第十一章 理由欄
木曜日の朝、進路希望調査票は昨日より少し重くなっていた。
紙の重さは変わらない。
でも、第一希望から第三希望まで、高校名が書かれている。
それだけで、鞄の中にある紙の存在感が昨日とは違っていた。
白紙ではない。
けれど、完成でもない。
理由欄が、まだ途中だった。
第一希望の理由には、通学時間、病院への通いやすさ、美術部があることを書こうとした。
でも、途中で手が止まった。
通学時間が長い。
体に負担がかかるかもしれない。
それでも、その高校を第一希望にする理由は何なのか。
そこまで書こうとすると、急に難しくなる。
教室に入ると、滝さんは自分の席で進路希望調査票を見ていた。
ノートではない。
ぴょん吉でもない。
提出用の紙を、机の上に置いていた。
「おはよう」
僕が声をかけると、滝さんは顔を上げた。
「おはよう」
「今日は紙?」
「紙です」
「厳しい紙」
「厳しさ、最大手前」
「最大は?」
「明日」
「提出日だから?」
「うん」
滝さんは進路希望調査票をそっと裏返した。
まだ誰にも見られたくないらしい。
「書けた?」
僕が聞くと、滝さんは少しだけ首をかしげた。
「高校名は」
「理由は?」
「途中」
「同じ」
「理由欄、強い」
「分かる」
理由欄。
ただ高校名を書くよりも、その方が難しかった。
名前を書く欄は、候補を写せば埋まる。
でも、理由欄は自分の言葉が必要になる。
なぜそこなのか。
どうして選ぶのか。
それを誰かに見せる形にしなければならない。
「生存確認」
滝さんが言った。
「確認されました」
「体調は?」
「普通。眠気なし。理由欄で少し重い」
「精神項目、継続」
「継続してる」
「必要なので」
滝さんはようやくノートを開いた。
今日のぴょん吉は、小さな四角の中に閉じ込められていた。
四角の上には『理由欄』と書いてある。
ぴょん吉はその中で、少し困った顔をしている。
横に一言。
『ここに理由を書け。』
「命令されてる」
「理由欄は命令形」
「確かに」
「空白だと、圧がある」
僕は少し笑った。
その時、教室の入口から如月さんが来た。
「沙耶」
「夏美」
「理由欄が強い」
「また紙のせいにしているのか」
「今日は欄のせい」
「欄にも責任はない」
如月さんはそう言ってから、僕を見た。
「佐倉」
「はい」
「書けたか」
「高校名は書きました。理由欄は途中です」
「なら、今日は理由欄だな」
「はい」
「体調は」
「普通です。理由欄で少し重いです」
「それは体調ではない」
「精神項目です」
「定着させるな」
滝さんが横で小さく言った。
「定着確認」
「夏美」
「はい」
「余計な確認をするな」
如月さんは滝さんの紙をちらりと見た。
「夏美は」
「高校名は書いた」
「理由は」
「途中」
「理由は長く書かなくていい」
「本当?」
「先生が読みたいのは作文ではない」
その言葉に、僕も滝さんも少しだけ顔を上げた。
「作文じゃない?」
「希望する理由だ。きれいな文章にするより、なぜそこを選ぶのかが分かればいい」
「沙耶、先生みたい」
「やめろ」
「でも、ちょっと助かった」
滝さんが素直に言うと、如月さんは少しだけ目をそらした。
「ならよい」
朝のホームルームで、担任の先生も同じようなことを言った。
「進路希望調査票は明日提出だ。理由欄は長くなくていい。ただし、空欄では出さないように。今の時点で考えていることを書けばいい」
長くなくていい。
空欄では出さない。
その二つの言葉が、黒板の文字みたいに頭に残った。
長くなくていいなら、少し楽だ。
でも、空欄では出せない。
やっぱり、書かなければならない。
午前の授業中、僕は何度か理由欄のことを考えた。
授業はちゃんと聞いている。
ノートも取っている。
でも、頭の端に進路希望調査票がいた。
第一希望の高校。
鈍行で四十分以上。
駅から少し歩く。
病院は寄りやすいはず。
美術部がある。
体調を考えながら通えるかもしれない。
そこまでは分かっている。
けれど、それを理由に書くと、何だか自分の体を言い訳にしているような気がした。
違う。
そうではない。
でも、紙に書こうとすると、少しそう見える気がした。
昼休み、如月さんはいつも通り来た。
「夏美」
「沙耶」
「弁当」
「うん」
いつものやり取りなのに、今日は少し早かった。
たぶん三人とも、理由欄の話をすることになると分かっていた。
弁当を広げると、滝さんが先に口を開いた。
「理由欄、何書く?」
「私は、通学時間と部活と学力」
如月さんはすぐに答えた。
「早い」
「条件を書いたからな」
「条件、強い」
「強いのではなく、整理しただけだ」
