第1話 仕上がりはいかがでしょうか
美容師とは、人をきれいにして帰す仕事である。
少なくとも前世ではそうだった。今世では、きれいにしたら泣かれた。
順を追って話そう。
*
三枝蓮司、38歳。職業は美容師。
自分で言うのもなんだが、腕はよかった。今は自分で言わないと誰も言ってくれない状況なので、言わせてほしい。
店は東京の一等地にあった。美容室がコンビニより多いと言われる激戦区で、ビルの1階から3階までが全部うちの店だ。スタッフは42人。俺はそのオーナーで、店長で、いちばん予約の取れない美容師だった。
カットだけで2万2千円いただく。高い。自分でも高いと思う。それでも予約は3か月先まで埋まっていた。
お客様は女性だけではない。会社の社長、俳優、力士、政治家の秘書、近所の和菓子屋のご隠居。男性のお客様も4割はいた。
力士の髪は切らない。あれは床山さんの領分である。彼は眉を整えに来ていた。
テレビの出演依頼は月に何本も来た。動画サイトで番組を持たないかという話もあった。ほとんど断っている。カメラの前に立つ時間があるなら、1人でも多く髪を切りたかったからだ。
一度だけ出た朝の番組では、司会者の寝ぐせを本番中に直して怒られた。職業病である。
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美容師の仕事は髪を切ることだと思われがちだが、それは入り口にすぎない。
髪を切る。染める。巻く。肌を整え、眉を描き、化粧をほどこす。爪を磨いて色をのせる。成人式の朝は4時から振袖を着付け、週末は花嫁の支度に走る。全身のエステも、頼まれれば引き受けた。
美容と名のつくものは全部やった。資格の証書で壁が1面埋まっている。
それでも足りなかった。
髪も肌も爪も、もとをたどれば食べたものからできている。外から整えるだけでは限界がある。そう気づいて、30歳から栄養学の学校に通った。休みの日だけで3年かかっている。
おかげで、お客様の毛先を見ればだいたいの食生活が分かるようになった。
「最近、お昼を抜いていらっしゃいますね」
「なんで分かるんですか。怖い」
怖がられた。占い師と間違えられたこともある。
ちなみに俺自身の昼食は、立ったままおにぎりを2口だった。おにぎりは飲み物である。栄養学の先生には内緒にしてほしい。
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スタッフ42人のうち、俺が直接教えた弟子は15人いる。
技術を教えるのは簡単だ。難しいのは、辞めさせないことだった。
美容師は辞める。朝は早く夜は遅い。手は荒れ、1日じゅう立ちっぱなしで、お客様には叱られる。3年もたずに半分がいなくなる業界である。
だから月に1度、全員と1対1で話す時間を作っていた。
失恋した。親に反対されている。指名が取れない。先輩が怖い。猫が死んだ。
全部聞いた。助言はほとんどしない。聞いて、うなずいて、最後に温かいお茶を出す。それだけで人はだいたい自分で立ち直る。
うちの店を辞めた人間は、10年間で3人しかいない。業界ではちょっとした伝説だったらしい。
ある弟子に言われたことがある。
「店長って、髪を切ってる時間より、人の話を聞いてる時間のほうが長いですよね」
そのとおりだ。椅子に座ったお客様は、なぜか美容師にだけ本音を話す。旦那にも友達にも言わないことを、鏡越しにぽつぽつ話す。
髪を整えるのは仕事の半分で、残りの半分は聞くことだった。
店の壁には、開店の日に俺が書いた言葉を1枚だけ貼ってある。
『来たときより、少しだけ自分を好きになって帰っていただく』
スタッフには「店長、字はうまくないですね」と言われた。見るところはそこではない。
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そういうわけで、俺は忙しかった。
