十二 エラートの居城
リゼーの倉庫街。
ステアネーゼの国都ではいたるところで検問が張られ、その監視の目は当然のように海上輸送にも向けられている。港湾に横付けにされた船舶もいつ解かれるかまったく分からない出港停止処分を貰ってただただ波上に小さく揺れるばかり――。
荷積みも陸揚げもないということで港湾施設は平日だというのに静まり返り、哀しげに鳴くカモメの声が時々聞かれるのみである。
前夜、一瞬だけ切れた雲間は明け方には再び塞がれ、黒に近い灰色をした海の上に、鈍い鉛色をした密雲が垂れ込めている。
その灰色の空の下、岸壁で老人が一人釣竿を握っている。小太りで、頭の剥げた血色の良い老人。背筋の伸びた老人は鼻の下に白い髭を蓄えている。老人の釣果は――残念ながら釣果はないようである。足元のバケツに入っているのは海水のみ。
と。
老人の背後からひょっこりと背の高い人物が現れる。壮年というには若く、青年というにはちょっと年が言った微妙な年齢の人物。渋茶色のコートを羽織った三十過ぎの男は白髪の老人に近づくとこう尋ねた。
「どうです、何か釣れましたか?」
黒い瞳の三十男の問いかけに老人は首を横に振った。
「駄目だ。どうにもならん。一匹も釣れんよ。天候が不順だからな。国都の秋は雲が多いもんだが、ここまでひどい年はそうそうお目にかかれんよ。確か先王様が御崩御なされる前の年だったか、その前の年だったかにこんな感じの陽気があったと思ったが……。まあ、もっとも、天候が良かろうがこの岸壁はもともとろくなもんが釣れんがね」
「そうですか……」
「サフォーリを知っているだろう。トガンの近くで、漁港になっておる……」
「ええ。存じ上げていますよ」
「あそこに穴場があってな。いろいろなものが釣れる。カレイやスズキ。アオリイカも良い型があがる。今度の休みになったら行ってみようとおもっておる……」
老人の竿の糸に異変があった。だが、老人は首を振った。手繰り寄せた糸の先には木屑が絡まっている。
「駄目だな。これは」
老人は諦めると木屑を針から外して海に投げ返す。もとより老人はレジャーで岸壁にきたわけではない。本人も言ったとおり『休み』になったら釣りをしにいくのである。と、いうことは、彼は今、休暇中ではないということであった。
「それにしても、なにもこんな形をとらなくても、陛下に直接お目通りをするなり、御前会議に直接乗り込んでくればいいのではないか。回りくどいやり方は疑念を煽ることになると思うがな。ハール・エラート」
三十男は老人の叱責に笑って曖昧に頷いた。
「今回の一件に関しては慎重を要しますからね。信頼できる筋としか接触はしないほうがいいと思うのです」
「どこに敵が潜むか分からない、か」
老人は自分でも同じ事を思っているのだろう。つまらなそうに呟いた。
「誰がどちらの陣営なのか。旗色が明かではないので、こちらも気を遣います」
「それで、わしは信頼できる筋であるというわけか」
老人はふんと鼻を鳴らして笑った。老人が笑うと、普段はあまり目立たない目じりの傷が深い皺のようにして現れる。
「軍であれば南部方面軍司令モトラッド将軍。保安省であればハヴェル。銃士隊であれば隊長のグリハルバ。内務ではクリザラスの親子。人は大勢いますが、信頼できる人間というものは案外少ないものです」
「武侠第一党の当主に信頼してもらえてありがたいというべきだろうな。本当に信頼できる人間が存外少ないということについてはわしも同感だが……」
老人は自分に向かって頷くと、話を続ける。
「ま、人間の質についての考察はまたいずれ話すとしてだ。軍の動静についてだが……」
話がようやく本題に入った。
「なかなか威勢の良い意見が出ている。つまりは、王弟殿下の居城があるオルバンを一気に制圧するべきだというのだ」
「穏やかではないですね」
「王弟殿下の行方は相も変わらず知れない。オルバンに戻ったという話があり、いや、検問を突破できずに国都のどこかに潜伏しているという説もある。いずれにしたところでオルバンで王弟殿下の私兵集団に動きはない。だとすれば、今、相手が立たないうちに先手を打って討伐軍をさしむけてはどうかというのだ」
「ただ失踪したからというそれだけの理由で討伐がされると?」
「まあ、な……問題はそこだ、ハール」
髭の老人は苦い顔をしている。
「討伐をするとして、いったい、何を理由にしてクリーエフ殿下を討伐するのか。理由がない。ただいなくなったというそれだけのことが理由になるのか。内務の密偵が斬られたという情報もあるのだが、では、その密偵を斬ったのが王弟殿下であるのかというと確たる証拠がない」
老人は続ける。
「麻薬の問題や、武器のこと、いろいろと後ろ暗い噂はあり、そのような噂についてハール、おまえさん達がいろいろと動いてる情報を集めてくれたことも知っている。けれど、そういった犯罪と王弟殿下の間をつなぐ線がない。状況証拠はあったとしても、それだけのことだ。状況証拠だけで大量の軍団を動員するのかというと、実は相当に難しい」
髭の将軍はどちらかというといらだっている。
「……わしはな、ハール。本当のところを言えば、王弟殿下は失踪すると同時にオルバンなりトガンなりでただちに反抗の火の手が上がると予測していたんだよ。わしだけではない。みんなそう思っておった。だが、そうはならなかった。王弟殿下はまるでロウソクの火が消えるようにしてなくなり、そして、何事も起こらない。何事もだ。普通に考えれば保安のハヴェル達がうまい具合に先手を打ってクリーエフ様の動きを断ち切り、そのおかげで今のところ平安が保たれていると考えるべきであり、つまりは今の天下泰平を喜ぶべきなんだろう。けれど、どうも、ひっかかるところがあるのだ」
「向こうにはルイ・グランデールもついていますからね」
王弟一人であればなんということはない。けれど、王弟クリーエフのところには徳望家の機士が一人ついている。
「単に連携がまずいとは思われない。麻薬の件もあるし、どこかの筋が中古ドレイクを集めているという噂も聞いている。王弟殿下の署名入りの檄文が回っているという未確認の情報もある……現物は押さえられていないが」
「……」
「なんとなくひっかかるのだ。わしの勘ではあるいはこれは……」
「罠であると?」
「罠かどうかは分からんが、王弟殿下はわしらが動くのを誘っているというか、何かを待っているように思われるのだ」
「……」
「王弟殿下は圧倒的に弱い立場にある。とても罠なんぞを張っている余裕はないはず。普通に考えればな。けれど、どうも嫌な感じがするのだ」
老人は何かを考えこむようにして沈黙し、三十男はそこで言った。
「……そういえば、将軍。うちの天幕周辺をうろついている不審人物が見つけましてね。何かをかぎまわっていたようですが、これをうちの家内と娘達が捕らえたのです」
「不審人物……」
老人は何故そのような些細な事件について武侠の当主が言及したのか、理解が遅れた。カールクエイツの当主はそこで話を続ける。
「本人は国土省の嘱託の検査官だと言っていますが、多分、密偵でしょう。内務省に突き出すか、ちょっと考えているのですが……。」
三十男は厳しい顔をしており、老人はそこで事実関係を把握したようである。密偵を放ったのが誰であるか。考えるまでもない。
「クレティアか……しかしな、ハール。今のところ南方戦線に大きな動きはない」
本当に罠であるのであれば王弟が消えてなくなったその瞬間にクレティアは飛び出してこなければならないはずである。けれど、そうならない。連中はいったい何をやっているのか。まさしくがたがたの連携である。
「勝算なしということでクレティアが諦めてしまったのか?それとも……ああ、分からんな。モーゼル街のおかま大使は相当の曲者だ。何か悪いたくらみがあるように思われるのだが……」
いっそのこと向こうから仕掛けてきてくれればどれほど楽か。老将軍は苦悩している。
「それとも、王弟殿下は内務の連中の締め付けに耐え切れなくなって、逃げ出したのだろうか?あるいはクレティアにでも亡命するとか……考えられないことではないが……」
迷っている老人の言葉に三十男は言った。
「向こうの意図は分かりかねますが、罠だと思われるのであれば、動くべきではありませんね」
「そう。そうなのだが、軍令部のほうは動きたがっておってな。慢心しているわけではないのだが……」
老人はどうやら少数意見の一人であるらしい。
「罠だと分かっている上に、こちらのほうが圧倒的に強いのであれば、兵の用意だけしておいて、あとは向こうが仕掛けてくるのを気長に待つのがいいのですがね。案外、未来永劫何も起こらなくて済むかもしれませんし……」
「まあ、そうはならんだろうな」
いずれ何が起こるのだ。ただ、それは十年後かもしれないし百年後かもしれない。
「人のことは言えんが老人になるとな、ハール・エラート、どうしても気が急いてしまうのだよ。軍令部の老人達も目が黒いうちにできるだけのことはしておきたいのだよ」
「ご心配をなさらなくても、モトラッド将軍にお迎えが来るのはまだ先でしょう。案外、こちらのほうは本当に未来永劫やってこないかもしれませんよ」
「馬鹿を言う。人はいずれ死ぬもんだよ」
カールクエイツの当主の言葉に老人は苦笑いをした。情報交換はそこで終わりであった。
髭の将軍はカールクエイツが密偵を捕らえたことを知ったし、一方の三十男は軍の上層部がイライラを始めていることを知った。
「オルバンとクレティアで二正面の作戦になったとしてもステアネーゼ国軍はそれほど恐ろしくは無い。オルバンにある王弟殿下の子飼いの私兵共は飛竜だけで六十機ちょっと。それも二線の機体ばかりだ。国都の航空隊だけでなんとか押さえられる。クレティアの連中もニールスを拠点にしている南方の部隊でなんとかなるだろう。問題は、紛争が長引くことだ」
老人は言い、カールクエイツの長は頷いた。
「みんな旗色の良いほうにつきますからね」
ジリ貧の中下級貴族の中には、博打に打って出る決意を固めるものも出てくるだろう。
「だからこそ、こちらから討って出て、オルバン、クレティアを各個撃破すればいいのではないかという話になるのだが、相手の動きは気になる……ああ、いかんな、わしも老いぼれてきたな。同じ話を繰り返すようになったら、そいつはもう脳細胞が半分ほど死滅していると誰かが言っておったが。まあ良いわ。とにかくそういうことだ。軍令部の動きは伝えたぞ」
「確かに承りました。こちらでも何か動きがありましたらすぐにお伝えします」
短い密談は終わり、老人はそこで釣り竿をしまいにかかる。と、不意に老将軍の手が止まった。
「ハール。このごたごたが終わったらうちに来ると良い。良い鹿肉の燻製が手に入ってな。うちの婆さんも話を聞きたがっている」
「そうですね、そうしましょう……」
カールクエイツの当主は穏やかに笑った。
「おまえさんところのボウズも連れて来るといい」
「そうしましょう」
「相変わらず、無茶をやっているそうじゃないか。おまえさんところのは。聞いたぞ、王立機士学校の練習機を分捕って売っ払っちまったんだろう?」
「お恥ずかしい話です。ご存知でしたか……」
苦笑いをする父親に、老将軍は顎を擦りながら笑った。
「なんでも機士学校は大弱りだとか。練習機が無いのでは実習もできない。生徒は仕方が無いから駐竜場で両手を拡げて跳ぶ真似をしているとか。馬鹿なことをしておる」
「……申し訳ございません。監督の不行届きで」
「おまえさんを責めているわけではないよ。そうではなくて、王立機士学校の生徒のことだよ。テストの結果がよければどんな狼藉をしてもいいと勘違いしておる。あの学校はエリートを作るつもりで人間のクズを作っている。良い薬だよ。おまえさんの令息は天に代わって裁きを下したのさ。なかなかできることではない」
「……」
父親はもはや何も語らない。相槌すら打たない。賞賛してもらえるのはありがたいことであるが、物事には限度というものがある。
「うちは孫が全員女でな、おまえさんの息子みたいにイキの良いのがいれば絶対に機士にするんだが……」
「女性でも機士にはなれますよ、将軍」
現にカールクエイツの当主婦人は素晴らしい破壊力を持つ機士であるという。
「まあな。だが、男にしか教えられず、男にしか理解できないものもあるのさ」
老人はロマンチストであり、一方で、男女同権者というわけではないらしい。
「いや、待てよ、これは息子達共なんかあてにしないで、わしがもう一頑張りしてみるというのもいいかもしれんな。孫のかわりに孫のような息子がいるというのも悪くない」
老人はあまり品のよろしくない自分の冗談に適当な笑顔を作った。カールクエイツの当主のほうは複雑な顔をしている。
「ハール、今の話、家内には内緒だぞ。怒ると恐ろしいからな、あれは」
老人は軽口で言い、と、いうことはそれは本心からの発言だったのだろう。いずれにせよ、世の殿方の多くが細君のことで大いに頭を悩ませているというのは事実であるようである。
灰色の雲が空を覆い、青い月明かりとともに何もかもが夢と消え――。
振替の休日になったカペルヴィアストルの校舎はしんと静まり返っている。
平日ということで、学外では人々が忙しく働いており、カペルヴィアストルの敷地だけがまるでそこだけ切り取ったようにして静寂に包まれている。
学内に残っているのは実家に帰ることも遊びに出ることも無い貧乏学生達と宿直になる教官が僅かに数名あるばかり。休日をおして勉学に励むような殊勝なものがカペルヴィアストルにいるわけもない。
バアドクレア・アスペンブロウは実家に帰ることもなければ街に遊びに行く金もない地味な学生の一人であり、だからこそ寮室に篭っていたのだが、貧窮だけがキメラの若者が寮に引きこもる理由ではなかった。
――どうも体調が優れない。
のである。祭りのあとのわびしさい北風に吹かれたために風邪を引いた、というわけではなかった。嫌な微熱に加えて、腰の辺りの鈍い痛み。どうやらキメラの『性別固定』が始まったらしかった。
「どうだ、調子は……」
エラートの若旦那の訊ねる。
時刻はお昼の十二時を回る。ベッドの上のバアドクレアはぼそぼそと答える。
「あんまり、良くない……」
「飯ぐらいは食ったほうが良いぜ」
黒い髪の野人は言った。寮の食堂からわざわざ持ってきた朝食は手付かずのまま机の上に乗っている。
「食べたくないんだよ……」
バアドクレアはしんどそうに言い、トリセルディは頷いた。硬いパンに鮭のフライ。生野菜のサラダ。よくよく考えてみれば食堂から持ってきた朝食は病人の胃に優しいものとはいえない。トリセルディ・エラートは基本的に頑健に出来ており、そこで病気だろうが怪我だろうが食欲が衰えるということはほとんどないが、繊細なバアドクレアはそうではない。
――病人には病人らしい食い物でないとダメだな。
バアドクレアのほうは実の頃本当に『何も』食べたくないのだが、トリセルディはそうは考えていない。『普段どおりの食事』だからバアドクレアの胃が受け付けないのだと勝手に考えている。
――そうだ。
黒い髪の野人は彼にとっての名案を思いついた。トラム街に美味いシチュー屋があるのだ。特に地鶏のホワイトシチューは絶品。栄養のバランスも良い。病人の口にも合うのではないか。そうと決まれば善は急げである。どうせトリセルディにはほかにやるべきこともない。
「よし、ちょっと待ってろ、おまえの口に合うものを買ってきてやるからよ」
黒い髪の野人は軽い口調で言った。バアドクレアのほうは本当に『何も食べたくない』のであるが、そのことは言わなかった。トリセルディがせっかく気をまわしてくれているのだ。それを無下に断るべきではない。
「う、うん……」
金髪の若者は青い顔で頷いた。腰の痛みに加えて手足に小さな痺れが出ている。あまりいい気分はない。
「おまえの実家に連絡をしないといけねえな。姉ちゃんが来てくれることになっているんだろう?」
トリセルディが言った。性別の固定が始まる時には姉の一人が来てくれる。確か、そのようなことを言っていたと黒い髪の野人は覚えており、そのことは実はバアドクレアもすっかり忘れていたのだ。
「ああ、そうだね、そうだ……」
「自分で連絡するか?それても、俺のほうから言っておくか?」
「自分で……いや、トリセルディ、やっておいてくれないかな……」
頼りっぱなしの甘えっぱなし。キメラの若者はそうすることが嬉しいのだ。
「分かった。出掛けに連絡をすることにするよ。あと、ほかに、何か必要なもんはあるか?一緒に買ってきちまうぜ」
「……うん、そうだね」
バアドクレアはベッドの上で思案する。それにしても、床に伏せっているときに誰かが傍にいてくれて、しかも、その人物がなにくれとなく世話を焼いてくれることほど心強いことはない。
「いや、ないや……。特には」
「そうか」
トリセルディは頷いた。友人の実家に連絡をつけて、その後でシチューを買いに行く。シチューは奮発して三人前。余った分はトリセルディの胃の中に直行することになるはずである。
