九 バアドクレア帰参
硬質な拍子木を打つような音がカペルヴィアストルの中庭に響く。
そろそろ時刻は夕刻に差し掛かる。相変わらず王都の空が晴れるということはなく、どんよりと垂れ込めた灰色の雲からはいまにも冷たい雨粒が落ちてきそうな陽気である。
カツン、カツン――。
中庭で硬い音を響かせているのは黒い髪の野人と、それから金髪をした背の高い青年であった。エラートの若旦那と、ハイメリオン家の跡取息子。角を突き合わせる牡鹿のようにして二人は木刀をぶつけて戦わせている。突きかかるリンツは汗だくになり、そろそろ足元もおぼつかなくなってきている。一方、トリセルディのほうはまだ余力が残ってる。
「相手の切っ先じゃなくて、全体を……遠景を見るんだ!」
剣の家庭教師に習うリンツは綺麗な型を決めている。一方、斧を使うトリセルディの構えは崩れていて、見方によっては出鱈目にも見える。それでもリンツはトリセルディには勝てない。いくら打ち込んでも、本気で全力で取り組んでいるのに野人から一本もとることができない。逆に、貴公子は木刀で撃たれ、疲れ、蹴りまで貰って何度も地面を這っている。貴族の子弟が着ける綺麗な絹の服は汗に塗れ、土で真っ黒になっている。体はあざだらけで木刀を握る手が疲労困憊で震えている。それでもリンツは何度でも立ち上がってくる。
「身体に力が入りすぎているぜ。肩の力を抜くんだ。呼吸を整えろ!」
トリセルディは打ち込んでくるリンツの木刀を軽やかに、しかも我流で捌いていく。
カツン、カツン――。
貴公子リンツは鬼の形相で野人に突っかかっていくが、どうしても一本が取れない。
「くそ、くそうっ……」
休憩を挟んですでに二時間近く若者達はぶつかり合っている。二人の居残りの特訓に観客はいない。最初のうちはシエルがオブザーバーとして二人の練習を見ていたのだが、あまりに簡単に転がされるリンツのことが気の毒になったのだろう。おしゃべり小僧はタオルをその場に置いたまま自室に戻ってしまった。残っているのは闘っている二人のみ。
そして、リンツの反抗心もついに折れるときがきた。体力的にもはや限界であったのだ。
「せやっ!」
黒い髪の野人は刀を下から上に軽く払いあげるようにしてリンツの木刀を薙いで叩いた。
かつりと高く澄んだ音が響き、指に力が入らなくなっていた貴公子の手から木刀が舞い上がった。
「あっ!」
叫んだときには全てが遅い。金髪の貴公子の手を離れた木刀はくるくると回転しながら緩やかな放物線を描いて、そのまま何も植わっていない空の花壇に突き刺さった。
「く……くそ……」
貴族の御曹司は本当に悔しそうに唇を噛むと、その場に膝をつく。
――こんなに、これほどに実力が違うのか……。
圧倒され、成す術がない。彼我の差は刀を交えた今明らかであった。
――もう少し闘えると思ったのだが……。
金髪の若者は悔しさに奥歯を噛んだ。
――一戦、お手合わせ願いたい。
放課後にそのようにして挑戦状をたたきつけたのはリンツ自身であったはずだ。リンツは数日前から新参者に戦いを挑む腹積もりで、ひそかに剣技の特訓を繰り返してきたのだ。
なるほどトリセルディ・エラートの飛竜の腕は確か。この分野ではトリセルディとリンツの優劣ははっきりしている。だが、リンツとてハイメリオンの次期当主であるのだ。このまま新参者の下手風につくわけにはいかない。王立機士学校との一件があって以来、リンツの影は薄くなってしまっている。リンツ株が暴落したわけではないのだが、トリセルディの躍進が著しくて、その影に隠れて完全に目立たなくなってしまっているのだ。
――これでは、学校の盟主はトリセルディ・エラートということになりそうね。
従妹のビーステアは容赦なくリンツの面前でそのようなことを言い、そのために金髪の美男子は大いに傷つき、焦っていたのだ。
――ドレイクではかなわない。けれど健の腕であれば、あるいは。
相手を圧倒しなくてともせめて五分互角の勝負となれば、ビーステアにも顔向けが出来るし、自分のプライドも納得する。そう思って木刀を使った決闘となったのだが……結果はあまりにもお粗末なものとなってしまった。
「恥じの上塗りか……くそっ!」
リンツは砂塗れになった顔を悔しさに歪める。一方、トリセルディのほうは弱者を嘲ったりはしない。野人は知っているのだ。力の優劣は別に恥じることではないことを。
「スジは悪くないと思うぜ。あとは努力と場数か。肩に力が入りすぎているんだよ。相手をどうしても打ち負かしたいっていう意識が強すぎんだ」
トリセルディは花壇の脇に置いてあった水筒を拾い上げる。紅茶が入った水筒はビーステアからの差し入れであった。強い男を戦わせて買ったほうに褒美を与える――。きわめて傲慢なことであるが、女王様は自分にそうするだけの権利があると信じて疑わない。むしろ、クオレルリオンの姫君は男達をぶつけあわせてこれを磨いているということで自分の正義を信じているのではないか。
「呑むか?」
トリセルディは水筒の紅茶を一口含み、残りをリンツに投げて渡した。泥に塗れた敗者は、受け取った水筒に口をつけてラッパのみに飲み下す。
「はあ、はあ……」
「勝ち負けなんてのは実はどうでもいいことだぜ、ギヴェルフ殿」
「……」
「お偉いがするべきは一対一の殺し合いの練習じゃない。まあ、それは万一のこともあるから鍛錬はしておいて損はないけれどな。けれど、そういうのは下っ端に任せておけば良いんだよ。お偉いはそんなことよりももっと大きなことを考えないといけねえと思うぜ」
「……大きいことか……」
へたり込んだまま金髪の貴公子は呟いた。敗残兵のようになった貴族の青年にトリセルディはタオルを投げてやる。リンツはそれを受け取らず、空中で広がったタオルはそのまま貴公子の顔にまとわりついた。
倒されても倒されても何度も立ち上がる。ハイメリオンの当主は不様ではあったけれど、十分に尊敬を勝ち得るものであった。転入してきたばかりのトリセルディに絡んできたチンピラたちとは格が違うのだ。
「……君は」
リンツはうずくまり、タオルを頭から被ったまま呟いた。
「エラート。君は……」
「何だ?」
野人は尋ねる。リンツは口ごもってしまっている。
「君には聞きたいことがある……。どうしてもだ」
「答えられることなら答えるぜ」
「……」
リンツはまた口ごもり、それから本筋とは違う話を始める。
「君は……君はこの国をどう思っているんだ」
そんなことを聞きたいのか?ここまで滅多打ちにされた挙句に、そんなつまらないことが聞きたいのか?トリセルディは首をかしげたが、疑問を口にすることはなかった。
「国情が不安定なのは知っている。父から知らされているから……。何が起こっているのかは分からないが、君の実家が噛んでいることも聞いた……」
王弟一派の動きはそろそろ他の貴族達にも知れている。トリセルディが見つけた疑惑の確証については、これは一部の人、国王に忠誠心の厚い信頼できる筋にしか伝わっていない。リンツの父親は恐らく知らされていないだろう。リオンは強大であり不安視されているのだ。
「何が起こっているんだ?いったい……。君は知っているはずだ。君はカールクエイツの人間だからな」
「返答は留保するよ」
トリセルディはあっさりと言い、リンツはタオルの下に顔を隠したまま気色ばんだ。
「多くの人が困ることになるような無用の発言はできないからな。それに……」
「それに、なんだ?」
「おめー、そんなこと、聞きたいんじゃないだろ、本当は」
トリセルディはずばりと言い、リンツは沈黙した。事実だったからだろう。
「本当に聞きたいことを聞けよ。国事云々はそのあとだ」
国のことを聞きたいのであれば、これほど回りくどいことをするはずがない。講義の時にでも一言訊ねればよいのだ。何が起こっているのか、と。
「……それは、つまり……僕が聞きたいのは、アスペンブロウのことだ」
リンツ・ギヴェルフ・ハイメリオンは言い、トリセルディは変な顔を作った。
「バアドクレア?俺はあいつのことをそんなに知らねえぞ。つきあいはおまえさんのほうが長いんじゃないのか?」
「いや、まあ、そうだが……いや、そうじゃない……」
どっちなんだ、いったい。黒髪の野人は複雑な顔をしている。
「……つまりだ、君は……君はアスペンブロウをどう思っているんだ?」
「同じクラスの人間?」
トリセルディは訊ねるような調子で語尾を尻上がりに即答した。実際、野人はそれ以上には寮友のことを思っていない。
「……僕は、つまり僕は……うむ」
「どうしたんだ、はっきりしねえな」
「僕はアスペンブロウのことが……つまり、その、気に入っている」
灰色の空の下、沈黙があった。トリセルディはリンツのことを気の毒そうに見ている。
「そうか。あの変なねーちゃんの本、あれは脚色じゃなかったんだな……」
変なねーちゃん。ミューネ・バンクラフトの書き記した男性の同性愛をこれでもかと描写した大作は、実は真実であったのか?トリセルディは哀れむように言った。
「まあ、そういう趣味もいいかもしれねえな。もっとも俺だったら勘弁願いたいがね」
「君は……君はいったい何を言っているんだ?」
リンツはどうやらミューネの傑作を目にしたことがないらしい。大いなる幸いである。
「俺は男にゃ興味はねーってことだよ!あいつはキメラなんだろ」
「そう。キメラだ……」
「それで、男になる。そうしねえと家が潰れるからな」
トリセルディは適当に言い、リンツはタオルの下でぼそりと言った。
「バアドクレアは男にはなれない」
「……ああ?なんだって?」
トリセルディはリンツの言葉を聞き逃して尋ね、リンツは今度ははっきりと相手に聞こえるように言った。
「バアドクレアは男にはなれない。間違いなく」
「男になれない?そんな馬鹿なことがあるとも思えねえな。本人は男になるって言っていたぜ。キメラって連中は自分の意思で男にでも女にでもなれる。そういう話じゃないのか?」
トリセルディはとかく忘れっぽい人物であるが、それでも、寮友の身体的な特徴については覚えている。
「……キメラという種族が性を自分の意思で決定できる能力を持っていた時代はもうとっくの昔に終わっている。殖民が完了して後まで、そんな力を持っている必要はないのだから」
「……」
「彼らが……キメラが自分の意思で自分の性を決定できる能力を有していたのは、彼らが人の手によって作り出されてから三代ぐらいまでだったと聞いている。純血のキメラ種であったとしてもだ。そのあとは、急速にその力を失っていく。僕の母も、ビーステアの母もそうだった。どんな努力をしても無駄だった。性の決定を意思で行うことはできず、生まれた子供の多くが女になっていく。性の決定ができなくても、その中には男になるものもいる。けれど、それは稀だ。圧倒的に女になってしまう場合が多い。そして最後には種族の中に男性が存在しなくなる。そういう生き物なのだ。キメラという種族は」
「……そいつをあいつは知っているのか?」
トリセルディは風の音を聞くようにして訊ねる。
「……たぶん知らないのではないか。キメラの間でもタブーとなる話だから。けれど、タブーだろうがなんだろうが、事実だ。純血のキメラ種はもはや残り少ない。もとから人間の亜種として人工的に作り出されたものだ。結局は人間の血に戻ってくる。そういうふうな筋書きが命そのものに書き込まれているのだ」
「そうなのか……」
野人は深く深呼吸をするようにして呟いた。なんとなく奇異な話であるとはエラートの若旦那も以前から思っていたのだ。断絶してしまったバアドクレアの母方の実家。いつのまにか女にっなってしまった二人の姉。バアドクレアの告白はどうにも辻褄があわないことが多すぎる。その疑問もリンツの話で帳尻があった。
――ああ、そうなのか。それで上の二人は女に『なってしまった』のか。
「キメラの人々はプライドがある。この星に最初にやってきて、殖民の橋頭堡を作ったのが彼らだから。同時に自分達が作られた生き物であるという負い目のようなものもある。だから、血の話はタブーとなっているのだ」
トリセルディは何も語らない。
「……それで訊ねた。君に。バアドクレアをどう思っているのかと。男としてではなく、女としてのバアドクレアを」
リンツは訊ねた。と、いうことは彼はキメラの若者を女として認識しているということであった。
「僕は……僕は、アスペンブロウのことを好いている。本当に」
「好いている、ねえ……」
トリセルディは彼にしては珍しく困ったような顔をしている。
これまでにリンツがバアドクレアに好意を寄せているというような素振りを見せたことはなかったようにトリセルディは記憶している。むしろ、どちらかというとよそよそしい態度をとることのほうが多かったのではないか。リンツが忙しいこともあってバアドクレアとの会話もそれほど多いとはいえない。
「僕は……僕は本気だ」
「リオンの名家の御曹司がアスペンブロウ家とねえ……」
トリセルディの言葉にリンツは明らかに憤っている。
「家の格式のことはどうでもいい!格式のことは……」
これが良家の出身者の自信というものなのか。それとも世間知らずとするべきか。それにしても、スマートな伊達男、力も知恵もあって権勢も約束される若者が何故、よりによって奇妙な生き物に熱を上げるのか。理由は本人の口から語られる。
「……父が母と出会ったのも、このカペルヴィアストルだった」
リンツの母親はキメラ種。ハイメリオンの御曹司は父親の人生をなぞり、母親と同じような女性を伴侶としたいという意識が強いのに違いない。強烈なマザコンである。けれど、トリセルディはそのことでリンツを嘲ったりしなかった。そのかわりに野人は言った。
「……ま、おまえさんが何をどうしたいのかは分かったよ。けれど、奴は男になろうと思っているんだろ。なれるかどうかは別として。だったら、そういう話を今ここでするのは感心しないんじゃないか?」
ハイメリオンの次期当主は押し黙った。