どのくらい忙しかったかというと、自分の髪を切る暇がなかった。予約が3か月先まで埋まっているので、自分の予約も取れない。美容師の不養生である。
あの夜、最後のお客様を見送ったのは夜11時を回っていた。
そこから弟子の相談を1時間聞き、店の鍵をかけて歩き出した。頭の中は、明日の朝10時のお客様のことでいっぱいだった。カラー剤の在庫は足りていただろうか。
信号は見ていなかった。
クラクションが聞こえて、体が浮いた。
最後に思ったのは、明日の予約を誰が電話で断ってくれるのだろう、ということだ。
それから3か月ぶんの予約のことを思った。弟子たちのことも思った。来月の面談の順番まで考えた。
死に際にしては、考えることが多すぎる。もっと走馬灯とか、そういうものを見るのだと思っていた。
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次に目を開けたとき、俺は赤ん坊になっていた。
意味が分からない。
天井が木だ。知らない女の人が俺をのぞきこんでいる。自分の手を見ると、もみじまんじゅうくらいの大きさしかなかった。
とりあえず泣いた。泣く以外にできることがなかったし、泣きたい気分でもあった。
しばらくして、ひとつ思い出したことがある。
常連に、本をよく読む大学生のお客様がいた。カラーの待ち時間に、彼女がこんな話をしていたのだ。
「最近、死んだら別の世界に生まれ変わる話が流行ってるんですよ。トラックにひかれて」
「物騒な流行りですねえ」
俺はそう答えて、アルミホイルを巻く手を止めなかった。
あれか。
あれなのか、これは。
もっとちゃんと聞いておけばよかった。生まれ変わったあとは何をすればいいのか。注意事項はあるのか。お客様の話は全部聞く主義だったのに、よりによってあの話だけ聞き流している。
20年の美容師人生で、最大の聞き逃しである。
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俺をのぞきこんでいた女の人は、名前をグレーテといった。丸い顔の朗らかな人で、この世界での俺の母さんである。
俺はレンと名づけられた。前世の名前の頭2文字と同じなのは、ただの偶然らしい。
石造りの家。窓の外を行く馬車。腰に剣を下げた男たち。どうやら日本ではない。地球でもなさそうだ。
まあいい、と思うことにした。
今度はゆっくり生きよう。昼飯は座って食べよう。おにぎりは噛もう。
その決意が揺らいだのは、3歳の朝だった。
*
母さんが鏡の前に座っている。
手もとには小さな壺。中身は灰色の粉だった。
母さんはそれを指ですくい、頬にのせて、力いっぱい擦りこみはじめた。
じゃり、じゃり、と音がする。
砂だ。あれは砂の音だ。
「かあさん、なにしてるの」
「お化粧よ。きれいになるの」
「いたくないの」
「痛いわよ。きれいになるのは、痛いものなの」
その言葉は前世でも聞いたことがある。ただし、眉を抜くときの話だった。顔面を砂で研ぐときの話ではない。
母さんはもうひとすくい頬に擦りこんだ。肌が赤くなり、細かいひびが浮いてくる。母さんは鏡をのぞいて満足そうにうなずいた。
元美容師の魂が、3歳の体の中で悲鳴を上げた。
角質層が。バリア機能が。せめてパッチテストを。
止めようと手を伸ばしたが、3歳の腕は壺に届かない。あと40センチ足りなかった。
母さんは続いて、桶の水を髪にかけた。水は白く濁っている。灰を溶いた水だ。髪の脂を根こそぎ落として、艶を消すのだという。
「ほら、ぱさぱさ。今日もいい仕上がり」
仕上がり、と母さんは言った。
俺が20年かけて磨いた言葉が、まるで逆の意味で使われている。
その朝、俺は生まれ変わって初めて、赤ん坊のとき以上に泣いた。母さんは「お腹がすいたのね」と言ってパンをくれた。違う。
*
それから何年もかけて、この世界の決まりを覚えた。
女性の美しさの基準が、俺の知っているものと逆なのである。
