表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白いノートと、君の線  作者: 佐藤 めあ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/28

第九章 白紙の進路希望

 翌朝、教室に入ると、黒板の右端に大きく文字が書かれていた。


『進路希望調査票 本日配布』


 その文字を見た瞬間、教室に入る足が少しだけ遅くなった。


 昨日、昼休みに進路の話をした。


 鈍行で四十分以上かかる高校。


 四つか五つくらいしかない選択肢。


 同じ路線。


 未確認のままの進路。


 まだぼんやりしていたはずの話が、黒板に書かれた途端、急に紙の形を持って目の前に置かれた気がした。


 滝さんはもう席にいた。


 今日はノートを開いていない。


 珍しく、黒板を見ていた。


「おはよう」


 僕が言うと、滝さんはこちらを見た。


「おはよう」


「黒板、見てた?」


「見てた」


「進路希望調査票」


「強い言葉」


「強い?」


「白紙で出したら怒られそう」


「たぶん怒られる」


「厳しい」


「まだ誰も何も言ってないけど」


 滝さんは少しだけうなずいた。


「でも、紙は厳しい」


 その言い方が少しおかしくて、僕は笑いそうになった。


 けれど、すぐには笑えなかった。


 たしかに、紙は厳しい。


 話しているだけなら、まだ曖昧でいられる。


 でも、紙に書くとなると、何かを選ばなければならない。


 第一希望。


 第二希望。


 理由。


 たぶん、そういう欄がある。


 そこに何を書くのか、僕はまだ分かっていなかった。


「佐倉くん」


「うん」


「今日の生存確認」


「あ、確認されました」


「体調は?」


「普通。眠気なし。進路の文字で少し重い」


「精神項目が追加されました」


「増えるの?」


「増えます」


 滝さんはそこで、ようやくノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、白い紙の前で固まっていた。


 横に一言。


『進路希望、未記入。』


「早い」


「昨日の夜、予想しました」


「また予想」


「進路の紙は、たぶん白いので」


「それは当たると思う」


 そこへ、教室の入口から如月さんが顔を出した。


「沙耶」


「夏美」


「黒板、見た?」


「見た」


「紙が厳しい」


「紙のせいにするな」


 如月さんはそう言ってから、黒板を見た。


 その表情は、いつもより少し真面目だった。


「佐倉」


「はい」


「進路は」


「未確認です」


「昨日から進んでいないな」


「一晩では難しいです」


「それはそうだ」


 意外にも、如月さんはそこでは責めなかった。


 ただ、僕の顔を少しだけ見た。


「体調は」


「普通です。進路の文字で少し重いです」


「それは体調か?」


「滝さんの制度では精神項目です」


「夏美」


「はい」


「勝手に項目を増やすな」


「必要なので」


「……まあ、必要かもしれん」


 如月さんは小さく息を吐いた。


 滝さんが少し嬉しそうにした。


「採用?」


「保留」


「厳しい」


「当然だ」


 朝のホームルームで、担任の先生が本当に進路希望調査票を配った。


 紙は思った通り白かった。


 上に名前を書く欄。


 その下に、第一希望、第二希望、第三希望。


 さらに、希望理由を書く欄。


 提出期限は、今週の金曜日。


 今日が火曜日だから、まだ数日はある。


 でも、紙を受け取った瞬間、数日しかないようにも感じた。


「現時点での希望でいいからな。決定じゃない。家の人とも相談して、分かる範囲で書いてくるように」


 先生はそう言った。


 決定じゃない。


 その言葉で少し楽になるはずだった。


 でも、逆に難しかった。


