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前世で予約3か月待ちだった美容師の俺、美醜逆転の異世界で開業したら客が3人しか来ない ~その3人がSランク冒険者で、予約枠を奪い合っている~  作者: 中原九尾
第1部 開業と3人の客

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第10話 この店では脱いでいい

 開店38日目。


 昼の予約の時間になっても、誰も来なかった。


  昼 ミルテ様

  昼すぎ カタリーナ様

  夕方 ジークリット様


 昼が過ぎた。昼すぎも過ぎた。


 鈴は鳴らない。


 3人が予約を入れるようになってから、時間に遅れたことは一度もなかった。むしろ早く来すぎて、鉢合わせをしたくらいである。


 俺は椅子を拭いた。鋏を研いだ。蒸し布を畳み直した。張り紙の端がめくれていたので、膠で貼り直した。


 やることがなくなって、扉を見た。


 昨日の、兜の奥の低い声を思い出す。


 考えがある、と言っていた。


 何の考えかは聞いていない。聞いておけばよかった。お客様が自分から話すまで待つのが美容師だが、待ってはいけない場面というのも、たまにある。


――――――――――――――――――

【ジークリット視点】


 朝、宿の私の部屋に、3人で集まった。


「隠すから、噂になる」


 私は言った。ひと晩考えて出した答えである。


「顔を隠した女が3人、こそこそ通っている。だから、あの店主が笑われる。ならば、隠さなければいい。素顔で、正面から、客として堂々と入る」


「論理に穴がある」


 ミルテが言った。


「素顔で歩けば、もっと笑われる」


「笑われるのは、私たちだ。店主ではない」


 ミルテは少し黙って、帳面を閉じた。


「……妥当」


「私も、描かずに行くわ」


 カタリーナが言った。炭を、机の上に置いた。


「綿も着ない。3枚とも置いていく」


 私は兜を脱いだ。かぶらずに、小脇に抱えた。置いていくことは、できなかった。


 ミルテはフードを後ろへ落とした。


 カタリーナは口もとの布を外して、畳んで懐に入れた。


 3人で、宿の階段を下りた。


   *


 宿から職人通りの外れまで、およそ400歩である。ミルテが数えたことがある。


 最初の10歩は、何も起きなかった。


 朝の通りは人が多い。誰もこちらを見ていない。


 歩ける、と思った。


 15歩目で、果物屋の女将が顔を上げた。


 籠に林檎を並べる手が、止まった。


 女将は何も言わない。ただ、口を少し開けて、それから目を伏せた。林檎をひとつずつ、ゆっくり並べ直しはじめた。


 向かいから来た荷運びの男が、私たちに気づいた。足がゆるむ。男は道の端に寄って、帽子のつばを下げた。


 道が、割れていく。


 誰も叫ばない。指もささない。皆、黙って左右によけるだけだ。目を伏せて、気の毒そうに、礼儀正しく。


 叙任の式の広間と、同じだった。


 20歩目。


 母親に手を引かれた小さな子どもが、こちらを見上げた。


「ねえ、あのおねえちゃんたち、どうして——」


 母親が、子どもの口をそっとふさいだ。


 そして私たちに向かって、頭を下げた。


「すみません。すみません。この子、まだ分からなくて」


 隣で、カタリーナの足が止まった。


 顔を見た。笑っていた。練習したほうの顔で、完璧に笑っていた。その手が、懐の布を握りしめて震えている。


 ミルテは下を向いていた。下を向いても、もう前髪がない。黒い目が、石畳の上を行ったり来たりしている。数えているのだ。自分たちを避けていく足の数を。


 私の手は、いつの間にか兜をつかんでいた。