「奴は男になる。なれるかどうかはこの際どうでもいいことさ。奴はそうあろうとしている。奴が女になったあとの人生設計を外野がしてやるなんてのは相当図々しい話だぜ。そう思わないか?」
リンツは沈黙を続けている。
ハイメリオンの当主ももしかしたらそのことは分かっているのかもしれない。分かっているからこれまで一定の線を引いてバアドクレアから距離をとっていたのだろう。
――その時になってから話をすればよい。
トリセルディがそう思っていた以上にリンツこそがそのように考えていた節があるのだ。だが、堂々と大物らしくしていたリオン家の若者の前にトリセルディが現れた。野人がいることでリンツの計画は今やガタガタである。
「男になれねえっておまえは言ったが、世の中には絶対なんてことはないだろう。奇跡、奇跡というけれど、奇跡なんてのはさいころを振って一の目を出すのと同じぐらいの確率で起こるもんさ。喚くだけ喚いて、バアドクレアが男になった時、リンツ、おまえはいったいどうするつもりなんだ?男になった野郎を嫁さんにするか?まあ、そういう趣味があるのならばそういうのもアリだとは思うけれどよ」
リンツは反論ができない。
「奴は男になろうとしている。だったら奴は男になるんだろう。俺は奴がさいころの目で一を出すことを信じるのさ。だから、リンツ、おまえの質問には答えることは出来ない。その質問もさっきの質問と同様に答えは留保だ。奴を女としてどう思うかという質問そのものが質問として成立してねえんだから、答えようがない」
「……」
リンツはトリセルディの宣言にわずかに迷いを見せた。迷いを見せてから、それでも、聞かずにはおられなかったのだろう。こう尋ねた。
「……君は、ほんの少しでもアスペンブロウが女になるかもしれないとは考えないのか?」
トリセルディは笑顔を作った。
「下手な考え休むに似たり、だぜ」
「……」
「それにな、ギヴェルフ殿、おまえは大きな勘違いをしてると思うぜ。おまえが訊ねるべきは俺が何をどう考えているかじゃなくて、バアドクレア・アスペンブロウが何を考えているかだろーが。おまえは質問する相手を間違っていると思うぜ」
リンツは小さく息を飲むようにして再び沈黙すると、よろよろと病人のように立ち上がった。野人の発言はしごくもっともなものであるのだ。
聞くべき相手は確かに違う――。
語るべきことは語り、もはや話すことはない――。金髪の青年はトリセルディが投げて渡したタオルを頭からかぶったまま夢遊病者のようにして去って行った。
「……やれやれだぜ」
トリセルディは木刀を杖に、去っていくリンツの背中を見送る。湿った寒い風が中庭を吹き抜ける。
「俺も帰るか……」
ぽつりと呟くトリセルディの背中に声がかかった。
「青春しているじゃないの、トリセルディ・エラート」
野人が振り返ると、校舎脇にヘイゼルの髪をした少女が立っている。
「ああ、おまえか……」
ブン屋の娘は薄く笑っている。どうやら、ファーラは相当以前からそこで男達の決闘を眺めていたようである。
「リンツ・キヴェルフ・ハイメリオン対トリセルディ・エラート!学内の新聞の記事としては最高のネタだと思わない?」
「思わねー。だいたいただの稽古だぜ。勝った負けたと目くじら立てるようなもんじゃないからな」
「そうかしらん。稽古でぼろくそにやられた相手が実戦で大勝することはないと思うけれどね」
ファーラは笑ってトリセルディのほうに近づいてくる。
「そうとも限らんさ。決意した人間はびっくりするほどの力を出すことがあるんだぜ」 「じゃ、まあ、そう言うことで……」
ブン屋娘は時事ニュースよりも醜聞のほうが専門であるのだ。
「それよりも、エラート君。私も是非聞いてみたいもんだわね。バアドクレアのことをどう思っているのか」
ファーラは含み笑いをしている。リンツとトリセルディの会話を一部始終盗み聞きしていたのだろう。本当に油断も隙もない女である。
「リンツの旦那に話した通りさ。それ以上でもそれ以下でもない。俺は野郎には興味がねーからな」
「あっ、そう……。だったら質問を変えるわね」
ファーラはここぞとばかりトリセルディに質問をぶつけてくる。
「では、ビーステアがあなたに興味を持っているという噂についてはどうかしら?学園の女王もあなたのことを気にしているとかいないとか……。悪い気分じゃないでしょ?」 「ああ、そうなのか?まあ、悪い気分じゃねえな」
トリセルディは苦笑いをしている。
「ビーステアはいい女だからなあ。けれど、クオレルリオンの姫君なわけだろう。なかなかに肩の凝る相手だとは思うぜ」
「なるほど、ふむ……」
ファーラはにやりと笑った。いい受け答えではないか。このまま学内の新聞にトリセルディの発言を載せてやれば、それなりの反響は得られるだろう。カペルヴィアストルの生徒で、女王ビーステアを『肩の凝る女』と言い捨てるような人間は命知らずと呼ばれるのだ。
「週末に学内のお祭りがあるのは知っているわよね?その最後にダンスパーティがあるのよ」
新聞記者はずばずば質問をぶつける。トリセルディも面白がっているのだろう。笑って聞いている。
「ああ?ああ、シエルがそんなこと言っていたな……」
「パーティで踊る相手は決まっているの?ビーステアがどうも、あなたをダンスの相手に指名するらしいのだけれど……」
ファーラは訊ねる。もちろんトリセルディの預かり知らぬことである。
「いや、知らねえ。初めて聞いたわ。けれど、俺は、あれだぞ、ダンスなんかしたことねえぞ」
野人は珍しく焦っている。ファーラとしてはしてやったりと言ったところだろう。トリセルディの弱点を見つけたのだ。
「受けるの、ビーステアの誘いを?」
「まだ、分かんねえけれど、考えておくよ」
トリセルディは言い、ファーラはさらに訊ねる。
「じゃあ、最後にもう一つ質問。バアドクレア、実家に戻るみたいなんだけれど、その理由を知ってる?」
黒い髪の野人は不思議そうな顔をしている。そこでファーラはもう一度言い直した。
「バアドクレア、実家に戻るんだって。学校をやめるのか、そうでないのかは良く分からないんだけれど、なんか、すぐに実家に戻る用件ができたとか……」
トリセルディは首をかしげている。
「おい、それ、本当なのか?」
「本当みたいよ。ミューネがそんなことを言っていたから……」
学校をやめるというのは穏やかではない。
「ふーん。でも、そんな話は聞いてないぜ。午後の講義の時も別にそんなことは言ってなかったし……」
寮を出るときにも、講義の間にもキメラの若者には特に変わった様子はなかった。
「何かあったのか?」
リンツに連れ出されて、トリセルディが剣の稽古を始めたときにもバアドクレアは何もそれらしいことを言っていなかった。何かあったとすれば、その後か……。考え込むトリセルディの様子をファーラはじっと見つめている。
――何か、トリセルディとバアドクレアの間にあったのではないか。
ファーラはそのように邪推しているのだ。
リンツとバアドクレア、それにトリセルディ。どろどろの愛憎劇。これほど校内新聞に相応しいネタはない!だが、野人の表情からするに、バアドクレアとトリセルディの間で何かがあったというわけではないようである。
「どうしたんだろうな。やめちまうなんて、穏やかじゃねえし。本人に聞いてみるか、直接。どうせ寮に戻っているんだろう?」
トリセルディはぼんやりとした顔で呟いた。トラブルがあったのであれば、本人に直接問いただせばよいのだ。だが。野人が動き出すよりも、当のバアドクレアが走ってくるほうが早かった。
「あ、バアドクレアだわ……」
噂をすれば何。キメラの若者は自分が話の中心であることを知らずに友人達のもとに駆け寄ってくる。
「ああ、ここ……ここにいたんだ……」
バアドクレアは息が上がり、顔は真っ青になっている。
「トリセルディ……、ファ、ファーラも……」
「どうしたんだ、落ち着いてから話せよ
「その……実家に戻らなきゃいけなくなったんだ」
キメラの若者は表情ががちがちになっている。何か大変なことがあったのは間違いない。 「いったいどうしたの、何があったの?」
ファーラが訊ね、バアドクレアは軽く深呼吸をして言った。
「父が、僕の父が倒れた」
「……」
トリセルディもファーラも揃って口をつぐんだ。まさかそのような事件が起こっているとは二人とも思わなかったのだ。
「だから、これから、すぐに実家に戻る」
「親父さんの容態は?」
トリセルディは聞いた。
「分からない。分からないんだ……。だから、とにかく家に戻らないと……。状況が状況だから、旅客バケットを使うことにしたよ。チケットもルッカ先生に頼んで手配してもらったから……」
ステアネーゼには二台のドレイクを旅客専用のバケットで繋いだ空のタクシーと呼ぶべきものがあった。運賃が高くて学生風情がおいそれと乗れるような代物ではないが、そのぶん確実かつ高速に目的地に到着できる。
バアドクレアはパニックになる寸前のところで踏みとどまっている。
「出発は?」
トリセルディは訊ねた。
「ラタンの民間ポートを十八時。十九時半には向こうにつけるはず……」
「そうか……」
出発の時刻まで一時間を切っている。トリセルディは言った。
「早く出たほうが良いな。金、大丈夫か?」
野人はバアドクレアの懐具合を気にしている。だが。
「お金のほうは大丈夫だよ。心配ないよ。とにかくそういうことだから……」
バアドクレアは気が急いてしまっている。野人はそこで言った。
「ここはもう良いから、早く行け」
「そうよ。早く行かないと……」
ファーラも後押しをするように言った。この時期に愛憎劇の役者が欠けてしまうのは新聞記者としては極めて痛いのだが、そうも言っていられない。
「ああ、うん、そうする、そうするよ!む、向こうに着いたら連絡するから!」
バアドクレアは仲間達に背を向けると慌てて中庭を走り出し……そして、そのまま校門から出て行った。ファーラは一言。
「いろいろと事件って起こるもんなのねえ……」
エルマの矢印の先はトリセルディに向き、ビーステアの矢印もトリセルディに向いている。リンツの矢印はバアドクレアに向き、シエルの矢印はエルマに向けられている。そしてミューネのぶびょーはリンツに向いている。トリセルディとバアドクレアの間にはまわりで思っているほどの深い関係もなければ意識もない――。
学生連の思惑は猫が転がして遊んだ毛糸ダマのように絡まっている。傍観者のようにしてみているファーラももしかしたらトリセルディに小さな好意を寄せているのかもしれない。飄々とした自由人のファーラは自分の本心を洒落にごまかすようなタイプであったから、エルマのようにストレートには思いを語ることはないが。
それはともかく――。
ラタンポートを飛び立った飛竜の乗客バケットの中にキメラの若者の姿はあった。
二機の大型の飛竜を並んで連結させた旅客機はスフィアーではもっとも足の速い乗り物であった。そのぶんだけ運賃は値が張るし、また乗せることのできる乗客も極めて少なくなる。バアドクレアが乗り込んだ乗客用のバケットの座席はたった八席。乗客は三人してしかいなかった。
――父上が倒れた。
座席についた金髪の若者は飛び立つ前からイライラしていたが、それは、機体が空に上がっても同じであった。
――何があったんだ。何が……。
トリセルディとリンツが剣の稽古をするからと出て行き、それを追ってバアドクレアが講堂を出る時には、キメラの若者は実家で大変なことが起こっているなどとは思ってもいなかったのだ。ところが教官のミランに呼び止められ、言われるままに校長室に出頭するとルッカ校長じきじきの『帰省命令』である。
――お父上が倒れられたということです。すぐに戻るように。チケットの用意はしてあります。
あまりに急なことに、バアドクレアは驚くよりも困惑し、そこで、とりあえずすぐに帰宅する前に、何があったのかを確かめるべく実家のほうに何度か電信線を使って連絡をとろうとしたのだ。だが実家は留守なのか、大変な事態に混乱しているのか、バアドクレアはついに実家とコンタクトを取ることが出来なかった。
――誰か一人でもいいから、家に残しておいてくれればいいのに。
バアドクレアは大いに立腹し、そこで不安な気持ちを抱えたまま民間ギガドレイクの旅客となった。
「……まったくもう、どうなっているんだ、いったい」
キメラの若者は機中で呟いた。
小さな乗客バケットには窓がない。外の様子は乗客には分からないが、フライトは順調であるらしい。ばたばたという飛竜の翼の振動がわずかにシートに伝わってくるが、その他はたいした揺れもない。バアドクレアの後ろのシートに座っている中年の男性客はフライトが始まるとすぐに眠ってしまい、もう一人の乗客である老婆は静かに本を読んでいる。
――それにしても、なんで、こんなに事件ばっかり起こるんだろう。
バアドクレアは暗い顔をしている。トリセルディがやってきて以来、いろいろな事件ばかりが起こっている。
――本当にあいつのまわりでは騒動ばっかり起こるんだよなあ……。
襲ってきた王立機士学校の生徒を返り討ちにしたり、その祝勝会のせいで停学を食ったり、あげくに麻薬の密売ルートを調べてやくざの親分のところに乗り込んだり――。
本当にありえないことばかりが立て続けに起こっている!まったくもってトリセルディこそは災厄を持ち込んでくる疫病神といえる。
――もしも……父上にもしものことがあったら……。
万一のことがあればアスペンブロウ一族郎党の生活その他がバアドクレアの肩に重くのしかかってくる。その中には当然嫌な叔母の処遇も含まれている。
――学校にも戻れなくなってしまうかも……。
最悪の場合、機士学校は中途退学ということになるかもしれない。そうなるとバアドクレアはいよいよ女になってしまうわけにはいかないのだ。
――けれど、男になる、男になるって自分自身でも言っているけれど、いったいどうすれば男になれるんだ?