「ねえ、トリセルディ……」
バアドクレアはか細い声で言った。
「……?」
「ありがとう。本当に……いろいろと忙しいのに」
バアドクレアの謝意にトリセルディは笑って答えなかった。そこでキメラの若者はもう一つだけわがままを言った。
「ついでだから、もう一つ頼んでもいいかな」
「ああ、いいぜ」
「ノートとペンを取って欲しい。手紙を書こうと思うんだ」
「手紙?誰に?」
「母……いや、両親に」
黒い髪の野人は不思議そうな顔をしている。今、これから回線で実家に連絡するという算段であるのだ。今更、手紙など必要で有るまい。
「伝えたいことがあれば、回線で一緒に連絡するぜ」
「いや、いいんだよ。出すつもりのない手紙だから……」
「出すつもりのない手紙?」
トリセルディはバアドクレアの気持ちの整理のために手紙を書くという繊細さを深くは理解していない。
――よくは分からんが、まあ、そういうこともあるのだろう。
黒い髪の野人はバアドクレア整った机からノートとペンのかわりに鉛筆を取りあげて、病人に手渡してやる。
「ペンだとインクが垂れるだろう。鉛筆にしておくぜ」
「ああ、うん、そうだね。そっちのほうがいいね……」
バアドクレアはベッドの上で天井を見上げるようにしてノートを拡げる。トリセルディのほうは、それを見るとシチューを買いに歩き始める。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ……」
「うん……」
トリセルディは愛用の斧を自分のベッドに立てかけたまま部屋を出て行き、バアドクレアは無理な姿勢のままノートに乱れた薄い字で手紙を書き始める。誰かに読まれることを意図しない手紙。
母上。つい先日、お会いしたばかりですが、いろいろと思うところがあって、こうして筆をとりました。僕はいよいよ性別の固定が始まったようで、微熱が出ています。腰のあたりにも嫌な鈍い痛みがあり、手足に小さな痺れがあります。姉上が来てくれるということですので性別固定そのものにはそれほど心配をしておりませんが、むしろ、その後のことに、私は大きな不安を抱いています。国情が危うく、またアスペンブロウ家の経営もうまくいっていません。私が成人して、家督を継いだしても、恐らくはアスペンブロウは早晩に破綻するでしょう。土地は切り売りに続く切り売りで、いずれは、大貴族か、さもなくば大商人のものとなることでしょう。
バアドクレアは首を振って、ノートの一ページを破り捨てた。時期アスペンブロウ当主は自分の家の行く先をきわめて冷徹に見ている。だが、若者がはじき出した計算は、母親のかくあるべきという理想とは完全に食い違っている。キメラの若者は新たに真っ白なページに鉛筆を走らせる。
母上。とうとう性別の固定が始まりました。熱が出て、動くのが億劫です。トリセルディがいろいろと助けてくれるので難儀はしていませんが。トリセルディは粗野な人物ですが、粗暴ではなく、博識ではありませんが無能というわけではありません。信頼できるかできないかといわれれば信頼のできる相手であり……。
バアドクレアはページをそこで破って捨てた。前夜、ドレスを着て踊ったことはもちろん書くつもりはない。そのことは心の奥底にしまうべき秘密中の秘密であるのだ。
母上。母上はトリセルディのことをあまり評価していないようですが、私は彼のことを有る程度は評価しています。貴族のしきたりからは外れ、礼儀を弁えないところもあり、そのことで私が不快を感じることも多々有るのですが、同時に、彼が抜群の実力を有していると認めざるを得ません。行動力、胆力、その他いろいろな目で私は彼に学ぶところがあるように思います。
バアドクレアは苦い顔で三度ページを破り捨てた。母親がトリセルディを好いていないことをバアドクレアは理解している。いずれその不仲に自分が悩まされるのではないか。キメラの若者はなんとなくそのようなことを予期している。気分の優れぬところにさらに悩みを抱え、鬱屈しきった若者は猛一度だけ鉛筆を握る。今度の宛名は父親である。父への手紙は母への手紙よりも書き手にとってずっと気楽なものとなった。共通の話題があり、その話題によって誰も傷つくものがいないからである。
父上。国都から報告します。先般お話したとおり、都では不穏な空気が漂っています。王弟殿下はいずこかへ姿をくらませ、国都にはいたるところで検問が敷かれています。国都上空は飛行禁止区域が設定されており、普段は見られるカーゴバケットや客室バケットを繋いだ民間の飛竜の姿を見ることもありません……。
政治的なことはやはり書きやすいようである。と、さらに数行を書き進めようとしたバアドクレアの手がそこで止まった。
部屋の扉が開いたからである。
「ああ、トリセルディ、もう戻った……」
ベッドの上で仰向けのまま手紙を書いていたバアドクレアはてっきりそれが、シチューを買いに行った僚友であると思ったのだ。だが。
「あらあら、もしかして性別の固定が始まったのかしらね?」
突然の声にバアドクレアは微熱を忘れて飛び上がった。声の主をバアドクレアは良く知っていた。嫌な中年女。散財に散財を重ねたエラの張った叔母。キメラの若者は慌てて言った。
「ああ、叔母上……。わざわざ、こんなところまで……」
ありがたいようで全くありがたくない。つい一昨日だかに青い薬を携えてやってきたばかりの中年女が今度は寮室の中にまで侵入してきた!予想外の出来事に若者はうろたえてしまっている。
「い、いったい、どうしてまた……」
バアドクレアは起き上がろうとし、ノルジエはそれを制した。
「まあまあ、何も起き上がらなくていいのよ。そのまま休んでいなさいな」
キメラの若者は惑乱しながら、それでもベッドの上に上半身を起こした。
「こんなむさくるしいところにあがって来られなくても……呼んでいただければ、こちらから下りていきましたのに」
「下の守衛に聞いたら、病気だと聞いたから、もしやと思ってね……」
中年女はまた何かをよからぬことを企んでいるようである。
「それで、叔母上、今日はいったいどういったご用向きで……」
「そうそう……この前、兄上と話をして、それで、いろいろと事業計画についての問題点を指摘されて、それを直してきたので、バアドクレア、あなたのほうから、この計画書しを兄上に……アスペンブロウ当主に渡して欲しいのよ」
「……」
貧すれば鈍す。問題点を指摘されたとノルジエは言ったが、それは遠回りに拒絶をされたということであるのに違いない。
――この人は……。
熱でふらふらしているバアドクレアにしてみれば呪わしい限りである。
――こういう人は頭をハンマーで二、三発殴りつけて、その上で『お断りだ、くそったれ』とでも言ってやらないと分からないんだろうな。
キメラの若者はだんだん下々の者に感化されてきているのだろう。内心で思いっきりの悪態をついた。ただ内心で悪態をついただけではない。
――まあいいや。受け取るだけ受け取っておいて、そのまま放っておけばいい。
若者はサボタージュの仕方まで覚えている。格段の進歩である。
「……分かりました。お預かりしておきます。父には僕から書類を渡しましょう」
バアドクレアは素直に言い、ついでに心の中で呟いた。
――いつ渡すかはこちらで適当に決めますけれど。
すっかり邪悪になった甥っ子の内心をとらえきれず、中年女は満足そうに笑った。
「そう。そうしてくれると助かるわ……」
渋ちんの兄から金を引っ張るならばその息子を抱きこむに限る。あざとい叔母はうまい抜け道を見つけたつもりなのであろうが、そうそうバアドクレアも踏み台にばかりはされていない。
「……ご用件はそれだけで?」
バアドクレアは訊ね、機嫌の良くなった中年女はそこで思い出したようにして言った。
「そうそう、薬は飲んだかしら?」
「薬、ああ、頂いたあの薬ですか……」
叔母が都合してくれた青い薬瓶は寮室に備え付けられた棚の上に乗っている。実はバアドクレアは、叔母がくれた薬には手をつけていない。性別の固定が始まったのが昨日の今日ということもあるが、それよりもなによりもなんとなく散臭い感じがして、そこで薬に手をつけるがためらわれたのだ。
――ホントにこんなの飲んで大丈夫なのか?
原料も製法も分からぬ怪しい薬。慎重で臆病なバアドクレアは、それが『男になる秘薬』であると知っていても、なかなか口にすることができない。
「呑まなければ駄目よ。バアドクレア。あなたは男にならなければならないんだから」
ノルジエは笑ったが、その目は恐ろしく冷たい。
バアドクレア以上に実は浪費家の叔母こそがバアドクレアの性別固定に人生を左右されることになるのだ。もしもバアドクレアが女になり、婿養子をとるようなことになったとする。婿入りした時期アスペンブロウ当主が血の繋がらない叔母の金の無心につきあうか?つきあうはずがない!ただでさえ、ノルジエの立場は危ういのだ。このまま金が回らなくなれば、浪費家の叔母は間違いなく財政的に破綻し、借金取りに追いまわされることとなるはずである。ノルジエは扱いやすいバアドクレアに男になってもらわなければならないのだ。ほかに選択はない。誰よりも必死である。
それにしても、兄が自分を禁治産者とする手続きに入っていることも知らず、甥っ子が少しずつ『扱いやすい人物』から脱しようとしているのに、そのことにも全く気がつかずあまつさえ『私の薬によって男になれたのだから感謝をしろ』と貸しを作ったつもりになっている中年女こそは浅はかであった。
「とにかく試してみなさい……」
エラの張った邪悪な女はそう言って、二つある瓶の一つを取り上げる。
高価だが、いかにもインチキくさい薬、青いガラス瓶に入った水色の液体の匂いを、バアドクレアはそれを貰った始めての日に一度だけ嗅いでいた。水色をした奇妙な薬には匂いは全くなかった。
ノルジエは瓶の蓋となっているカップを取り、その中に青い液体を注いだ。不吉な感じの水色をした液体。バアドクレアは不安を感じて尋ねた。
「叔母上、その薬はいったいどういうものから出来ているのですか?」
「さまざまな鉱物と薬草を元にして作られた秘薬中の秘薬。プレッカにある呪い小路の薬物店が作っているものよ」
プレッカ。金さえ出せばなんでも手に入る街。やくざ達が闊歩する危険な街。そこで作られる薬。
――本当に大丈夫なのか?
バアドクレアの不安さらに大きくなった。
――毒、ではないのか?
鉱物を元にする?そんなものを飲んでしまっていいのか?迷っているバアドクレアに金に狂った中年女は青い薬を突き出した。
「男にならないと困るんでしょう」
叔母は言った。確かに、男2ならないとバアドクレアは困るのだ。今は訳のわからない迷信や民間療法にもすがらなければならないところである。
「これから毎日、カップに一杯ずつ飲むといいわ」
中年女は笑った。恩を着せているつもりであるのだろう。バアドクレアは致し方なく水色の液体が入ったカップを取り、恐る恐るに液体を口に含んだ。
「ぐうっ!」
口に含んだ液体の味に若者は目を剥いた。強いて言えば苦いという表現になるのであろうが、とにかく不快な味である。有害な重金属の味とでもするべきか。もっとも、バアドクレアは重金属を口にしたことがないので、あくまで雰囲気であるが。
「一気に飲みなさい。味わうと飲み込めなくなるから」
中年女は鬼のように凶暴な目をしてバアドクレアに無理強いをする。
――こんなものが身体に良いとは思われない……。
人知を超えたまずさにバアドクレアは目に涙を浮かべ、中年女は牢獄の看守のようにして甥っ子の様子を見下ろしている。ノルジエにはバアドクレアへの愛情のようなものは全くない。ただ、金、金、金である。自分の欲得のためならば何をしても許される。倣岸な中年女は自らを省みたり、自らの行いについて検討するようなことはない。金に困り、切羽詰れば何でもするあさましい畜生である。
バアドクレアは、叔母に強いられるようにして、青い薬をなんとか飲み干すことができた。とてもではないが毎日は飲めない毒水。これを毎日飲むぐらいならば男になどならなくて結構。バアドクレアの決意を挫くということでは、叔母の努力は叔母の狙いとは真逆の効果となり――実際、バアドクレアが毒液を飲むことは無かったのである。
「バアドクレア。まずくてもこれを毎日飲むのよ。そうすればあなたは男になれる。男になって家督を継ぎ、アスペンブロウの家を盛り立てていくことができる」
叔母は口元に笑みを浮かべたが目は笑っていない。一方、無理強いに無理強いを強要されたバアドクレアは叔母の話を聞いていない。
――き、気分悪い……。
青い薬の効果は絶大であった。飲んで数分としないうちに、バアドクレアの身体に変化が現れる。それも悪い変化である。
「ううっ!」
小さなカップにたった一杯。だがただの一杯を服用しただけで、バアドクレアは眩暈を起こし、激しい動悸に苦しむこととなった。胃の上のあたりが鉛でも入れられたようにひどく重くなり、気分がどんどん悪くなる。脂汗が額を伝い……そして、耐え切れずに、バアドクレアはベッドの上で激しく嘔吐する。
「な、何を、吐いては駄目でしょう!」
どうも、中年女のほうは薬がどのような効果をもたらすかをよく分からずに購入し、そのままバアドクレアに送ったようである。突然激しく嘔吐した甥っ子の姿に、ノルジエは僅かに慌てている。
「た、高い薬なのよ、我慢して飲まないと……」
エラの張った叔母は目を剥いて怒り、そして、次の瞬間、その怒りが恐慌に変わった。バアドクレアが激しく吐血したのだ。
「あっ!」
中年女は突然血を吐いたバアドクレアを見て二歩ばかり、後ずさった。
「ど、どうして、こんなことが、ちょ、ちょっと……」
ノルジエはバアドクレアを男にするつもりであり、そのことに二心はない。ただ、薬物にたよったバアドクレアが健康な男性になるかということまでは知ったことではなかったろうが。それでも、叔母には甥っ子をそのまま薬殺しようという意図はなかったのだ。
「ど、どうして、こんなことに、ああ、血、血が!」
すごい量の吐血に邪悪な中年女も青ざめている。彼女は胡散臭い薬が本当に人体に悪影響を与えないかを自分の体なり、自分自身の子供の体で実験をするべきであったろう。もう遅いが……。
――苦しい、血が、血がたくさん出ている。
シーツの上に大量の血が染みていく。バアドクレアには、その血が自分のものであるという意識がない。金髪の若者は貧血を起こし、すでに目がかすんでいる。
「な、なんてことなの!ど、どうして、あ、あの薬剤師、何を売りつけてきたの!」
ノルジエのほうは半分錯乱して薬を売りつけた相手を悪罵した。当然、彼女の罵声が薬屋に聞こえるわけもないのだが。
「バ、バアドクレア!し、しっかりしなさい!」
四十を過ぎても甘えを捨てきれず、浪費によって家の財産を食いつぶした程度の人物である。窮地に冷静に立ち回ることなどできるわけもない。
「し、しっかりして!ああ、なんということを……」
中年女は狡猾であり、そこで自分の立場を理解している。次期当主に恩を売るどころか、このままでは、毒殺の疑いをかけられて下獄されてしまうかもしれない。
「バアドクレア、気を確かに持って……」
バアドクレアはベッドの上に折れ曲がるようにして昏倒している。呼吸がひどく荒い。トリセルディ・エラートが戻ってたのはまさにその時のことであった。シチューが入ったアルミの容器を片手に、のほほんとした表情で戻ってきた黒い髪の野人は戸口のところで一瞬だけ足を止め、そして状況を確認したあとの動きは速かった。
「どうした?おい!」
ベッドは血に染まっている。僚友は意識をなくしかけ、中年女は真っ青になっている。 ――ああ、この顔、いつかの中年女。バアドクレアの叔母さんとか言ってたな。
トリセルディは学識はないが、馬鹿なわけではない。床の上には青い薬瓶。何がどうなっているのかを理解するのにそれほどの時間はかからない。
「わ、私は、私はただ……」
中年女は自分がバアドクレア毒殺の犯人にされることを恐れて紫色の唇を震わせて弁明を始める。
「く、薬を……甥のためを思って秘薬を……ま、まさかこんなことになるとは……し、信じて」
「……」
トリセルディはエラの張った中年女のことを無視してバアドクレアのほうに走りよる。 「アスペンブロウは跡取がなくて、どうしてもこの子には男になってもらわなくては……それで、私は……」
「まずいな……。相当、出血しているぞ。いったい何なんだよ、この薬は……おい、あんた、これはいったいどういうことなんだ!こいつに何を飲ませた!」
「いや、それは……」
叔母は興奮しており、口がうまくまわらない。トリセルディ・エラートは中年女の腕を掴んで力任せに揺すって訊ねる。
「おい、こいつは何だ、この薬はいったいなんなんだ!」
普段動じることの無いエラートの若者が珍しく焦っている。 。
「そ、それは、星渡りの秘薬といって、性別固定が始まったキメラの体に作用して男性にするもので……」