 決定じゃないなら、どこまで本気で書けばいいのか。


 分かる範囲でいいなら、分からないところはどうすればいいのか。


 僕は配られた紙を机の上に置いたまま、しばらく見ていた。


 白い紙。


 最初の線を引く前の画用紙みたいだった。


 美術なら、薄く線を引けばいい。


 失敗しても、あとで直せる。


 でも、進路希望調査票に薄い線は引けない。


 シャーペンで書いたとしても、そこには高校名が残る。


 なんとなく書いていいものではない気がした。


 隣を見ると、滝さんも紙をじっと見ていた。


 ぴょん吉は描いていない。


 如月さんなら、たぶんすぐに何か書くのだろうか。


 そう思ったけれど、違う気がした。


 如月さんだって、全部分かっているわけではない。


 昨日、そう言っていた。


 午前の授業中、進路希望調査票はずっと机の中に入っていた。


 でも、存在感だけは消えなかった。


 国語の教科書を開いていても、机の中に白い紙があるのが分かる。


 数学の問題を解いていても、第一希望という文字が頭の端に残る。


 ぴょん吉を描こうとして、やめた。


 今日は、変な落書きでごまかすより、少しだけちゃんと考えた方がいい気がした。


 昼休み、如月さんはいつも通りやって来た。


「夏美」


「沙耶」


「弁当」


「うん」


 同じやり取りなのに、今日は三人とも少しだけ静かだった。


 弁当を広げても、最初に話題になるのはやっぱり進路希望調査票だった。


「沙耶は書けそう?」


 滝さんが聞いた。


「第一希望くらいは」


「早い」


「決定ではないからな」


「沙耶っぽい」


「どういう意味だ」


「強い」


「強くはない」


 如月さんは少しだけ箸を止めた。


「ただ、何も書かないと考えようがない」


 その言葉に、僕は少しだけ紙のことを思い出した。


 何も書かないと考えようがない。


 それは、絵と似ている。


 最初の線がないと、直すこともできない。


「佐倉は」


 如月さんが僕を見る。


「まだです」


「候補は」


「たぶん、二つか三つ」


「なら、それを書けばいい」


「でも、理由が」


「理由は後から考えてもいい」


「いいんですか」


「本当は先にある方がいい。だが、最初から完璧な理由を待っていたら、金曜日になる」


「厳しいけど、現実」


 滝さんが言った。


「現実は厳しい」


 如月さんが返す。


 僕は少しだけ笑った。


 少しだけ、肩の力が抜けた。


「滝さんは?」


 僕が聞くと、滝さんは弁当のふたを見つめた。


「未確認」


「ぴょん吉と同じ」


「うん」


「吹奏楽を続けたいとか?」


「それもあるけど、高校の吹奏楽部って見てみないと分からない」


「ああ」


「あと、朝が早すぎると、たぶん私は楽譜をもっとなくす」


「そこ?」


「大事」


 滝さんは真面目だった。


 でも、大体の高校は電車で四十分以上かかるので朝は早いような…


 と思ったが言わないでおいた。


 如月さんがすぐに言う。


「なくすな」


「努力します」


「努力では足りない」


「厳しい」


「当然だ」


 いつもの流れに少し戻って、僕はほっとした。


 進路の話は重い。


 でも、三人で話すと、少しだけ重さが分散される気がした。


 その時、斜め前の席の男子がこちらを振り返った。


 名前は確か山城だったと思う。


 同じクラスになったのは今年が初めてだ。


「佐倉ってさ」


「え?」


「体育、いつも見学なの?」


 急だった。


 悪気がある声ではなかった。


 ただ気になったことを聞いただけ。


 たぶん、それだけだった。


 でも、僕の箸は少し止まった。


 何度も聞かれてきた質問だ。


 小学校の頃から。


 中一の手術の後からは、さらに何度も。


 体育、出ないの?


 走れないの?


 病気なの?


 もう治ったんじゃないの?


