境界の案内所
カランコロン、と澄んだドアベルの音が耳の奥に響いた。
果実の扉をくぐり、眩い光の歪みを抜けたロム、ベレルム、ミリーの3人がふと意識を取り戻したとき、彼らは見知らぬ空間の敷居を跨いで一歩足を踏み入れる最中だった。
「……っ、ここは、どこだ?」
ロムは即座に腰の短剣の柄へ手をかけ、鋭い眼光で周囲を警戒した。
だが、視界に広がっていたのは過酷な戦場でも荒涼とした岩山でもなかった。そこは、磨き上げられた木製のカウンターや琥珀色のランプが灯る、静かで少しレトロな高級喫茶店の内装をしていた。微かに流れるモダンジャズと、焙煎された珈琲の深い香りが心地よく漂っている。
その穏やかな空間の中で、カウンターの前に整列していた四人の若い店員――ウェイター姿の男性二人と、クラシカルなメイド服を着こなした女性二人の動きが、完璧にフリーズしていた。
先頭に立つ真面目一徹といった風情の好青年、イチの鉄壁の営業スマイルすら一瞬で完全に凍りついている。なぜなら、この案内所の長い歴史において、魂の残骸ではなく、衣服の擦れる物理的な足音や鮮烈な体温、 shadow そして力強く脈打つ心拍を持った【完全な生身の人間】が、なおかつ【3人同時に】迷い込んできた前例など、ただの一度も存在しなかったからだ。
「いらっしゃいませ、お客様……おや? 足音……心拍……。魂の波形が完全に肉体と結合している……!?」
イチがプロとして困惑の声を漏らすと、その横から超絶美人な令嬢風のメイド、ニーナが氷のように冷徹な視線を向けた。
「イチ、無駄ですわ。このお三方には、対価にできる現世の肉体も、事故の歴史もございません。通常のご案内マニュアルは一切通用しない、完全な部外者です」
「えええええっ!? 生身!?」
もう一人の明るいメイド、サミルがおしぼりを胸に抱えて目を輝かせた。
「生きた人間がそのまま3人も来ちゃうなんて! すごいです、バグを通り越して大爆発ですよこれ! 最高にゾクゾクしちゃいます!」
プレイボーイ風の青年、シレがお手上げとばかりに肩をすくめる中、ベレルムは手元の計測器が弾き出す空間の異常数値を静かに見つめ、ふっと眼鏡を押し上げてスマートに微笑んだ。
「おやおや、手厚い歓迎だね。君たちの営業システムを邪魔するつもりは毛頭ないのだよ。ただ、私たちが使った転移扉が少々イレギュラーな挙動を起こしたようでね。どうやら、また変わった世界へ迷い込んでしまったらしい。……そこで一つ尋ねたいのだが、この空間は、今何時かな?」
「申し訳ございません、お客様」
イチは即座にいつもの冷静なプロの佇まいに戻り、静かに首を横に振った。
「ここには『時間の概念』そのものが存在いたしません。ですので、今が何時であるかはお答えできかねます」
「時間の概念がない、か。なるほど、わかりました」
ベレルムの脳細胞は、ここが世界の理の外側にある完全なイレギュラーゾーンだと即座に理解した。時間が存在しない場所に長居をすれば、せっかく合わせた24時間周期の波長のアドバンテージが完全に無効化されてしまう。最速でここを抜けるのが唯一の最適解だ。
イチが小さく咳払いをして、案内所のシステムが弾き出した臨時の選択肢を淀みなく並べ始める。
「では、変則的ではございますが、ご案内いたします。現在、お客様方の未来には二つの選択肢しかございません。
【A】 元の世界に戻る。直前にいたあの岩山の世界へ引き返します。
【B】 から 【D】 は該当なしのため完全消滅いたしました。
【E】 戻らずに、別の道を行く。現世へは戻らず、別の世界へ進むことになります。どこへ繋がるかは運次第です」
「引き返す理由は皆無、ここでの長居も脳細胞の無駄遣いだ。迷う必要はどこもないね」
ベレルムは即座に【E】の扉を指し示した。生命の気が失われた岩山の世界へ戻る【A】など、最初から選択肢にすら入らない。
「ああ。その『運次第』とやらに乗ってやるさ。待っているあいつの先へ進めるならな」
ロムもまた不敵に口元を緩め、ミリーの手をしっかりと握り直して迷いなく【E】を即断した。
「うわあ……っ! 選択肢を提示した瞬間に、1秒も悩まず【E】を即断するなんて! 格好良すぎます!」
サミルが感激したように声を上げる中、四人の案内人たちは一列に整列し、最高級ホテルの執事のように、背筋を美しく伸ばしたまま深く厳かなお辞儀を捧げた。
「お疲れ様でした。またお会いすることのない事をお祈りしております」
「ふふ、お世話になったね」
ベレルムがチャーミングに肩をすくめ、ミリーが「お姉ちゃん、お兄ちゃん、バイバイ!」と天真爛漫に手を振る。
3人は案内人たちの見事な一体感のお辞儀に見送られながら、眩い光が漏れ出す【E】の出口の扉をすんなりと押し開け、一瞬の躊躇もなく、次なる未知の領域へと足を踏み入れていった――。