バアドクレアは両親からはキメラが性別を決定する方法というかコツのようなものを一度として教わったことがない。大事なことであるのだが、何のコーチングも指導もないのだ。律儀な若者は、両親を含めたキメラの先達の誰一人として性別を固定するコーチができなくなっているということに思い至っていない。
――そういうことも含めての帰郷ということになるのに違いない。
憂鬱と焦燥でバアドクレアは貧乏揺すりが止まらない。
――早く、早く戻らないと……。
学校を出たのが十七時ちょっとすぎ。ラタンのポートを出発して客船仕様の飛竜はアスペンブロウの領地となる北に向けて飛び続け、十九時の二十分、予定より十分ほど早くアスペンブロウに近いサンコルヴァ市に到着した。ポートにはすでにバアドクレアのために迎えの車が待ち構えていた。車だけではない。そこにはバアドクレアができればあまりお会いしたくない人物の姿もあった。
「バアドクレア!」
手を上げてバアドクレアを呼び止めたのはえらの張った叔母、ノルジエであった。
「どうして、ここに……」
叔母は国都にいたのではなかったのか。不審に想うバアドクレアにノルジエは言った。
「お父上の容態が悪いと聞いたので、それで慌てて四時の便でこっちに来たのよ」
嫌な叔母は目が赤い。どうやら泣いていたようであるが……それが本心からの涙であるのか演技であるのかバアドクレアにはわからない。
「誰かがあなたを待たないといけないでしょうから、私がこうして……」
「それで、叔母上、父は、父はどうなのですか?」
「お昼に倒れられて……今は、意識もはっきりしておられるけれど、医師の話では血圧の高さに加えて過労だとかで……」
「血圧に過労ですか……」
バアドクレアは肩をすくめた。とりあえず命に別状はないみたいであるが……。
「とにかく、早く参りましょう」
ノルジエはバアドクレアを促し、あまり仲が良いとも言えぬ叔母と若者を乗せた車はすぐにプラタナスの並木が寂しげな田舎街を走り出す。東へ、ただ東へ。
舗装のよくない、上り下りの激しい道を音のほとんどしないゲルモーターの自動車は乗り越えていく。
――帰ってきた。アスペンブロウに……。
痩せた土地に灰色の空。冬寒く夏暑い。近隣の街で一番栄えているのはブレゼルの郡都ということになるが、その街の繁栄も王都には及ばない。むしろ、町の立派さから言えばファーラの故郷であるトガンのほうが優っているだろう。外洋に面したトガンは海流の影響もあって気候が内陸に比べてずっと穏やかであるという。
――全然変わらないな、ここは。
刈り終わって裸になった畑に、用水路。陰気で、雰囲気の良い場所とはいえないが、それでもバアドクレアにとっては故国である。
「あなたのお父様も何か、困ったことを抱えているようで……。それで、心労が耐えなかったとか……」
ノルジエはバアドクレアに言った。金髪の若者は窓ガラスに映っている自分の顔を見ている。
「私にも何があったかを話してくれればいいのだけれけど、胸の内をなかなか話してくださらなくて……」
あんただから話したくないんじゃねーのか?
バアドクレアはトリセルディの口調を真似て心の中で呟いた。バアドクレアの祖父はノルジエの作った借金で頭を大いに痛めた挙句に憤死し、バアドクレアの両親はノルジエの作った借財で何度となくいさかいをしている。
「私もいろいろとあるでしょう……。あなたのお父様に今、もしものことがあったら……」
中年女は目頭を抑えるような仕草をして見せた。バアドクレアはそこで理解した。ノルジエは本気でバアドクレアの父のことを心配しているのだ。それは演技ではない。真実である。バアドクレアの父が亡くなり、財産の相続をした息子がノルジエに金を融通するだろうか?バアドクレア一人であれば、ノルジエも口先巧みにこれを言いくるめることができるかもしれない。けれど、バアドクレアには母親がいる。バアドクレアの母はノルジエを憎んでおり、
――あんな遊び人に金を与えるなんて言語道断!
となるのは目に見えている。えらの張った叔母にとっては大ピンチであり、だからこそ、こうやってわざわざバアドクレアの出迎えにやってきたのであろう。バアドクレアが母親と話をつけてしまう前に、なんとしてもその間に割って入って工作をする。意識がはっきりしているとはいえ、アスペンブロウの当主に体調面に不安があるのは事実。今のうちに小細工をしておけば、後々に何かの役につかもしれない。
「おじいさまが亡くなられたときも急だったから……。あなたのお父様にも何かあるのではないかと私も心配で心配で……」
「……そうですね」
バアドクレアは曖昧に言った。
「私の子供達もすぐにアスペンブロウに戻ってくる手筈となっているわ。人手は多いほうが何かと良いでしょう……」
自分だけでなく子供まで呼んだのか。バアドクレアはうんざりしている。当主の病気に一族を挙げて乗り込んでくる。これではまるで強訴のようである。
バアドクレアは無言のまま後部座席の窓を開けた。冷たい湿った風が車内に入り込んでくるが、キメラの若者は気にしない。風音で嫌な叔母の声が聞こえづらくなればそれでよし。
――別に来なくて良いものを……。
ハンドルを握る老運転士はなんとなく硬い雰囲気の乗客に長い眉毛を僅かに上下させただけであった。
バアドクレアが実家となる屋敷に戻ったのは二十時十分前。
二階建ての館の窓には明かりはほとんど見られず、まるで死んだように静まり返っていた。次期当主は車を降りると、小走りに屋敷に駆け込む。ノルジエは老運転士にチップを渡しているのかもたついているが、バアドクレアは気にしない。
――おお、バアドクレア様だ……。
銅の板で補強された扉の向こうには、すぐに広間となっており、そこにはアスペンブロウ家にの長く勤める家臣の何人かが詰めていた。彼らは次期当主の帰還にほっとしたような、不安なようななんともいえない複雑な顔を作ったものである。当主が戻ってきたのはいいが、戻ってきた若者がこれがいかにも頼りない。それでもいないよりはまし。誰も彼もが――バアドクレアを含む――全ての人が心もとなく思っているのに違いない。
――こんなとき、トリセルディだったら……。
同じ年の寮友のことがバアドクレアには思い出される。
もしも、バアドクレアがトリセルディの半分ほどのたくましさがであったならば、これほど屋敷の空気が虚ろなものにはならなかったはずである。ふらりと入ってきただけで意気消沈した雰囲気が逆転する。この男ならば絶対に大丈夫。そんな不思議な確信を抱かせる魅力をトリセルディは持っている。だが、バアドクレアにはそれがない。
「あの……父上は?」
バアドクレアは訊ね、そして、その問には、奥から出てきたバアドクレアの母ヘルガが答える。
「バアドクレア、よく戻りました!」
久しぶりに見る母の顔は蝋人形のように強張り、肌がひどくかさついている。目を血走らせ、髪を振り乱した自分の実母の姿に、若者は僅かに怯んで足が止まった。
「ち、父上は……」
「寝室におられます」
「……姉上たちは?姉上たちは?」
男になり損ねてしまったバアドクレアの姉達はどこにいるのか……。
「クリスは嫁ぎ先に戻りました。セラーノは父上についています」
「そう、ですか……」
バアドクレアの姉の一人は一昨年、近隣の貴族ブラノー家のところに嫁いでいる。二番目の姉は実家にいるが、これも年明けに嫁いでいくことになっている。残るのはバアドクレアただ一人ということになる。
「それで地上の御容態は?叔母上に話をちょっとだけ聞いたのですが……」
バアドクレアの問いに、母親は眉の辺りをきっとさせた。母親はノルジエのことを親の仇のようにして嫌っている。
「今は安定しています。お父上は心労が重なったようで……」
心労という言葉に母が力点をおいたようにバアドクレアは感じていた。先般バアドクレアがノルジエから受け取った事業計画はすでに実家に送られている。
――あれが引き金になったのか……。
バアドクレアは天を仰いだ。
「今年は作物も不作で、こちらのほうもいろいろ大変で……」
ちょっとヒステリックな色のある当主婦人ヘルガの言葉に、家臣達も顔色が冴えない。
――揃いも揃って家臣共が無能だったからだ。
そのように非難されたと感じたのだろう。
バアドクレアの母親は決して悪い人ではなかったけれど、几帳面で癇の強い人であり、精神的な調和を欠きやすいタイプの女性であった。バアドクレアはこのヒステリックな母親を愛しながらも、どこかで恐れ、萎縮している。
「砥石の鉱山ももしかしたら採掘権を手放さなければならないかもしれないの……」
アスペンブロウの領地には砥石が取れる山が二つあった。良質なアスペンブロウ産の砥石が国都でも売られているのをバアドクレアも見て知っている。雛菊をくわえた緑の鳩の紋章。アスペンブロウの家紋を初めて都で見た時の誇らしさをキメラの若者は今でも覚えている。その採掘権を手放すというのは家にとっても大きな痛手である。
「そんなに……そんなにアスペンブロウは厳しいのですか……」
キメラの若者は打ちひしがれて言い、そして、ここでようやく車を降りたノルジエが屋敷の中に戻ってくる。
状況は最悪であった。放蕩に放蕩を重ね、家の屋台骨を揺する半端者の実業家と几帳面でヒステリックな青ざめた当主夫人。義理の姉妹でありながら、二人は親の仇のごとくにいがみ合っているのだ。
「……」
バアドクレアの母は何も語らず、ノルジエもそれは同じ。
家臣達もまたみな一様に押し黙った。
――病人の手前、一時休戦しても良いものを。
そのような空虚な理想論は誰の口からも聞かれない。金を毟ろうとするほうも毟られまいとするほうも命がけであるのだ。流血がないだけましとするべきか。そしてバアドクレアは思った。
――この家は……この家はもうだめだ……。
経済的に逼迫し、三人の子供のうち二人までが女になってしまった。バアドクレアは性別の固定が終わっていない。そして今、当主が病に倒れた。それなのに一族は団結をすることなく、家臣は黙して語らない。
――もう、結末は見えている……。
国都の空気に触れ、いろいろなことを見聞きしたことでバアドクレアは以前よりずっと客観的に物事を見ることが出来るようになっている。そのバアドクレアが客観的に見て思うのだ。これはダメだ、と。
同時に若者は倒れた父のことを思っている。
――こんなひどいところでよく頑張ってきたものだ……。
ガタガタになったアスペンブロウ家。父親は黙って、それを支え続けたのだ。頭に来ることや、腹立たしいこともあっただろう。そのことを思うとバアドクレアは泣きたくなった。
――僕が、こんなものを僕が継ぐのか?この僕が?