滝さんは箸を持ったまま少し考えた。
「私は、吹奏楽部があることと、通える範囲」
「朝起きられるかは?」
僕が聞くと、滝さんは少しだけ真面目な顔をした。
「理由欄に書いたら怒られそう」
「たぶん」
「でも大事」
「大事なら、家で考える条件に入れておけばいい」
如月さんが言った。
「提出用の理由と、自分の中の条件は全部同じでなくてもいい」
「そうなの?」
「全部書いたら欄が足りない」
「確かに」
僕は進路希望調査票の理由欄を思い出した。
そこまで広くはない。
全部を書く場所ではない。
必要な分だけ。
昨日の言葉が、また頭に出てきた。
「佐倉くんは?」
滝さんが聞いた。
「僕は……通学時間と病院と美術部」
「うん」
「でも、体のことを書くと、何か言い訳みたいに見えないかなって」
口にしてから、少しだけ後悔した。
昼休みの空気が重くなるかもしれないと思ったからだ。
でも、滝さんは変に驚かなかった。
如月さんも、すぐには否定しなかった。
少しだけ間を置いてから、如月さんが言った。
「言い訳ではない」
短い言葉だった。
でも、強かった。
「条件だ」
「条件」
「通学時間も、病院も、体調も、全て条件だ。成績や部活と同じように考えるものだ」
僕は黙った。
如月さんは続ける。
「気合いで変えられないものを、無視する方が危ない」
「でも、理由欄に書くと」
「全部書く必要はない。だが、自分の中で理由から外す必要もない」
それは、昨日の「必要な分だけ」と似ていた。
全部を説明しなくていい。
でも、なかったことにしなくていい。
体のことも、進路を考える条件の一つ。
弱点でも、言い訳でもなく。
条件。
その言葉は、思っていたよりもずっと楽だった。
滝さんがノートの端にぴょん吉を描いた。
四角い理由欄の中で困っていたぴょん吉が、今度は小さな札を持っている。
札には『条件』と書いてある。
横に一言。
『言い訳ではない。』
滝さんはそれを僕の方へ少しだけ向けた。
「本採用?」
そう聞かれて、僕は少しだけ息を吐いた。
「本採用」
如月さんもその文字を見る。
「それは採用だ」
「沙耶も本採用」
「必要だからだ」
いつもの言い方だった。
でも、今日はいつもより少しだけ優しく聞こえた。
昼休みの終わり頃、僕は進路希望調査票を少しだけ出して、理由欄を見た。
まだ書かない。
でも、何を書くかは少し見えてきた。
通学に時間はかかるけれど、病院への通いやすさと、美術部があることを考えて選びました。
そんな感じでいいのかもしれない。
完璧な理由ではない。
でも、今の僕が書ける理由ではある。
放課後、美術室へ行くと、藤野先生は窓際で作品を整理していた。
今日は仮入部の一年生はいなかった。
部屋は静かだった。
僕は席に座り、進路希望調査票を鞄から出した。
部活中に書くものではない気もしたけれど、静かな場所で一度向き合いたかった。
藤野先生が気づいて、僕の近くに来た。
「理由欄?」
「はい」
「強いでしょ」
「先生もそれ言います?」
「欄は強いのよ」
先生は笑った。
僕も少し笑った。
滝さんに聞かせたら、きっと本採用と言うだろう。
「書けそう?」
「少しだけ」
「見てもいい?」
「まだ途中ですけど」
僕は理由欄に、ゆっくり文字を書いた。
通学に時間はかかるが、病院への通いやすさと、美術部があることを考え、無理なく通える範囲で学びたいと思ったため。
少し硬い。
でも、書けた。
藤野先生はそれを読んで、うなずいた。
「いいと思う」
「硬くないですか」
「進路希望調査票だから、少しくらい硬くていいのよ」
「体のこと、直接書かなくても伝わりますか」
「無理なく通える範囲、で伝わるわ」
「そうですか」
「全部書かなくていい。でも、ちゃんと入ってる」
その言葉に、少しだけ安心した。
全部を書かなくても、ちゃんと入っている。
それは、絵の影みたいだと思った。
はっきり輪郭を描かなくても、そこにあると分かるもの。
僕は理由欄を見ながら、少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、今日は絵も描けそうね」
藤野先生が言った。
「はい」
「理由欄に勝った?」
「まだ勝ってはいないです」
「じゃあ、引き分け」
「引き分けくらいです」
僕は静物画を出した。
瓶の輪郭を少し直す。
布の影を重ねる。
今日は、線が昨日より少しだけ落ち着いていた。
進路希望調査票が完成したわけではない。
でも、理由欄に文字が入った。
それだけで、紙の圧が少し弱くなった気がした。
部活が終わって昇降口へ向かうと、滝さんが壁際に立っていた。
今日は楽器ケースを持っている。
少し疲れた顔をしていた。