 誰も悪くない。


 それが、いちばんこたえる。


 30歩目で、私は路地に入った。2人もついてくる。


 兜をかぶる。帯を留める。暗い鉄の中で、自分の息の音がした。


 ほっとした。


 ほっとしたことが、15歳のあの夜と同じように、悲しかった。


 ミルテがフードをかぶる。カタリーナが布を巻く。


 誰も、何も言わなかった。


 400歩のうちの、30歩だった。


――――――――――――――――――

【レン視点】


 日が傾いて、看板を下ろそうかと思ったころだった。


 鈴が鳴った。


 3人が立っている。


 兜と、フードと、口布。いつもの姿である。ただ、カタリーナ様のローブが細い。綿入れを着ていなかった。


 3人とも、うなだれていた。


「……すまない」


 ジークリット様が言った。


「予約の時間を、過ぎた」


「いえ。ご無事で何よりです。何かございましたか」


 3人は、ぽつぽつと話した。


 素顔で通りを歩こうとしたこと。客として、正面から堂々と入るつもりだったこと。そうすれば店主が笑われずに済むと考えたこと。


 そして、30歩で戻ったこと。


「400歩のうち、30歩。100のうち、7と半分」


 ミルテ様の声は、いつもより小さかった。


「だめねえ、私たち。Sランクなんて言われてるのに。竜は平気なのに、林檎を並べてる女将さんが、こわいのよ」


 カタリーナ様が笑った。練習したほうの声だった。


 俺はしばらく、何も言えなかった。


 この3人は、俺のために30歩を歩いたのである。


 何年もかぶり続けた兜を脱いで。何年も伏せてきた顔を上げて。毎朝描いてきたひびを描かずに。俺が妙な呼び名で笑われないように。それだけの理由で。


 目の奥が熱くなった。お客様の前で泣く美容師は三流だ。


 だから、軽口を叩くことにした。


「30歩も、歩かれたんですか」


「……30歩しか、だ」


「俺なら10歩で引き返します。パン屋の女将さんの前を通るだけで、今でも足がすくみますので」


 兜が、少しだけ上を向いた。


「それから、ひとつ訂正を。俺が笑われているのは、皆さんのせいではありません。開店初日に、自分でやったことです。女将さんを泣かせたのは俺ですから」


「でも、あの呼び名は」


「あれですか」


 俺は壁の張り紙の前に立った。


「あれは、ひとつだけ合っているんです」


「合っている?」


「何とか専、というのは、そればかり相手にしている、という意味でしょう。うちの帳面をご覧になりますか。開店から38日。女性のお客様は5人。うち1人は泣いて帰り、1人は客ではありませんでした」


 3人が、俺を見ている。


「残りは、お三方です。俺は開店以来、ほぼお三方の専門でやっております。事実ですので、訂正のしようがございません」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 ミルテ様が、小さく言った。


「……論理的」


「恐れ入ります」


「でも、ずるい」


   *


 俺は筆を取って、張り紙に1行書き足した。


  当店の決まり

  1 予約は、お1人につき1日1枠まで

  2 髪の施術は、3日おき

  3 予約表に触れてよいのは、店主だけ

  4 店内での魔法、抜剣、買収は禁止

  5 ほかのお客様の施術中は、のぞかない

  6 店内では、かぶりものを脱いでよい


「脱がなければならない、ではありません。脱いでよい、です」


 筆を置いた。


「外の400歩は、いつかで結構です。いつかが来なくても、構いません。兜も、フードも、綿も炭も、何年も皆さんを守ってきたものです。俺はあれを悪く言うつもりはありません」