ものすごい重圧にバアドクレアは足がすくみ、胸が潰れるようである。
自分は次期当主である――。
バアドクレアはそのように寮友であるトリセルディにもそのことを何度か語っている。けれど、そのようにキメラの若者が語るのは、決して自分の境遇を誇っているからではない。そうしなければならない立場にあるというそれだけのこと。
そうしないと家臣とその家族の生活が破綻してしまう。
そうしないと父親が失望する。
そうしないと母はヒステリックに叫ぶ。
そうしないと自分に居場所がなくなってしまう――。
だから当主の座に着くのだ。バアドクレアにはリンツ・ギヴェルフ・ハイメリオンのように『神に選ばれた』という自負はない。
――僕は人に指図するなんてできそうもないよ……。
居間に並ぶ家臣達は陰鬱な影絵のように立ち尽くし、バアドクレアの母親も、嫌な叔母もまるで消し墨で描かれた絵画のようにして壁に張り付いている。
もしも。もしも、そこで姉の一人が二階から降りてこなければ、バアドクレアは深い孤独にその場にうずくまって泣き出していたかもしれない。それほど古い屋敷の中は殺伐としていたのだ。
「バアドクレア!」
「セラーノ姉さん!」
階段を駆け下りてくる女の姿にバアドクレアはほんの少しだけほっとしたような表情を作った。姉のセラーノはバアドクレアの五つ年上となる。権威を馬鹿にしたような反骨精神に溢れたセラーノは、実母とそりが合わず、喧嘩をすることがしばしばであった。あるいは、実母はセラーノにノルジエの血を見ていたのかもしれない。
――あの子はあなたのほうの血筋ですね!
言うことを聞かず、勉学に励まないセラーノのことを怒った母親が父親に嫌味を言う姿を幼いバアドクレアは何度か目撃している。
――家を出て絵描きになる。貴族なんてクソ喰らえ!
普段からそのように放言して平然としていた二番目の姉は、しかしバアドクレアにはいつでも優しかった。母親の玩具のようになって、自分をうまく表せないバアドクレアのことをきっとセラーノは不憫に思っていたのに違いない。その姉も年が明ければ嫁いでいく。アスペンブロウ家はいよいよギスギスしたところになるのに違いない。
「バアドクレア。父上がお呼びよ」
二番目の姉は弟に近況報告を求めず、次期当主としての職責をまっとうすることを望んだ。バアドクレアも頷いて二階に上がっていく。
「あなたにお話したいことがあるということよ」
姉と弟は階段の上で交差する。姉は下り、弟は上がる。階下にいる人々の雰囲気は暗く冷たいまま、暖炉に火が燃えているにもかかわらず一度として温度が上がることはない。
バアドクレアは二階に上がると、まっすぐに父の寝室に向かう。
――こんなにこの屋敷は小さかったっけ?
バアドクレアは自問する。家を出たのはついこの間のこと。屋敷が小さくくすんで見えるのは錯覚だろうか。バアドクレアの伸長が数ヶ月で急激に伸びたというわけでもない。
――もともとこんなものだったんだろうか……。
子供の頃に大きな城のように思われた屋敷も今となってはぱっとしない中古の木造家屋でしかない。自分の家で迷い子になったような妙な感覚に戸惑いながら若者は父の寝室を目指し――そして、そこにたどり着いた。
「父上、バアドクレアです。戻りました」
扉の外で若者は言い、内側からはすぐに応答があった。
「入りなさい、バアドクレア」
若者はそこで寝室り扉を開いた。暗い藍色のじゅうたんが敷かれた父親の寝室。本棚が並ぶ東向きの部屋。バアドクレアの父でアスペンブロウの当主である中年男性はベッドの上に静かに座っていた。かつては美男子だった人物も激務のせいだろう、皺が深くなり、金色の髪の毛もくすんで汚くなってしまっている。
「父上、遅れました。少し手間取りまして」
「いや、時間通りであろう……」
バアドクレアの父親は静かに笑った。アスペンブロウの当主地の血色は悪くはなく、声にも張りがある。思っていたほどに父親の様子が悪くないので若者は安心している。
「驚きました。倒れられたと伺いましたので……」
バアドクレアは言った。外交辞令ではなく本心である。
「大事無い。何日か休めば元のようになる。それよりも……とにかく、そこに座りなさい」
父は息子にそのように言い、バアドクレアは多分、さきほどまでセノーラが座っていただろう木製の丸い椅子に座った。
「アスペンブロウの領土経営も大変でな。今年は昨年よりもさらに不作だった。雨が多かったからな」
「砥石の鉱山を譲るという話、聞きました」
「ああ、うむ。まあ仕方があるまい」
父親はぽつんと言い、そこでバアドクレアは譲渡の話が計画ではなく決定事項なのだということを知った。
「……中小の貴族はどこも大変だ。財政が逼迫しているのはアスペンブロウだけではない。私としてももっと立派な家をおまえ達に譲ってやりたいと思う。けれど、そういうわけにはどうもいかぬようだ」
「……」
「アスペンブロウは領土は小さいが、この星に初めて足跡を残した古い血筋だ。そのことは十分に誇るに足ると私は信じている。私はこれまで先祖の名に恥じぬように努力をしてきたが、物事はあまりにも複雑で、私の力ではどうにもならないことのほうが多かった」
バアドクレアは頷いた。父親がそのような慨嘆を漏らしたのはその時が始めてであった。
「家臣達の食い扶持のことで頭を痛め、領民の収穫のことで迷い、身内の争いに辟易し、先祖伝来の土地は少しずつ小さくなり……しんどいことばかりであった」
バアドクレアは迷って、それから父に訊ねる。
「やはり、ノルジエ叔母様の事業のことをお伝えしなかったほうが良かったでしょうか……」
叔母が作ってきたずさんな計画書はあの後すぐにスペンブロウに送られていた。あるいは、あれが父親が倒れる遠因となったのではないか。バアドクレアは自責の念に駆られている。ベッドの上の男は目を閉じて、息を大きく吐いた。
「ノルジエにはもう資金は出せぬ。あれについては禁治産者の宣告を裁判所に出してもらうこととした」
「そうですか……」
「あれも哀れな奴だ。腹立たしくて、憎らしいことではあるが、それでも兄妹だ。なかなかに切り捨てることはできぬ」
バアドクレアは答えない。何か重要なことを父が言い出す気配がある。息子はそのように感じ取っている。
――この時期に家督を譲る。
バアドクレアは父がそのように言うのではないかと予期していたのだ。体調不良から引退――。別に珍しい話ではない。だが。
「都のほうはどうだ?」
父親は核心に触れることなく言った。
「都ですか……特になんということもありませんが」
「友人はできたか?」
「ええ、まあ……」
バアドクレアはもどかしく思っている。いったい父は何を言いたいのか。
「ハイメリオンのご子息や、クオレルリオンのご令嬢とも一緒であったな、確か」
「その通りです……」
リンツにビーステア。よく考えればカペルヴィアストルとはすごい学校である。リオンの直系の子弟が二人も在学しているとは……。そしてそこでアスペンブロウの当主が尋ねた。
「お二人に何か変わったことはなかったか?」
「は?お二人というと、リンツとビーにですか?」
バアドクレアは思いもよらぬ質問に困惑し、そこで級友を呼び捨てにして言った。普段カペルヴィアストルにいるのでバアドクレアも気にしていないが、大貴族の子弟を名前で呼び捨てというのは実は相当に大胆なことであるのだ。
「特には……僕もずっと彼らと一緒にいるわけではありませんから……」
バアドクレアはよほどのことで、泥酔したビーが失禁した話をしようとしたが、やめにした。
――いったい父は何を言おうというのか?