中年女は自分の作り出した危機と、トリセルディの激怒のダブルパンチに身体をぶるぶると震わせている。
「……」
トリセルディはすぐに動き出す。血で染まったバアドクレアの身体を担ぎ上げ、そのまま足早に寮室を飛び出しににかり――そして中年女が興奮して叫んだ。
「い、いったいどこへ、バアドクレアをどこへ連れていくつもり……」
トリセルディは珍しく嫌そうな顔を作った。中年女の業の深さと身勝手さ、さらには血の巡り悪さにほとほと嫌気がさしている。そんな風情である。
「……ここにおいておくわけにはいかねえだろうよ。病院に連れて行く」
ノルジエは一瞬黙り込み、それから再び弁明を始める。
「こ、これは事故で……わ、私は何も……」
何も悪くない。悪いことはしていない。叔母はそのように取り繕いたいようであるが、それはトリセルディの関知するところではないのだ。
「そういうことはな、おばさん、銃士隊にでも言ってくれないか」
トリセルディは硬い声で言うと、バアドクレアを背負うようにして部屋を飛び出す。取り残された程度の悪い中年女の身の処し方についてはトリセルディの知ったところではない。とにかく、今は、一刻を争う。
「ト、トリセルディ、ど、どうしたの?」
廊下に飛び出した野人はそこでシエルと出くわし、すんでのところでぶつかりかかった。
「バアドクレア、血、血が出ているじゃないか!」
華奢な少年は流血に取り乱し、そこでトリセルディが言った。
「シエル、俺はこれから病院に行く。教官にバアドクレアが血を吐いたからと伝えといてくれや!落ち着いたらまた連絡する!」
「あ、ああ、うん、分かった!」
シエルは廊下を教員室のほうに走り始め、トリセルディは重荷をものともしないでこちらも階段を駆け下りていく。
「……ああ、トリセルディ……」
バアドクレアは死んだ魚のような目をしている。自分がトリセルディに背負われているという感覚は実はバアドクレアにはない。薬のせいで半分以上、意識がもうろうとしているのだ。キメラの若者は夢うつつ、幻に向かって呟いている。
「目が見えなくなってきた……。目が、見えなくなってきた……」
「待ってろ。すぐ医者に行くからな……」
「体が冷たくなってきた。寒いな……」
口を血で汚したままバアドクレアは呟いた。
「もう少しだ。もうちっとだけ辛抱してくれ……」
野人は走りながら答える。背負われているバアドクレアの耳にはトリセルディの声が聞こえていない。
「……今日は静かだ。どうしてだろう。今日は休日なのかな……」
トリセルディに背負われたままバアドクレアが呟き、トリセルディは、舌打ちを一つした。お世辞にも状況は芳しいとはいえない。それにしても、貴族の中年女というやつはいったい何を考えているのだろう。親切面をして身内に毒を盛るとは。
「クソ野郎め、人に勧める薬はまずてめえで確かめてからよこしやがれっ!」
憤った若者は友人を背中に警戒厳しい国都市街へと走り出ていく――。
夢が続く。
バアドクレアの夢である。
夢の内容はへたくそな脚本化が泥酔して書いたような意味不明なものであった。何の脈絡も無く、整合性もない。知性の欠片もなく、うんざりするほど出鱈目な脳内に立ち上った蜃気楼。
いったい、その夢が何時始まったのか分からず、また、バアドクレア自身、自分が見ているものが夢であると認識していない。
荒野に伸びる一本道を車に乗せられて延々と揺られる夢。バアドクレアが、この道はいったいどこまで続くのかと運転手に訊ねても、ハンドルを握る人物は答えてくれない。あたりがいやに白っぽく、また眩しいのに我慢がならず、そこでそのことを運転手に何度も告げるのだが、相手は苦情を全く受け付けてくれないいのだ。バアドクレアが戸惑っていると、場面が不意に変わり、キメラの若者は今度は実家の屋敷の地下室にいる。現実にはアスペンブロウの屋敷には地下室はなく、そこで、バアドクレアは大いに困惑するのだ。どうにかして地上に出たいのだが、いったいどうすれば、どこにいけば地上に出られるのか。そうかと思うと、三度場面が変わり、バアドクレアは白っぽい塔の中の螺旋階段を下っている。どうにかして地上にたどり着こうと歩き続けるのだが、どこまで行っても地上にはたどり着かない。焦って、焦って、憔悴しきり、そこで、また場面が変わる。バアドクレアが良く知っているカペルヴィアストルの体育館――。誰かは分からないが、大勢の学生が踊っている。ロウソクの炎が青く輝き、顔のない人々のさざめきが聞こえる。そして、バアドクレアは見ることになるのだ。
――あ、トリセルディだ。
他の人物のことは分からない。けれど、黒い髪をした友人のことだけは良く分かるのだ。
――おーい!ちょっと!トリセルディ!
バアドクレアは爪先立ちになって友人の名前を呼ぶのだが、トリセルディは一向にバアドクレアに気がつかないのだ。黒い髪をした僚友は着飾った少女と楽しそうに踊っている。相手はビーステアかもしれないし、エルマかもしれない。ファーラであったのかもしれない。とにかく、友人の耳にはバアドクレアの声が届かない。それがキメラの若者にはたまらなく哀しいのだ。
――僕……僕、ここにいる、ここにいるんだよ!
叫んでも聞こえない。孤独にバアドクレアは涙を流して、もう一度友人を呼んでみる。 ――僕はここにいる。お願いだから無視をしないで!僕は……。
バアドクレアが泣き出すと、まるで涙を嫌うようにして楽しそうな舞踏会の幻がどんどん遠くに離れていってしまうのだ。追いかけようとしても、足が動かない。
――待って、待ってって……。
声をからして叫んでも誰も耳を傾けてくれない。幻影はついに暗闇に飲み込まれ、バアドクレアは一人ぼっちになってしまう。
そして、哀しい夢はそこで終わった。
「……」
バアドクレアは目を開いた。目の前には真っ白な天井。そこがどこてあるのかキメラの若者には分からなかったし、それ以前に、バアドクレアの頭はまだその機能を半分も取り戻していない。
――眩しいな……。
まるで雪山に朝日が照り返すようにして辺りがひどく明るく輝いて見える。と、体を動かすことのできないバアドクレアのすぐ目の前に人の顔がすっと降りてくる。見たことの無い若い女性であった。
「ああ、気がついたかのね、良かった……」
黒い髪、癖の無い黒髪を長く伸ばした白い肌の美人。女はバアドクレアに笑いかける。どこかで見たような笑顔であるのだが、病人にはそれが誰なのか思い出せない。
「……」
バアドクレアは何かを喋ろうとしたが、唇も舌も動かなかった。
「毒はもう中和させたから大丈夫よ」
黒い髪の女は言ったが、バアドクレアはその言葉の意味を解していない。窓の外でさえずる鳥の声、そうでなければ草むらで鳴く虫の声。意識が半分混濁しているバアドクレアには言語を言語として理解できない。
「もう少し寝るといいわ」
黒い髪の女性はそう言って、バアドクレアの毛布を直し、病人の意識はそこで再び暗い闇の内に沈み込んで行った。
再びバアドクレアが目を覚ましたとき、相変わらず頭は重く、手足の先は痺れていたが、まわりに銀粉が舞うようなちらつきは収まっていた。
「……ああ、ここは……」
気分は最低で身体を動かすことは難儀であったが、とりあえず舌も唇も動く。
「ここはどこなんだろう……」
バアドクレアの目の前で白い天井が僅かに揺らいでいる。白く塗られた天井は、どうやら布で出来ているらしい。バアドクレアが収容されているのは屋内は屋内でも、天幕の中であるらしい。
「頭が痛い……。腰も……」
バアドクレアは起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。と、難儀しているキメラの若者のところに看護士が飛んでくる。
「お、起きた起きた……」
飛んできたのは女性であった。肌に張り付く黒いシャツに黒い皮のジャケット。羽織っているのは臍の上までの短い紫色のジャケット。黒い直毛を顎の線でばっさりと切った快活な若い娘。バアドクレアよりも二つ三つ年は上であろうか。キメラの若者が夢うつつに見た黒い髪を長く伸ばした落ち着いた女性とは別の人物である。紫のジャケットを着けた娘は飴を舐めている。
「どう、気分は」
「……あまり、良くありません」
「ま、そうだろうね」
ジャケットの娘は適当に言った。体つきがしなやかで、黒い瞳が大きな看護士は豹のような印象を見るものに与える。
「あんた、危なかったんだよ。変な薬飲まされて。あれね、結構やばいものらしいよ。砒素とか、水銀とか身体に明らかに悪いものも混ざっていたみたいだからね」
「……」
性別固定の際に服用することでキメラの身体を男性にする。もともとからして相当に無理な薬であるのだ。身体に良いわけがない。
「ま、薬のこととか細かいことはリノーの婆さんに聞くといい。リノーの婆さんって言うのは、医者で、あんたのことを助けてくれた人だよ。リノーの婆さんもキメラだから、キメラのことはあたしらなんかよりもずっとよく知っているんだ。信頼できる人だよ」
「……それで、あの」
おしゃべりな看護士にバアドクレアは訊ねかけ、それを黒い瞳の娘は最後まで言わせなかった。おしゃべりな娘はなかなかに押しの強い娘でもある。
「ドゥワルデ。あたしはドゥワルデ。トリセルディの姉貴」
「ああ、あなたが……」
バアドクレアは合点が言った。道理で初対面なのにどこかで見た顔だと思ったのだ。特に耳の形。ドゥワルデとトリセルディの耳の形はそっくりそのままである。
「トリセルディが、あんたをカッツェンに運んで……カッツェンっていうのはホテルの名前なんだけれどね。あたしらの一番上の姉貴がそこにいたんだよ」
バウケン街のホテル、カッツェン。何かあったら、そこに連絡を頼むとバアドクレアは前に一度トリセルディに頼まれたことがあった。
「トリスは、最初はあんたのことを病院に運ぶつもりだったらしいんだ。けれど、運んでいる最中にあんたがまた血を吐いて、これ以上動かすのはまずいっていうんで、姉貴のところに駆け込んだってわけ。で、知り合いのリノー婆さんが呼ばれた。点滴をして、応急処置をして、それであんたは一命を取りとめたと、まあ、そんな感じ」
ドゥワルデはバアドクレアに起こった事実を説明する。
「それで、あんたの容態が落ち着いてきたから、ビットプリウスに運び込んだわけよ」
「ビットプリウス……」
バアドクレアは以前に一度、その場所を訪れている。エラートの居城。人の寄り付かない廃城。カールクエイツはそこに天幕を張り、国都に暗躍する王弟一派を探る拠点としていた。
「学校に戻っても良かったんだけれど、なんか、あんた、家の事情が複雑みたいじゃんか。薬を持ってきたの、実の叔母さんなんでしょ?」
ドゥワルデは遠まわしに聞くという配慮がない。ずけずけと物を言い、あけすけに物事を訊ねるのだ。普通の人間であれば、そのような無作法をやっていれば、どこかで必ず手痛いしっぺ返しを貰うことになるのだが、ドゥワルデには、相手に『まあ、こいつは仕方が無いか』と諦めさせてしまうようななんとも言えない愛嬌があるのだ。
「……」
「がたがたしていたんじゃ、治るはずの体も治らないじゃんか。それだったら、こっちのほうが良い。またおかしな叔母さんがやってきても追い返すことができるしね」
おかしな叔母さん。そのような悪罵はその通りであるのだが、バアドクレアは血縁にあるので、極めて複雑な気分である。
「ああ、それから、あんたのお姉さん達にはあんたがここにいることを伝えておいたからね。心配はいらないよ」
快活な娘は言い、バアドクレアは黙っている。
「けれど、こっちにつくのはちょっと遅れるってさ。国都に飛行禁止区域が設定されたのは知っていると思うけど、あれの地域と期限が拡大したんだよね。軍用機と一部の機体以外、都には入ってこられないからね。あんたのお姉さん達も、陸路でこっちに来ることになると思うけれど、検問をいくつも越えてこないといけないからね。時間がかかるだろう」
「……そうですか」
応援が遅れるというのはバアドクレアとしても気の重い話である。
「いろいろとご迷惑をおかけします……」
「まあね。貸しにしとくよ。返すのはいつでも良いよ。百年先でも二百年先でも、いつだって構わない。まあ、百年後はあたしもくたばっていると思うけれどね」
飴を舐めながら無作法な娘は笑った。トリセルディをさらに表情豊かにしてさらに愛嬌をを加えたような笑顔。ドゥワルデという娘はなかなかに幸運な娘であると見える。
「それで、あの、トリセルディ……いや、トリセルディ君は」
「ああ、すぐにここに来るよ。今、飯を作っているからな」
「……そうですか」
「あんた、トリスの作った飯を食ったことは?」
「ないです」
「あの野郎、なかなか、あれで料理も美味いんだぜ」
バアドクレアはトリセルディが厨房に立つ姿を見たことがない。ソーセージをゆでるのは上手だったが、そんなものは料理のうちには入らないだろう。
「……」
黙ってしまったバアドクレアの様子をドゥワルデはひどく冷静に見詰めている。会話をするのも疲れること。病人であればなおさら。ぶしつけで押しばかりが強いように見えて、トリセルディの姉上は他人のことが良く見えている。
「……ちょっと疲れたか。またちょっと休むといいよ。夜にもう一度リノーの婆さんが来ることになっているから。それと、欲しいもんがあったら何でも言って。今日はずっとここにいるから」
「はい……」
バアドクレアは小さく頷き、快活な姉御は天幕から出て行った。キメラの若者は軽く目を閉じ、そのまますぐに浅い眠りに落ちていく。
リノーという名前の医者がバアドクレアの元を訪れたのは夜の七時をちょっと過ぎてからのことであった。国都で開業している老医師をトリセルディは禁止されている飛竜を駆ってこれを迎えに行き、エラートの当主であるトリセルディの父親はわざわざそのためだけにしかるべき筋に話をつけてくれていた。もっとも、そのようなエラート家の人々の努力を病人となったバアドクレアが知るのはしばらく後のことであったが。
とにかく、うとうとと眠っていたバアドクレアは医師の診察のために今一度目覚めることになった
「……」
自家発電によるものだろう。ぼんやりとした電球が天幕の中に灯り、バアドクレアは意思を取り戻し――懐かしい顔を見出した。
「ああ、トリセルディ……」
バアドクレアはほっとしたようにして言った。考えてみれば、朝方からずっと一緒であったのに、どういうわけか久しぶりの再会のようにバアドクレアには思われる。
「調子はどうだ?まだ痛むところがあるか?」
「ちょっと辛いけれど、大丈夫だよ。大丈夫。それよりも、いろいろと迷惑をかけてごめん。家の人にまでいろいろと大変な思いをさせてしまって。お姉さんだって忙しいんだろう?」
「気にすんなって。それよりも、いきなり血なんか吐いて、本当に焦ったぜ」
「君でも焦ることなんかがあるんだね」
バアドクレアもそうだが、トリセルディもかなり疲れているように見える。
「俺も一応は人間でね。そうは見えないかもしれねーけど」
トリセルディは笑い、そして、ドゥワルデに導かれるようにして老婆が一人天幕の中に入ってくる。くたびれて銀色になった金髪をひっつめた青い瞳の女性。トリセルディたちにはそうとは分からないだろうが、バアドクレアにはその人物が同属であることがすぐに分かった。
「来てくれたぜ、リノーの婆さんが」
ドゥワルデは本人をそばに『婆さん』呼ばわりをし、老婆は、なめた娘に気丈に言った。 「ドゥワルデ!あんたもぼーっとしてるとあっという間に私みたいになっちまうよ!」
気ままで押しの強い娘はへへへと意味不明な笑みをつくった。明るいやりとりがバアドクレアにとってはしみじみとありがたい。
「よし、それじゃあ、患者さんを診るかね。ドゥアルデ、鞄をよこしな……」
銀髪の老婆は言った。老医師は年齢で七十か八十といったところか。矍鑠とした人物である。
「先生、頼むぜ……」
トリセルディは我が子を頼む父親のようにして言い、老婆は答えた。
「分かったから、ちょっと席を外しておくれ、トリセルディの坊や」
男でもあり女でもある。キメラはとても繊細な生き物である。その気持ちは同属にしか分からない。
「ドゥワルデも。ちょっと大事な話もしなければならんからね」
トリセルディはともかく、何故自分まで。ドゥワルデはちょっと機嫌を悪くしたようであるが、医師の指示であれば仕方が無いし、弟の手前、わがままを押し通すということも難しい。
「姉貴、行こう……」
「……むー」
姉と弟は天幕から出て行き、診察が始まった。
「調子はどうだい……ええと、バアドクレアだったね」
「どうした僕の名前を?」
「あんたのお友達がいろいろと教えてくれたからね。アスペンブロウの跡取なんだろう」
「……」
バアドクレアは押し黙った。別に知られて困ることでもないのだが何かにつけて警戒するのは性格であるから直らない。
