第10話 この店では脱いでいい
開店38日目。
昼の予約の時間になっても、誰も来なかった。
昼 ミルテ様
昼すぎ カタリーナ様
夕方 ジークリット様
昼が過ぎた。昼すぎも過ぎた。
鈴は鳴らない。
3人が予約を入れるようになってから、時間に遅れたことは一度もなかった。むしろ早く来すぎて、鉢合わせをしたくらいである。
俺は椅子を拭いた。鋏を研いだ。蒸し布を畳み直した。張り紙の端がめくれていたので、膠で貼り直した。
やることがなくなって、扉を見た。
昨日の、兜の奥の低い声を思い出す。
考えがある、と言っていた。
何の考えかは聞いていない。聞いておけばよかった。お客様が自分から話すまで待つのが美容師だが、待ってはいけない場面というのも、たまにある。
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【ジークリット視点】
朝、宿の私の部屋に、3人で集まった。
「隠すから、噂になる」
私は言った。ひと晩考えて出した答えである。
「顔を隠した女が3人、こそこそ通っている。だから、あの店主が笑われる。ならば、隠さなければいい。素顔で、正面から、客として堂々と入る」
「論理に穴がある」
ミルテが言った。
「素顔で歩けば、もっと笑われる」
「笑われるのは、私たちだ。店主ではない」
ミルテは少し黙って、帳面を閉じた。
「……妥当」
「私も、描かずに行くわ」
カタリーナが言った。炭を、机の上に置いた。
「綿も着ない。3枚とも置いていく」
私は兜を脱いだ。かぶらずに、小脇に抱えた。置いていくことは、できなかった。
ミルテはフードを後ろへ落とした。
カタリーナは口もとの布を外して、畳んで懐に入れた。
3人で、宿の階段を下りた。
*
宿から職人通りの外れまで、およそ400歩である。ミルテが数えたことがある。
最初の10歩は、何も起きなかった。
朝の通りは人が多い。誰もこちらを見ていない。
歩ける、と思った。
15歩目で、果物屋の女将が顔を上げた。
籠に林檎を並べる手が、止まった。
女将は何も言わない。ただ、口を少し開けて、それから目を伏せた。林檎をひとつずつ、ゆっくり並べ直しはじめた。
向かいから来た荷運びの男が、私たちに気づいた。足がゆるむ。男は道の端に寄って、帽子のつばを下げた。
道が、割れていく。
誰も叫ばない。指もささない。皆、黙って左右によけるだけだ。目を伏せて、気の毒そうに、礼儀正しく。
叙任の式の広間と、同じだった。
20歩目。
母親に手を引かれた小さな子どもが、こちらを見上げた。
「ねえ、あのおねえちゃんたち、どうして——」
母親が、子どもの口をそっとふさいだ。
そして私たちに向かって、頭を下げた。
「すみません。すみません。この子、まだ分からなくて」
隣で、カタリーナの足が止まった。
顔を見た。笑っていた。練習したほうの顔で、完璧に笑っていた。その手が、懐の布を握りしめて震えている。
ミルテは下を向いていた。下を向いても、もう前髪がない。黒い目が、石畳の上を行ったり来たりしている。数えているのだ。自分たちを避けていく足の数を。
私の手は、いつの間にか兜をつかんでいた。
誰も悪くない。
それが、いちばんこたえる。
30歩目で、私は路地に入った。2人もついてくる。
兜をかぶる。帯を留める。暗い鉄の中で、自分の息の音がした。
ほっとした。
ほっとしたことが、15歳のあの夜と同じように、悲しかった。
ミルテがフードをかぶる。カタリーナが布を巻く。
誰も、何も言わなかった。
400歩のうちの、30歩だった。
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【レン視点】
日が傾いて、看板を下ろそうかと思ったころだった。
鈴が鳴った。
3人が立っている。
兜と、フードと、口布。いつもの姿である。ただ、カタリーナ様のローブが細い。綿入れを着ていなかった。
3人とも、うなだれていた。
「……すまない」
ジークリット様が言った。
「予約の時間を、過ぎた」
「いえ。ご無事で何よりです。何かございましたか」
3人は、ぽつぽつと話した。
素顔で通りを歩こうとしたこと。客として、正面から堂々と入るつもりだったこと。そうすれば店主が笑われずに済むと考えたこと。
そして、30歩で戻ったこと。
「400歩のうち、30歩。100のうち、7と半分」
ミルテ様の声は、いつもより小さかった。
「だめねえ、私たち。Sランクなんて言われてるのに。竜は平気なのに、林檎を並べてる女将さんが、こわいのよ」
カタリーナ様が笑った。練習したほうの声だった。
俺はしばらく、何も言えなかった。
この3人は、俺のために30歩を歩いたのである。
何年もかぶり続けた兜を脱いで。何年も伏せてきた顔を上げて。毎朝描いてきたひびを描かずに。俺が妙な呼び名で笑われないように。それだけの理由で。
目の奥が熱くなった。お客様の前で泣く美容師は三流だ。
だから、軽口を叩くことにした。
「30歩も、歩かれたんですか」
「……30歩しか、だ」
「俺なら10歩で引き返します。パン屋の女将さんの前を通るだけで、今でも足がすくみますので」
兜が、少しだけ上を向いた。
「それから、ひとつ訂正を。俺が笑われているのは、皆さんのせいではありません。開店初日に、自分でやったことです。女将さんを泣かせたのは俺ですから」
「でも、あの呼び名は」
「あれですか」
俺は壁の張り紙の前に立った。
「あれは、ひとつだけ合っているんです」
「合っている?」
「何とか専、というのは、そればかり相手にしている、という意味でしょう。うちの帳面をご覧になりますか。開店から38日。女性のお客様は5人。うち1人は泣いて帰り、1人は客ではありませんでした」