首をかしげている若者はアスペンブロウ当主は言った。実はすでに本題には入っていたのだ。
「これは私とおまえだけの話だ。口外は無用である。よいな?」
「は、はい……」
バアドクレアは緊張して頷いた。
「私が倒れる直接の原因となったものがここにある……」
父はそう言って枕の下から何を取り出した。金の筒、文書を収めた通信用の文筒であった。
「読んでみるといい」
父は促し、子供は筒を開いた。中には書状が一通。宛名はアスペンブロウ。そして署名者は……。
「クリーエフ王弟殿下……」
バアドクレアは奥歯を噛むようにして呟いた。文書に曰く。
「……国王は横車を押して暴政を働き、臣民の多くがいまやその失政によって土地を奪われ、金品を失っている。賢人が野に放たれて、邪でへつらいが上手な悪官汚吏が幅を利かせている。南方での戦火は耐えることがなく、死傷者の流した血はいまや大海のごとくとなっている。かかる狼藉はたとえ天に命を受けた者であったとしても許されるものではない。このような奸悪極まりない国王はすでに国王とは呼べず、ただの畜生である。犬豚に等しい邪悪な人間を討ち果たすことに躊躇することはない。今こそこの姦族を討ち果たし、秩序と正義を回復しなければならない……」
文書はさら長々と続いているが、要するにいいたいことはこういうことである。
――私はクリーエフである。国王を引き摺り下ろすのでアスペンブロウ家も力を貸せ。
「うーん……」
バアドクレアは唸った。
――こういうことはあり得ると思っていたけれど……まさか本当にうちにも反乱の助力要請がくるなんて……。
国の裏で何か大掛かりなことが起こっているということはバアドクレアも知っている。その邪悪な陰謀劇に王弟クリーエフが絡んでいることもなんとなく理解している。しかし、まさか本当にその陰謀の中枢から実家に助力要請が来るとはバアドクレアも考えていなかった。
「この書状はカンペチエ殿を通じて王弟殿下から戴いたものだ……」
父は親戚筋の領主の名前を語った。つまりは信頼に足る文書であるということであった。
「そこでだ……バアドクレアよ、おまえだったらどうする?」
父親は冷たい声で尋ねた。バアドクレアが恐れて背筋が凍るほどの冷たい声であった。悪人が悪事を密議するような声色。バアドクレアは父のそのような冷徹な顔を見たことが無かった。
「アスペンブロウにこのような書状が届くということは尋常なことではない。バアドクレア、王弟殿下は我々に自分につくか、つかないかという踏絵を迫ってきているのだ」
「はい……」
「バアドクレアよ、私はこの書状に少しだけ心が迷っている。筋論から言えば国王陛下に忠義を尽くすのが我が家の筋となる。だが、私はこの家と家族のことを第一として考えなければならない。家にとってもっとも得となる道を選択する。分かるな」
国王についていくほうがいいのか、はたまた王弟についていくのがいいのか。没落しかかっているアスペンブロウ家にとっては重大な岐路である。
このまま国王についていってもアスペンブロウのジリ貧に歯止めがかかるとは思われない。だとすれば大乱に乗じて一発逆転を狙うべきではないのか。当主にとっては倒れるほどの迷いである。
「……おまえならばどうする、バアドクレアよ。どちらに着くのが得策であると思うか?考えを申し述べてみよ」
父親は真剣である。
まさしく鬼の所業。だがバアドクレアのほうは恐れながらも、迷うということは無かった。
「……僕は、僕は、国王陛下を奉じるべきであると信じます」
ジリ貧になってもアスペンブロウは揺らぐべきではない。
「……理由は?」
アスペンブロウの当主は我が子が一部の躊躇も見せなかったことにわずかに感心したようであった。
いったい何故、この子は父親の迷いを一刀両断にできるのか。父親がぐらついた甘い誘惑を末の子に見向きもしない――。もっとも、これはバアドクレアにとってはあたりまえの結論であったのだ。王弟につくなどという博打はとんでもない愚行である。
「理由は……理由は王弟殿下には勝ち目がないからです」
バアドクレアは言った。検算の必要などない。それが正答なのだ。
若者は父親にこれまでに都で見聞きしたことをかいつまんで話して聞かせる。
どうやら王弟の一派に不穏な空気があるらしいこと。麻薬の密売に加担しているらしいこと。クレティアと繋がって、外国の勢力を背景に政権を強奪しようとしているらしいということ。そしてそのようなたくらみを国王の側はすでに察知しているということ――。
それらを元にバアドクレアは判断した結果は、
――王弟一派は混乱は起こせるかもしれないけれど勝利はできない。
というものであった。
「外国の勢力を取り込んで……自国に麻薬をばら撒いてまで実権を握ろうとするあさましい人間についていくものがあるとは思われません」
「勝てば官軍であるぞ、バアドクレア……」
蓋を開けてみたら、王弟派のほうが多いかもしれない。父親はそのことを心配している。だがバアドクレアは絶対に首を縦に振らない。
「……王弟殿下の側にいったいどれぐらいの人がついているのかは分かりません。アスペンブロウに内応を誘う書簡がきたようにして、他の家にも書状がいっているはずです。みんな疑心暗鬼に陥っていると思います」
「うむ……」
病人はベッドに座りなおして我が子を見やる。
「誰が敵か分からない。だったら、絶対に味方になると分かっているものを数えるほうが確実だと思います」
「絶対に味方になると分かっている?」
引き算が難しいのであれば足し算をしていけば良い。バアドクレアは計算の一部をすでに知っているのだ。試験に答えが分かっている問題が出た。迷う必用もない。バアドクレアはずばりと言った。
「カールクエイツは国王陛下のために動いています。本陣を都そばのビットプリウスの廃城に動かし、王弟殿下を牽制しています……」
バアドクレアは自分の目で見ているので言葉によどみがない。
一方、父親は息子の言葉に息を飲んでいる。子供は自分が見てきたことをただ言っているだけ。けれど、その内容は極めて重要である。
「武侠第一党は国王陛下のために動いているのか……だとすれば傭兵軍団ツェルニーも国王の側であるな。あそこはカールクエイツとは縁戚にあるから……」
「カールクエイツの身内でツェルニーの兵士が王弟殿下の手の者に殺されたという話も聞いています」
父親は唸るばかりである。カールクエイツもツェルニーも国の軍事に大きな影響力を持っている。そのような集団がいち早く旗色を明確にしている。と、なれば他の武侠や傭兵軍団もカールクエイツにならって国王を支持するのに間違いはない。確実な票を読める国王は王弟一派よりも優位にある。
「……僕は、ですから、一刻も早く国王陛下にアスペンブロウ家の忠誠を明らかにするほうが良いと思います」
「……うーん」
父は天を仰ぐような仕草をして見せてそれから言った。
「バアドクレアよ……」
「はい、何でしょう……」
父は脱帽しているのだ。一方、バアドクレアは自分が当たり前のことしか言っていないと思っているので特に何も感じていない。
「……いったい、どこからそのような情報を掴んできたのであるか?私も昔は王都に遊んだことがあったが、一介の学生風情がそのような機密に肉薄することなどまず不可能であった。いったいどうやって、どの筋から、そんな大それた秘密を探り出してきたのであるか?」
父の質問に子供は種明かしをするようにして笑って答える。
「……友人、寮の友人です。カールクエイツの当主……エラート家の子息が同じ部屋に入ってきて、その友人から全てを教えてもらいました」
ああ、そうか。父親は頷いた。それならば合点が行く。
「エラートの……そうか、そういうことであったか……」
父親はため息をついたが、子供はそのため息の理由が良く分からない。
「いろいろなことが都で起こって……。まあ、大抵はろくなことではないのですが」
バアドクレアは控えめに言い、父は全てを決断したようである。
「まさしく良き友はどんな財産にも優るということか。私には、そのような良き友はついに見つからなかった……」
父親は苦い顔をしたまま目を閉じる。逆転の博打はなくなり、やはり緩慢な死は免れない。アスペンブロウ家の命運はどうやら決まっているらしい。
「そのような良き友があれば私ももう少し楽に生きられたかもしれない……
「それだったら、今からお作りになられればよろしいではありませんか」
バアドクレアは何気ない調子で言った。
「……」
バアドクレアは父親をからかったのではない。ただ、トリセルディの何も考えない前向きさがふっとバアドクレアに伝染して、それが表情に表れただけである。むしろ、バアドクレアは自分の正論に父親がなんとも言えない厳しい顔を作ったことに慌てていた。
「いや、ですから……あの、つまり、友達を作るのに年齢はあまり関係ないかと……。僕の寮友ならばきっとそう言うだろうなと思って……」
「エラートのご子息か……」
ええ。バアドクレアは少女の面差しで笑った。
「……実に嫌な奴なんですよ。遊び好きで、女が好きで、注意をしないと風呂にも入らないですし……。深酒をしたり、上級生と決闘をしたり……」
陰謀云々という話の時とは打って変わってバアドクレアの舌は滑らかである。バアドクレアは基本的に人を陥れたり嵌めたりする話を好んでいないのだ。それならば馬鹿な友達の話しをしているほうがよほど楽しいことである。
「けれど、なんと言うか、嫌な奴なんですけれど……みんなの評価がひどく高いんです」
「……」
「ドレイクの扱いだけはこれは凄くて、一人で王立機士学校の練習機を全滅させたりと大変な腕前なんです。けれど、とにかく、こいつがだらしがない奴なんです。子供みたいなやつで……。放っておくと何をするか分からないのでいつもこっちはひやひやさせられてばかりなんです。ああ、けれど、そのおかげでいろいろなこをを知ることはできましたけれど……」
友人を誹謗するようにして、その一方でどこか誇るように喋る娘に父親は寂しげな視線を送った。
――この子は……。
父親は子供の変化に気がついている。気がついていないのは本人のみであるのだ。
「あい分かった……。バアドクレア」
父親の制止に若者は口をつぐんだ。どうも自分は調子に乗って喋りすぎたらしい。金髪の若者にとってはどうしても身内の誰かに語って聞かせたい話しなのだが……。
「おまえの友達についてはまたいずれ聞く時もあるだろう。そうだ、そのうちここに来てもらいなさい。私も武侠の跡取と話をしてみたいのでな」
父親は言った。
「ああ、はい!そうですね、いつかトリセルディにもここに来てもらいましょう!」
バアドクレアはちょっと興奮しており、そこで父親の気持ちを理解し損ねている。
「バアドクレア、おまえを今日、ここに呼び戻したのは正解であった……感謝をするぞ」
病床にある中年男は笑顔を見せ、そしてそれ以降は冷徹な統治者の顔を見せることは無かった。
「……ここはもういいから下がりなさい。それから母上を呼びぶように。おまえと話をして気分が随分と楽になった……」
「はい」
若者は頭を下げると静かに父親の寝室を後にした。自分の子を見送るアスペンブロウの当主は苦渋の表情を作って呟いた。
「一つを拾えば一つを落とす。それが運命というものか。やはりキメラの血は……」
当主の容態が安定したことで、夜半には家臣達もそれぞれの家に戻っていき、屋敷には身内だけが残された。ノルジエも屋敷でアスペンブロウ夫人と顔を合わせるのが嫌だったのか、それとも資金援助の話が出来そうにない雰囲気を見て取ったのか、サンコルヴァ市中に取った宿に早々に引き上げてしまった。
かくしてバアドクレアには穏やかな夜が訪れる――というわけではなかった。
「みんな集まりなさい!」
疲れがどっと出ているバアドクレアは、そのような母親の号令を受けて、広間に二人の姉と共に召還されることとなった。
もっとも、一番上の姉は、どうしても嫁ぎ先に戻らなければならないというの実家を去り、だだっぴろいだけの広間に集まったのは母親と、セラーノ、それにバアドクレアのたった三人だけとなった。
「バアドクレア、大事な話をしなければなりません!」
母親は夫が倒れたことでいつもよりも興奮し、ヒステリックになっているようである。セラーノは退屈そうに母親を見やり、一方、末の息子は気の毒なぐらいに萎縮している。
「お父様は、今回はたいしたことはありませんでしたけれど、この先いつどうなるか分かりません……そうなったらバアドクレアはこの家の家督を嫌でも継いでもらわないとなりません。分かっていますね?」
「はい、お母様……」
眉を吊り上げた母が竜のようにバアドクレアには見えた。キメラ種の人は美人が多いが、そのなかでもバアドクレアの母は美しい人であったと息子は聞いていてる。
「アスペンブロウの勢力は衰える一方。キメラの純血種も今ではほとんど稀となっています。バアドクレア、あなたは二重の意味で大きな責任を背負っているのですよ。気概を持ってもらわないと困ります!」
「はい、お母様……」
バアドクレアは哀しげに言った。
父親には多少は意見を言える末っ子は、母親のヘルガには抵抗ができない。母親はとにかく癇の強い人で、機嫌が悪くなったりするとヒステリックに叫んだり物を投げたりもする。バアドクレアはまだ幼い時分にキレた母親が銀の皿を額縁の絵にたたきつけた姿を見たことがあった。羅刹のような母の横顔は今でも子供の心を縛り付けている。
「それからノルジエ叔母様のことですが……」
やはりその話か。セラーノは渋い顔で目を閉じた。
「事業計画の文書を見ましたよ。バアドクレア、わざわざあんなものを国許に送ってくる必用はないのです」
「……」
「あんな馬鹿げたものはあなたのほうで処分できたはずでしょう。お父様のお仕事を増やしていったいどうするのです。ああいったものはあなたのところで適当に処分しておけばいいのです。いいですね。次からはノルジエ叔母様からのお話は取り次ぐ必要はありませんからね!」
「はい、お母様……」
バアドクレアは先ほどから同じ発言しかしていない。
「お父様にもしものことがあれば、当家はノルジエ叔母様とは縁を切る……お父様は優しい方で、どうしても兄妹の関係を断ち切ることができません。けれど、バアドクレア、あなたの代になったら援助をする必用などありませんからね」
「はい、お母様……」
学業はどうだ、でもなければ、元気でやっているか、でもない。あるのは夫の親戚への呪詛の言葉だけ。母親の精神は間違いなく病んでいる。バアドクレアは暗然となった。
「いいですね、バアドクレア。あなたは、立派な男となってこのアスペンブロウを背負っていかなければならないのですよ!」
母親は高らかに言った。自分が女になったためについに母方の実家は断絶した。その負い目を我が子にぶつける。子供としては辛い重荷である。縮みきっているバアドクレアを二番目の姉はじっと見つめている。
「セラーノ、貴女もしっかりしないといけませんよ。今こそ家族が一丸となって家と、血族の危機を乗り越えないといけません!」
母はヒステリックに叫び、バアドクレアはしんどそうに頭を振った。
何故、こうなのか。何故、自分はこんな厄介なことに巻き込まれるのか。末っ子としては頭の痛いことばかりである。
――本当に、本当に窮屈な家……。何もかもが古くなって傷んでしまっている。
バアドクレアの母親の演説はさらに続く。キメラは優れた種族である。アスペンブロウもそうだが、母親の断絶してしまった家系ももっと評価されてしかるべきであった。なんとしても種族としての栄光を取り戻す。本当は母親自身の手で種族と家の力を盛り返したい。だが、それができないので、子供に頑張ってもらうしかない。期待している。期待している、その期待を裏切るな。裏切るんじゃない!