「薬を飲まされたんだろう。タチの悪い親戚だね。いまどき、あんなイカサマ薬を身内に飲ませるなんて。あんなもの百害あって一利なしだよ!」
老婆は無茶をする中年女に本気で憤っている。
「……薬を、薬を飲んでも男にはなれないんですか?」
「大方、店の人間に騙されたんだろうよ。よくあることだよ。女性化は特にキメラ種の貴族の間では頭の痛い問題だからね。だからころりと騙されちまう……。はい、目を見せて」
老婆はペンライトでバアドクレアの瞳の奥を覗く。
「大丈夫みたいだね。薬を吐いてしまったのが良かった。量も少なかったしね。薬を口にしたのは今日が初めて?」
「はい、そうです……」
「中毒症状を起こすからね。ひどいときには失明をしたり脳に障害が出たりする。はい、次は舌を出して……」
老医師はバアドクレアの舌を見て、扁桃腺の辺りを探る。異常はないようである。老婆はさらにバアドクレアの着けている寝巻きを引きずり上げ、聴診器で心音を聞く。
「うん……。ま、大丈夫だろう。問題もないようだし。解毒の注射はさっきしたし、点滴もいらないだろう……まずは一安心」
老婆は笑うと聴診器を耳から外した。バアドクレアも力ない微笑みを返す。
「ただ、おかしな薬を入れたせいで、性別固定の痛みがちょっとひどくなるかもしれないね。これは我慢しないと仕方が無い……」
「……一族の不徳、ですから」
バアドクレアは貴族らしく言い切った。老婆はバアドクレアの出来の悪い叔母についてはもはや何も語らなかった。代わりに医師はこう言った。
「手足に痺れが出たりしても、そんなに心配は要らないよ。性別固定が終われば消えるからね。痺れがあとあとまで残るということはないからね。熱のほうも同じ。知恵熱と同じようなもんだよ。内臓が変化していく時にどうしても生じるものだからね……。あとは、そう、腰の辺りに痛みはあるかい?」
バアドクレアは頷いた。
「はい。すごく痛いです」
「薬を飲んでしまったことで、痛みが普通よりもずっとひどくなってしまったね」
返す返すもろくなことをしない叔母である。
「どうすればいいんですか?」
「性別固定の時の痛みはこればっかりは本当にどうしようもないよ。体が急速に変化するときに鎮痛剤を使うのはとても危険なことだからね。ようするに我慢するしかない。ま、長くて三日。早ければ一日半ぐらいで痛みは消えるから安心をしなさい」
「はい……」
バアドクレアは素直に言い、老婆は話を続ける。
「性別固定の時には、ほとんど痛みがない場合もあれば、ひどく痛む場合もある。個人差が激しいからね。あんたの場合は悪い例にさらに悪条件が重なってしまったみたいだが……」
「……」
「とにかく腰を冷やさないようにして安静にしている。あんまり痛むようだったら誰かに指圧してもらうといい」
「……はい」
バアドクレアは小さな声で言った。
「ま、大丈夫。一番危ない時期は過ぎたからね。あとは、安静にしているように。また明日、朝にでも診察に来るよ……」
「ありがとうございます……」
診察は終わり、老婆は聴診器やらライトやらを鞄の中にしまい始め、そのついでに世間話を始める。
「それにしても、あんたは良い友達を持っているよ。カールクエイツのご子息と友人なんていうのは、そうそう滅多にあるもんじゃないよ。武侠は友人のためならばどんなことでもする、そういう連中だからね」
バアドクレアは自分が恵まれているということについてはコメントをしなかった。キメラの若者はどうしても医師に尋ねておきたいことが一つだけあったのだ。
「……先生。一つ、お尋ねしたいことがあるんです」
老婆はベッドの上にミイラのように横たわっている患者を見下ろした。多分、医師にはバアドクレアの訊ねたいことが分かっていたのではないか。
「僕は、僕は男になれるんですか?」
キメラの若者は真剣である。
男にならなければ家とっては深刻なダメージとなる。養子を取るか、最悪、大貴族への吸収ということもあるだろう。いずれにしたところで、純血のキメラ種はここで途絶えることになる。それはバアドクレアの、というか、バアドクレアの母親の本意ではない。
「僕は男になれるんですか?なれるとしたら確率はどれぐらいなのですか?」
バアドクレアの姉は弟に『男のなりかた』というものを教示してくれた。願えば男にはなれるのだ。確かそのような発言であったとバアドクレアは記憶している。けれど、バアドクレアも馬鹿ではない。
――本当にそんなことがあるんだろうか。
実家から学校に戻ってきて、キメラの若者はずっとそのことを考えてきたのだ。そして、なんとなく察したのだ。
――そんな馬鹿なことがあるとは思われない。
姉二人は女になりたくてなったのではなく、女にしかなれなかったのではないのか。そう考えないとキメラという生き物が漸減してきたこととの辻褄が合わない。だから専門家に尋ねたのだ。
「僕はアスペンブロウの跡取りです。男にならないと、本当に困ったことになってしまうんです。最悪の場合、家も絶えてしまうし、本当に残り少なくなったキメラ種の純血がさらに少なくなってしまうんです……」
「アスペンブロウ家。そうかい、あんたのところだったのかい。数少ないキメラの純血を保っていたのは……」
老婆はちょっと驚いているようであった。
「もうとっくに外から血を入れたと思っていたが……。ステアネーゼに残っている純血キメラ種の家柄がいくつか残っているとは聞いていたけれどねえ」
老医師は感慨深げに目を閉じ、しばらく何かを考えている。本当のことを語っていいものか、よくないのか。真実を語るのは決して難しいことではない。だが、それを語ってしまっていいものか。見れば患者はひどく思いつめるタイプであると思われる。事実は全てが終わった後、心も身体もしっかりとした時に語るほうが良いのではないか。
「あんたが男になれる可能性はゼロではない。けれど、それほど高いものではないだろうね」
「それほど高くないって言うと、どれぐらいなんですか?」
「正確な数値はわからない。けれど……」
老婆は相手の様子を見ながら土壇場になって台本を書き換えた。数値を改ざんしたのだ。
「三十から三十五パーセントといったところかね……」
一パーセントの可能性と、三十パーセントの可能性では、聞き手が受ける衝撃も、そこから立ち直る時間も雲泥の差である。一パーセントしか希望がないと言えば、患者は大抵絶望してしまう。けれど、三十パーセントであれば『三割も』ということでなんとか望みを繋ぐことができるかもしれない。そして精神的に追い込まれていないほうがどんな場合でも患者の治りは早いのだ。三割もあると騙されてそのせいでのびのびとすることができれば案外、一パーセントの奇跡を起こすこともできるかもしれない。老婆はそのように考えたのだ。そのせいで後々恨まれるかもしれないが、よくしたもので、老婆はそれほど長くは生きていられないだろう。
「三割、三割ですか……ああ、三割、僕は三人姉弟で、上の二人は女になってしまったんです。だったら、確率からすると僕が男になっても全然不思議はないんですね……」
バアドクレアは自分に言い聞かせるようにして言った。
「ああ、そうさ」
老婆は笑った。医師は良い役者でもあるのだ。
「ほかに何か質問はあるかい?」
「いいえ、もう大丈夫です」
バアドクレアは澄んだ笑顔を作った。往診はそこで終わった。
ステアネーゼ周辺にはいくつかのの駐竜場がある。コーエン、ガルシアの二つは軍のものであり、それとは別にトラム街の向いのベリルとラタンに民間のものが二つ。これらの施設は緊急発進のための大型カタパルトを二機乃至三機を備えたものであり、常時数十機の飛竜が駐機している。さらには別に王族専用のものが王宮裏のフォンキフォーにあり、ほかに各機士学校の所有するものが国都を取り囲むようにして点在している。
都に北東、グラールにもそのような駐竜場があった。
王立機士学校専用の駐竜場である。王立機士学校の生徒達はここを拠点にしてカペルヴィアストルの練習機への襲撃を繰り返してきたので有るが、天は悪を見逃さず、トリセルディの働きによって駐竜場にあった王立機士学校の練習機は教官機ともども売り払われてしまった。以後、王立機士学校の生徒達で、トリセルディ達の襲撃に加担しなかったものは駐竜場で両手を広げて飛ぶ真似をして演習の真似事をし、事件に加わってトリセルディによって覆滅された生徒達は空を恐れて駐留場にすらやってこなくなってしまった。ちなみに教官で生徒達をけしかけたパブロはいまだに病院の中で松葉杖と、鞭打ち矯正ギブスの世話になっているという。
練習機もなく、講義もないのであるから駐留場は閑散としている。カタパルトには圧縮ガスが補充されることもなく、敷地に巡らせた金網の扉には鍵がかかったまま。敷地には警備員すらおかれていない。盗られて困るようなものは何も無いし、そのことは盗みに入るプロの泥棒が一番良く知っている。
このように昼でも人気がないところに、好き好んで、しかも夜更けにやってくるような人物がいるわけも――あった。
暗闇にカタパルトを見上げる男が一人。
時刻は十二時をちょっとまわる。
薄暗い空を見上げているのは髭のルイ・グランデールであった。内務省の密偵や、警邏隊、銃士隊に追われ、都を脱出したといわれている髭の機士は実は都のすぐそば、それも王立機関の敷地内に潜伏していた。いったい何のために?検問に遮られて逃れられなかったのではない。そうではなくて、すべては計画のうちであった。
空を見上げる機士に声があったのはその時のことであった。格納庫のほうからゆっくりと歩き出てきた人物。肩幅の広い焼けて赤茶色の肌をした中年男は言った。年のころは四十ちょっとといったところか。ルイ・グランデールと同じぐらいの年齢であろうか。
「グランデール殿。ここだったか……」
剽悍な四十男の呼びかけに髭の機士は振り返った。
「テュケラ殿……」
代々王家の護衛を司るテュケラ家。四十男はその血縁者であった。
「パブロ・ペレラは気の毒なことをしたな……。貴殿の親戚だったと聞き及んでいるが」
「命があっただけましだろう。辺境での荒っぽい暮らしをどうしても忘れられないがさつ者だ。どうにもならんよ」
テュケラは親戚のことを唾を吐くようにして言った。
「親父に目をかけてもらって、王立機士学校にやってきたのも、こういう事態があろうということだったのに……肝心な時に役立たずだ」
四十男はどうやら本心から軽率な親戚を憎んでいるらしい。
「ま、考えようによっては、奴なんかは脱落してかえってよかったような気もするがな。ここから先は僅かな手違いが命取りになるだろうから」
グランデールは何も言わず、そこで、テュケラは訊ねた。
「それはともかく、だ。グランデール殿。聞いておきたいことがある」
「何だろうか」
「これは、俺の質問であると同時に、テュケラ当主モーリスの質問でもある」
テュケラ当主というところを強調して四十男は続ける。
「どうして、クレティアとの協調を切った?俺の聞いた話では、最初はオルバン、クレティア、北と南から王都を挟撃するというはずだったが」
「……」
「同志を集めたところで、オルバンから飛竜と陸戦の兵団が南下、同時にクレティアの軍団が南から兵を進める。混乱をついて、国王陛下の身柄を拘束し、金庫と玉璽を押さえる。確かそんな作戦だったはずだった」
「最初の作戦ではな。だが、予定が変わったのだよ。アリューク・テュケラ殿」
「……どう変わったというのだ?」
四十男はわずかに気が急いている。
「……いったいこれからどうするつもりだ?国王を幽閉し、代わりに王弟殿下を玉座に据える。そいつは結構。そのために、俺達は集まり、そして、地下に潜った。けれど、いつまでたっても俺達の出番はやってこない。グラール近くの雑木林に掘られた百年も昔の防空壕に篭ってただ時間を無為に過ごしている。武器もない、ドレイクはおろか、弾薬にも事欠く有様だ。いったいこれはなんなんだ。グランデール殿。俺達は何時まで待てばいいんだ?」
「……」
「いったい何がどう変わったのだ?俺達はどうなるんだ?何をすればいいんだ?」
焦った味方に突き上げられた機士は、ある光景を思い出している。王弟クリーエフのいたらない子息。薬に溺れた拗けた少年。少年を心が弱いと切って捨てるのはたやすい。しかし、その彼に私利私欲のために薬を売り渡しているのは誰であるのか。ルイ・グランデールとその一派は自分達の欲得のために、自分の子供達を食い物にしているのだ。
――こんなことをしていてはいけない。クレティアと結ぶべきではない。
グランデールはハーディの淀んだ瞳を見て、そのように決意し、そして、クレティアとの関係を断った。だが、そうなると今度は王位の簒奪計画が難しくなる。機士の中の機士は考えに考え、そこで思いついたのだ。
「……クレティアは所詮他国だ。こちらの都合よりもあちらの都合を優先させる」
ルイ・グランデールは言い、四十男は足下に切り返す。
「そんなことは前々から分かっていたことだろう」
「分かっていたことだ。だから、もっとうまい、もっと得なやり方を考えていた」
得なやりかた。実利主義者は大抵、この言葉に騙される。
「それで、あったのか、得なやり方は……」
「ある」
機士の中の機士は重々しく言った。
「王立機士学校の練習機が鹵獲されて、売り払われたことは知っているだろう?」
「あ、ああ。もちろんだ。パブロがやられた時のことだからな。知らないわけが無い」
「あの後、王立機士学校は新規に練習用の飛竜を購入していない。生徒達はだから、訓練が出来ない。そういうことになっている」
トリセルディに売り飛ばされた飛竜の代わりとなる機体はいまだに補充されておらず、そこで生徒達は駐竜場で机上演習を行っているという。
「そういうことになっている?」
四十男は引っかかりを感じて聞き返し、髭の機士は鍵がかかった空の格納庫に向かって歩き出す。
「空の倉庫に鍵をかける必要もない。そうは思わないかね」
「そうだが……」
ルイ・グランデールはゆっくりと格納庫わきの小さな扉に手をかけて、押し開ける。
「入りたまえ、アリューク・テュケラ殿」
機士の中の機士は厳かに言い、四十男はそこで格納庫に入った。
「おお……」
テュケラは息を飲む。格納庫にはところどころに小さな明かりが灯り、薄暗いながらも、その内側を一望することが出来た。
「こいつは……」
格納庫にはあるはずのないものがあった。強靭な翼を折りたたむ怪物。武装を整えた巨竜。生き物でもあり、同時に機械でもある兵器。
「こいつは、こいつはすごい……一級戦列機まであるじゃないか!」
テュケラは目を輝かせている。
「ベレスフォードに、アリアン、リノもある。全部で、十五、いや、二十はあるか……たいした戦力だ。よくこれだけ集めたな」
侮り、不信感を顕わにしたあとで感嘆する。テュケラは動じやすいということで大きな器でありえないのだろう。
「全部で十八機ある。分解してひそかにこちらに運び込んで、それを組み立てた。時間がかかったのはそのためだ……」
十八機の機体を部品ということで駐竜場に運び込む。普段でも誰も怪しまないし、実際に練習機が売り払われたあとであればさらに怪しまない。
「武装も弾薬も揃っている。二十クロイツ口径のバルカン、空対空バリスタ、光威砲。近接戦用のホークジャベリンにロッド。大型爆雷その他諸々……」
ルイ・グランデールは静かに商品説明を行い、アリューク・テュケラはそこで我に帰って言った。
「たしかにこいつはすごい……。すごいが、それでも十八機ではどうにもならない。コーエン、ガルシアの両基地には百機近い飛竜が配備されている。これだけでは、とても事を起こすには足りないのではないか?」
「そのコーエン、ガルシアの基地のドレイクが出払っていたら?」
「……」
「もしも仮に王都の防空隊がオルバンに出撃したとして、その隙をついたとしたら?それでも、事を起こすことはできないと?」
「うーん……」
アリューク・テュケラは一声唸って沈黙した。
「最初の計画では、国王陛下にはご退位を願うということであった。そうするためには飛竜だけではなく、有る程度の地上軍も必用だった」
飛竜は同じ飛竜を相手に戦い、拠点を攻撃することはできるが、人間を相手にするのは得意ではない。ましてや王宮に隠れている人間を探し出すことは不可能である。そのような細々した仕事はやはり人間の手によらなければならないのだ。人手を増やすとなれば機密はそれだけ漏洩しやすくなる。
「だが、そのような段階はとうに過ぎている。よろしいかな、テュケラ殿。陛下にはご退位を願うのではない。そうではなくて、この世から御退場いただくのだ」
ルイ・グランデールは冷徹に宣言した。中途半端なことでは戦は立ち行かないのだ。四十男は宣言に顔色を悪くし、機士の中の機士はさらに続ける。
奇麗事はもはやこれまで。生きて捕らえるよりも殺してしまうほうがはるかに簡単で面倒もない。必要となる費用と人員、時間も少なくて済む。
生きて捕らえて玉体を傷つけずなどという悠長なことを言っているから仕掛けが面倒になるのだ。王宮ごと国王が吹っ飛んでしまえばあとくされも無い――。