「お疲れ」
「お疲れ」
「理由欄、書けた?」
滝さんが聞いた。
「第一希望だけ」
「おお」
「滝さんは?」
「途中」
「そっか」
「でも、欄と交戦中」
「交戦してるんだ」
「まだ負けてない」
「それはよかった」
滝さんは少し笑った。
でも、いつもより少しだけ元気がなかった。
「疲れた?」
僕が聞くと、滝さんは少し驚いた顔をした。
いつもは聞かれる側だったから、聞く側になると少し変な感じがする。
「少し」
「合奏?」
「それもあるけど、理由欄」
「理由欄、体力使うよね」
「使う」
滝さんは鞄を少し持ち直した。
「私は、何となくを理由にするのが苦手」
「何となくでも、条件はあるんじゃない?」
「条件」
「通えることとか、吹奏楽部があることとか、朝起きられるかとか」
「朝起きられるかは提出用には書けない」
「自分用」
僕がそう言うと、滝さんは少しだけ目を丸くした。
「佐倉くんが、沙耶みたいなこと言った」
「そうかな」
「条件」
「感染したかも」
「確認しました」
滝さんは少し笑った。
そこへ、如月さんがやって来た。
「二人とも、理由欄は」
「沙耶、第一声が厳しい」
「提出前日だ」
「私は途中」
滝さんが言った。
「佐倉は」
「第一希望だけ書きました」
「ならよい」
「第二と第三は?」
「帰ってから書きます」
「今日中に書け」
「はい」
「夏美もだ」
「はい」
「返事だけで済ませるな」
「「 行動も合わせます 」」
僕と滝さんの声が重なった。
一瞬、三人とも黙った。
それから、僕と滝さんが少し笑った。
「そろった」
「そろえるな」
如月さんが言った。
如月さんも言いながら少し笑っていた。
三人で校門へ向かう。
今日は空が少し曇っていた。
雨が降りそうなほどではないけれど、夕方の光がやわらかい。
校門の手前で、滝さんが言った。
「理由欄、明日提出?」
「うん」
「紙、最大厳しい日」
「明日が最大か」
「たぶん」
如月さんが言う。
「提出すれば終わる」
「終わる?」
「一回目はな」
「一回目」
「進路の紙はこれから何度も来る」
滝さんが目を細めた。
「紙、再来」
「逃げるなよ」
「厳しい」
「厳しいのはいいことだ」
いつもの言葉に、僕は少しだけ笑った。
進路希望調査票は、これで終わりではない。
たぶん、何度も書く。
面談もある。
成績も出る。
まだ四月なのに、もう先のことを考えなければならない。
でも、最初の一枚目はもう白紙ではない。
それだけは、昨日より進んでいる。
「また明日」
滝さんが言った。
「また明日」
「提出確認」
「されます」
「理由欄、生存確認」
「それは新しい」
「必要なので」
如月さんが横で息を吐いた。
「何でも確認にするな」
「でも、明日は確認する」
「まあ、それは必要だ」
「採用?」
「保留」
「厳しい」
三人で少し笑って、それぞれの道へ分かれた。
家に帰ると、母さんはすぐに進路希望調査票のことを聞いた。
「理由、書けそう?」
「第一希望は書いた」
「見せて」
僕は紙を出した。
母さんは理由欄を読んで、少しだけうなずいた。
「いいと思う」
「体のこと、直接書いてないけど」
「無理なく通える範囲って書いてあるから、ちゃんと入ってるわよ」
藤野先生と同じことを言われた。
少しだけ安心した。
「第二と第三も、同じ感じで書けばいい?」
「そうね。全部立派な理由じゃなくてもいいのよ。今の時点で考えていることで」
「先生も言ってた」
「じゃあ、その通りね」
夕飯のあと、僕は第二希望と第三希望の理由欄も埋めた。
第一希望ほどすらすらとは書けなかった。
でも、空欄ではなくなった。
最後に名前の欄を確認する。
高校名の漢字を確認する。
理由欄をもう一度読む。
消しゴムで少しだけ直す。
そして、紙を教科書の間に挟んだ。
提出できる形になった。
たぶん。
まだ少し不安はある。
でも、もう白紙ではない。
夜、自分の部屋でノートを開いた。
今日のぴょん吉は、理由欄の中にいた。
昨日まで困っていたぴょん吉は、今日は小さな鉛筆を持っている。
四角い欄の中に、短い線を何本か引いている。
横に一言。
『言い訳ではなく、条件。』
少し考えて、もう一つ書いた。
『全部じゃなくていい。でも、ちゃんと入ってる。』
書いてから、しばらく眺めた。
体のこと。
通学のこと。
病院のこと。
美術部のこと。
それらは全部、僕が進路を考えるための条件だった。
弱さを隠すためではない。
できないことを言い訳にするためでもない。
ちゃんと続けていくために、必要な線だった。
白いノートの端にいるぴょん吉は、今日も少し弱そうだった。
でも、理由欄の中でちゃんと立っていた。