 扉に鍵をかける。鎧戸を閉める。いつもの手順だ。


「ただ、この店の中では要りません。ここには俺しかおりません。そして俺は」


「目が悪い」


 ジークリット様が言った。


「はい。目が悪いので」


 鏡の布に手をかけた。


 今日は、外した。


「お三方とも、美しく見えております。この店の中だけは、俺の物差しでやらせてください」


 半月ほど前、同じ言葉で剣を抜かれかけた。


 今日は、誰も柄に手をかけなかった。


 最初に動いたのは、カタリーナ様だった。口もとの布を外す。次に、ミルテ様がフードを落とした。最後に、兜の帯が外れた。湯気が出た。


 3人が、鏡の前に並んでいる。


 誰も、まっすぐには鏡を見なかった。ジークリット様は横を向いている。ミルテ様は自分の爪を見ている。カタリーナ様は、にこにこしながら天井を見ている。


 それでも、誰も布をかけ直せとは言わなかった。


 今日のところは、それで十分である。


   *


「さて。本日のご予約ですが」


 俺は予約表を開いた。


「お三方とも、お時間を過ぎていらっしゃいます。本来でしたら、本日の枠は」


「……規則に厳しい」


「あらあら」


「待て。30歩ぶんの事情を考慮しろ」


「ただし、初めてのことですので。本日に限り、特別にお受けいたします」


 3人の肩から、目に見えて力が抜けた。Sランクが、美容室の予約ひとつで息をついている。


 順番は、いつもどおり予約の順にした。


 待つ2人のために、昨日のうちに長椅子を1脚作ってある。大工に「今度は寝ない椅子か」と聞かれた。寝ない椅子である。


 長椅子の2人に、お茶を出した。カタリーナ様が、懐から焼き菓子の包みを出す。王都でいちばんおいしい店のものだ。買収にあたるかどうか少し考えて、お茶うけなので不問にした。


 洗髪の湯の音。鋏の音。長椅子で、ミルテ様が爪の光り方について理屈を述べ、カタリーナ様が笑い、椅子の上のジークリット様が「静かにしろ、聞こえない」と言う。何が聞こえないのかは、分からなかった。


 店の中に、3人ぶんの声がある。


 前世の店は、いつもにぎやかだった。42人のスタッフと、1日に何百人ものお客様。俺はあの音の中で10年働いた。


 こっちに来てからの店は、ずっと静かだった。


 こんな音がするのは、開店以来、今日が初めてである。


 悪くない。


 3人しかいないが、悪くなかった。


――――――――――――――――――

【ジークリット視点】


 宿の部屋で、壁の紙に丸をつけた。


 次の洗髪は、3日後である。


 3日は長い、と思った。半月前から、ずっとそう思っている。髪を洗ってもらうのが待ち遠しいのだと、自分では考えていた。


 今日、気づいた。


 あの男は、目が悪いと言いながら、私の顔を見るとき一度も目をそらさない。


 待ち遠しいのは、たぶん、洗髪ではなかった。


 2人には、言わないでおく。


――――――――――――――――――

【ミルテ視点】


  記録。店主の前でのみ、脈が速くなる。

  測定。ふだんは1分に64。店内では88。

  原因の仮説。1、石けんの成分。2、店内の温度。3、


 3を書こうとして、筆が止まった。


 書かなくても、分かっていた。数えなくても分かることは、記録しない。


 私は3を空欄のまま、帳面を閉じた。


 2人には、見せない。


――――――――――――――――――

【カタリーナ視点】


 練習していない声は、あの人の前だと勝手に出てくる。


 低くて、早口で、あまり感じのよくない声だ。半年かけて作って、7年使ってきた声のほうが、ずっと出来がいいのに。


 あの人は、出来の悪いほうの声に、同じ調子で返事をする。


 困ったわねえ、と声に出して言ってみた。


 これも、練習していないほうだった。


 2人には、内緒にしておこう。


――――――――――――――――――

【レン視点】


 その夜、帳面を開いた。


  来店:29名(うち再来店25名)

  売上:銀貨66枚

  預かり金:金貨6枚弱

  断った男性客:139名

  備考:決まりの6を追加


 前世の店の壁に、俺はこう書いて貼っていた。


『来たときより、少しだけ自分を好きになって帰っていただく』


 あの3人が、自分の顔を好きになる日が来るのかどうか。俺には分からない。400歩を歩ける日が来るのかどうかも、分からない。


 ただ、この店の中では、脱いでいい。


 そこまでは、今日、決まった。


 俺は帳面を閉じて、明日の予約表を開いた。


 3つの欄が、3つとも埋まっている。

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