グランデールは冷たい決意とともに続ける。
「いずれ話すつもりであったが、よろしい。貴殿には今、この時に伝えておこう。これからの我々の作戦についてだ」
髭の機士はそこで何かを思い出したようであった。
「テュケラ殿、その前に、一つ、貴殿に見せておきたいものがある」
「俺に?」
ルイ・グランデールはそう言って、仲間を格納庫の奥へと誘った。猛々しい怪物のさらにその奥、弾薬が収まっている半地下のサイロに木箱に納まった何かが置かれている。魚釣りに使う鉛の重りのような形をした何か。人の背丈を優に越す巨大な金属製の物体。奇妙な金属製品は全部で四つ。
「クレティアから手に入れた新型の爆弾だ。普通、使っているものの倍の重さと貫通力を持っている」
鈍い色をした危険物にアリューク・テュケラは言葉を失っている。
「これで、王宮を吹き飛ばす。国王陛下もろとも。それで、すべては終わりだ。クレティアの出る幕はない」
ルイ・グランデールは苦い顔をして言った。クレティアとの関係を断って、結局、クレティアの兵器を用いる。仕掛けは立派だが、王弟派とよばれる人々はその程度でしかないのだ。結局はモーゼル街の悪辣な大使の手の中で踊らされているだけ。
「王弟殿下はすでにオルバンに入られた。一両日中にカロノール基地に動きがあるはず。国王陛下の軍は当然鎮圧に向かわざるを得ない。そこを衝く。爆弾で王宮を吹き飛ばして、それで終わりだ」
「……先に国王軍が動いた場合は?」
もたもたしている王弟に国王からの先制はないのだろうか?否、先制があろうがなかろうが関係はない。
「どちらに転んでも、国都はがら空きになる。我々はそこで動く」
国王は恐らくは国都から目と鼻の先に強力な爆弾が隠匿されてたいることを知らない。知った時には全てが遅いのだ。
「……何もかもが終わるのだ。そこで」
機士の中の機士はそう言って目を閉じた。
同じ空の下、同じ時刻に暗い密議が成されていることをバアドクレアは知らず――と、いうよりもキメラの若者はそれどころではなかった。
腰の痛みがひどくなり、とてもではないが寝ていることができない。熱で頭がぼんやりしているところにひどい鈍痛。天幕を見上げるキメラの若者は心細さにくじけてしまいそうになっていた。姉のセラーノも到着が遅れている。
「腰、痛いな……」
古びた家にヒステリックな母。小さくなってしまった父親。姉二人。嫌な叔母。抜け殻のような灰色の家臣達。そして自分は一人ぼっち。男になる確率は三割と医師は言っていたが、バアドクレアももうなんとなく気が付いている。きっと、自分が男になれる確率はそれほど高くはない。むしろ、きわめて低い。自分が女になってしまったとき、母親はなんと言うだろうか。バアドクレアの未来には極めて厚い雲が垂れ込めている。
――どうてこんなおかしな家に生まれてしまったんだろう。
もっと別の家に、もっと別の人間に生まれていればもっと楽な人生があったのではないか。想像するだけ無意味であるのだが、バアドクレアは自分の友人達のことを思っている。
自分がもしもミューネやファーラのような立場だったらずっと気楽であったのではないか。あるいはビーステアのように図抜けた大貴族の令嬢であったならば、せこせこと悩まずに済むのではないか。いずれにせよ中級下級の貴族というのが実は一番性質が悪い。名前ばかりで見入りは少ない張子の虎。
「もう何もかもが嫌になってきちゃったよ……」
バアドクレアは辛くて泣きそうになった。そういえば、ここしばらく泣きたくなることばかり。腰の内側では骨が軋むような痛みが続いている。疲れ果てているのに心の昂ぶりと痛みのせいでうとうとはしても、熟睡することができない。
天幕にトリセルディが入ってきたのはその時のことであった。
「よう、気分はどうだ?」
「……」
バアドクレアはことさらに渋い顔を作った。医師が帰ったあと、トリセルディはバアドクレアに鳥の入ったお粥を持ってきてくれたのだが、バアドクレアはそれをほとんど食べることができなかった。
「どうした?」
「君は……君はいつもそうだけれど、最高の売り時に僕の前に現れるね」
本当のピンチの時に現れる。そういうトリセルディのタイミングの計り方がバアドクレアにはなんとなく腹立たしい。
「そうか?」
トリセルディはのほほんとして言った。バアドクレアには分かる。黒い髪の友人はどこかで時間を見計らうなどという細かいことはしない人物である。
「腰のほうはどうだ?」
「痛いよ。まだ……。でも仕方が無いよ。薬とかを使うのはよくないってお医者さんが言っていたから」
産みの苦しみというわけではないが、性別固定の痛みはただ耐えるしかない。と、トリセルディが言った。
「ま、薬のことは良いとして。ちょっと背中、見せてみな」
「背中?」
「うつ伏せになれって」
「うつ伏せ?なんで?」
バアドクレアはトリセルディの意図が分からず、問い返した。
「医者の婆さんが言ってただろ。指圧してやると楽になるって……」
確かに、老婆はそのようなことを言っていた。だが。
「し、指圧なんかいいよ、そんなことしなくて……」
バアドクレアは焦って言った。腰の辺りを触られるのは友人とはいえ気が引ける。だが、トリセルディのほうはのほほんとしている。
「痛くて寝られないんじゃしようがないだろう」
「まあ、そうだけれど……」
キメラの若者は小声で呟いた。実のところ、バアドクレアの腰の痛みは相当ひどいのだ。誰かが何とかしてくれるのであれば、格好の良し悪しなどと言っていられない。キメラの若者は痺れる手で体を起こし、うつ伏せになった。
「医者の婆さんから教わったんだ。どうすれば良いかって」
トリセルディはバアドクレアの尻の上の辺りに手を置き、ゆっくりと押した。
「うあっ、い、痛い、痛いッ!ちょ、ちょっと!」
バアドクレアは叫んだ文字通り目から火花が散る痛みである。
「痛い、痛いッて、も、もうちょっと、や、優しくやってくれって……」
トリセルディはそれほど力を入れているわけではない。それでもバアドクレアは激痛を感じている。
「ツボが違っていたかな?両足の中心線からまっすぐ上がって、それで、尻と腰のちょうど真ん中にツボがあるって婆さんは言ってたんだが……」
トリセルディは奇々怪々なキメラの身体に戸惑いながら、教わった指圧ポイントを探り、両手の指で強く押した。
「ここか?」
バアドクレアの内臓にじわりと響く痛みがあった。
「あ、痛い、痛い、そ、そこだ、きっと、そこ……ほ、本当に痛い!」
バアドクレアは涙目になって歯を食いしばった。トリセルディはツボを上から下に圧し続ける。バアドクレアの腰のあたりに滞った嫌な痛みが、指圧を受ける痛みと混ざって、すこしずつ解れていく。
「……だんだん痛くなくなってきた」
脳の血管が切れるかと思われるほどの痛みが徐々に薄らいでいく。
「姉貴がすごい肩こり症でね。ガキの頃から、よく肩を揉まされていたもんさ」
野人はバアドクレアの腰を押しながら言った。
「……お姉さんって、ドゥワルデさん?」
「いや。一番上のだ。ユーニスって奴だ」
「ユーニス……」
血の巡りがよくなってきたのだろう。バアドクレアの痛みが徐々に薄らいでいく。薬も効かない厄介な苦痛であるが、思いもよらず痛みを消す方法があるとわかったことはキメラの若者にとってありがたいことであった。
「バウケン街で情報収集をしているのさ。おめえを運ぶのを手伝ってくれて、それで、すぐにバウケンに戻ったよ。夢うつつだったから覚えていないだろうけれど」
「そうなんだ……」
バアドクレアはなんとなくではあるが、トリセルディの姉を見たような記憶が有る。その記憶が正確なものかは欲わからないのだが。それにしても誰かがそばにいてくれるというのはとても心強い。病気のときであればなおさらである。
「……トリセルディ」
バアドクレアは不意に言った。
「なんだい?」
「……君の家は、君の家はなんていうか、とても楽しそうだね」
キメラの若者はどうして自分がそのようなことを口にしたのか良く分からなかった。ただ、なんとなくしみじみと思われたことがそのまま口をついて出てきたのだ。
「そうかね?」
トリセルディはぼんやりとした顔で答える。父母、姉弟は三人。バアドクレアも末の子であれば、トリセルディも末の息子である。家族構成は全く同じだが、雰囲気はずいぶんと違う。
「僕の家は……僕の家はこの前、君が見た通りだよ。どこもかしこも傷んでしまっていて、誰も彼もが生きる力を失ってしまっている。父は疲れ果てていて、母は心をちょっと病んでいる。姉二人は……姉二人は口に出しては言わないけれど、自分が女になってしまったことをずっと、気にしている。特に一番上の姉は……」
「……」
指圧師はお客の愚痴を黙って聞いている。
「みんな本当の気持ちを言えないでいる。家族なのに……」
バアドクレアは呟き、トリセルディはそこで言った。
「本当の気持ちをやたらめったらに言い過ぎるのもどうかと思うけれどな」
トリセルディは明らかに誰か特定の人物を想像して言っているようである。バアドクレアは枕に顔を押し付けたまま言う。
「けれど、黙っているよりはよっぽどいいよ。黙っていると、そのうち本当の気持ちがどういうものだか、自分でもわからなくなってしまうんだ」
キメラの若者の苦悩をトリセルディは黙って聞いている。バアドレアは多分反論を求めているわけではないのだ。
「……」
「僕は自分の家が好きだ。すごく矛盾していることだけれど、僕はアスペンブロウの古臭くて堅苦しい空気が好きだ。でも、同時に、アスペンブロウの黄昏時がもうすぐ終わるかもしれないとも思っているんだ。憎くもあり、疎ましくもあり、けれど、最後の最後で捨てきれない。結局、僕にはあそこしか戻る場所はないんだ……」
トリセルディは黙ってバアドクレアの腰を指圧している。
「だから怖いんだ。男になれなかったらどうしようって。女になったら、僕は行くところがなくなってしまう。居場所がなくなってしまう。トリセルディ、君だったら、自分の居場所をどこにでも切り開いていけると思う。でも、僕は無理だ……」
キメラの若者はぽつんと言い、トリセルディはようやく口を開いた。
「昔、親父から、こういう話を聞いたことがあるぜ。貧乏な機士の話さ。あるところに、機士が一人いて、こいつは力の有る奴だったが、とにかく神経質な奴だった。家賃がたった三万ゼルナの雨漏りがする借家に住んでいてな」
「……」
「そいつは貧乏だったけれど、まあ、そこそこ暮らしていけたのさ。だが、ある時、不幸が襲ってくる。隣の部屋に老人が入居してきたのさ。老人のところにはどこかで拾った異国育ちの言葉も分からぬ踊り子と、その踊り子が生んだ父親の分からぬ子供がいてな。とにかく、女は踊って飛び跳ねるわ、子供は夜泣きするわで、隣の部屋にいた神経質な機士は頭がおかしくなりかけちまった」
「なんか妙にありそうな話しだなあ」
「まあな……」
トリセルディは軽く片目を閉じて話を続ける。
「機士は怒って老人と踊り子、それからその子供を皆殺しにしてやろうとも考えたのだが、途中で考えを変えた。それで、三万ゼルナの家賃の家を出て十五万ゼルナの家賃の庭付きの家に引っ越したのさ」
「その人、お金が無かったんだろ?」
「そう。金は無かった。けれど、奴はこう考えたのさ。きっと、俺は月三万ゼルナの家に収まって安穏としてはいけないんだろう。雨漏りのする家ではあったけれど、生活は気楽で何も文句は無かった。だがきっとそれではいけないんだ。だから天があの老人と踊り子と可愛くもなんともないガキを俺の部屋の隣に寄越したのに違いない。俺は俺の身の丈にあった家にすまなければならないんだ。金なんてのはなんとかなるもんだってな」
「前向きなのか、ただ単に思い込みが激しいのかよく分からない人だなー」
バアドクレアは笑った。
「まあな。けれど、信じることが大事なのさ。自分を信じる。根拠なんかどうでもいい。
自己暗示でもなんでもそれで物事がうまい具合にいくのであれば良いじゃねえか。実際に、その機士は十五万ゼルナの家賃の一軒家にすむようになってすぐに、大きな戦闘で手柄を立てて、金も十分にもうけることが出来た。それで、ついには借家ではなく、自分で持ち家を買ったんだそうな」
とても瑣末な市井の人の些細な立身出世物語はそこでめでたしめでたしということであった。
「それ、実話なの?」
バアドクレアは楽しげに言った。キメラの若者はトリセルディと他愛のないおしゃべりをしているときが実は一番幸せであるのだ。
「実話かどうかは知らねえけれど、一つ言えることがある。それは、人間って奴は体も大きくなっていくけれど、同時に魂や器というものも大きくなっていくものなんだってことさ」
「魂や器……」
「身体に合わなくなった服が着られないように、家や立場っていうやつも、人間の魂の大きさにあわせて選んでいくものなんじゃねえかな。蛇だって抜け殻にはもどらねえし、トンボがヤゴに戻ったって話も聞いたことが無い。一度トンボになったヤゴはヤゴには戻らないんだ」
トリセルディは静かに続ける。
「さっき話した機士は、一度、隣の老人をぶち殺してやろうと考えている。奴にはそうすることもできたんだ。けれど、そうしなかった。揉め事を大きくするよりは、争いを避けて新天地を目指したんだ。それが幸運に繋がった」
「僕にも、家を捨てろってこと?」
バアドクレアは聞きとがめるようにして訊ねる。
「トリセルディ。いろいろと憂鬱な場所だけれど、僕は僕の家が嫌いではないんだよ」
「貧乏な機士も雨漏りの借家を嫌ってはいなかったぜ」
「……」
「好き嫌いは多分問題じゃないんだと思うぜ。足が大きくなれば靴を買い換えるのは当たり前のことだ。小さな靴に合わせて足を削ることは無い。手が大きくなったら手袋を買い換えるのであって、指を切ったりはしない。それだけのことさ」
「君は貴族じゃないから、そんなことが言えるんだよ」
バアドクレアはちょっと怒ったようにして言った。怒りは、トリセルディの自由さに憧れればこそである。
「そうかもな」
トリセルディはあっさりと事実を認め、そしてバアドクレアの腰を揉む手を休めた。
僅かに沈黙があり、そしてバアドクレアは言った。
「……ねえ、トリセルディ」
「?」
「……僕はもしかしたら男にはなれないかも」
誰かに語って不安が消えるわけではない。けれど、バアドクレアは誰かに語らずにはいられなかったのだ。
「どうしてそう思うんだ?」
「医者のおばあさんが言っていた。僕が男になる確率は三割ぐらいだって。でも、あれ、嘘だ」
「……」
「根拠があるわけではないし、何かの統計があるわけではないけれど……でも、僕だって馬鹿じゃない。人が嘘をついているかそうでないかぐらいは分かる」
バアドクレアは興奮を抑えるようにして言い、トリセルディはそこで応じた。
「だったら、おまえが思う男になれる確率っていうのはどれぐらいなんだ?」
黒髪の野人の口調は静かである。
「バアドクレア・アスペンブロウが弾き出した確率ってのはどれぐらいなんだ?」
「よくは分からないけれど、きっと、一パーセントもないんじゃないかって思う……。ゼロと一の間、それもゼロに限りなく近い確率だって。そうでないと辻褄があわないもの。三割も男子になる確率があるんだったら、こんなにキメラという種族が先細りになるわけがない……」
「……」
トリセルディはしばらく黙って、バアドクレア友人が落ち着くのを待ち、それから言った。
「だったらいいじゃないか」
「……」
野人は穏やかに言った。
「ゼロに近かろうがなんだろうが、ゼロではないんだろう。だったら、その確率に賭けてみろよ。なーに、どうせ負けたって命まではなくならないじゃねえか。厳しい勝負だとは思うが、生き死にに関係ないってところでは最悪に絶望的な博打ってわけじゃねえんだ」
トリセルディは自分が遭遇したもっと率の悪い博打については語らなかったが、もしもバアドクレアが訊ねればきっと自分がかつて遭遇した命がけの賭けについて懇切丁寧に話してくれただろう。
「信じることで何もかもがうまく行くとは限らねえ。けれど、信じないことには何も始まらない。ゼロではないんだ。だったらその僅かな可能性を信じてみろよ。それでもしもうまくいかなくて、運命に裏切られたって、きっとそのことで何かが心の中に残るはずさ」
武侠の青年は断言した。
「何かが心の中に残るはず……」
呟きを反芻するバアドクレアにトリセルディは明るく言った。
「それによ、もしも、万一おまえが女になっちまったとしても心配すんなって。その時は俺の親父がアスペンブロウ卿にことの次第を話して、必ずとりなしてもらえるようにしてやるからよ!」
バアドクレアがトリセルディに惹かれるのは、強さもそうだが、それよりも、その底抜けの明るさゆえであったろう。その一方で、バアドクレアはトリセルディのことを困った相手だとも思っている。
――男になれ!おまえならばきっとなれる!