3人が、俺を見ている。
「残りは、お三方です。俺は開店以来、ほぼお三方の専門でやっております。事実ですので、訂正のしようがございません」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ミルテ様が、小さく言った。
「……論理的」
「恐れ入ります」
「でも、ずるい」
*
俺は筆を取って、張り紙に1行書き足した。
当店の決まり
1 予約は、お1人につき1日1枠まで
2 髪の施術は、3日おき
3 予約表に触れてよいのは、店主だけ
4 店内での魔法、抜剣、買収は禁止
5 ほかのお客様の施術中は、のぞかない
6 店内では、かぶりものを脱いでよい
「脱がなければならない、ではありません。脱いでよい、です」
筆を置いた。
「外の400歩は、いつかで結構です。いつかが来なくても、構いません。兜も、フードも、綿も炭も、何年も皆さんを守ってきたものです。俺はあれを悪く言うつもりはありません」
扉に鍵をかける。鎧戸を閉める。いつもの手順だ。
「ただ、この店の中では要りません。ここには俺しかおりません。そして俺は」
「目が悪い」
ジークリット様が言った。
「はい。目が悪いので」
鏡の布に手をかけた。
今日は、外した。
「お三方とも、美しく見えております。この店の中だけは、俺の物差しでやらせてください」
半月ほど前、同じ言葉で剣を抜かれかけた。
今日は、誰も柄に手をかけなかった。
最初に動いたのは、カタリーナ様だった。口もとの布を外す。次に、ミルテ様がフードを落とした。最後に、兜の帯が外れた。湯気が出た。
3人が、鏡の前に並んでいる。
誰も、まっすぐには鏡を見なかった。ジークリット様は横を向いている。ミルテ様は自分の爪を見ている。カタリーナ様は、にこにこしながら天井を見ている。
それでも、誰も布をかけ直せとは言わなかった。
今日のところは、それで十分である。
*
「さて。本日のご予約ですが」
俺は予約表を開いた。
「お三方とも、お時間を過ぎていらっしゃいます。本来でしたら、本日の枠は」
「……規則に厳しい」
「あらあら」
「待て。30歩ぶんの事情を考慮しろ」
「ただし、初めてのことですので。本日に限り、特別にお受けいたします」
3人の肩から、目に見えて力が抜けた。Sランクが、美容室の予約ひとつで息をついている。
順番は、いつもどおり予約の順にした。
待つ2人のために、昨日のうちに長椅子を1脚作ってある。大工に「今度は寝ない椅子か」と聞かれた。寝ない椅子である。
長椅子の2人に、お茶を出した。カタリーナ様が、懐から焼き菓子の包みを出す。王都でいちばんおいしい店のものだ。買収にあたるかどうか少し考えて、お茶うけなので不問にした。
洗髪の湯の音。鋏の音。長椅子で、ミルテ様が爪の光り方について理屈を述べ、カタリーナ様が笑い、椅子の上のジークリット様が「静かにしろ、聞こえない」と言う。何が聞こえないのかは、分からなかった。
店の中に、3人ぶんの声がある。
前世の店は、いつもにぎやかだった。42人のスタッフと、1日に何百人ものお客様。俺はあの音の中で10年働いた。
こっちに来てからの店は、ずっと静かだった。
こんな音がするのは、開店以来、今日が初めてである。
悪くない。
3人しかいないが、悪くなかった。
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【ジークリット視点】
宿の部屋で、壁の紙に丸をつけた。
次の洗髪は、3日後である。
3日は長い、と思った。半月前から、ずっとそう思っている。髪を洗ってもらうのが待ち遠しいのだと、自分では考えていた。
今日、気づいた。
あの男は、目が悪いと言いながら、私の顔を見るとき一度も目をそらさない。
待ち遠しいのは、たぶん、洗髪ではなかった。
2人には、言わないでおく。
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【ミルテ視点】
記録。店主の前でのみ、脈が速くなる。
測定。ふだんは1分に64。店内では88。
原因の仮説。1、石けんの成分。2、店内の温度。3、
3を書こうとして、筆が止まった。
書かなくても、分かっていた。数えなくても分かることは、記録しない。
私は3を空欄のまま、帳面を閉じた。
2人には、見せない。
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【カタリーナ視点】
練習していない声は、あの人の前だと勝手に出てくる。
低くて、早口で、あまり感じのよくない声だ。半年かけて作って、7年使ってきた声のほうが、ずっと出来がいいのに。
あの人は、出来の悪いほうの声に、同じ調子で返事をする。
困ったわねえ、と声に出して言ってみた。
これも、練習していないほうだった。
2人には、内緒にしておこう。
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【レン視点】
その夜、帳面を開いた。
来店:29名(うち再来店25名)
売上:銀貨66枚
預かり金:金貨6枚弱
断った男性客:139名
備考:決まりの6を追加
前世の店の壁に、俺はこう書いて貼っていた。
『来たときより、少しだけ自分を好きになって帰っていただく』
あの3人が、自分の顔を好きになる日が来るのかどうか。俺には分からない。400歩を歩ける日が来るのかどうかも、分からない。
ただ、この店の中では、脱いでいい。
そこまでは、今日、決まった。
俺は帳面を閉じて、明日の予約表を開いた。
3つの欄が、3つとも埋まっている。