肌は荒れているほど美しい。髪は艶がないほどいい。目は細いか、きつく吊り上がっているのが上等とされる。
体つきは、うんと太っているか、心配になるほど痩せているか。その中間は「ぱっとしない」と言われる。
だから娘のいる家の食卓は2種類しかない。山ほど食べさせる家と、ほとんど食べさせない家だ。栄養学を3年学んだ身には、どちらの食卓も正視できなかった。
近所でいちばんの美人と評判なのは、3軒先の奥さんである。頬が木の皮のようにひび割れている。旦那さんは毎朝うっとりとそれを眺めていた。
幸せそうな夫婦なので、俺から言うことは何もない。何もないが、保湿はしたい。
男のほうは前世と変わらなかった。背が高くて顔立ちの整った男が、普通に男前と呼ばれる。
なぜ女性だけなのか。誰に聞いても「昔からそうだよ」としか返ってこない。
では、整った顔に生まれた女性はどうなるのか。
「かわいそうにねえ」
母さんは本当に気の毒そうに言った。
「そういう子は、顔を隠して暮らすのよ。布を巻いたり、深い頭巾をかぶったり」
一度だけ、市場でそういう人を見かけたことがある。頭から厚い布をかぶり、壁ぎわを足早に歩いていた。すれ違う人たちは気の毒そうに目をそらす。
布の下の顔を、俺は見ていない。
母さんは優しい人だ。近所の誰にでもパンを分ける。その母さんが、心から同情してそう言う。
この世界の人たちに悪気はない。ただ、物差しが違う。
分かっていても、俺の目は前世のままだった。
ひび割れた頬を見れば保湿したくなる。ぱさついた髪を見れば、油をなじませたくてたまらない。
職業病は、死んでも治らなかった。
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さて、赤ん坊からやり直して困ったことがある。
道具がない。薬剤がない。ドライヤーがない。そもそも電気がない。
20年の技術は頭に入っている。しかし手は子どもで、まわりにあるのは名前も知らない草と石ばかりだ。
だから一から覚え直した。
7歳で、市場の薬草売りの婆さんの店に入りびたった。どの草が肌を鎮め、どの実から油が取れるのか。婆さんは「変わった子だねえ」と言いながら全部教えてくれた。
9歳で石けん職人の手伝いを始めた。脂と灰の割合を変えると、泡の立ち方が変わる。職人には「灰を減らしたら汚れが落ちんぞ」と叱られたが、落としすぎないのが大事なのだ。説明しても分かってもらえなかった。
そして12歳で、床屋に奉公に出た。
この世界にも床屋はある。客は男だ。男の美しさの基準は前世と同じなので、男の頭の上でなら俺の技術はそのまま通じる。
親方は髭の大男だった。最初の1年は床掃除、次の1年は剃刀の研ぎ。15歳で初めてお客様の髪を切らせてもらった。
親方は俺の手もとを見て、しばらく黙りこんだ。
「……お前、どこで覚えた」
「夢の中で20年ほど」
「ふざけるな」
ふざけてはいない。ほぼ事実である。
それから7年、俺は男の頭を切り続けた。騎士、商人、役人、冒険者。評判が立って、店の前に行列ができた。親方は給金を上げてくれたし、お客様は心づけをはずんでくれた。
木の実から搾った髪油を整髪用に売ってみたら、これも当たった。売上の3割が俺の取り分である。
10年で、金貨が革袋にふたつ貯まった。
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22歳の春、俺は親方に切り出した。
「店を出したいんです。女性のための美容室を」
親方は剃刀を落とした。お客様の髭を剃っている最中でなくて本当によかった。
「正気か。お前の腕なら、男の頭で一生食えるぞ」
「分かってます」
「女の美容ってのは、お前のやり方と逆だ。擦って、荒らして、ぱさつかせるんだぞ」
「それも分かってます」
「じゃあ、なんでだ」
うまく説明できなかった。