そのように二心なく応援してくれる相手の存在が、バアドクレアが女性を捨てきれない原因ともなっている。
好きでもあり嫌いでもあり、頼ってもいるがちょっと疎ましくも思われる。それでもいて欲しい相手。
キメラの若者の友人を見る目は僅かに複雑である。だが、それはトリセルディが悪いわけではない。すべては自分の運命。古い血族に生まれた自分の宿命。
「そうだね。そうだ……」
バアドクレアはちょっと寂しげに頷いた。迷いは晴れないが、少なくとも腰の痛みはずっと和らいだ。
「もういいよ。だいぶ楽になったから……」
キメラの若者はベッドの上に仰向けになった。
「これならばちょっとは眠れそうだよ」
そうか。トリセルディは落ち着いた様子で頷き、キメラの若者は目を閉じた。
痛みが薄らいだせいであろうか、バアドクレアはその晩は嫌な夢をみることは無かった。
翌朝。
バアドクレアが目を覚ました時には、天幕のうちにはトリセルディの姿はなかった。
「……」
微熱は相変わらず続いており、手足の痺れも治まる気配は無い。腰の痛みもまたぶり返してきてしまったようである。けれど、バアドクレアのほうも『こんなもんだろう』ということで体の変調に慣れてしまい、そこで不安をひどく感じるということもなくなっていた。
「……今、何時ごろなんだろうか」
バアドクレアは床に伏せたままあたりを見回したが、近くには時計はない。天幕の向こうではかすかに小鳥が鳴いているのが聞こえるのだが……。
と。
まるでバアドクレアが目覚めるのを予期したかのように、エラートの二番目の姉が入ってくる。否、予期していたのではない。ドゥワルデは十分おきに天幕の中を覗いて、キメラの様子をうかがっていたのだ。
「おお、起きた起きた!」
ドゥワルデはバアドクレアのことを心配しているというよりは、ただ単に弟が連れてきた友人のことを面白がっているようである。他人の都合ではなく、すべては自分の都合。エラートの次女はかなり自己本位な人物であるらしい。
「どうだい、気分は?」
「いや、まあ、昨日よりは良いようですけれど……」
「そいつは大変に結構!」
きっとドゥワルデはこれまでに大きな病気を一度もしたことがないのに違いない。
「食事はもうちょっと待ってな。今、アホトリスが作ってっから」
「アホトリス?」
ずいぶんと末の息子はぞんざいに扱われているようである。
「あんた、学生なんでしょう?どう、学校はおもしろい?」
ドゥワルデのあまりの押しの強さにバアドクレアは『あの、僕は病人なんですが』と言うことすら忘れている。
「いや、まあ、そこそこです……」
「カペルヴィアストルだったら、ミランがいるんじゃない?」
女戦車。ミランはカペルヴィアストルの教官をやっていて、当然バアドクレアとも面識がある。
「ええ、いらっしゃいますが……」
バアドクレアはもうそろそろ自分が何故ベッドに寝ているかを忘れかけている。一方、ドゥワルデはにやにやと笑った。
「あいつはあたしの、このドゥワルデ様の舎弟だったんよ!」
「ミラン教官が、ですか?」
「ああ、そうさ。あのがさつな馬鹿女に空のなんたるかを教えてやったのがこのあたしってわけさ!」
ドゥワルデは鼻高々に言った。言ったのだが……。
「?」
ミランのほうがドゥワルデよりは明らかに年齢が上である。ミランがドゥワルデを教えたことはあっても、その逆はないように思われるのだが。
「本当だぜ!」
「は、はあ……」
バアドクレアは気おされてしまって、ただ首を縦に振った。
「ミランは腕前としては全然たいしたことがないんだよ。あたしがいろいろと秘儀を伝授して、それでどうにか生き延びることができたんだよ。カペルヴィアストルに就職できたのも、あたしが推薦文を書いてやって、それでやっとこさ潜り込めたんだよ!」
ドゥワルデが推薦文を書く?ミランがカペルヴィアストルにやってきたのは五年ほど前のことだったとバアドクレアは聞いている。その時ドゥワルデは、今の年格好から逆算して十五になっていなかったはずである。そんな青ジャリが書いた推薦文を学校長が受け取るだろうか?
混乱するバアドクレアの耳によく知った男性の声が聞こえる。
「ホラ吹きはそれぐらいにしておきなさい、ドゥワルデ」
「?」
バアドクレアはその声にさらにもう一割だけ混乱をし――すぐに、言葉を発した相手がトリセルディでないことに気がついた。声はよく似ているが、天幕に入ってきた人物はトリセルディではなかった。背の高い、三十過ぎの男性。黒い瞳に髪は黒い直毛。
「ハールです。おはようございます。アスペンブロウ君」
「ああ、おはようございます……」
バアドクレアはすぐに察して言った。
「お父様ですね……トリセルディの」
トリセルディの母親を以前に見ていたので、バアドクレアはその人物をトリセルディの兄と間違うことは無かった。
――この人がカールクエイツの当主だ。
バアドクレアはじっと三十男を見上げる。
息子のトリセルディのほうが見たそのままが頭領肌であるのにたいして、三十男は留年した学生のようにも見える。
――あんまり、貫禄がないなあ……。
バアドクレアは初対面の人物に厳しい評点を下した。
「体調はすぐれませんか?」
留年学生は穏やかに尋ねた。
「……あまりよくありません」
「親父、もう一度、あの医者のババアを呼んだほうがいいかもな」
ドゥワルデは多分次女という『主張しないと埋没する』立場のせいだろう。他人の会話に割り込んでくる癖のようなものがついてしまっている。
「すみません。いろいろと……。ご迷惑をおかけします」
「いいっていいって!なあ。そう気にすんなって!」
バアドクレアは自分が思っていたのとは別の方向から返答が来た事に沈黙し、出来の悪い娘を持つ父親は『うーん』と小さく唸っただけだった。
「ドゥワルデ、ここはいいから、トリセルディのところに行って食事の準備を手伝ってやってください」
父は言ったが、当然娘は聞かない。
「えー!嫌だよ。ここにいてもうちっと話をしてたいんだよ」
ドゥワルデは譲らず、そこで父親は娘をなだめすかすのを諦めてしまった。
「アスペンブロウ君。実はあんまりいい知らせではないんだけれど……。姉上がここに到着するのが遅れそうなんです。連絡は昨晩のうちにこちらからしたのですが……」
「検問とかのせいですか?」
バアドクレアは訊ねた。キメラの若者は事情をすでに知っている。
「北に向かう道が特に重点的にやられていましてね。検問というよりはむしろ、街道封鎖というほうが近いんです」
王弟クリーエフの領地オルバンはアスペンブロウのさらに北の方にある。
「王宮にかけあって、通行用の許可証を申請しているのですが、ちょっと手間取ってしまって。申し訳ない」
「いや、いいんです……。おじ様が悪いわけではありませんから」
バアドクレアは言い、ドゥワルデはにやにやと笑った。
「おじ様。おじ様だってさ。にひひっ」
バアドクレアは何を笑われているのか分からない。
「おじ様だってさ。親父のくせに!」
次女は神をも恐れず、と、いうことは父親も恐れていない。父親のほうは、口が悪い娘を困ったものだといった具合に見ながらも、物理的な制裁を加えることもなかった。
「そういうわけですから、姉君がここに来るのはいつになるのかちょっと分からないのです」
「いろいろと難しい時期ですからね……」
バアドクレアは言った。誰が悪いわけでもない。強いて言えば王弟が悪いのだが、王族相手では弱小貴族の若者がどうすることもできない。
「お医者様を呼んで頂いただけでも本当に感謝しています。それで、その診察費のことなのですが……」
キメラの若者は遠慮がちにかつ世知辛く言った。
「そんなこと、気にすんなって言っただろ。いつか返してくれればそれでいいのさ。十年後でも。百年後でも、千年後後でも
ドゥアルデはちょっと不満げである。金銭その他については前夜すでに話が決着済みであると次女は考えている。そして、そのことはカールクエイツの当主も同じであった。
「いつもトリセルディが世話になっていますからね。きっと、ずいぶんと勉強の邪魔になったでしょう。そのお詫びもあります。細かいことは気にしないでください」
「でも……」
バアドクレアはあまり借りを作りたくない。とにかく気が小さく、慎重なのだ。
「本当に、細かいことは気にしないで。世の中は持ちつ持たれつですよ」
ハール・エラートは柔和に言った。本当にあまり貫禄の無い人物である。
「それよりも、朝食にしましょう。辛いかもしれませんがほんの少しでも食べておいたほうが良いですよ」
「そうだぜ。食わないといざというときに力が出ねえからな」
次女のドゥワルデも言い――そして、カールクエイツの当主が天幕の入り口のほうに不意に声をかけた。
「ジュディスさんも……そんなところにいないで、入ってくれば良いじゃないですか」 バアドクレアが何気なく入り口のほうを見やると、そこには、いつか見た赤毛の女性が顔の右半分だけを出して中の様子をうかがっている。
――あ、あの人……。
凶暴な女性。トリセルディがいつか自分の母親と紹介した大柄な人物。バアドクレアが忘れるはずもない。だが。どうも赤毛の女は様子がおかしい。
「お袋はキメラのことを得体がしれないと気味悪がっているのさ」
ドゥワルデが言った。
「得体が知れない?僕が、ですか?」
「男にも女にもなれる。どうも、お袋はキメラのことをその日の気分で男にでも女にでもなれるそういう生き物だと勘違いしているらしいんだ」
「……」
バアドクレアは黙って入り口のほうを見やった。トリセルディの母親はさっと顔を引っ込め、そのままどこかに行ってしまった。
「すげえな、おまえ。うちのお袋を怯ませる奴なんてはじめて見たよ」
ドゥワルデは感心したように言ったが、バアドクレアのほうは褒め言葉を喜んで良いのか悲しんで良いのか分からないでいる。
「とにかく、みんなで食事にしましょう……」
父親はもう一度言い、バアドクレアは訊ねた。
「あの、おば様は……」
「放っておいてください。いつものことです」
ハール・エラートは笑って言った。どうやら、カールクエイツの当主はアスペンブロウの当主よりもはるかに奥方の扱いが上手であるらしい。否、そうではなくて、アスペンブロウの奥方よりも、カールクエイツの奥方のほうが扱いやすい人物であるのか。バアドクレアにはよくわからない。
「お袋は割合に頭が悪いからな。自分に都合の悪いことはすぐに忘れるし、そうでなければ自分の都合の良いように曲解するんだ」
ドゥワルデは病人にそう説明をしてくれたが、いったいドゥワルデは母親を何だと思っているのだろう。
「ドゥワルデ、トリスを呼んできてください。もうそろそろ出来上がるでしょうから」
ああ、分かった。娘は頷くと鉄砲玉のように走っていく。
「どうも無作法な家族でしてね。実に申し訳ないです」
三十男は苦笑い、バアドクレアもまた複雑な笑みを浮かべて答える。
「楽しい家族ですね。僕は実家がすごく窮屈で……そんなことは、カペルヴィアストルに来るまでは一度も思わなかったんですけれど」
キメラの若者はすっきりとした表情で言った。バアドクレアは体調は悪いのだが、心までは病んでいない。
「いろいろと知らないことを知ることが出来て、嫌なことや頭に来ることもあったけれど、ここしばらくの間で、自分がちょっといいほうに変われた。そんな気がするんです」 バアドクレアは素直に言い、カールクエイツの当主は穏やかな表情で頷いた。キメラの若者に久しぶりに訪れた心の平安であった。だが――。
天幕の外にばたばたと足音が響き、わずか数秒でバアドクレアの平安は打ち破られることとなった。
「お、親父!」
走って戻ってきたのはドゥワルデであり、その後ろにはトリセルディも続く。何かがあったのだ。
「大変だぜ、姉貴から連絡があった!」
次女は叫び、トリセルディのほうは木のしゃもじを握ったまま険しい顔をしている。
「ガルシア基地の国軍が出撃準備を開始したってよ!第一陣はすぐに出撃するって!」 娘の宣告に父親は天を見上げた。
「痺れを切らしたか……。武力行使は避けたかったんだが……」
「姉貴にはなんて伝えたら良い?こっちに戻るように言ったほうがいいかな?それとも、カッツェンに止まっていたほうがいいか?」
末の息子も父親に指示を仰ぐ。
「ユーニスには、その場にいるように伝えてください。バウケンにはあとで私も行きます」
「了解した!」
トリセルディは父に向かって頷き、それから、横になっているバアドクレアにも小さく首を縦に動かして、そのまま走り去っていった。
「なんとなく嫌な感じはしているのですが……。まあ、始まったものは仕方がありません」
カールクエイツの当主は何かを思案しているようである。子供達はもちろん父親が何に引っかかっているのか分からないでいる。実は、父親は、老将軍との会話のことを思い出していたのだ。
――罠の匂い。
その罠がどういうものであるのか、当然であるが引っ掛けられるほうのハール・エラートには分からない。分からないが、分からないなりの手立てを講じる必要があるのだ。
「ドゥワルデ!この前、捕まえた間者はどこです?まだ生きていますか?」