国都に出ていろいろなことを見聞きしたこともあってバアドクレアは実家の状態がよく見えている。
――もう、どこもかしこもガタガタだ……。
「いいですね、バアドクレア!あなたには私達の未来がかかっているのですよ!」
母親は叫び、セラーノはあくびをかみ殺している。そしてバアドクレアは母親の心理的な圧迫を感じながら友人のことを思っている。
――トリセルディ……。あいつならばこういう時にどうするんだろう。
実家は心休まる場所にあらず。今となっては騒々しい寮での生活が懐かしい。
――ついさっき寮を出てきたばかりなのに……どうして、こんなに遠くに来てしまったような気分になるんだろう……。
母親のヒステリックな叫びはなおも続いている。バアドクレアは泣いているようにしてうつむいている。
――本当に疲れる……。
母性というものは時にそれだけで横暴になり得るということか。
と。
異変が起こったのはその時のことであった。バアドクレアにとっては天佑といったところであったろう。
「奥様……」
屋敷に最後まで詰めていた老執事が広間に入ってくるのが見えた。がりがりに痩せた老執事はバアドクレアの祖父の代からずっとアスペンブロウに仕えてきた文字通りの老臣であった。自制心の塊のようなこの老臣にはキメラの若者も幼い頃から読み書きをならったり、一緒に買い物に行ったりとずっと世話になっている。
「ピクト……どうしましたか?」
アスペンブロウ婦人は老執事の名前を呼んだ。
「ただいまドレイクが一機、屋敷裏の空き地に強行着陸をしまして……」
「……?」
飛竜?アスペンブロウ婦人も子供達も怪訝な顔をしている。
「特に大きな音も聞きませんでしたが……」
屋敷の中のバアドクレア達は羽ばたきも聞かず、空気の振動も感じていない。もっともゲルモーターを使った飛竜は機士の力量次第ではほとんど無音で飛ぶことが出来るというが……。
「何か事故でもあったのでしょうか?」
婦人は立ち上がって尋ね、老執事は首を横に振った。
「ドレイクの機士はバアドクレア様にご面会を求めています」
「僕に?お父上ではなくて?」
バアドクレアはカンペチエなり他の領主なりがアスペンブロウ当主に密使を送って寄越したのではないかと疑ったのだ。だが、そうではない。
こんな真夜中に、いったい誰が……。
「お会いになられまするか、バアドクレア様」
「あ、ああ、うん……。ここにお通しして……。いや、僕のほうから行こう」
ゲルに浸かった機士は水濡れというのが相場である。領主の屋敷にはだから玄関を入ったすぐのところに必ず浴室なりシャワー室が備わっている。
「待っている時間が無駄だから……」
キメラの若者は立ち上がり、広間を抜け出す。実は母親の小言を聞かなくて済むということでバアドクレアはほっとしている。
――それにしてもいったい何だ?
屋敷の裏口を開いて外に出てみれば……。
暗闇に馴染んで沈むようにして黒い機体が一機。武装された大型の一級戦列機。
「ストラブレイド……」
バアドクレアは呟いた。トリセルディ・エラートの乗機である。けれど何故ここに?金髪のキメラはいぶかしんで裏門を開けた。面会を求めてきた機士は、黒い翼の下にあった。
「トリセルディ!」
どうしてここに?まるで手品を見るようにしてキメラの若者はただ驚いている。本当に本人であろうか?
「いったいどうして?」
何かにつけて野人のことを思い出すバアドクレアのテレパスにトリセルディが反応したのだろうか。野人のほうはなんでもないといった具合に言った。
「校長から書類を預かったんだ。よく知らないが、大事な書類だから、渡しといてくれって……」
野人はそう言って手にしていた撥水シートに入った書類をバアドクレアに手渡した。ゲルで濡れたシートの中には『試験延期届』が入っている。理由があって試験期間中に試験を受けられない生徒が試験日程の延期をするための申請書――。実家に戻ったバアドクレアのことを考えて校長が用意してくれたものであろう。けれど、試験はまだ十日以上先であるのだ。
「こんなものをわざわざ……」
バアドクレアはため息をついた。一刻一秒を争うような書類ではない。校長が渡しておけといったのもきっと『郵送』でという意味だったのだろう。それを野人は自ら万里を飛んでやってきた。費用対効果など度外視である。
「何といったらいいのか……」
バアドクレアはちょっとあきれている。
「国都からここまでストラブレイドならそんなにかかんねーしな」
自前の機体を持っているエラートの若者にとっては、これぐらいの使いは使いのうちに入らないのだろう。
「それにこっちにもいろいろと考えって奴があってさ」
トリセルディは含みを持たせる発言をした。アスペンブロウのさらに北にはブレゼル、そして王弟クリーエフの領地オルバンがある。
「それよりも、親父さんのほうはどうだ?やっぱりよくないのか?」
「……うん、いや、それほどのことはないみたいだよ。ちゃんと意識もあるし。数日中には復帰できるって」
バアドクレアは真実を語った。
「そうか。そいつは良かった」
トリセルディのほうは適当に相槌を打つ。
「僕もしばらくしたら学校に戻るつもりだから……」
バアドクレアは言い、だいたいのことを把握して納得がいったのだろう。トリセルディは適当に言葉を吐いて散らす。
「そうか……。ま、試験も受けなくていいんだからせいぜいゆっくりしてくりゃいいわな」
「あのなー。試験を受けなくていいんじゃないよ。ただ先延ばしにしてもらえるだけなんだよ」
「どっちだって、まあいいじゃねえか。借金の期限が伸びたのと同じだろ。踏み倒す算段をする時間が増えたんだ。めでたいことじゃないか」
トリセルディは何処にあってものんきである。バアドクレアは口を尖らせる。
「僕は踏み倒しなんかしないよ。それに僕は試験の成績はいいんだよ!明日、試験があっても僕には何にも問題はない。問題があるのは君だろ!」
キメラの若者は普段、自分を誇って『成績が良い』などと言うことはほとんどない。それをあえて言うのはトリセルディののんきさが腹立たしくなってきたからである。
「まあな。でもまあ、そんなことはどうでもいいさ」
トリセルディはしれっとしている。そしてバアドクレアのほうは気落ちしてうつむいた。
トリセルディにしてみればカペルヴィアストルはどうせ腰掛け。退学になっても問題なし。麻薬の捜査が終わってしまえばどうせあとは南方に引き上げていくだけなのだ。ドレイクを駆れば自分と仲間十人分ぐらいの食い扶持は稼げるし、大空では学業の意味はない。一方、バアドクレアが試験の点数を振りかざしても結局それはそれだけのこと。ジリ貧の実家を継いで身内のいさかいに我が身をすり減らすだけ。どっちが大人物であるか言わずもがな。
「と、いうことで、俺はもう帰るぜ」
トリセルディは言った。任務はすでに完了。あとは帰投、本隊に報告を行うだけ。野人は帰りかけ、そこでバアドクレアはちょっと驚いたように言った。
「ええ、もう帰っちゃうの?」
「まあな。シエルやファーラのネーちゃんがおまえがどうなったか心配して寮で待ってっからよ。早く伝えてやったほうがいいだろ」
シエルはともかくファーラに関しては心配というよりは好奇心を満たすためだろう。
「それに病気見舞いってのはなるべく早く帰るのが礼儀ってもんさ。そうだろ?」
トリセルディは笑って、自分の機に戻りかける。そしてそこで声があった。声をかけてきたのはバアドクレアの姉であった。なかなか戻ってこない末っ子を心配したのだろう、屋敷の裏門のところにはセラーノのみならず、バアドクレアの母親も出てきている。
「ちょっと、もし……」
二番目の姉はトリセルディに声をかけ、トリセルディは足をとめた。バアドクレアのほうは、姉のみならず母親まで出てきたことでちょっとうろたえてしまっている。
――母上は多分トリセルディのことが好きじゃないだろうな……。
末っ子は母親の好みが分かっているのだ。繊細で狭量な母親は知性であるとか教養、作法というものを好み、その逆を嫌うのだ。
――出来れば母にトリセルディに会わせないほうが良い。
バアドクレアはそのように思っており、そこで僅かに萎縮したのだ。もっとも、トリセルディのほうは平気な顔でセラーノに応じる。
「何か?」
「あなたは……バアドクレアのお友達ね?」
トリセルディは堂々としている。
「寮で一緒にやっています。校長に頼まれて書類を届けにきました」
「それは遠いところをわざわざ……」
セラーノはどちらかというとほっとしたようにして言った。末っ子と同じように、二番目の姉もまたヒステリックな実母と一緒にいることに嫌気がさしてしまっていたのだろう。突然やってきた訪問者はバアドクレアにとってそうだったように、セラーノにとっても天佑であったのに違いない。
「もう帰られるのかしら?」
セラーノは笑って言った。
「用件は済みましたからね」
バアドクレアは野人を姉に任せて、母親のほうをちらりと眺める。果たせるかな母親は硬い顔をしている。
――やっぱり、トリセルディがお気に召さないみたいだ……。
主人が病気だというところに屋敷の裏に飛竜で強行着陸。しかも真夜中である。野人に作法を求めるほうが無理な話であるが、それでも無礼のそしりは免れない。バアドクレアは母親の顔色に心をちりちりと焦がしている。
「今晩は遅いからもう泊まっていかれたらどうかしら?」
セラーノは勝手に言い、母親は機嫌を損ねたようである。そのような家事に関する重大な決断をするのは次女ではなくて母親のはず。
「そうですねえ……」
迷いを見せるトリセルディにバアドクレアも言った。母親の勘気を被るのも恐ろしいがだからといってこのままトリセルディに帰られたあとに母親とセラーノと三人で広い屋敷に取り残されるのはもっと辛い。
「そ、そうだよ……。きょ、今日はもう遅いし……だから、ね?」
せっかくやってきた援軍を追い返すこともない。トリセルディは行儀作法はともかくとして勇敢で胆力があるのだ。バアドクレアの助けになってくれる場面がきっとあるだろう。それに、父親の明かしてくれた王弟殿下の檄文のことなどで話したいこともある。
「母上、構いませんね?」
セラーノはトリセルディの返答を待たずに言った。母親はなんとも暗い視線をトリセルディと末っ子に送っている。バアドクレアはその視線に気がつきながら知らないふりをし、一方、トリセルディのほうは自分がどれほど強いかを知っているからだろう。泰然としている。
「構いません」
バアドクレアの母親はそのように一言だけ残して屋敷にさっさと引っ込んでしまった。セラーノはそこで『勝った』といった具合に笑い、末っ子は疲れたようなため息をついた。 「それでは一晩だけ厄介になりますか……」
トリセルディはのんびりと言った。
アスペンブロウを遥かに南。国都に雨が降り始める。
闇夜に策謀が動き始める時刻――。
グラジットの森から程近いコパンの離宮に人の動きが見える。