前世のお客様の6割は女性で、俺の技術の半分以上はそのためのものだ。髪油も、蒸し布も、化粧も、爪も、着付けも。使わないまま錆びていくのが、どうにも落ち着かない。
それに、あの灰色の粉を擦りこむ音を、19年間毎朝聞いてきたのである。
じゃり、じゃり。
もう限界だった。
「……好きにしろ」
親方はため息をついて、こうつけ加えた。
「ただし、男の客は連れていくなよ。うちの客だ」
「もちろんです」
義理は通す。これは前世からの主義である。
この約束が自分の首を絞めることになるとは、このときはまだ知らなかった。
*
店は、王都の職人通りの外れに借りた。
女性向けの美容師は、この世界にもちゃんといる。腕のいい者は、石で肌を擦る力加減や、灰の水の濃さで名を上げる。通りの向かいの同業者の看板には、こうあった。
『ざらつきに自信あり』
俺にはできない。技術の問題ではない。良心の問題だ。
だから自分のやり方でやることにした。
鋏は鍛冶屋に7回作り直してもらった。7回目に鍛冶屋の親父さんは「もう来るな」と言ったが、仕上がりは完璧だった。
髪油は木の実を搾り、石けんは灰を減らして練った。蒸し布を温める小さな炉も据えた。椅子は背が倒れるように、大工と3日かけて相談している。大工は最後まで「なぜ椅子が寝るんだ」と首をひねっていた。
準備にふた月。革袋ふたつぶんの金貨は、ほとんど消えた。
看板には、ひとことだけ書いた。
『美容室 レン』
字は今世でもうまくない。見るところはそこではない。
物差しが違うのは分かっている。それでも、整えられる心地よさは誰にでも伝わるはずだ。気持ちよければ、人はまた来てくれる。
そう信じていた。開店の日の昼までは。
*
最初のお客様は、通りの角のパン屋の女将さんだった。
恰幅がよく、声が大きい。子どものころから、焼きたてのパンの端をよくおまけしてくれた人だ。
「グレーテの息子が店を出したって聞いてね。3日後が娘の婚礼なんだよ。母親がみっともない格好じゃ、娘が恥をかくだろ。ひとつ頼むよ」
「お任せください」
腕が鳴った。前世の20年と、今世の22年ぶんである。
まず椅子を倒して髪を洗う。女将さんは「うわ、寝た」と言った。椅子の話である。
灰の水で傷んだ髪を、ぬるま湯で時間をかけてすすぐ。指の腹で頭皮をほぐすと、女将さんの肩から力が抜けていった。
「……あら。これ、気持ちいいねえ」
「ありがとうございます。おかゆいところはございませんか」
「かゆいところを聞かれたのは、生まれて初めてだよ」
石けんを泡立て、2度洗う。髪油を毛先からなじませる。傷んだ先を指2本ぶんだけ切りそろえた。
顔には蒸し布をのせる。ひび割れた頬に、木の実の油を少しずつ押しこんでいく。
女将さんは途中から寝息を立てていた。施術中に寝ていただけるのは、美容師にとって最高の褒め言葉である。
1時間後。
髪は肩の上でやわらかく波打ち、窓の光を返している。頬はしっとりと落ち着いて、ひびは半分ほど目立たなくなった。
我ながら、いい仕事だ。2万2千円いただける。
俺は椅子を起こし、鏡を女将さんの前に据えた。前世で何万回も口にした言葉が、自然に出てくる。
「仕上がりはいかがでしょうか」
女将さんは鏡を見た。
目を見開いた。
髪に触った。指が、するりと通った。
「……つ」
「つ?」
「艶が、出てる……」
女将さんの目に、みるみる涙がたまっていく。
感動の涙ではない。20年この仕事をしていれば、それくらいは分かる。分かりたくなかった。
「頬も……頬のひびが、ないじゃないか……10年かけて育てたひびが……」
「育てて、いらしたんですか」
「婚礼は3日後なんだよ!」
女将さんは顔を両手で覆って泣いた。
俺は前世で一度だけ、お客様の前髪を切りすぎたことがある。あのときと同じ汗が背中を流れていく。
いや、あのときより悪い。あのときは前髪だけだった。今回は10年ぶんのひびである。前髪は伸びるが、ひびは育て直しだ。
「申し訳ございません。お代は結構です」
「お代の話じゃないよ……」