父親は尋ね、娘はすぐに答える。
「ああ。廃墟の地下に放り込んであるよ。水だけはやっているから、死んではいないと思うよ」
「すぐにここに連れて来てください」
「おうよ。分かった!」
ドゥワルデはきっと揉め事が好きなタイプなのだろう。喜んで天幕を出て行った。
「ちょっと騒がしくなりますが、許してください。国の一大事ですから」
カールクエイツの当主の言葉にバアドクレアはちょっと迷ったようにして訊ねる。
「あの、何をするのですか?」
「ちょっと目潰しをしてやろうと思いましてね」
三十男は笑って答え、その直後にトリセルディが、さらにはドゥワルデが戻ってくる。二番目の娘は一人ではなく鎖につながれた老人を斧で突付くようにして追い立てている。日焼けなのか、病気なのか見ような顔が赤い頭の剥げた地味な風体の男性。目をしょぼつかせた老人は、バアドクレアに言わせれば『定年した出来損ないの小役人』であり、とてもスパイのようには見えない。
「ご機嫌はいかがですか、間者殿」
娘が連れてきた老人にカールクエイツの当主は穏やかに言った。老人のほうは答えない。
「あなたの言うとおりに、付近の村であなたのことを知っている人間を探したのですが、とうとう見つかりませんでしたよ。たしか、きのこを採りに山に入ったのでしたよね」
「……」
老人は下を向いている。
「まあいいでしょう。ドゥワルデ、手錠を外してあげなさい」
ハール・エラートは宣言し、娘はちょっと嫌がるような素振りを見せた。
「ええ、どうして?せっかく捕まえたのに……」
「いいから、手錠を外してあげなさい」
父親の強い指示に娘はしぶしぶと老人の手から手錠を外した。無言のままの間者は自分が解放された理由を問わず、それどころか誰とも目を合わそうとはしなかった。暴れ出すということもない。仮に、老人が何かおかしな気を起こせば、その時は、間違いなく後ろからばっさりと斬り捨てられたことであろう。
「……」
ベッドの上から見上げるバアドレアは視点が一人低いこともあって、老人の表情が良く見えた。木彫りの人形のような生気の欠けた顔。
――普通のお爺さんみたいだけれど……。
バアドクレアの心の呟きとは全く無関係に話は進んでいく。ハール・エラートは言った。
「あなたを解放します。もうここに留め置いても仕方が無いですしね」
老人は黙っている。
「つい先ほど、連絡がありましてね、国軍によるオルバンへの攻撃が決まったということです」
最新の機密情報を父親がさらりとスパイに語ったことに、二番目の娘はちょっと慌て、末っ子のほうは何も語らなかった。そして、ベッドの上から見上げるバアドクレアは老人の顔の筋肉がほんの少しだけれど動いたことを見逃さなかった。
「本当であれば情報を漏洩するべきではないのですが、まあいいでしょう」
「……」
赤ら顔の老人は黙っている。
「どういうことかはお分かりでしょう。部隊を北に動かしたのは、そうできると判断したからです。つまり、ステアネーゼは南からの進攻にも対処できると判断したからです」
三十男は余裕をもって語っている。
「オルバンとクレティア。北と南から一気に国都を衝くという作戦をどうやらあなたの雇い主は考えていたようですが、残念でした。あなた方がもたついている間に南の国境にはいろいろと面白い細工をご用意させていただきました」
ハール・エラートは淡々と話を続ける。
「まあ、軍団全滅の憂き目を会えて見たいというのであればそれはそちらの勝手。私共も強いてお留めはいたしませんが」
バアドクレアだけが見ていた。老人は明らかに何かを計算している。
「もっとも、もう遅かったかもしれませんね。あなたがこちらに止め置かれた間に、クレティアは今ごろ北進を開始しているかもしれません。ま、あなたが何をしてもどうにもならないところにまできているからこそ、あなたをこうやって解放するのですか……」
三十男は自分の親ほどの年齢の密偵を笑った。
「さ、もう、行っていいですよ。ここには二度と戻ってこないように。次に捕らえたときは命の保証は致しかねます」
ハール・エラートは言った。老人は罠を感じて躊躇い、そこで次女が斧の先で赤ら顔の密偵をつついた。
「早く行けよ!早く行けって言ってんだろ!」
老人は娘の剣幕に押されて転がるようにして天幕を出て行った。
「……親父、南の国境にクレティア軍を全滅させる仕掛けなんか、本当にあるのか?」
走って逃げ去る老人の背中を見送りながら、トリセルディが訊ねた。父親は息子の問いに答える。
「ないです。はったりです。決まってるでしょう」
「……」
あっさりと言い切った父親にバアドクレアも言葉が無い。
「南方にはモトラッド将軍の軍団がありますから、これをクレティア軍が突破できるとは思えません。けれど、こちらの損失はなるべく少ないに越したことがない」
トリセルディは頷き、ドゥワルテも黙って父親を見つめている。
「あの密偵は、このままモーゼル街と接触を試みるはずです。こちらが撒いたはったりにクレティアが引っかかってくれればしめたもの。それでほんの少しでも向こうの動きが遅れれば、それだけこちらは有利になります」
ハール・エラートは冷然としている。カールクエイツの当主、やはりただの貫禄の無い三十男ではない。
「向こうが動き出す前にこちらの内乱が終息していれば、クレティアの側としても手のうちようがなくなります。ちょっとでも迷ってくれれば、それでいいのです」
子供達は黙っている。
「……もっとも、クレティアの大使ペドロワは食わせ物ですから、こんな苦し紛れの計略、すぐに見抜くでしょうけれどね。でも、一テンポ、一テンポで良いんです。向こうの動きを遅らせることが出来れば、状況は変わってきます。必ずね」
ハール・エラート、穏やかに見えて案外人が悪い。そのような人の悪さはトリセルディにはどうも伝わっていないように思われる。末っ子だけではない。次女のドゥワルテも、あまり駆け引きに向いた人物ではない。エラートの子供達は強い獅子ではあるけれど、狡猾な狐ではない。良くも悪くも素直で表と裏の無い人物である。むしろ、知恵を廻す狐は貴族の家に生まれたバアドクレアの性分に近い。バアドクレア自身はそのような計略や策謀といったものを卑怯で汚いものであると嫌っているが、能力と好き嫌いははっきり言って別物である。ハール・エラートはあるいは息子の友人のそのような能力を見抜いて、そこであえて枕もとで権謀劇を見せたのではなかったか。人の窮地を救うのは才能である。息子達が困ったとき、あるいは、友人のバアドクレアの貴族的な物の考え方が解決の糸口になるかもしれない。
「……やれやれ。忙しくなりそうですね」
父親は言い、子供達は指示を待つような素振りを見せた。
「私はユーニスのところに行きます。それから王宮に行って、事の次第を確かめてきます」
「あたしらは?あたしらもオルバンに行くのか?それともクレティア戦線?」
ドゥワルテが全身に力をみなぎらせるようにして言った。本人は自分のことを活動的だ言うだろうが、きっと次女は暴れたいだけなのだ。
「私達はオルバンには行きません。クレティアにもです。今のところは何もせずに待機です」
「つまり北と南、やばくなったほうの手伝いに行くってことか……」
三男は父親に確認をし、父親は答えた。
「カールクエイツは遊撃を勤めます。もっとも、トリセルディ、あなたは北も南も関係ありません。あなたはどこで何があってもここにいてください。友達のことを助けてあげるのがあなたの役目です」
ハール・エラートの言葉に三男はただ黙って首を縦に振った。バアドクレアは自分が足を引っ張っていることに心苦しさを覚え、父親はそれを見透かしたようにして続ける。
「アスペンブロウ君。あなたも焦ることはありません。性別が決まるまでここでじっとしていてください。そして体が動くようになったら……いや、そうなっても、紛争が終わるまでここでにいてください。国都にいるほうが多分ずっと危険ですからね」
ビットプリウスは戦略的に見て何の価値もない廃墟である。爆弾が振ってくることもなければバルカン砲の斉射も有りえない。
「何かあればすぐに連絡をします。いいですね?」
父親の確認に子供達は無言のまま頷いた。
国難である。
灰色の雲の下を飛竜が行く。
北地に向かう討北部隊。その先遣隊の姿はビットプリウスからも臨むことが出来た。
「……ガルシア基地の機体だね。足の速い斥候部隊だ」
横暴で身勝手なエラートの次女は鋭い視線で飛び去っていく機体を横目で見ながら、胸にかけている懐中時計をもう一方の目で眺める。
「十時四十分。先遣隊ビットプリウスを通過、か。毎度毎度のことだれど、さすがだね、ユーノ姉貴は。出撃時刻までぴったりだ」
国都に張り付いた長女は情報は極めて精密である。がさつで適当な次女にはとてもではないが真似の出来ない芸当である。
「と、いうことは本体のビットプリウス通過は二十分後といったところか……」
ドゥワルデは時計を今一度見やり、トリセルディがそんな姉に近づいてくる。
「始まったみてえだな……」
食器を片手に天幕から出てきた若者も厳しい顔で空を見上げる。四機一組のスクエア小隊はまっしぐらに北の空へと消えていった。
「姉貴、親父からの連絡は?」
弟は聞いた。姉は首を横に振った。長身のハール・エラートと同じように体の大きなジュディスを掛け合わせたというのに、何故か次女のドゥワルデだけは小柄であった。今となっては弟にも伸長で大きな差をつけられてしまっている。だが、ドゥワルデはそのようなことはいっさい気にしておらず、それどころか、家の中で自分が二番目に偉いのだと信じている。ちなみにドゥワルデの考える家族での勢力図序列一位は姉のユーニスである。次がドゥワルデ本人。三位が父親で四位が母。トリセルディは当然びりである。
「国都の防空隊が緊急発進するなんて滅多にないことだからね。ちょっと見ておこうと思って……」
ドゥワルデは言い、それから思い出したようしてトリセルディのほうを振り返った。
「あの子、どうした?」
天幕の中には一人キメラの若者が残されている。
「熱が高くなってきた。食事もほとんど残しちまったよ」
――微熱が続くのは性別固定に向けた体の準備期間。その準備期間が終わると一気に熱が高くなって、生殖器の変化固定が始まる。本人はその間昏睡状態に陥る。高熱はほぼ一昼夜で収まり、熱が引いてくると本人の意識も回復する。そこで性別固定は終わる。
キメラの老婆はそのようにこれからのタイムスケジュールをエラート家の人々に教えてくれていた。
――病気を持っているということもないようだし、薬の影響もないから、高い熱がでてもそれほど心配することはない。
老医師はそのようにも言っていたが、トリセルディも、他の家族もこれまでキメラの変化に立ち会ったものがいないので、わずかに及び腰である。
「……」
珍しく心配げな弟に姉は言った。
「ま、大丈夫だろ。患者、患者っていうれど、病気なけわけじゃないんだしさ」
次女はいつでも、弟に輪をかけて明るいのだ。
「それよりもさ、あんた、どうすんの、あの子。女の子になったら、やっぱり自分のものにしちゃうつもり?」
「本人は男になるって言ってるぜ……」
トリセルディはクラスメイトのブン屋娘のことを思い出していた。
「そっか。男か。男だったら、あたしの恋人にしてやってもいいかな。あの子、なかなか可愛い顔してるよ」
「そうかね」
「ユーノ姉も言ってたよ。あの子は男だったらすごい美男子に、女だったらすごい美人になるってさ!」
末の息子は姉がどういう人なのか知っているので、特にはコメントをしなかった。不謹慎だと言って聞くような相手ではないのだ。そのかわりに三男は食器を抱えて去っていった。空の上ではやるべき仕事があるように、地上には地上でやらなければならないことがあるのだ。
ビットプリウスでバアドクレアが寝込んでいるまさにその時刻――。
軍の始動に国都は大騒ぎとなっていた。
――王弟殿下が逐電をされたらしい。
そのような情報はすでに噂として都の津々浦々に流れており、さらには、飛行禁止区域の設定に北へ向かう街道の検問強化と小さな事実が積み重なり、そこで国都の人々の間には、
――これは近々何か動きがあるぞ。
というような重々しい予感というか、了解のようなものがあったのだ。さりながら。街の人々の考えていた『動き』には希望的な観測が含まれており、つまりは状況をより楽観するような甘さがあった。だからこそ国都の人々は突然の大動員に驚くことになったのだ。
コーエン、ガルシア両基地からは一級、二級のギガドレイクが次々に出撃し、地上では光威砲を積んだ戦闘車両が街道を北へ北へと進撃する。
――権勢争いとはいえ、兄弟であるのだし適当なところで手打ちになるのではないか。
そのように予測していた国都の人々の目には、編隊を組んで飛んでいく飛竜や、隊列を整えてキャタピラ音を響かせる戦闘車両は勇壮というよりは禍々しいものに見えたに違いない。
とにかく事態は人々が思う以上、遥かに深刻であったのだ。
矛を握る側は緊迫し泡を食っている。それでは矛先を喉首に突きつけられる側はいったいこの時どのような気分で時間を過ごしていたのか?
