかれる人間がいったい何人いるのだろうか。いさみはその少数人のうちの一人だった。
(――脚から来るのか!!)
ボクシング経験者だと聞いていた萬井は、思考の逆手を取る蹴りに対して驚嘆する。きっと、初めにボクシングの構えを取ったのもおそらくフェイク。いさみは相手の裏をかくのが好きなようだ。喧嘩では先に一撃を与えた方が心理的優位となることも多い。場合によってはその一撃で相手の心を折ることもできるのだ。
萬井はいさみの蹴りを右手でうまく捌き、いさみの背後を取ると同時に左手で突く。防御と同時に相手の無防備な部部を狙う華麗な脚運び。一挙一動が次の動きへつながっている。武術の基本だ。
まさか反応してカウンターを打ってくると思っていなかったいさみだが、しっかり攻撃を見ていて上半身のばねで避けた。上半身への攻撃に対するいさみの反応は、やはりボクシング選手のそれだ。最低限の動きで回避に専念する。下手に受けたり捌いたりするのではなく、極力避け、顔面を守ることが基本となっている。
一瞬の攻防。格技場内がざわつく。二人のレベルの高さに感心するコーチ陣。
やがて再び距離を取った両者。いさみが近づこうと一歩踏み出しても、萬井はけん制の前蹴りで近づけさせない。常に相手が立ち回りにくい距離感を保っているのだ。距離を詰めることができず、見るからにいさみの苛立ちが募っていく。腕を下げてガードを解き、挑発するような動作も見せるが、そんな見え透いた罠に飛び込むほど萬井も馬鹿ではない。
お互いに隙を伺って睨みあっている状態が続く。いさみの呼吸と萬井の呼吸とがズレたとき、ついに萬井が動いた。自分の攻撃に適したタイミングと、相手の防御しづらいタイミングを狙ったのだ。
重心の移動を感じさせない鮮やかな踏み込みで右の突き。いさみは……しかし、これもちゃんと見ていた。突き出される拳をしっかりと見極め、上半身の軸をわずかに外すだけで回避運動を試み―――
気づいた時には萬井の左の裏突きが目の前でぴたりと止まっていた。
「おおおお!」
「萬井先生、すげえええ!」
一つの動作は次の動作へと繋がっている、それはこの場面でも発揮された。右の正拳を突くと同時に左拳を脇の付近まで引き寄せる。これは次の攻撃への予備動作となっているのだった。
また決定的な実力差は足運びにも現れていた。こちらの攻撃がいつ来るかを読ませないように細かに動きながら立ち回るのがボクシングというものだが、それを差し引いてもいさみには無駄な動きが多かったのだ。あらゆる面で完全に萬井に劣ってしまっていた。
「――チッ」
舌打ちするいさみ。しかし何も言うことはできない。両手を上にあげて降参の意を示した。
「お前は反射神経はとてもいいが、基本ができてない。」
「わかってるよ、そんなこと。」
「いや、わかってない。お前が今まで強者でいられたのは、中学生だったからだ。体格差が少なかったからだ。これから先、お前より大柄の男が相手になったらどうする?あるいは武術経験者だったらどうする?」
現時点でも少し小柄ないさみは、これから先体格差で他の人間に劣る可能性があった。今までのように舐めただけのボクシング知識で太刀打ちできるほど甘いものではなくなってくるはずだ。そしてここまで負けなしだったのは、偏に運の要素も強い。体格面で差が少ないなら、あとは経験値と精神力が勝敗にものをいう。幼少期に拳法を学んだ人間は少なくない筈。そういった類の人種に出会うことが無かっただけのことだ。
「おれレベルの人間は世の中にはたくさんいるはずだから、なめてかかってるとお前、そのうち痛い目見るぞ」
「いて。」
萬井はそのままいさみにデコピンを食らわせて構えを解いた。去り際に軽くいさみの頭にぽんぽんと手を置いた。周囲から拍手が巻き起こる。学校内で異種格闘技戦、しかも経験者だと明かしていなかった萬井教諭と素行の悪さで有名な八百神いさみの一戦が見られるとは。二人の健闘を称え、賞賛する声がそこかしこから飛んでくる。
額をこすりながら、いさみはちょっとばつが悪そうな表情で萬井を見やった。萬井は部活を中断させてしまったことを顧問・コーチ陣に詫び、ぺこぺこと頭を下げていた。その姿に先ほどまでの闘気は無く、どこか情けなく映る。
「――カッコわる。」
一言だけ呟いたいさみ。その言葉は萬井に対するものだったのか、それとも自分自身に対するものだったのか。いさみは踵を返すと、そのまま格技場を、ひいては学校を後にするのだった。
◇ ◇ ◇
学校からの帰り道、八百神いさみはいつもの河川敷を歩く。普段は授業が終わると同時にゲームセンターに立ち寄って時間を潰すことが多く、直接家へ帰るのは少ない。今日は飛び切りに疲れた。高レベルな読み合いはいさみの精神力をごっそりと削り取っていた。早めに帰って眠ろう、いさみはそんな風に考えていたに違いない。
「八百神ィ!!」
背後から声をかけられるのもお決まりとなっていたので、さほど驚きもせず、いさみは振り返る。今朝も喧嘩でぶっ飛ばしたはずの3人組が目の前に立っている。
「何だよ、オレになんか用??」
面倒くさそうに頭をかきながら尋ねるいさみの表情が、次の台詞で一瞬にして凍り付く。
「お前の妹……なんつったっけ?あさみちゃん?俺らんとこで預かってるから。」