 そのたびに、説明する。


 生まれつきの病気があること。


 大きな手術を二回していること。


 今は普通に授業も受けられるけれど、無理はできないこと。


 説明すれば、だいたいの人は納得してくれる。


 でも、その説明をするたびに、自分だけが少し違う場所に立たされる感じがした。


「いつも、というか」


 僕は言いかけた。


 言葉がうまく出なかった。


 山城はきょとんとしている。


 本当に、何気なく聞いただけなのだと思う。


 だから、余計に難しかった。


 滝さんが、僕の方を見た。


 如月さんも、山城を見た。


 でも、二人ともすぐには口を挟まなかった。


 僕が答えるのを待っているようだった。


 それが、少しだけありがたかった。


「体調を見ながら、出られる時だけ出てる」


 僕は言った。


「生まれつきの病気があって、無理するとあとで動けなくなることがあるから」


「へえ」


 山城は少し驚いた顔をした。


「そうなんだ。悪い、変なこと聞いた?」


「いや」


「走るの嫌いなだけかと思ってた」


「嫌いではないけど、得意ではない」


「そっか」


 山城はそれだけ言うと、席を立った。


 そして会話はそこで終わった。


 思っていたより、あっさりしていた。


 でも、僕の中には少しだけ疲れが残った。


 説明できた。


 大丈夫だった。


 変な空気にもならなかった。


 それでも、軽くはなかった。


 滝さんが小さく言った。


「報告、できた」


 僕は滝さんを見た。


「今のも?」


「うん」


「報告制、広い」


「広がりました」


 如月さんは弁当を置いて、静かに言った。


「今の答え方でいい」


「そうですか」


「全部を説明しなくてもいい。必要な分だけ言えばいい」


 その言葉は、すっと入ってきた。


 必要な分だけ。


 たしかに、僕は全部を説明しなければいけない気がしていた。


 でも、そうではないのかもしれない。


 相手が聞いたことに、必要な分だけ答える。


 それで足りる時もある。


「山城くん、悪い感じじゃなかった」


 滝さんが言った。


「うん」


「でも、ちょっと疲れた?」


「少し」


「確認しました」


 滝さんはノートの端に、白い紙の前に立つぴょん吉を描いた。


 その横に、もう一匹。


 少し疲れた顔のぴょん吉。


 そして一言。


『説明、必要分だけ。』


「それ、いいね」


 僕が言うと、滝さんは少しだけ嬉しそうにした。


「本採用?」


「本採用」


 如月さんもその文字を見た。


「それは採用だな」


「沙耶も採用」


「必要だからだ」


 昼休みが終わる頃、進路希望調査票の紙は、まだ僕の机の中にあった。


 でも、朝ほど怖くはなくなっていた。


 白紙は厳しい。


 でも、何も書かなければ考えようがない。


 説明は、全部じゃなくていい。


 必要な分だけでいい。


 その二つが、なぜか同じ場所に並んでいる気がした。


 放課後、美術室へ向かう前に、僕は進路希望調査票を鞄に入れた。


 紙が折れないように、教科書の間に挟む。


 それだけで少し緊張した。


 持って帰る。


 家で母さんと話す。


 そういう流れが、もう始まっている。


 美術室では、今日は仮入部の一年生が一人だけだった。


 その分、部屋は少し静かだった。


 僕は自分の席に座って、静物画の続きを描いた。


 瓶の影を見ながら、薄く線を重ねる。


 最初から濃く描かない。


 少しずつ形を探す。


 進路も、そうできればいいのにと思った。


 第一希望を薄く書いて、違ったら直す。


 第二希望を少し動かして、全体のバランスを見る。


 そんなふうにできたら、少し楽なのに。


 でも、紙には高校名を書く欄しかない。


 僕は鉛筆を動かしながら、少しだけ息を吐いた。


 藤野先生が近づいてきた。


「今日は静かね」


「はい」


「進路希望の紙、配られた?」


「配られました」


「そっか」


 先生はそれだけで、僕が何を考えているのか少し分かったようだった。


「白い紙って、怖いわよね」


「はい」


「でも、白いままだと、ずっと怖いのよ」


 僕は手を止めた。


 先生は静物画を見ながら続けた。


「絵も進路も同じ、とは言わないけどね。でも、仮の線を引いてみないと見えないものはあると思う」


「仮の線」


「うん。清書じゃなくていいのよ。今の時点では」


 先生の言葉は、朝から頭にあった紙の白さを少しだけ薄くした。


 仮の線。


 それなら、引けるかもしれない。


「第一希望じゃなくて、第一仮希望くらいで考えてもいいですか」


 僕が言うと、藤野先生は笑った。


「いいと思う。提出用紙には書けないけど、心の中ではそれで十分」


「第一仮希望」


「佐倉らしいわね」


 先生はそう言って、少しだけ僕の静物画を見た。


「今日の線、前より迷ってないね」


「そうですか」


「うん。でも、ちゃんと薄い」


 それは、少し嬉しかった。


 迷っていない。


 でも、薄い。


 今の僕には、そのくらいがちょうどよかった。


 部活が終わって昇降口へ向かうと、滝さんが先にいた。