意外なことであるが、国都で大騒動が起こっていた同時刻、王弟クリーエフの領土となるオルバン、その郡都であるラヴェールは静謐に包まれていた。雪が降っていることで物理的に静穏であったということもあるが、それよりも何よりも、ラヴェールの人はただ単に自分達が討滅されてしまうかもしれないということを知らなかったのだ。オルバンの人々も国都の人々同様、王宮できな臭い紛争が起こっていることは知っている。飛行禁止区域や、街道の封鎖なども生活にそのまま直結することであるから当然認識している。だが、こちらの側も国王の側の人々とと同じで甘さがあり、そこで、
――まさか、流血の事態には発展するまい。
というような希望的な観測が大勢を占めていたのだ。
――軍が動くことはない。そんなことをすれば、内乱になってしまうではないか。内乱を起こすほど国王も王弟も愚かではない。まさかそのようなことはない。
まさか、まさかということでは国都の人々もオルバンの人々も同じ。そして、結局全ての市民、陰謀に無関係な人々は自分の『まさか』に足元をすくわれ慌てることになる。
雪が降る。
オルバンの郡都ラヴェールは標高も高く、そこで雪が降り出すのも早い。十一月の半ばに初雪が観測されるのも珍しいことではない。
山がちで、気流が常に乱れやすいラヴェール付近は機士達にとってはなかなかの難所であるのだ。その難所をドレイクが一機、まるで駆け下りるようにして高度を下げ、カロノール基地に強硬着陸を果たした。
二機のドレイクを肩を組ませるようにして左右に並べ、その真ん中に客室バケットを繋げた伝令用の機体。並列に並んだ二機の竜がぶら下げたバケットには赤い地に白い竜の紋章が描かれている。紋章の意味するところは一つ。
――国王の代理人。
である。さらに、この白い竜が携えているアイテムによって代理人の肩書きも容易に推察できるようになっている。竜が花を握っていれば、それは弔問の意を示しているし、巻物を持っていれば何某かの辞令を与える伝令であることが分かる。剣であれば宣戦布告、羽ペンを握っていれば和睦のための伝使となる。オルバンはカロノール基地にやってきた機体に描かれた竜が握っているのは巻物でも剣でもない。木槌であった。審判の木槌。つまりは査問吏であった。反乱を起こしたり、あるいはそれ以前に反意があるとされた人物に送られるのが査問吏である。
――いったい、何をしているのか。何を企んでいるのか。返答如何によっては悲惨な結末がまっているぞ。
そのような脅し役であり、最後通牒を申し伝える役人である。
ちなみに、この時、オルバンに遣わされた査問吏はボイイ・クリザラスという老人であった。
――人の悪さはステアネーゼ随一。
とは、このボイイ・クリザラスに対する国軍のモトラッド将軍の評である。あるいはこうも言う。
――生まれ落ちて初めて言った言葉が『クレティアの密偵を逮捕せよ!』。
内務府に務め、ついには長官にまで登りつめたこの老人の人生はステアネーゼの治安維持の歴史とほとんどイコールであった。他国のスパイを迎え撃ち、クレティアの扇動に乗った学生達の運動を潰し、さらにはクレティアの密偵を寝返らせて偽情報を掴ませと、表に出てこない『人の悪い仕事』を黙々としてこなしてきた辣腕の持ち主――。
皺深く、目だけが黒い炎のように爛々と輝いている老人は相対する者になんともいえない緊張感と居心地の悪さを与える独特の雰囲気を持っており、そういう点では査問吏にぴったりな人物と言えただろう。
その他人に不安感を与える老人が乗客バケットからオルバンの地に第一歩を踏み出そうとしている。外は雪がちらつき、それ以上に山を吹き降ろす横風がひどく、老人の禿頭には寒さが相当に応えたはずであるが、伝使はほとんど気温を気にしない。気流が悪いから隣郡のブレゼルに退避しようと勧める機士を黙殺してあくまで大風の中にドレイクを強硬着陸させるような人物であるのだ。自分の生き死にも気にしない人物が熱い寒いに拘るわけがない。
伝使の強硬着陸にカロノール基地につめていた機士達、あるいは兵士達が慌しく動き始めるが、老人のほうは一向に気にしない。老クリザラスはいつでも好きにやるというポリシーを持っており、それは敵地にあっても同じであった。強風に煽られながら老人はただ一人早足に発着ポートを横切り、カタパルトの脇を通って基地の管制搭と基地入り口を兼ねた建物のほうに向かう。老人は切れ者であり、ステアネーゼ主要都市の地理はそのほとんどが頭に入っている。カロノール基地があり、オルバンの郡都ラヴェールがある。老人はその二つの点を結んだ線をそのままに行けばいいだけのことである。
だが。老人が選択した最短ルートを邪魔する障害がすぐに現れることになった。
王弟派と呼ばれる二人の人物に率いられた王弟クリーエフ直属の兵士達であった。数は三十ちょっとといったところか。
「お役目ご苦労にございます」
老人にそのように声をかけたのはエルヴェイラという商務の役人であり、そして、その横にはあまりお役に立たない鳥係のホールバーゼンも控えている。
「ラヴェールの発着ポートをお使いいただければ良かったものを……」
エルヴェイラは恭しく言った。老人は国王の代理人であるのだ。粗略に扱うことはできない。
「うむ」
老人は鋭い視線で若く、あまり能力のない役人達を見つめている。
ラヴェールには伝令専用の発着ポートが設けられている。当初管制は、伝使にそちらへの着陸を求めてきたのだ。だが、老人はそれを黙殺して敢えてカロノール基地にドレイクを侵入させた。
これは内務府の老人にしてみれば賭けであった。
もしも王弟の側に流血も辞さない強硬姿勢があれば自分達の兵力拠点であるカロノール基地に伝使をそのまま着陸させるのは都合が悪い。機士達の動きやドレイクの配置状況などをつぶさに見た伝令の報告で王弟側の手の内が相手に筒抜けとなってしまうからである。
最悪の場合、伝使の乗る機体は撃墜される可能性もあったのだ。もちろんそうなれば、国王側も黙っておらず、そこで直ちに先端が開かれることになる。そして、今のところ老人は博打に勝っている。
――見たところ、機士達をうまく掌握でておらない……。
老人は鋭くカロノール基地の内実を見ている。老人の見る限り、基地にいる機士も兵士も、自分達の置かれた状況をよく理解できていないようである。若い機士の中には木槌を持った竜の到着に、浮き足立っている者もいる。
――皆ばらばら。王弟殿下に忠誠を誓っているのは目の前の三十人ちょっとか……。
老人は険しい視線を眼前の男達に向けている。
カロノールにいる機士達はほぼ全員が王弟に召抱えられこれに仕えている子飼いの部下達である。けれど、そういった子飼いの中にも温度差がある。共に謀れる人間とそうでない人間がおり、どうやら後者のほうが圧倒的に多いようである。
――自分は王弟殿下の家臣である。
そのような意識があって、一方で、
――自分はステアネーゼの国民である。
という意識がある。要はそのどちらが強いか、というところであろう。
「時間がない。早速参ろう。エルヴェイラ殿」
老人は言い、そこで、名前を言われたほうは心臓を握られたような嫌な顔を作った。商務省の役人は自己紹介をしていないが、老人はすでに自分のことを知っている。
――この老人、私の名前と顔が一致しているのか。
一万人近くいる商務省の中で、下っ端も下っ端のエルヴェイラの名前を老人はすで押さえている。これは並み大抵のことではない。
相手がいったいどこまで知っているのか、あるいは何も知らないのか。迎えに上がった役人は疑心暗鬼に陥ってしまっている。ぼんやりと突っ立っている役人に老人はにこりともしないままに言った。
「何か不都合でもあるのかね?」
一方、何かにつけて不平不満を吐き散らすホールバーゼンのほうは妬みに頭が麻痺しているのか老人が同僚の名前を知っていたことを気にも留めなかった。
――この爺が、内務府の元長官……。
下っ端のヒラ役人としては老人の細首を両手で握って絞め殺してやりたいところである。
――この爺は門閥をカサに大いに出世し、最後は長官。それに比べて俺は能力がありながらヒラ……。
ホールバーゼンは自分の不幸が身分にあると考えて疑わない。自分が順調に出世できないのは何故か?答えは簡単である。貴族の子弟がコネでもって横滑りで入省、入府してくるからだ!
ちなみにクリザラス家はエンティ家の分家に当たる。名家中の名家というわけではないが、それなりに名前は通っている。少なくとも名前ばかりが立派でその実中身のないホールバーゼン家などものの数ではないのだ。
それにしても。ホールバーゼンの能力や人格はこれは別に置くとして、彼の執念やあつかましさはこれはステアネーゼでも稀有のものであったろう。傑出した才能と言ってもいい。全てを射すくめる内務府の元長官を見ても、恐ろしさよりも妬ましさが先に出てくるのだからこれは生半可な能力ではない。惜しむべきは、そのような傑出した才能がホールバーゼンを含む全ての人々にとって何の役にも立たないという点にあった。
「とにかく王弟殿下に御目通りをしなければならぬ……」
老人の言葉に、商務の役人のほうは顔色悪く、一方鳥係ホールバーゼンはこちらもむっつりと面白く無さそうな顔で老人の道案内を始める。
一路郡都ラヴェールへ。
いまだに戦いはない。つまりはこれが戦火を回避する最後のチャンスであり――同時に万一戦いが始まってしまった場合には、戦のあとをどうするかを話し合う敵味方最初の接触ということであった。
ラヴェールの中央にそびえるドミニルの城。
使用されている石材が薄黒い灰色をしていることからついたあだ名が黒い城である。そびえるというよりは大地にへばりつくようにして立っているこの要塞がラヴェールの象徴であり、王弟クリーエフの居城となる。国都が海に面していて空気がなんとなく明るいことに比べて、内陸、それも山深いオルバンの郡都はどこか暗く、雰囲気が重苦しい。国王と王弟のいさかいかに端を発した緊張の有る無しに関わらず、オルバンは元からそのような土地柄であるのだ。
かつて招かれてこの地に一度だけ訪れたクオレルリオンの御夫人、つまりビーステアの母親であるが、この女性は陰鬱な雰囲気の山間の街にすぐに嫌気がさし滞在予定の三日のところを一日に切り上げてさっさと帰ってしまい、そこでこの地に嫁いできたブレゼルの娘を称賛してこう言ったという。
――今までに私は自分を脱帽させる女性を見たことがなかった。ただ一人、ブレゼルの娘ヒルカを除いては。ヒルカの我慢強さはこれはステアネーゼ随一である。
クオレルリオンの婦人は間違いなく褒めているのだが、褒められているほうは複雑である。せっかく招いたのに気候風土が気に食わないからと帰ってしまったクオレルリオン婦人は明らかに非礼であったし、傲慢のそしりを免れないものであった。しかも、よりによって褒めた美徳は招いた女性の『忍耐』である。これでは褒めているというよりは、むしろ魯鈍と蔑んでいると取られてもおかしくはない。
それでも。客に去られたほうは苦笑いをするだけであった。ヒルカはクオレルリオンの婦人が本気で自分のことを賞賛していることを知っていたし、その称賛に含みがないことも理解していた。ポルトブランの姫君はもともとそういう厄介な人物であり、つまりは本当に掛け値なしにヒルカのことを、
――こんな面白くもない田舎に平然と暮らしていけるとはたいした娘だ。
と感心しているのだ。
ただ、その感心と相手の顔を立てて最後まで山深いオルバンに滞在することとは別の話しというそれだけのことであるのだ。ポルトブランの気ままな姫君は綺麗な洋服や宝飾品が好きであり、また洒落た飲食店で食事をするのがお気に入りであった。パーティも欠くべからざる楽しみである。それがないオルバンには我慢がならない。ポルトブランの娘は国都以外のところには住むことができない。つまりはそういうことであった。
王弟夫人ヒルカとクオレルリオンの婦人は生活も行動も全く対極にあり、性格的にも真逆であったが、不思議とこれまでに大きないさかいが起きていない。結局はヒルカの側がいつでも折れてしまうせいもあるのだが、クオレルリオンの婦人のほうもなんとない遠慮を王弟婦人にだけは見せるのだ。オルバンへの旅行についても、クオレルリオン婦人にしてみれば、
――全キャンセルをせずに一泊してやった。一泊『も』してやった。
一泊分はヒルカの顔を立てたと、そういう気でいるのだ。
ヒルカだからそうしたのであって、他の人間がホストであったらクオレルリオン婦人は泊まることのないままにそのまま国都に直帰していたはずであった。
かかるようにして都の令夫人はオルバンのことを全く評価せぬままに二度とかの地を訪れず――一方、ヒルカのほうも子息が五つになるのと同時に生活の拠点を夫の領土から国都近郊の別邸に移すこととなった。
――我が子は国都の空気を吸わせて育てたい。
クリーエフのそのような意向によるものであるといい、一方で、
――出来の悪い時期国王の遊び相手になって欲しい。
というよう国王妃の要請があったからであるともいう。これが巷間で語られる噂となると次のようになる。
――新しい愛人が出来た王弟は体よく奥方を追い払ったのだ。
真相は恐らくそれら全てを足して割らないものであったのだろう。とにかく、ヒルカは何か行事があるとき以外はオルバンに戻らず、そこで国都郊外の寂しい一軒屋に隠遁するようにして暮らして来たのだ。
正妻なのに脇に追いやられ、けれど、子供を成したのは正妻ただ一人。ヒルカもビーステアの母親のように我が強ければ、もっと大きな顔をすることができはずである。謙譲も過ぎれば不徳となるといったところであろう。
「雪の降りが激しくなってきましたよ、奥様……」
ヒルカに仕える小柄な中年女が言った。東向きの窓からはつぶてのような雪が空から降り注ぐのが望まれる。
「こう雪ばかりだと気が滅入りますねえ……」
ウグイス色の衣装を身につけた女中は南方の出身で、実は雪が苦手であるという。
「洗濯物も乾きませんし……ねえ」
五十過ぎの女の不平をヒルカは編み棒を動かしながら聞いている。彼女の実家はオルバンに隣接しており、と、いうことは雪の多いところであった。これぐらいの降雪では驚きもしない。
「雪が深いからこそ春を愛でる気持ちが湧くというものですよ」
「まあそうでしょうが……。けれど私などに言わせれば、春が来なくても良いから雪にもどこかよそに行ってもらいたいものですよ」
女中の発言には論理性の欠片もないが、そのようことは中年女にとってはどうでもよろしいことであったし、愚痴を聞かされる側もそれほど気にしていない。それよりも。
「ハーディはどうしています?」
ヒルカは不意に小柄な中年女に尋ねた。徐々にであるが、話が核心へと近づきつつあった。
「お部屋のほうにおられます。大分おちついたようですが、お食事はとられていないようで……」
中年女は暗い顔で応じる。グランデールが国都から救い出した凡庸な王弟子息はオルバン到着と同時に自室軟禁の刑を貰っていた。ヒルカは我が子のもとを度々訪れているが、薬の影響が頭の芯に残っているハーディは狂乱状態にあり、まともな会話をすることはできず、それどころか歯を剥き出しにして母親ヒルカに襲い掛かり、監視の機士に押さえつけられる始末であった。
――助けて、母上、みんなが、みんなが僕を殺そうとする!
母親の耳には取り押さえられる際に発した息子の哀しい叫びが耳に残っている。
「それにしても九人も監視をつけるなんて。あれじゃまるで咎人ではありませんか。グランデール様もやりすぎでしょうに」
中年の女中はわずかに憤慨していった。三交替。常にハーディには三人の監視がついている。それが主人の息子に対する態度であるか。中年の女中はグランデールの慈悲の無さに憤慨している。だが、母親は中年女に同調しなかった。
「落ち着いたのではありません。まだ、薬の作用が残っているのでしょう」
ヒルカは重たげに頭を振った。著しい躁から転じて鬱に。ハーディの状態はそれほど安定をしていない。監視をしているのもハーディが逃走するのを防ぐためではなく、自傷を恐れてのことであろう。
「ハーディのことは……機士殿にお任せしましょう」
王弟の細君はつぶやくようにしていった。それにしても、いったい、何故このようなことになってしまったのか。どうして我が子はこのようになってしまったのか。ヒルカは頭痛を抑えるようにして目を閉じる。
――やはり、父親の不在は大きかったか。
ヒルカはポルトブランの双子の一人が嫁いだハイメリオンの子息のことを思い出している。浪費家の母親の子として生まれたリンツは、成績も優秀で、若いながらも雅量のある人物に育ったという。ハイメリオンの当主ギヴェルフは我が子を幼子の頃から常に我が身の傍に置き、教育は自らの手で行ったと聞く。一方、王弟クリーエフは家族の元に戻ることは稀、自分に息子がいることすら覚えていない様子であった。
「いや……」
苦悩したままヒルカは呟く。
――王位に近いということがすべての元凶。
立場の違う人間を比べることが間違いであるのだ。リンツも王弟の子息として生まれていればもう少し影の濃い人物となったのではないか。いずれにしたところで仮定の話はあくまで仮定の話。たら、ればで語っても現実が動くことは無い。
「奥様……」
苦い顔をして押し黙るヒルカを女中は気遣うようにして言った。
「大丈夫、大丈夫です…」
王弟夫人は苦しげに続ける。
「……今がどんなときか私も理解しています。今は、あの子のことだけを考えている時ではありません」
査問吏がオルバンを訪れたことはヒルカもすでに知っている。ドミニル城を占拠する王弟とその一派はヒルカに情報をなかなかよこさず、すべてを自分達で取り仕切りたい様子であるが、ヒルカのほうも独自に『知る』術を心得ている。
――国都より前内務長官がやってきている。前長官はドミニルに向けて移動中。
そのような情報をヒルカはすでに知っている。さらに、これは情報としてではなく、女の勘として、王弟がオルバンに戻っていないということも察知している。
かかる危急の折に王弟クリーエフは何処にいるのか?
――恐らくは機士殿と行動をともにしているか、その近辺にいる。
理由まではわからないが、ヒルカはそのように目星をつけているのだ。いずれにしたところで戦火は避けられそうに無い。誰かが血を流すことは明々白々――。
「……」
そしてヒルカは小さなため息を一つ。息子が拗けたのは、父親の不在や王位に近すぎることよりも、自分の賢しさこそが原因ではなかったか。賢明というよりは小賢しさ。息子の危機と国の危機。頭の悪い女であれば、両者を天秤にかけた時に、間違いなく前者をより深刻なものと受け止めるはずであった。そして、ハーディは母親に賢さよりも髪を振り乱して泣き喚く愚かさを求めていたのではないか。気がついたところで今となっては遅すぎた感がある。
――ここまで来たら、運を天に任せるしかない。
人間は自分で思っているよりもずっと小さな存在でしかなく、できることも微々たる物というのが真実なのであろう。そして気がついたときにはいつでも手遅れとなっているのだ。ヒルカは目を閉じ、深呼吸をするようにして息を呑み、それから目を開けて編み棒を動かし始める。
何があるにせよ、今は時計の秒針が刻む音を聞いているよりやることは無い。