女将さんは鼻をすすった。
「怒ってやしないんだよ。あんたの手は、本当に気持ちよかったんだ。あんなに丁寧に頭を洗ってもらったのは、生まれて初めてさ」
「恐れ入ります」
「それが余計に悔しいんだよ!」
返す言葉がなかった。
知らせを聞いた母さんが、壺を抱えて駆けこんできた。例の灰色の粉である。
「大丈夫よ、3日あれば戻るわ。私が毎晩擦ってあげる」
「グレーテ……あんたはいい人だねえ……」
2人は肩を抱き合って帰っていった。
じゃり、じゃり、という音が、通りの向こうへ遠ざかっていく。歩きながらもう始めている。
母さんは角のところで振り返り、困った顔で笑った。
「レン。あんたの手が優しいのは、母さんよく知ってるからね」
慰められている。開店初日に、母親に。
*
噂が広まるのは早かった。
職人通りの外れに、女を醜くする美容室がある。腕はいいらしい。だからこそ恐ろしい。気持ちよくされて、寝ているうちにやられる。
全部事実なので、否定のしようがなかった。
通りを行く人が、店の前だけ足を速める。子どもの手を引いた母親は、わざわざ道の反対側へ渡っていった。
一度、若い娘さんが2人、窓から中をのぞいていたことがある。
「いらっしゃいませ」
声をかけた瞬間、2人は悲鳴を上げて逃げていった。片方は靴が脱げたのに、取りに戻ってこない。
靴は店の前に3日置いておいた。4日目の朝にはなくなっていたので、たぶん夜中に取りに来たのだろう。
そこまで怖がらなくても、と思う。
かわりに来るのは男である。
「レン、髭を頼む」
「申し訳ありません。親方の店へどうぞ」
「あの親父は雑なんだよ。お前がいい」
「親方の店へどうぞ」
床屋時代のお客様が、毎日のように顔を出す。全員断った。約束は約束だ。
当の親方も3日に1度はやって来る。
「戻ってくる気になったか」
「まだです」
「客が毎日うるさいんだ。レンはどこだ、レンを出せと」
「連れていかない約束ですから」
「……お前は、義理堅い馬鹿だな」
褒められたのか、けなされたのか。たぶん両方である。
*
開店から20日が過ぎた。
帳面を開く。
来店:1名
売上:0
断った男性客:63名
備考:泣かれた
63名を断らなければ、今ごろ家賃の心配はしていない。義理は高くつく。
前世では3か月先まで埋まっていた予約表が、ここでは真っ白だ。紙がもったいないので、裏に母さんから頼まれた買い物の覚え書きを書いている。
昼飯は毎日、座ってゆっくり食べられるようになった。おにぎりではなくパンだが、ちゃんと噛んでいる。
願いは叶った。叶い方が違う。
それでも店は毎朝掃除する。鋏を研ぎ、蒸し布を洗い、椅子の革を拭く。いつお客様が来てもいいようにだ。
誰か1人でいい。
鏡の中の整った自分を見て、泣かないでくれる人がいれば。
できれば、お代も払ってくれる人だとなお嬉しい。
*
21日目の夕方。
日が傾いて、そろそろ看板を下ろそうかと立ち上がったときだった。
扉の鈴が鳴った。
どうせまた髭だろう、と思った。
「申し訳ありません、親方の店へ――」
言いかけて、止まった。
戸口に立っていたのは、鎧だった。
いや、鎧を着た人だ。背が高い。肩から足先まで鈍い銀色の板金に覆われ、腰には長い剣を下げている。
そして頭には、兜。
目のところに細い隙間が1本あるだけで、顔はまったく見えない。
その人は店の中を見回した。鏡の前で、ほんの少し視線が止まる。それから低く抑えた声で言った。
「……髪を、切ってほしい」
女性の声だった。
女性のお客様である。20日ぶり、2人目の。
「かしこまりました。どうぞ、こちらの椅子へ」
声が裏返らなかった自分を褒めたい。
「ひとつ、条件がある」
兜の奥で、息を吸う気配がした。
「兜は、脱がない」
俺は20年ぶんの経験を総動員して考えた。
テレビにも出た。力士の眉も整えた。花嫁を1日に3人仕上げたこともある。
兜の上から髪を切る方法だけは、どの学校でも教わっていない。