雨に紛れ、宵影に隠れるようにして灰色の男達が蠢く。二人が屋敷の門前に、さらに二人が屋敷の表玄関に歩哨のようにして立って辺りを警戒する。
やがて。
「こちらへ……」
灰色の外套を身にまとった男が四人、一人の貴人を四方から守るようにして屋敷の中から出てくる――。警護されているのはコパンの主であろう。と、灰色の男の一人が言った。
「王弟殿下、お急ぎくださいまし……」
仮面を着けて顔を隠した男は小さく頷く。屋敷の前には黒塗りの車が三台。ゲルモーターを乗せた四輪の車にはここにも四人の護衛が張り付いて辺りを厳しく警戒している。
事態は切迫している。王弟をなんとしても脱出させなければならない。
一方、逃げるものがあれば追うものがある。
コパンの離宮正面門からわずかに離れたところから、灰色の男達の動きを監視している黒い影――。
深い藍色の外套を着けた男がじっと反逆者の動向をうかがっている。彼らは王弟一派の動静を調べ、それを逐一報告するという地味で粘りのいる職責を担っている。そして、我慢の甲斐あって、ついに彼はその時を捕らえたのだ。だが。
「内務の密偵か。お役目ご苦労」
木立の闇に同化していた看視者の背後に声があった。藍色の外套を着けた男は慌てて振り返り……そして、そこで彼の運命が潰えることなった。白刃がぎらりと光り振り返った男の胸をざくりと切り裂いた。血が飛沫き返り血が飛ぶ。
頬に傷のある髭の男――。
密偵が人生の最後に見た人物の顔。汚れ役を演じなければならない自分に嫌気がさしたような表情をした中年男性。
「き、貴様は……」
藍色の男は血の泡を口から噴きながら呟いた。密偵は恐らく自分を刺した男のことを知っていたのだろう。なんといっても髭の男は王宮では良く知られた人物であるのだから。 ――グランデール……。
血に塗れた内務省の密偵の唇が確かにそのような単語の形を作った。声は無かったが……。刺し殺された男はその場に崩れ落ち、機士の中の機士は剣を納めて主の下に大股で歩いていく。
「グランデール様……」
灰色の男が声をかけた。髭の中年男の頬には返り血が飛んでいる。
「一人斬った。早くしろ。密偵がまだいるやもしれん……」
機士の中の機士は叱咤するようにして灰色の男達を促す。車内にある仮面を着けた貴人の目が血染めのルイ・グランデールのことじっと見つめている。髭の男は軽く頭を下げて主の眼差しに応えると、厳しい声で部下を叱咤する。
「早く車を出せ!もはや猶予はならん!」
機士の言葉に灰色の男達は急ぎ足に任務の仕上げにとりかかる。
三台の車が次々に動き出し、それぞれが別の方角に向かって走り始める。一台は北に、一台は西に。王弟本人が乗ったものは東に。
一方グランデールは雨の中に立ちはだかり辺りの様子をしばらくの間うかがう。ほかに密偵はいないか、尾行はないか……。
――動きはなしか……。
辺りには人影もなければ、追いすがる車もない。
「……」
機士の中の機士は主を脅かすものがないことを確信すると、寝静まった国都に消えていく。任務は終わったのだ。とりあえず今のところは。
あとには血を流して倒れる密偵の死体が一つ。
王弟クリーエフが逐電した――。
そのような情報は田舎であるアスペンブロウの領地に入るわけもない。皆知らないから平穏に朝を迎え、平和な朝食がおまけにつくこととなった。
バアドクレアに機密を貰ったことで迷いが晴れたアスペンブロウの当主に奥方ヘルガ。はねっかえりの次女セラーノに、さらには嫁ぎ先から末っ子の友人見たさに朝早くから戻ってきた長姉クリス。それにバアドクレアと客人となるトリセルディ・エラート。
縦長の間取りをしたアスペンブロウ家の食堂に珍しく大勢の人が集うこととなった。
ジリ貧の貴族ということで、食事は質素なものであったが、客人は文句を言わず、当主は晴れ晴れとして非常に機嫌が良かった。一方、反比例するようにして当主婦人のほうは心楽しからずといった風情である。
「話には聞いている。エラート家のご令息であるとか……」
アスペンブロウの家長は一晩宿を貸した若者にそのように問いかけた。
前夜、末っ子との会話で、アスペンブロウ家の当主はトリセルディのことを知っている。
――ああ、この子が。
父親は我が子の友人を笑いながら観察している。
――立派な若者であるな。
食卓に呼ばれた若者は体格もよく、堂々としていて動きにも無駄がない。
「そうですが……」
エラートの若旦那は複雑な顔をしている。
「よろしいのですか?ご病気と伺っておりますが……」
我が子を呼び戻すような大病であったはずの人物が起き上がってきて大丈夫であるのか。確かに、食事だけは当主一人だけが別メニューで粥のようなものを食べてはいるが……。
「何ということはない。君のおかげで大分良くなった」
トリセルディは変な顔をしている。彼は自分の情報がアスペンブロウの病に絶大な効果をもたらしたことを知らない。
「……そうですか」
いかにも腑に落ちない様子の若者に、二番目の姉が声をかける。
「エラート様……」
「エラートは貴族じゃありません。様付けは勘弁してください」
野人は居心地悪そうに訂正を加え、二番目の姉は言い直した。
「それではエラート殿。都でのバアドクレアはどうですか?」
末っ子は嫌な方向に話が転がりだしたと気を揉んでいる。馬鹿な野人がまた余計なことを言わないといいのだが……。
「どうと言われましても……まあ、いろいろと教えてもらっていますよ」
トリセルディは黒パンをかじりながら答える。礼儀作法などからっきし、食べたいものを食べたいように食べたいだけ食べてしまう野人の姿に、バアドクレアはひやひやしている。どうやら父親と姉二人はトリセルディのことを礼儀を知らないというよりは、単に若いとプラスに評価しているようだが、母親のほうは、口の中に物があっても平気で会話をする無作法な若者にそろそろいらつき始めているようである。
「いろいろって?」
クリスは物見高く訊ねる。長姉は嫁ぎ先でも面白いことがあまりないのだろうか。
「まあ、いろいろですよ。たとえば……小便の仕方ですとか……」
立ったままではなく座って小便をしろ。
確かにバアドクレアはそのように叫んだことがあったが、何もこのような場面で言わなくても良いではないか!末っ子は顔を真っ赤にして握るフォークの先端を震わせている。
「結構長く人間をやってきましたが、小便の仕方を教わったのは初めてですよ」
トリセルディは臆面もなく言い、アスペンブロウの当主は声を上げて笑った。
「バアドクレアは父親の私が言うのもなんだが、少し、お節介なところがあってな……。それにしても小便の仕方を教わったか!」
当主は喜び、上の二人の姉も笑っている。そしてバアドクレアは耐え切れなくなって叫んだ。
「だ、だってしょうがないじゃないか!いったい誰がトイレの掃除をすると思っているんだよ!」
惑乱する末っ子が面白いのか、次女はさらに訊ねて聞く。
「他には何かありませんか?バアドクレアのことで……」
「そうですねえ。まあ特には……ああ、歯軋りと、寝言がちょっとひどいような気がしますね……」
「寝言!」
よりによってそんなことを告げ口されるとも思わず、バアドクレアは腰を浮かした。
「僕は寝言なんか言わないよっ!君は嘘をついている!」
「嘘じゃねえよ。良く分からないんだけれど意味不明なことを夜中に言ってるぜ」
トリセルディはのほほんとして言った。こんな場面で嘘をつく必用もないので、と、いうことは、全部本当ということだろう。
「何か精神的に追い詰められていることでもあるんじゃねえのか?」
「そ、そんなことないっ!あるもんか!」
「むひょー!とかなんとか、変な叫びを時々上げるのを聞くが……」
「もー!なんでみんなの前でそんなことを言うんだよ!」
大いに慌てて見境がなくなっている末っ子にアスペンブロウの投手は苦笑いをし、姉二人も笑っている。
「……?」
黒い髪の野人はそこで、自分の顔を凝視するアスペンブロウ婦人のほうを何気なく見やり――そして、軽く会釈をするようにして笑って見せた。食事の手が止まったままの中年女は何も言わない。トリセルディは相手が何を考えているかを理解せず、一方家族のほうは癇の強い婦人のことを憚るようにして笑顔を三割ほど差し引いて遠慮をした。特に、我を忘れて錯乱したバアドクレアは母親の小言を恐れて哀れなぐらいに萎縮している。
――取り乱してしまった……。母上にきっとあとで何か言われるのに違いない……。
バアドクレアは憂いてうつむく。
「どうかなされましたか?」
トリセルディは悪気はないのだろう、バアドクレアの母親に笑顔で尋ねた。野人にとっては食事というものは楽しいものでしかない。眉間に皺を寄せてにこりともしないような人物はどこか体の調子でも悪いのだろうという発想しか浮かばないのだ。
「……」
当主以下、家族全員がしばし口を閉ざす。昂ぶりかかった婦人に敢えて真っ向から切りかかることはアスペンブロウの当主でもしんどいことであるのだ。けれど部外者であるトリセルディはお構い無しである。バアドクレアも怖いもの知らずの友人に背筋が凍る思いである。
「……なんでもありません」
アスペンブロウの婦人は激発することもなくただ曖昧に言っただけであった。
――良かった、母上はお怒りにならなかった……。
末っ子は焦りに焦った後でほっとした。バアドクレアは母親のことを本当に愛し、慕っているのだ。いろいろと問題のある母親であるが。一方で、キメラの若者はトリセルディのことをとても頼りにしている。両者が争い、二者択一を迫られるような状況はバアドクレアにとってはとてもつらいことであった。
一方、母親のほうも我が子とその友人を見る目は複雑である。我が子の友人のがさつで無作法なところはもちろん不快であるのだが、それよりも何よりも我が子と友人の差がひどく気になるのだ。バアドクレアは美少女のように華奢で線が細い。一方トリセルディは背も高く、肩幅も広くいかにも男らしい。我が子は動じやすく、からかいに簡単に応じて惑乱するなど肝が据わっていないがエラートの子息は重々しく動じることがない。平民の分際で貴族の食卓に呼ばれてあまつさえ、機嫌の悪い当主夫人に『どうかなされましたか?』などと真正面からぶつかって平然としている。
家族の雰囲気も母親にしてみれば面白くない。長女も次女もバアドクレアよりも、この新参の友人のほうに安心感を感じるように見える。次期当主である弟よりも、他人に頼りがいを感じる。そんな馬鹿なことがあって良いのか?
太陽と月ではないが、トリセルディを快活な太陽とすれば、バアドクレアはか細い月のようにしか見えない。母親として腹立たしいのは、バアドクレア自身が月の地位にあってほっとしているように見えるところである。
――我が子ながら気概がなさ過ぎる!
母親にしてみれば歯軋りしたくなるところである。同時に、
――自分が育ててきたものが、こんなに価値のないものであったのか?
という情けなさのようなものも母親にはある。
産み育てた結果がこれ。こんものを作り出すために自分の人生はあったのか?