 今日は楽器ケースを持っていない。


 音楽室に置いてきたのかもしれない。


「佐倉くん」


「お疲れ」


「進路希望、持って帰る?」


「持って帰る」


「私も」


 滝さんは鞄を少し叩いた。


「紙、入ってる」


「厳しい紙」


「厳しい紙」


 二人で少し笑った。


 如月さんはまだ来ていなかった。


 武道場の方から声が聞こえるので、剣道部は続いているらしい。


「沙耶は遅いかも」


「大会近いって言ってたね」


「うん」


「待つ?」


「少しだけ」


 滝さんはそう言った。


 僕も、少しだけ待つことにした。


 昇降口の端で、二人で並んで立つ。


 話すことがないわけではない。


 でも、今日は少し静かだった。


 鞄の中に進路希望調査票が入っている。


 それだけで、いつもの放課後より少しだけ重い。


「佐倉くん」


「うん」


「今日、山城くんに聞かれた時」


「ああ」


「自分で答えてた」


「うん」


「少し、かっこよかった」


 予想していない言葉だった。


 僕は思わず滝さんを見た。


「かっこよくはないでしょ」


「逃げなかったので」


「答えただけだよ」


「それが、かっこよかった」


 滝さんはまっすぐ言った。


 僕は何と言えばいいか分からなかった。


 褒められたら、一度受け取れ。


 如月さんの言葉を思い出す。


 僕は少しだけ目をそらしてから、小さく言った。


「受け取ります」


 滝さんは少し笑った。


「沙耶対応」


「本人いないけど」


「でも本採用」


「何が?」


「受け取る」


 その時、廊下の奥から如月さんが歩いてきた。


 竹刀袋を肩にかけている。


 今日も額に少し汗が残っていた。


「待たせた」


「うん」


 滝さんが答える。


「進路希望の紙、持った?」


「持った」


 如月さんは鞄を軽く叩いた。


「厳しい紙」


 滝さんが言うと、如月さんは少しだけ眉を寄せた。


「何だそれは」


「今日の呼び名」


「紙に責任を押しつけるな」


「でも厳しい」


「厳しいのはいいことだ」


 いつもの言葉。


 でも、今日はその言葉が少し違って聞こえた。


 厳しいもの全部が嫌なわけではない。


 厳しいから、考え始めるものもある。


 三人で校門まで歩いた。


 今日は最初の角までではなく、校門のところで分かれた。


 如月さんは家の用事で急ぐらしい。


 滝さんも今日は早く帰ると言った。


「また明日」


 滝さんが言った。


「また明日」


「進路希望、未記入でも生存」


「提出日までは」


「そこは厳しい」


 如月さんが言う。


「金曜日までには書け」


「はい」


「第一仮希望でもいいですか」


 僕が言うと、如月さんは少しだけ考えた。


「仮でも、書くならよい」


「採用?」


 滝さんが聞く。


「保留」


「厳しい」


「当然だ」


 三人で少し笑って、それぞれの道へ分かれた。


 家に帰ると、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


「今日はどうだった?」


「進路希望調査票をもらった」


 母さんの表情が少しだけ真面目になった。


「もうそんな時期なのね」


「まだ四月なのに」


「三年生だからね」


「うん」


 僕は鞄から紙を出した。


 白い紙。


 朝よりは少しだけ怖くない。


 でも、まだ白い。


「今日、少し話せる?」


 僕が聞くと、母さんはすぐにうなずいた。


「もちろん」


「まだ決めてないけど」


「決めるために話すのよ」


 その言葉に、少しだけ安心した。


 決めてから話すのではない。


 決めるために話す。


 それなら、今の僕でもできる気がした。


 夕飯のあと、僕は進路希望調査票を机の上に置いた。


 母さんと一緒に、通える高校をいくつか書き出す。


 鈍行で四十分以上。


 駅から歩く距離。


 病院への通いやすさ。


 美術部があるかどうか。


 無理なく通えるかどうか。


 成績だけではなく、体のことも並べて考える。


 少し現実的すぎて、息が詰まりそうになる瞬間もあった。


 でも、如月さんが言っていた。


 通学時間、病院、部活。


 そういうものは、気合いではどうにもならない。


 確かに、その通りだった。


 夜、自分の部屋でノートを開いた。


 今日のぴょん吉は、白い紙の前に立っている。


 朝、滝さんが描いたぴょん吉と似てしまった。


 でも、少しだけ違う。


 僕のぴょん吉は、紙の隅に小さく一本線を引いていた。


 横に一言。


『第一仮希望。』


 その下に、もう一つ。


『説明は、必要分だけ。』


 書いてから、少しだけ息を吐いた。


 進路はまだ決まっていない。


 でも、白紙ではなくなった。


 体のことも、全部説明しなくていい。


 でも、隠さなくてもいい。


 今日のノートの端は、いつもより少しだけ真面目だった。


 それでも、ぴょん吉がいるだけで、紙の白さは少しだけやわらいで見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