我が子とよその子を比べることに生産性などないのだが、横暴な母親は無意識に我が子を自分の作品のように考えている。
――情けない……。
当主夫人は気分を大いに害したのだろう。スープを呑むのを途中でやめると不意に席を立った。
「気分が優れません……」
「……」
食堂に集った人々はトリセルディを除いて暗い表情を作った。毎度の母親の病気。だが、その毎度のことが徐々にであるが悪化している。
「母上……」
バアドクレアは母親の変化に慌てて席を立ちかけるが、それを父親が制した。
「バアドクレア。良い。座っていなさい……」
癇の強い婦人はそのまま食堂を出て行き二度と戻らず、ひどく気まずくなった食卓でアスペンブロウの当主が話題を変えるようにして言った。
「エラート君……」
「トリセルディとおよび下さい。アスペンブロウ卿」
黒い野人は笑って言った。
「申し訳ない。妻は、僅かに心を病んでおってな……」
アスペンブロウの当主は疲れ果てたように言った。背中を丸めたその姿は老人のようである。一方、トリセルディのほうは涼しい顔である。
「そうですか?俺の母親に比べればましですよ」
気が強く、いつでもカリカリしていて、プライドが高くて自分の思い通りにことが運ばないと機嫌を損ねる中年女。夫ももてあましているような婦人よりももっと性質の悪い女が本当にあるのか?アスペンブロウ卿はトリセルディの母親に興味を漏ったようである。バアドクレアはトリセルディの母親に会ったことが一度だけあった。なんとなく変な感じの女性だったが……。
「……君のお父上も細君には手をやいておられるのかね?」
アスペンブロウ当主は尋ねた。
「うーん。まあ、適当にやっているみたいですが……とにかく大変な人ですからね、俺の母親は」
「どんな方なのかしら……」
長女のクリスが訊ねる。やはりクリスは嫁ぎ先での生活に飽きてしまっているのかもしれない。
「俺のお袋は傭兵軍団ツェルニーの団長の一人娘なんです。やくざと喧嘩をして街中でバルカン砲を三百発ぐらいばら撒いたり、大鎌を振りかざして人を斬りまくったり、捕まえたクレティアの捕虜を火炙りにしようとしたり、とにかく粗暴な人で……。それでついたあだ名が牝鮫です」
捕虜を火炙りという下りを聞くに至って、アスペンブロウ家の人々は目が点になっている。それはいくらなんでもやりすぎである。
「めちゃくちゃなことばかりするんで、おじい……。つまりツェルニーの団長がもうどうしようもなくなって、それで、俺の親父のところに来たんです。その頃ちょうど、ツェルニーとエラートは戦利品の取り分のことやその補償のことでごたごたしていて、それをチャラにするかわりに、お袋を親父の嫁さんにしてくれって」
「なんなの、それ?」
バアドクレアはあきれたようにして言った。
紛争にかこつけて実の娘を厄介払い。めちゃくちゃもいところである。
「結婚すれば多少は落ち着くかとツェルニーの団長も考えたみたいですけれど、お袋の凶暴さが治るわけもなく……」
トリセルディはしれっとしている。
「よ、よく今まで、家庭生活をやってこられたわね……」
二番目の姉が恐ろしいものを見るようにしてトリセディを見ている。反骨精神に溢れたセラーノを怯ませるぐらいだからトリセルディ・エラート、やはりただものではない。
「だから、まあ、俺の母親のように、狂って大暴れをしないだけましなような気がしますけれどね」
黒い髪の野人は淡々と言った。
「大暴れしないだけましか……うむ。確かにそうかもしれんな……」
アスペンブロウの当主は微苦笑をして頷いた。自分よりもっとひどい境遇の人間がこの世にいると知れば心も軽くなるというもの。そして、そこで父親が不意に話を変えた。
「トリセルディ君。今日中に都に帰るのであろう?」
「ええ。朝食をご馳走になったら、すぐにでも。学校の講義はどうでもいいんですが、今はなるべく都を離れたくありませんから……」
黒い髪の野人の言葉の意味を理解しているのはバアドクレアとアスペンブロウの当主だけ。
「……君の飛竜は単座機のようだが、もう一人ぐらい余分に乗せて行けるかね?」
当主は思慮に富んだ眼差しで客人を見つめている。
「ええ。シートがでかいですからね。後ろに乗せていけますよ」
「……それだったら、バアドクレアを乗せていってもらえないだろうか」
バアドクレアは僅かに驚いて嘴を挟んだ。
「し、しかし、父上、昨日遅くに着いたばかりで……。それに父上の体調も心配です。そんな急に……」
長姉のクリスも父親の決断に異論を唱える。
「そうですよ。せっかく戻ってきたんです。もう少し家にいてもよろしいではありませんか」
娘達の反対に父親はしかし譲らない。
「いや。私のことならばもう心配ない。命に別状がない以上、バアドクレアがここに留まる意味もあるまい」
バアドクレアを台風の目である国都においておくほうが情報を採りやすい。アスペンブロウの当主にはそのような為政者としての算段があるのに違いない。そして、それとは別に、親としての『末っ子をこのまま実家に残しておくべきではない』という判断もあるのだろう。気が小さく、生真面目な末っ子をこのまま手元においておけばきっと横暴な母性に潰されてしまうに違いない。
トリセルディは多分、アスペンブロウ卿が何を考えいるのか分かってはいないだろう。ただ、彼はアスペンブロウの当主が真剣であることは理解している。そして、それだけで十分であったのだ。
「分かりました。すぐにでもここを発ちましょう」
トリセルディは黒パンの欠片を口に放り込んだ。
灰色の雲が空を覆う。
「もー!なんだよ!教えてもらったことが小便の仕方だなんて!僕は君にもっと有意義なことも教えているはずだよ!」
館にあった古い乗機用の衣服を着けたままバアドクレアは怒っている。一方トリセルディのほうは知らん顔で機体の準備を整えている。
バアドクレアの帰省はわずか半日で終わろうとしている。
「みんなの前で大恥をかいだじゃないか!」
黒い髪の野人はバアドクレアの怒りに取り合わずに機体にかけられた駐竜用の牽引フックを外している。フックを外し、さらにコクピット脇のロックを解除すればあとはすぐに搭乗ということになる。
「ちゃんと話聞けよ!」
バアドクレアはまだ怒っている。そうやって友人に八つ当たりをしているキメラの若者の姿はどこか伸びやかである。
「ああ、そっちのフック外してくれや……。それでおしまいだ……」
トリセルディに言われるままにバアドクレアは右翼に引っかかっているワイヤのフックをしぶしぶ外しにかかる。そして、ここで病人であるアスペンブロウの当主が屋敷の裏にまでやってくる。
一番目の姉に付き添われてやってきた中年貴族はトリセルディに声をかける。
「エラート殿。ちょっと……」
トリセルディは作業をバアドクレアに任せて、一宿の恩人のほうに大股で歩いていく。
「クリス。ちょっと二人で話がしたい……」
アスペンブロウの当主はそのように言って長女を下がらせた。女になってしまったクリスは父親の命じるままにその場を離れ、そこで中年男とエラートの若旦那は小声で何かをぼそぼそと話し始める。
――否。
――応。
よほど重大な話であるのか、男同士、二人は真剣な顔をつき合わせている。一方、席を外したクリスは末の弟のほうに近づいていく。バアドクレアはフックを外し終えようとしている。
「バアドクレア……」
「ああ、姉上……」
「いろいろと大変ね……」
一番上のクリスは性別が固定してすでに六年。今では誰が見ても完全な女性の体となっている。バアドクレアが幼い頃に見たクリスは背も高くて、もう少し男性的な印象があったのだが、それもなくなってしまった。言葉づかいもいつのまにか本当の女性のものになってしまっている。血を分けた姉弟であるがバアドクレアにはそれがなんとなく不思議に思われる。
「良いお友達ね……」
前夜は十分に話すことが出来なかったこともあるのだろう。姉は話を続ける。
「トリセルディのことですか?まあ、見ての通りがさつな奴で……」
バアドクレアは憎まれ口を叩いた。
「あなたがそんなふうに顔をゆがめて誰かを罵る姿を見ることになるとは思いませんでしたよ」
クリスは笑っている。
「いや、その、それは……」
「悪いといっているのではありませんよ。表情が出てきて良いといっているのです。あなたは子供の頃から仮面を着けているような子でしたからね」
「ぼ、僕が、仮面を着けている、ですか?」
バアドクレアは自分でも意識していないことを言われて浮き足立っている。
「良い子の仮面を着けている。やりたいことを後回しにして我慢している。そんなふうに私には見えましたよ。セラーノは、やりたくないことを後回しにする子でしたから、二人を足して二で割れば良かったのですけれどねえ」
「……」
バアドクレアはかなわないなといった具合に首をすくめて黙り込んだ。年が離れた長姉は末っ子をよく見ている。
「思えば、私が女になってしまわなければ、セラーノにも、あなたにもこんなに苦労をかけることはありませんでした。母上の気鬱もここまてひどくはならなかったでしょうに……」
クリスは静かに言った。もう諦めてしまっているのだろう、長姉はただ疲れたようにしてため息をつくばかりである。
「なかなかに世の中は思い通りに行かないものです……」
クリスの視線の先にはアスペンブロウ卿と談義をしているトリセルディの姿がある。
「きっとお父様は、あんなふうにして自分の息子と話をしたかったのではないか。そんなふうに思います……言っても詮無いことですけれどね」
「あの、姉上……」
バアドクレアは言った。父親が重要な話をしているように、バアドクレアにも身内に訊ねておきたい大事なことが一つあったのだ。
「その、僕もそろそろ性別固定が始まります。それで、聞きたいんです。いったいどうすれば男になれるのかって。男になるにはどうすればいいのか……。そのやり方みたいなものがあれば教えてもらおうと思って……」
キメラの氏族には、性別の固定に際して何らかの儀式を行うところが珍しくない。親から子に、自分の意思によって性を決定する、そのノウハウを教える一種の通過儀礼である。だが、アスペンブロウの一族にはそのようなものが存在しない。少なくともバアドクレアはそのようなものがあるとは聞いていない。
――男になれとはいうけれど、そのやり方が分からないのではいかにも心もとない。
バアドクレアはそこで姉に尋ねたのだ。男になる方法を。クリスは返答にちょっと詰まり、それから言った。
「……性別の固定の時にはキメラは高熱を出します。人によりますけれど長くて三日ぐらいですね。それまでに体調の不良がちょっと続きます」
「ああ、そう言えば、セラーノ姉さんもそうでしたね……」
バアドクレアは神妙な顔で頷いた。確かに二番目の姉も高熱を出して寝込んでいたことがあった。
「……その時に心の奥底から誰かが問い掛けてくるのです。汝は男になるのか、女になるのかと。そこで自分の意思で男になるか女になるかを決める。男になると決意すれば男になれるでしょうし女になると決意すれば女になれるでしょう」
バアドクレアは真面目に頷いた。
「なんだ、結構簡単なのですね……」
末っ子は拍子抜けしたようである。案外性別の決定は簡単に行われるものであるらしい。
「あの……、それならば、姉上はどうして、女になると決意してしまったのですか?」
バアドクレアは素直な疑問を姉にぶつけた。厳しい質問に姉は笑った。
「気の迷い……でしょうか」
「気の迷い、ですか……」
バアドクレアはあっさりと納得した。前夜の母の様子や、家臣達の表情、すすけて汚くなってしまった屋敷の壁紙のことが思い出される。迷って当然であろう。
――僕は迷わないようにしないといけない……。
末っ子は自分に言い聞かせるようにして頷いた。バアドクレアは姉が適当に話をでっちあげているということに気がついていない。
「分かりました。とにかく、高熱が出るまでは何か特別なことをする必用がないってことですね……」
バアドクレアは簡単に騙されている。一方、長姉には末っ子を騙そうという悪意はない。ただ、ほかに言うべき言葉が無かったのだ。
――キメラにはもや性別を自分の意思で決定する能力はありません。役目を終えた純血キメラ種の子供はどんなに頑張っても女児にしかなりません。そうして普通の人間と同化してキメラという一族は歴史の中に消えていくのです。
クリスはそのことを知っており、弟にそう語ることも出来たはずである。だが、そうしない。男になろう努力している末っ子に辛い思いをさせることが分かっているし、それに、バアドクレアが男になる可能性がゼロというわけでもない。万に一つ、億に一つの可能性があるのであれば、それに賭けるべきではないのか。
――いずれにしたところで今はバアドクレアの心を乱してはいけない。
クリスはそのように考えており、それは他の家族も同じであった。
「大丈夫ですよ。あなたの性別固定が始まるころには多分セラーノが付き添いのために国都に行くでしょうから。心配をすることはありませんよ」
クリスは言った。
「高熱、高熱、と……」
バアドクレアだけが納得したように頷いている。頼りになる次姉が来てくれるのであれば心強い。実のところ、バアドクレアは寮でたった一人でその日を向かえることが恐ろしかったのだ。
「……分かりました姉上」
キメラの若者の顔にちょっとだけ安心の色が浮かび――そして、ここでアスペンブロウの当主とトリセルディの密談も決着を見たようである。黒い髪の野人はアスペンブロウ卿に軽く頭を下げると乗機のほうに戻ってくる。
「よし、行くか……」
トリセルディは呟くようにして言い、バアドクレアは訊ねる。
「父上、何だって?」
「不束な息子をよろしく頼むってよ!」
「僕は不束じゃないぞ!」
不束ななのはおまえだろう!バアドクレアはからかわれて憤り、黒い髪の野人はその怒りを適当に受け流し、クリスにも軽く頭を下げた。
「それでは、またいずれ……」
トリセルディは黒い飛竜のキャノピーを開くと軽い足取りでコクピットに乗り込む。バアドクレアも慌てて後に続く。
「姉上、それじゃ、行きます。父上も。休みにはまた戻ります!」
クリスは笑って手を振り、父親のほうは終始無言であった。
二人の客を腹に収めた黒い飛竜のキャノピーが静かに閉ざされ、ゲルモーターが回り始める。黒い翼がゆっくりと羽ばたき始める。見送りの二人は巻き起こる強風を逃れるようにして黒い機体から離れていく。
そして。
十分な揚力を得た黒い翼がふっと空に舞い上がった。
「……」
去り行く花嫁を見送るようにして父は黙然としている。地上から浮き上がった黒い機体はホバリングをするようにして高度をさらに上げていく。巧みな翼捌きであった。
十分な高度をとると黒い飛竜は国都に向かって南進を始める。動き始めた機体はホバリングの時のゆったりとした印象とは裏腹にまるで矢のような加速を見せ、急速に見送りの視界から遠ざかっていく。
「速い機体ですね……」
取り残されたクリスが、同じく取り残された父親に言った。
黒い機体は高度と速力を上げて、あっという間に灰色の雲に一点刻まれた黒い染みのようになり、やがては、その染みも溶けるようにして消えていった。
見送りの父親はいつまでも空を見上げるばかりである。




